テレビ朝日『スーパーJチャンネル』のやらせ問題、関係者による隠ぺい疑惑まで浮上!

 10月21日、テレビ朝日の亀山慶二新社長の定例会見が東京・六本木の同局で行われ、今年3月15日放送の報道番組『スーパーJチャンネル』でやらせがあったことについて謝罪した。

「やらせがあったのは同番組の情報企画『業務用スーパーの意外な利用法』でのこと。店に訪れる個人客の人間模様を描くのが趣旨で、男性1人、女性4人の計5人の客が登場。大量の焼きそばやブロッコリーなどを購入したのだが、5人とも番組の男性ディレクターの知人だった。ディレクターは事前に取材日程を教え、店では初対面を装っていたといいます」(週刊誌記者)

 早河洋会長と当時の角南源五社長が1カ月間、報酬を10%カットする処分となったが、テレビ関係者は「発表は時期早々だった」と言ってこう続ける。

「まだ余罪がある可能性が高いと見られています。テレ朝によれば、10月4日夜に匿名の情報提供があり、7日に検証プロジェクトを立ち上げて事実関係の調査を進めてきたとのこと。しかし、漏れ伝わってきた話では、実は放送直後からすでにやらせを告発するタレコミがあり、関係者はシラを切って隠ぺいしようとしていたというのです。問題のコーナーを担当したディレクターは派遣会社から来たスタッフで、昨年3月から企画を担当し、これまで13本を手掛けていますから、この1件だけと考えるほうが不自然。全てをチェックしないで発表したとすれば、上層部はまた謝罪する羽目になるでしょう」

 バラエティならいざしらず、報道番組でのやらせだった意味は大きい。テレ朝幹部は『報ステは大丈夫なんだろうな』と、看板番組の『報道ステーション』についても神経をとがらせているようだが、果たしてこれで収束するのだろうか。

テレ朝、報道番組でのヤラセ発覚で信用失墜『報ステ』も視聴率急降下は不可避か!?

 テレビ朝日があってはならないことをやらかしてしまった。よりによって、報道番組でヤラセを行っていたのだ。

 同局によると、問題になったのは3月15日の『スーパーJチャンネル』で放送した「業務用スーパーの意外な利用法」という企画。これは、「食品などを安く販売する東京都内のスーパーの買い物客に密着取材し、その方々の人間模様などを描く」といった内容だった。

 この企画において、放送で紹介した買い物客のうち、VTRの主要な部分に出演している男女4人が、担当した契約ディレクターの知人であったのだ。

 当該ディレクターは「店に来てほしい」という直接的な依頼はしていなかったが、来店することを想定して、知人にロケの場所や時間などを教えていたとされる。そして知人が来店すると、あたかも初対面で、このスーパーの常連客かのように装い、カメラで撮影した。

 このディレクターは映画監督の経験もあり、俳優養成教室の講師も務めており、この4人のうち3人は自らが教えていた生徒で、もう1人も別の専門学校などで接点があった。また、客の友人として登場する女性も俳優養成教室の生徒だった。つまり、報道番組でヤラセ、仕込みを行っていたのである。

 同企画は業務請負契約に基づいて、関連会社である「テレビ朝日映像」に制作を委託。同局は放送までのチェック過程で“不適切な演出”に気づかず流してしまったのだという。当該ディレクターは当時、所属する派遣会社からテレビ朝日映像に派遣されていたが、現在はテレ朝の仕事はしていない。同局では、当該の金曜企画コーナーの放送を中止することを決めた。

「昨年、日本テレビ『世界の果てまでイッテQ!』での祭り企画でのヤラセが発覚。9月には、TBSの『消えた天才』『クレイジージャーニー』で、不適切な演出があったことが判明しましたが、いずれもバラエティ番組でのこと。今回のケースは報道番組でのヤラセですから、これはもう許されるものでありません。テレ朝としては、『やったのは外部委託先のディレクター』であることを強調したいのでしょうが、そんなことは視聴者にはまったく関係ありませんよ」(メディアジャーナリスト)

 同局は、今年こそ日テレの年間視聴率3冠王を阻止すべく猛追を図っている。17日からは、その切り札でもある『ドクターX~外科医・大門未知子~』(米倉涼子主演)がスタートする。今回のヤラセ問題は、その流れに冷や水をかけることになりやしないだろうか。

「テレ朝の報道番組は、視聴者からの信頼が厚く、視聴率も堅調です。問題となった『スーパーJチャンネル』は、派手さこそありませんが、MCの渡辺宜嗣アナが抜群の安定感を示し、ライバル番組『news every.』(日テレ系)と、同時間帯の視聴率民放トップ争いをしています。『報道ステーション』は、民放の夜の報道番組では唯一2ケタをはじき出していて、他局の追随を許していません。両報道番組とも、視聴率的にも大いに貢献しているのです。しかし、報道でヤラセをやっていたとなると、視聴者の信頼が失墜するでしょう。バラエティの『イッテQ!』でさえ、ヤラセ発覚後、視聴率が大きくダウンしました。『スーパーJチャンネル』のみならず、『報ステ』も、連鎖的に視聴率が落ちてしまう可能性がありますね」(同)

 よもやの報道でのヤラセ発覚――こんなことをやっていたのでは、視聴率で日テレを逆転するなんてことはできそうにないかもしれない。

今上天皇の肖像画を表紙にした『ビッグコミック』が物議「買ったはいいが廃棄する際に困る」の声も

 現在発売中の『ビッグコミック』(10月25日号/小学館)の表紙が物議を醸している。同誌の表紙を天皇陛下の御真影が飾っているからだ。出版関係者もこう驚く。

「『ビッグコミック』の表紙は“時の人”が飾り、リアルテイストの肖像画が使用されています。誌面には『徳仁天皇』と明記されており、10月22日に天皇陛下の即位の礼が催されるタイミングだったため選ばれたようです。肖像画とはいえ、同誌は表紙になる著名人たちに毎回許可を取り、肖像権料を支払っていると聞きます。今回はどういう対応をとったのかは不明ですが、在位中の天皇が雑誌の表紙を飾るのは異例中の異例でしょう」

 ネット上でも「天皇を表紙にしちゃう小学館攻めすぎ」「表紙にする事自体、大きな違和感」と驚きの声が上がっている。とはいえ、問題は雑誌を購入した後だ。

「今上天皇が表紙を飾った雑誌が、駅のゴミ箱に捨てられたり、リサイクルと称して燃やされたり、ドロドロに溶かされるのは不敬に当たるのではないか、との意見が殺到しています。読者の中には『買ったはいいが、廃棄する際には周りに誰もいないか重々注意しないと困った時事態になりかねない』と、神経をとがらせている人もいるようです」(前出・出版関係者)

 折しも、10月8日は国際芸術祭『あいちトリエンナーレ2019』の企画展『表現の不自由展・その後』の再開を受けて、河村たかし名古屋市長が「陛下への侮辱を許すのか!」とのプラカードを持って7分間の座り込みを敢行。「天皇の御真影を燃やすな」との呼びかけとともに拳を突き上げたばかり。

「それもあって、一部の人からは「『ビッグコミック』処分に困る場合は河村たかし名古屋市長に送れば生涯かけて保存してくれるなり何らかの対策してくれるだろう」と揶揄する声も上がっています」(前出・出版関係者)

 兄弟誌の『ビッグコミックオリジナル』では『昭和天皇物語』も連載されているが、皇室をより身近に感じるようにしたい、という意図でもあったのだろうか。

百田尚樹「ヨイショ感想文」で新潮社が大炎上! ラグビー日本代表にまで飛び火の顛末

 数々の名著を世に刊行してきた老舗出版社が、またしてもやらかした。新潮社が4日、百田尚樹の新作『夏の騎士』の販促活動で、「ほめちぎる読書感想文を募集」というキャンペーンを告知して大炎上した。

 炎上したキャンペーンは、「#夏の騎士ヨイショ感想文」というハッシュタグをつけて感想をツイートした人にプレゼントを贈るというもの。

「百田先生を気持ちよくさせた20名の方に、ネットで使える1万円分の図書カードを贈呈!」と謳われていたが、ネット上では「新潮社も堕ちたもんだな」「いつからこんな下品な会社になったの?」「ただただ悪趣味で見識を疑う」と、批判的な声が殺到し、新潮社は5日、キャンペーンの中止を発表した。

 新潮社は昨年、『新潮45』に掲載された論文が問題になり、事実上の廃刊に追い込まれたばかり。迷走は続いているようだが、思わぬところに火花が飛んだ。ラグビー日本代表の立役者でもあるナンバー8の姫野和樹が『THE ANSWER』のインタビューで、百田の『日本国紀』を愛読していると告白。『日本国紀』は、縄文時代から平成までを500ページにわたってたどった本だが、発売直後から内容の矛盾やコピペ疑惑など、多くの疑問が寄せられていた問題の一冊。

 そのため、姫野に対して、「ガックリ」「まともな本読めよ」「応援する気がいっぺんに失せた」といった失望の声が浴びせられてしまったのだ。週刊誌のスポーツ担当記者はいう。

「姫野はメンタルコーチから、『己を知る、先祖を知ることが強さに繋がる』というアドバイスを受け、日本人について知る書として『日本国紀』を選んだようですが、もともとアスリートは右翼的な傾向が強いもの。弛まぬを努力を続け、成功を収めてきた彼らにとって、左派の人間が唱える“みな平等に”という考え方は全くそぐわないものですし、日の丸を背負って試合をし、試合前には君が代が流れれば、否が応でも愛国的になります。姫野がどんな本を読もうが、他人がとやかく言う権利はありませんが、百田の本の読者であると公表するのがリスキーであるということぐらいは、誰かが教えてあげるべきだったでしょう」(スポーツ担当記者)

 百田尚樹と言えば、安倍晋三首相が大ファンだと公言して止まない右派の代表的な作家。安倍首相は今回のW杯でラグビー日本代表を熱心に応援しているが、もしや“同じ匂い”を感じたのだろうか。

「この人ってそっちだったのか…」新たな“地雷”を増やしていく社会的分断

社会と日常、その狭間。あまり明るくなさそうな将来におびえつつ、なんとなく日々を過ごしてしまっている小市民的な視点から、見えてくるものを考える。

「え、君は南京大虐殺が本当にあった出来事だと思っているの?」

 ちょっと前に酒場にいたとき、一緒に飲んでいた人にそう訊かれて一瞬かたまってしまった。その人とは年に数度、酒場で顔を合わせる程度の仲で、とくに親しいというわけではなかったけれど、会えば会ったでたわいもない話をしながら楽しく酒を酌み交わすぐらいの関係だった。50代後半の気のいいおじさんで、とあるクリエイティブな仕事でしっかりとした実績があり、周りからもかなりの評価と信頼、尊敬を得ているような人である。

 こちらとしても、それなりの好印象と敬意を抱いていたわけで、そんな人のそんな発言に驚いて言葉が出てこなかったのだ。

 実際、なんて答えればいいのか。「そんなことをいう人だと思っていなかった」という思いでいっぱいだったのだが、話を合わせないとその場の“空気”は間違いなく壊れるだろう。ちょっとした緊張感が走るシーンではある。

そういう人だったのか——いや、そういう人になってしまったのか

 しかし、まあこちらも酔っていたこともあって、「そりゃあったでしょう。被害人数には諸説あるみたいだけれど、日本政府も認めているわけだし」と適当に返事をした。すると、それが意外だったのか、今度は向こうが一瞬言葉を止めた。そして「いや、でも当時の状況を現実的に考えてみれば……」と、ちっとも現実的ではない妄想のようなことを語り出し、やがてせきを切ったように朝日新聞の悪口を言い始めた。

 そういう人だったのか——いや、そういう人になってしまったのか。そんな思いでネット空間に溢れ返っている、どこかで聞いたような与太話が展開されていくのを貝になって聞き流していた。

 いいかげんにしてくれよという気持ちが態度に表れていたからか、なんとなくお互いに「この話はもうやめよう」という雰囲気になり、酒の席の会話によくあるように話題はふわふわとまた別のところへ移っていったけれど、場の空気はどこかしらけたものとなり、その人とはそれからもなんとなく疎遠になってしまった。

 ここ数年、予期せぬところで「あ、この人ってそっちだったのか」という経験をしたことがある人は案外多いのではないだろうか。職場、取引先、酒場、友人関係、そして家庭——どんな場でもそれは起こりうる。久しぶりに帰省したら親が“そういう人”になっていた、なんて話はもはやよくある笑えない笑い話の定番のひとつだ。

 相手が自分の親だったり、遠慮なくものがいえる人だったりする場合、“そんなこと”を言い出したときに「は? ちょっと待て、今なんて言った?」というモードに入ってしまうこともある。しかし、経験のある人にはわかるだろうけれど、ここで相手に道理というものを諭そうとしても得るものはなにもない。

 相手は相手で“自分が正論だと感じること”を言い募り、たいていの場合は議論は意味のある”止揚”どころか単なる口ゲンカに発展する。時にはどちらかがその場で客観的事実や証拠になるようなものをスマホなんかで提示して、相手の矛盾を指摘したり、バシッと論破したりしてしまうこともあるかもしれない。
 
 しかし、そんなケースでも論破されたほうが「そうか、この件については自分が間違っていたな。もっと広い視野を持たなくては」なんて考えを改めることはない。まず間違いなく「ちくしょう、腹立つなこのやろう。だからこういうこというやつは嫌いなんだよ」と余計に反感を高めている。家に帰ったあとは必死に反証となる仮説や理論を探しまくるだろう。

 そして、広大なネットの世界ではどんな荒唐無稽な話であっても、それが正しいと主張する“証拠”はいくらでも見つかる。それが、本当に証拠になるものかどうかはさておき。いずれにせよ、意見を衝突させてケンカになるか、気まずい空気に耐えて何とか話題を変えるか、そのどちらかしかない。同じ場所にいるはずのふたりは、そのときからある意味で違う場所に自分たちが立っていたことに気がついてしまうのだ。

 ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ右と左にわかれるのか』(紀伊国屋書店)やダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)などの本を読むと、こうした立場の違いは、理性による合理的な判断で決まるのではなく、より根源的な情動、直観によって決定されるそうだ。

 だから、合理的なものであっても批判をされたら腹が立つし、仮に客観的な証拠などの材料をもって立場を変えるように説得されたとしても、納得できるどころか反発しか生まれない。「自分の立場が正しい」と論理ではなく情動、直観で信じているため、相手がどうしようもないひとでなしに思える。そして冷静に始まったはずの議論は熱を帯び始め、やがてケンカに発展して、その場の空気と時にその後の人間関係をも壊すのである。

 その場にいる人を“自分たち”と“あの人たち”に分断させるようなセンシティブな話題は、いわば見えないところに埋められた地雷のようなものだ。そして、いまやそんな地雷はあらゆるところに埋まっているし、その種類は増え続けている。Twitterの一部界隈やYahoo!ニュースのコメント欄なんかは、そんな地雷が爆発炎上したあとの見本市だ。

 安倍政権を支持するかしないか。トランプ大統領を評価するかしないか。れいわ新選組は? それともNHKから国民を守る党については? 中国や韓国に対する態度、原発問題、米軍基地、同性婚に夫婦別姓、著名人の不倫や不祥事、スキャンダル。混んでる電車にベビーカーを持ち込むのは有りか無しか。ワクチン接種の是非、家事育児の取り組み方、ワーク・ライフ・バランスに賃金格差。果ては掛け算の順序からハンコを捺す角度まで、人々は実に多様なイシューで自分と立場を異なる相手を批判しまくっている。時にそれは大きな炎上騒ぎになって、ある種のガス抜きにすらなっている。“正しい立場”から、“間違っているやつ”を叩くのは快感だから。

 匿名性がある程度は保たれているネット社会とは違い、現実の社会では地雷はそんなに爆発炎上することはない。空気を読むことに長けた“大人”たちは、会話をしながら誰もがそろそろと「このへんは危ないな」と地雷がありそうなポイントを避けていく。ときどき、ふと気を緩めた誰かが、そんな地雷を踏みかける。その場にちょっと緊張が走る。たいていの場合、周りで空気の読める気の利いた誰からがうまく話題をそらして事なきを得る。でも、誰かがさらに地雷を踏み込むこともある。「いや、そんなわけないでしょ」という感じで始まる地雷の爆発は、たいして大きなものを破壊するわけではない。先にも書いたように、その場の空気とその後の人間関係の機微ぐらいのものだ。時に取り返しがつかないほど関係が壊れることもあるけれど。

 もちろん、その程度の爆発であっても、じゅうぶん過ぎるほど面倒くさい。だから、覚悟を決めた活動家でもない限り、誰もが会話をしているときは無意識のうちに地雷を避けている。そうやって気を使うこと自体を面倒くさいと感じつつ。ときどき「いったいどうしてこんなことになってしまったんだろう?」と感じることがあるかもしれない。でも、答えは出ないし、何かできることがあるわけでもない。だから、より面倒くさい事態が起きないよう、これまで通りに地雷のありそうなポイントを探りつつ、そこを避けていく。

 でも、そうした地雷を避けて無関心を装うこともまた、現代の社会的分断を推し進めている要因のひとつといえる。リアルな空間で目の前にいる人が、誰かを差別したり、抑圧したり、虐げたり、それに加担するようなことを言い始めたときは、どれだけ面倒くさくても「それは間違っている」と、あえて地雷を踏むことも必要ではないだろうか?

 それがどれだけ不毛な結果に終わることが予想できたとしても。そのとき、爆発を防いで次の一歩へとつながるのは 相手を批判し、打ち負かそうとする論理ではなく、他者へのポジティブな想像力と共感性になるだろう。

安倍新内閣、予告された閣僚の不祥事スクープ不発は週刊誌ジャーナリズム終焉の前兆か

「来週あたり週刊誌で何か出ると思いますよ」。9月11日の安倍新内閣発足を受け、テレビ番組でそう口にしたのは政治ジャーナリスト・田崎史郎氏だ。

「3T」と名付けられた武田良太国家公安委員長、竹本直一IT担当相、田中和徳復興相の他、加計学園問題で働きかけを疑われた萩生田光一氏を文科相に、市議との不倫が報じられた今井絵理子氏を参院1期目にかかわらず内閣府政務官に起用。

「まさにブラックジョーク。クビを取れるもんなら取ってみろ、とこちらを挑発しているかのようだ。その自信は『最強』な政権ゆえだろうが、中身は『最凶』『最狂』内閣だ」とは、ある週刊誌デスク。

 ところが週があけ、スキャンダルジャーナリズムの双肩を担う「週刊文春」(文藝春秋)、「週刊新潮」(新潮社)からも鋭いパンチは飛ばなかった。

「『週刊朝日』(朝日新聞出版)がネット記事で武田、竹本両氏の過去のスキャンダルを報じたものの、さらりとかわされました。続く文春、新潮はエース記者を選挙区に投入し、深堀りしたようですが、決め手に欠き、新内閣の記事は多くが小泉進次郎環境相に割かれることに。新聞、テレビが後追いするようなスクープはありませんでした」(政治部記者)

 なぜ不発なのか。「背景にはまず、スキャンダルのハードルが上がったことがあります」と解説するのは前出のデスク。

「第1次安倍政権では事務所費がクローズアップされました。問題を指摘された松岡利勝農水相は自殺まで追い込まれ、続く赤城徳彦農水相は絆創膏を貼っただけで総スカンを食らった。民主党政権では、荒井聡内閣府担当相の女性秘書が、政治資金でキャミソールを買っていたことが少額領収書開示によってバレて、『キャミソール大臣』と揶揄されることに。前原誠司外相は、在日韓国人から献金を受け取っていたことを認め、辞任した。こうした経験を踏まえ、とりわけ大臣候補となる議員事務所は、政治資金の扱いに細心の注意を払っているのです。つまり”表”の情報だけでの追及が難しくなった」

 となると”裏”を探ることになるのだが、もちろん記事化にこぎ着けるのはそう簡単ではない。社会部記者の弁。

「憎らしく思って告発したい人がいても、相手が大臣となると怖気づいて証言してくれませんからね。ようやく話しても『実名告白』でないとインパクトがない。文書や録音といった”ブツ”は不可欠となった」

 あげくに近年、政治家はすぐに名誉棄損裁判で訴えるようになった。昨年、文春が証拠文書を示した上で片山さつき地方創生担当相の口利き疑惑で追及したものの、片山氏は文春を1100万円の損害賠償を求めて提訴したことは、記憶に新しい。片山氏はこの開き直り戦術で見事に逃げ切っている。

「週刊誌の売上は年々右肩下がりですしね。カネと労力をかけて記事にしたあげく、売れないわ、裁判をおこされるわ、ではスキャンダル取材から撤退するのもやむを得ません。実際、2015年に『週刊ポスト』(小学館)が、高市早苗総務相の実弟が『不透明融資』に関わったとする記事を掲載すると、実弟から民事、刑事で告訴され、三井直也編集長は就任わずか1年で交代させられています」(前出・デスク)

 こうしてポストや「週刊現代」(講談社)、さらに文春のスクープ記者だった森下香枝氏率いる『週刊朝日』ですら、病気や相続を特集する”老人向け雑誌”と化しているのが現状だ。

 さらに身も蓋もないのだが、読者がそもそもスキャンダルを求めていないという風潮もある。
「あれはショックだった」とデスク氏が語るのは、9月5日発売の文春が、お笑いコンビ・EXITの犯罪歴を報道した際、世論の矛先が文春に向いたことだった。

「吉本興業の闇営業問題の流れで、意義あるスクープのはずなのに、『がんばっている人の足をなぜ引っ張るのか』と批判されたのです。ファクトに基づいて報じてこの反応ではやってられませんよ。文春はあわてて長文の反論をホームページに掲載しましたが、これまでのやり方では通用しないということ。過去をほじくり返すことに世論が冷たくなったのです。”文春砲”を率いた新谷学・前編集長ですら、今や『われわれはクビを取るために報じているわけではない』と綺麗ごとを言ってますからね(苦笑)」

 それでも権力監視には週刊誌の存在価値は十分にある。ここは歯を食いしばって、疑惑追及をしてほしいものである。

安倍新内閣、予告された閣僚の不祥事スクープ不発は週刊誌ジャーナリズム終焉の前兆か

「来週あたり週刊誌で何か出ると思いますよ」。9月11日の安倍新内閣発足を受け、テレビ番組でそう口にしたのは政治ジャーナリスト・田崎史郎氏だ。

「3T」と名付けられた武田良太国家公安委員長、竹本直一IT担当相、田中和徳復興相の他、加計学園問題で働きかけを疑われた萩生田光一氏を文科相に、市議との不倫が報じられた今井絵理子氏を参院1期目にかかわらず内閣府政務官に起用。

「まさにブラックジョーク。クビを取れるもんなら取ってみろ、とこちらを挑発しているかのようだ。その自信は『最強』な政権ゆえだろうが、中身は『最凶』『最狂』内閣だ」とは、ある週刊誌デスク。

 ところが週があけ、スキャンダルジャーナリズムの双肩を担う「週刊文春」(文藝春秋)、「週刊新潮」(新潮社)からも鋭いパンチは飛ばなかった。

「『週刊朝日』(朝日新聞出版)がネット記事で武田、竹本両氏の過去のスキャンダルを報じたものの、さらりとかわされました。続く文春、新潮はエース記者を選挙区に投入し、深堀りしたようですが、決め手に欠き、新内閣の記事は多くが小泉進次郎環境相に割かれることに。新聞、テレビが後追いするようなスクープはありませんでした」(政治部記者)

 なぜ不発なのか。「背景にはまず、スキャンダルのハードルが上がったことがあります」と解説するのは前出のデスク。

「第1次安倍政権では事務所費がクローズアップされました。問題を指摘された松岡利勝農水相は自殺まで追い込まれ、続く赤城徳彦農水相は絆創膏を貼っただけで総スカンを食らった。民主党政権では、荒井聡内閣府担当相の女性秘書が、政治資金でキャミソールを買っていたことが少額領収書開示によってバレて、『キャミソール大臣』と揶揄されることに。前原誠司外相は、在日韓国人から献金を受け取っていたことを認め、辞任した。こうした経験を踏まえ、とりわけ大臣候補となる議員事務所は、政治資金の扱いに細心の注意を払っているのです。つまり”表”の情報だけでの追及が難しくなった」

 となると”裏”を探ることになるのだが、もちろん記事化にこぎ着けるのはそう簡単ではない。社会部記者の弁。

「憎らしく思って告発したい人がいても、相手が大臣となると怖気づいて証言してくれませんからね。ようやく話しても『実名告白』でないとインパクトがない。文書や録音といった”ブツ”は不可欠となった」

 あげくに近年、政治家はすぐに名誉棄損裁判で訴えるようになった。昨年、文春が証拠文書を示した上で片山さつき地方創生担当相の口利き疑惑で追及したものの、片山氏は文春を1100万円の損害賠償を求めて提訴したことは、記憶に新しい。片山氏はこの開き直り戦術で見事に逃げ切っている。

「週刊誌の売上は年々右肩下がりですしね。カネと労力をかけて記事にしたあげく、売れないわ、裁判をおこされるわ、ではスキャンダル取材から撤退するのもやむを得ません。実際、2015年に『週刊ポスト』(小学館)が、高市早苗総務相の実弟が『不透明融資』に関わったとする記事を掲載すると、実弟から民事、刑事で告訴され、三井直也編集長は就任わずか1年で交代させられています」(前出・デスク)

 こうしてポストや「週刊現代」(講談社)、さらに文春のスクープ記者だった森下香枝氏率いる『週刊朝日』ですら、病気や相続を特集する”老人向け雑誌”と化しているのが現状だ。

 さらに身も蓋もないのだが、読者がそもそもスキャンダルを求めていないという風潮もある。
「あれはショックだった」とデスク氏が語るのは、9月5日発売の文春が、お笑いコンビ・EXITの犯罪歴を報道した際、世論の矛先が文春に向いたことだった。

「吉本興業の闇営業問題の流れで、意義あるスクープのはずなのに、『がんばっている人の足をなぜ引っ張るのか』と批判されたのです。ファクトに基づいて報じてこの反応ではやってられませんよ。文春はあわてて長文の反論をホームページに掲載しましたが、これまでのやり方では通用しないということ。過去をほじくり返すことに世論が冷たくなったのです。”文春砲”を率いた新谷学・前編集長ですら、今や『われわれはクビを取るために報じているわけではない』と綺麗ごとを言ってますからね(苦笑)」

 それでも権力監視には週刊誌の存在価値は十分にある。ここは歯を食いしばって、疑惑追及をしてほしいものである。

昔話が図書館から消える! 『美女と野獣』は性差別的な物語!? ポリコレ的にNGな童話の世界

――『赤ずきん』、『シンデレラ』、『いばら姫(眠れる森の美女)』……誰もが知っている定番の童話に、ポリティカル・コレクトネスの波が迫っている。4月18日付の「The Guardian」紙の報道によると、このほどスペイン・バルセロナにある複数の学校で、「ジェンダーに関する固定観念や、差別的な要素が含まれる本」を図書室から排除する動きが進んでいるという。

 ある学校では、委任を受けた調査団体が幼児向けの蔵書約600冊を精査。登場人物の発言内容と役回りを1冊ずつ調べ上げた結果、約200冊について「教育的な価値がない」との判断を下した。海外ニュースサイト「The Local」のスペイン版によると、その中には『赤ずきん』、『シンデレラ』、『いばら姫』、『美女と野獣』といった、メジャーなタイトルも含まれている。こうした童話で描かれる女性は「勇者である男性の救助を待っている存在」として描かれることが多く、それが男女のステレオタイプを助長してしまうと問題視されているようだ。

「幼児は身の回りに起こることすべてを吸収します。そのため、この時期に性差別的な固定観念に触れると、それを当たり前のものとして受け取ってしまう」というのが、調査団体の主張。しかし、その一方で前出の「The Local」が取材したある図書館職員は「古典文学には独自の価値があり、検閲は危険な行為。行き過ぎたポリティカル・コレクトネスは、守るべきフェミニズムの価値観をかえって傷つけかねない」と、警告している。

 本稿では、このようにポリティカル・コレクトネスで排除されていく童話の現状を、識者の意見を交えながら明らかにしていきたい。

スペインの判断は童話を理解していない

 まず、今回スペインで下された判断について、グリム童話の専門家はどのように考えているのだろうか? 梅花女子大学大学院教授・武庫川女子大学名誉教授・日本ジェンダー学会会長の野口芳子氏はこう語る。

「スペインでの出来事については、『何を考えているんだ!』という思いです。確かに、ジェンダーは時代や社会によって変わるもので、求められる『男らしさ』と『女らしさ』も変わっていきます。だからといって、過去のジェンダー観が反映されている物語や昔話を排除すると、ジェンダーを歴史的に理解する機会を子どもから奪うことになります」

 過去を否定するのではなく、理解することが重要ということだが、そもそもジェンダーに限らず、童話や昔話というものは常に身近な教訓の教科書でもあった。野口氏は『赤ずきん』を例に挙げ、次のように解説する。

「1697年にシャルル・ペローがまとめた『赤ずきん』が収録されている『教訓をともなった昔話』は、当時のフランス国王・ルイ14世の姪に捧げられたものです。ペローの『赤ずきん』は最後に赤ずきんが狼に食べられて終わりますが、彼は19歳の貴族の令嬢に向けて『若い娘が知らない男の言葉に耳を貸すと、食べられてしまうよ』という、自身の身を守るための『教訓(モラリテ)』が付いた『昔話』を書いたのです」

 時代がくだり19世紀、『グリム童話集』に収録された『赤ずきん』は、口承で語り継がれた性的な部分を削除し、より教育的な側面が強くなったという。

「ドイツのグリム兄弟に『赤ずきん』を伝えたのは、ハッセンプフルーク家という良家の娘たちでした。一家はフランス移民で、父親が州知事を務めるくらいでしたから、貴族向けに書かれたペローの昔話も知っていたはずです。しかし、グリム兄弟の『赤ずきん』の内容はペローとは異なります。グリム版では祖母と娘が食べられて終わるのではなく、猟師によって救出される話になっているのです。さらに、その経験を生かして、今度は祖母と2人で狼をやっつけるという、後日談も入れています。つまり、悪い狼にやられた経験を生かして、やり返した娘と祖母の話として提供されているのです。この後日談は初版から入っており、あとで書き加えられた話ではありません。要するに主人公の成長、イニシエーションを語る昔話としての『赤ずきん』が提供されているのです。というのも、グリム兄弟の『赤ずきん』の想定されていた読者層は貴族ではなく、市民だったからです」(同)

 このように伝承を改変し、良いしつけを意図した一般市民の近代的な価値観に合わせて描かれていたはずの物語が、21世紀に入ると教育現場から排除される可能性も出始めたというわけだ。それでは、スペインの調査団体は、こうした物語の本質を理解していないということなのだろうか?

「(調査団体が批判している)『男による女の救出』とか『女は男に頼らないといけない存在』といったメッセージは、そもそも『赤ずきん』にはないのです。フランスのロワール地方に流布している口承のバージョンでは、赤ずきんは狼に食べられるのではなく、知恵を絞って狼を出し抜きます。人狼(ブズー)に食べられそうになると『おしっこがしたい』と言って家の外に出て、逃げられないように狼によって足に結ばれた紐を、赤ずきんはスモモの木に結びつけて、一目散に逃げます。騙されたと気づいた狼は追いかけますが、間に合いません。ここでは赤ずきんは無知で騙されやすい少女などではなく、知恵を絞って狼を出し抜く賢明でたくましい娘です。つまり、生産者である中世の農民の姿が反映されているのです。近代の消費者としての女性には『おとなしく、従順で、かよわい』ジェンダーが求められますが、中世の生産者としての女性は『賢く、勇敢で、したたかな』ジェンダーが求められています。このように昔話を読むことで、ジェンダーは『時代によって社会によって変遷する』ということが学び取れます。それによって、その時代のジェンダー観に縛られることなく、『もっと自由に生きていいのだ』という、気持ちを子どもが感じ取ることこそが、本当のジェンダー教育ではないでしょうか。だから、今のスペインの動きは間違っていると思います」(同)

 グリム童話研究の第一人者から、手厳しい声が上がるスペインの判断。『昔話にみる悪と欲望――継子・少年英雄・隣のじい』(青土社)などの著作を持つ、千葉大学名誉教授の三浦佑之氏もこの動きに批判的だ。

「出版されたのは過去のものなんだから、それをあろうことか、図書館が進んで『ダメな本です』と、喧伝するのは非常に良くない。童話に限らず、図書館はあらゆる本を提供する場所で、利用者は読みたい本を自由に選ぶ権利がありますから、本来であれば、たとえ殺人を教唆するような内容であっても、過去の本はすべて公開するべきでしょう。その一方で、子ども向けの本は教育と密接に関わりますから、物語の内容が教育上よろしくないという理由で規制がかかったり、時代によって新しい装いを取ったりということは、しばしば行われてきました。特に戦後は、戦前までの教科書に使われていた物語が禁止とされました。太平洋戦争後、GHQによって検閲された『桃太郎』はいい例ですよね。このように物語を排除する、あるいは、残酷な表現はやめて、もっとやさしい内容に書き換えるといったことは、いつの時代も行われてきたと思います」

『桃太郎』は戦時中、その内容から軍国主義の普及とスローガンに利用され、「桃太郎が真珠湾を攻撃する」というアニメまで制作されたが、その結果として戦後は教科書から消えてしまった。書き換えに関しても今回、スペインで排除の対象となったグリム童話も、前述したようにさまざまな口承をグリム兄弟が市民道徳に合うよう“調整”し、不純な性描写や残酷描写を取り除いた結果、今でも世界的に親しまれる作品になった。また、現在、絵本や児童書として市場に出回っている昔話は、今の価値観にアップデートされたものがほとんどだろう。
「多くの昔話は作者がいるわけでもないし、決まった形が定められているわけでもない。そのため、口伝によってバリエーションが増えて、変わっていくんです。変わっていくというのは、面白く変わっていくこともあれば、前述の『桃太郎』のように政治的な意図をもって変えられることもあり、誰かの都合によって変えられることもある。しかし、基本的には、そういった流れを淘汰できる物語だけが残っていくわけですから、今回のスペインのように一方的に昔話を規制するのはあってはならないことです」(同)

 今回のスペインにおける動きは世界中で報道され、議論を巻き起こしている。しかし、このようなポリティカル・コレクトネス的な観点に基づく童話の規制運動は、90年代から欧米諸国でたびたび起こっていた。

 例えば1990年には米国・カリフォルニア州の教育関係者が『赤ずきん』をやり玉に挙げ、結果として2つの校区で禁止される出来事があった。問題視されたのは「おばあちゃんへの贈り物に含まれていたワイン」である。具体的には、未成年にアルコールを扱わせたこと、狼がワインを飲み干して顔を赤くする描写などが「教育上よろしくない」とされた。

 さらに米国では92年にも、グリム童話の名作『ヘンゼルとグレーテル』に対し「魔女の品位を貶めている」と、クレームがついた。しかも、声を上げたのは自称「魔女」の女性。いわく、「この物語は『魔女を殺し、その所有物を盗んでも問題はない』という考えを植えつける」「魔女は子どもを食べたりしないし、黒帽子に長い鼻といったイメージも実態とは異なる」とのこと。さすがに、この訴えは黙殺されたが、地元の小学校ではヘンゼルとグレーテルを殺人罪の被告とした模擬裁判が行われるなど、思わぬ反響があった。

 近年では2017年、SNS上で「#MeToo」ムーブメントが盛り上がる中、イギリスの主婦が『いばら姫』の、王子による目覚めのキスを問題視。「禁止しろとまでは言わないが、(自分の息子が属する)小学校低学年のカリキュラムからは除外すべき」と、提言して炎上騒ぎとなった。この『いばら姫』について、野口氏はこう語る。

「グリム版のキスによる目覚めには性的な意味ではなく、口から生命を吹き込むという意味があるのです。西洋昔話では『キス』は精神的な愛を意味し、肉体的な『性交』を意味するものではありません。フランスのペロー版『眠れる森の美女』では、王子はキスをせず、姫と性的関係を持ちます。イタリアのバジレ版『太陽と月のターリア』では、妻帯者の王は眠っているターリアを犯して妊娠させます。『あまりに美しいので、愛の果実を摘み取った』と詩的な文章で書かれていますが、要はレイプしたのです。このバージョンを問題視するのならまだしも、グリム版のキスを問題視するのは見当違いです。グリム兄弟は結婚前に妊娠出産する南欧の『眠り姫』バージョンを、結婚後に出産する北欧の『いばら姫』バージョンに改変したのです。それによってグリム童話は広く市民社会に受け入れられてきたのです」

 木を見て森を見ず、とはまさにこのことである。このように物語の本質を理解しないまま、表面的な部分だけを見て排除してしまうのは、文化の破壊ともいえるのではないだろうか?

「童話や伝承の中に今の常識では理解できない部分はあったとしても、それを拒否するとか、なくしてしまおうとすることは許されないでしょう。例えば日本には『瓜子姫』という、ウリから産まれた瓜子姫が天邪鬼に連れ去られて木に吊るされる、あるいは殺されてしまうといった内容の民話がありますが、この物語は今の時代からすると、完全に児童虐待であり、堂々と人前で話せるものではないと思います。しかし、『こんな小さな女の子がなぜ、むごたらしく死ななければならない?』といったように、その時代の中で少女の置かれていた立場といったことを考えるには、この物語はひとつのヒントにはなるかもしれない。もっと強引に言えば、現代の女性に対する性差別を考える、ひとつのきっかけを与えるかもしれません」(三浦氏)

 前出のスペインの調査団体も、6~12歳の小学生児童については「物語を批評的に分析する能力が備わっており、性差別的な要素に自ら気づくこともある。本はそういった学びの機会を与える」と、一定の理解を示している。だが、スペインで起きたような童話排除の動きは今後、世界にも波及するのだろうか?

「スペインの場合でも図書館がどういう経緯でこの判断に至ったのかは、ニュースなどでは詳しく書かれていませんが、子どもにどういう物語を与えればいいのかは人によって立場が違うし、『この本やめよう』となったら、その時点で図書館に入らないわけですから、ないとはいえない。知らないところで、見えない規制は、すでに行われているのではないでしょうか。図書館運営の中心になってくるのは司書ですから、彼ら/彼女らの判断によるところが大きくなりそうですね。とはいえ、誰かが決まった形を作るよりも、自然のなりゆきに任せるのが本来の昔話のあり方なんじゃないでしょうか? みんなが面白いと思ったものが後世に語り継がれていくわけで、『これはダメ、これはOK』というのは、誰かが上から決めるものではないと思います」(同)

 ポリティカル・コレクトネスを重視するのも、ひとつの時代の流れではある。しかし、それにかこつけて臭いものに蓋をするような対応は、過去だけでなく未来あるいは書物そのものをも冒涜する行為であることは肝に銘じておくべきだ。(月刊サイゾー7月号『ヤバい本150冊』より)

昔話が図書館から消える! 『美女と野獣』は性差別的な物語!? ポリコレ的にNGな童話の世界

――『赤ずきん』、『シンデレラ』、『いばら姫(眠れる森の美女)』……誰もが知っている定番の童話に、ポリティカル・コレクトネスの波が迫っている。4月18日付の「The Guardian」紙の報道によると、このほどスペイン・バルセロナにある複数の学校で、「ジェンダーに関する固定観念や、差別的な要素が含まれる本」を図書室から排除する動きが進んでいるという。

 ある学校では、委任を受けた調査団体が幼児向けの蔵書約600冊を精査。登場人物の発言内容と役回りを1冊ずつ調べ上げた結果、約200冊について「教育的な価値がない」との判断を下した。海外ニュースサイト「The Local」のスペイン版によると、その中には『赤ずきん』、『シンデレラ』、『いばら姫』、『美女と野獣』といった、メジャーなタイトルも含まれている。こうした童話で描かれる女性は「勇者である男性の救助を待っている存在」として描かれることが多く、それが男女のステレオタイプを助長してしまうと問題視されているようだ。

「幼児は身の回りに起こることすべてを吸収します。そのため、この時期に性差別的な固定観念に触れると、それを当たり前のものとして受け取ってしまう」というのが、調査団体の主張。しかし、その一方で前出の「The Local」が取材したある図書館職員は「古典文学には独自の価値があり、検閲は危険な行為。行き過ぎたポリティカル・コレクトネスは、守るべきフェミニズムの価値観をかえって傷つけかねない」と、警告している。

 本稿では、このようにポリティカル・コレクトネスで排除されていく童話の現状を、識者の意見を交えながら明らかにしていきたい。

スペインの判断は童話を理解していない

 まず、今回スペインで下された判断について、グリム童話の専門家はどのように考えているのだろうか? 梅花女子大学大学院教授・武庫川女子大学名誉教授・日本ジェンダー学会会長の野口芳子氏はこう語る。

「スペインでの出来事については、『何を考えているんだ!』という思いです。確かに、ジェンダーは時代や社会によって変わるもので、求められる『男らしさ』と『女らしさ』も変わっていきます。だからといって、過去のジェンダー観が反映されている物語や昔話を排除すると、ジェンダーを歴史的に理解する機会を子どもから奪うことになります」

 過去を否定するのではなく、理解することが重要ということだが、そもそもジェンダーに限らず、童話や昔話というものは常に身近な教訓の教科書でもあった。野口氏は『赤ずきん』を例に挙げ、次のように解説する。

「1697年にシャルル・ペローがまとめた『赤ずきん』が収録されている『教訓をともなった昔話』は、当時のフランス国王・ルイ14世の姪に捧げられたものです。ペローの『赤ずきん』は最後に赤ずきんが狼に食べられて終わりますが、彼は19歳の貴族の令嬢に向けて『若い娘が知らない男の言葉に耳を貸すと、食べられてしまうよ』という、自身の身を守るための『教訓(モラリテ)』が付いた『昔話』を書いたのです」

 時代がくだり19世紀、『グリム童話集』に収録された『赤ずきん』は、口承で語り継がれた性的な部分を削除し、より教育的な側面が強くなったという。

「ドイツのグリム兄弟に『赤ずきん』を伝えたのは、ハッセンプフルーク家という良家の娘たちでした。一家はフランス移民で、父親が州知事を務めるくらいでしたから、貴族向けに書かれたペローの昔話も知っていたはずです。しかし、グリム兄弟の『赤ずきん』の内容はペローとは異なります。グリム版では祖母と娘が食べられて終わるのではなく、猟師によって救出される話になっているのです。さらに、その経験を生かして、今度は祖母と2人で狼をやっつけるという、後日談も入れています。つまり、悪い狼にやられた経験を生かして、やり返した娘と祖母の話として提供されているのです。この後日談は初版から入っており、あとで書き加えられた話ではありません。要するに主人公の成長、イニシエーションを語る昔話としての『赤ずきん』が提供されているのです。というのも、グリム兄弟の『赤ずきん』の想定されていた読者層は貴族ではなく、市民だったからです」(同)

 このように伝承を改変し、良いしつけを意図した一般市民の近代的な価値観に合わせて描かれていたはずの物語が、21世紀に入ると教育現場から排除される可能性も出始めたというわけだ。それでは、スペインの調査団体は、こうした物語の本質を理解していないということなのだろうか?

「(調査団体が批判している)『男による女の救出』とか『女は男に頼らないといけない存在』といったメッセージは、そもそも『赤ずきん』にはないのです。フランスのロワール地方に流布している口承のバージョンでは、赤ずきんは狼に食べられるのではなく、知恵を絞って狼を出し抜きます。人狼(ブズー)に食べられそうになると『おしっこがしたい』と言って家の外に出て、逃げられないように狼によって足に結ばれた紐を、赤ずきんはスモモの木に結びつけて、一目散に逃げます。騙されたと気づいた狼は追いかけますが、間に合いません。ここでは赤ずきんは無知で騙されやすい少女などではなく、知恵を絞って狼を出し抜く賢明でたくましい娘です。つまり、生産者である中世の農民の姿が反映されているのです。近代の消費者としての女性には『おとなしく、従順で、かよわい』ジェンダーが求められますが、中世の生産者としての女性は『賢く、勇敢で、したたかな』ジェンダーが求められています。このように昔話を読むことで、ジェンダーは『時代によって社会によって変遷する』ということが学び取れます。それによって、その時代のジェンダー観に縛られることなく、『もっと自由に生きていいのだ』という、気持ちを子どもが感じ取ることこそが、本当のジェンダー教育ではないでしょうか。だから、今のスペインの動きは間違っていると思います」(同)

 グリム童話研究の第一人者から、手厳しい声が上がるスペインの判断。『昔話にみる悪と欲望――継子・少年英雄・隣のじい』(青土社)などの著作を持つ、千葉大学名誉教授の三浦佑之氏もこの動きに批判的だ。

「出版されたのは過去のものなんだから、それをあろうことか、図書館が進んで『ダメな本です』と、喧伝するのは非常に良くない。童話に限らず、図書館はあらゆる本を提供する場所で、利用者は読みたい本を自由に選ぶ権利がありますから、本来であれば、たとえ殺人を教唆するような内容であっても、過去の本はすべて公開するべきでしょう。その一方で、子ども向けの本は教育と密接に関わりますから、物語の内容が教育上よろしくないという理由で規制がかかったり、時代によって新しい装いを取ったりということは、しばしば行われてきました。特に戦後は、戦前までの教科書に使われていた物語が禁止とされました。太平洋戦争後、GHQによって検閲された『桃太郎』はいい例ですよね。このように物語を排除する、あるいは、残酷な表現はやめて、もっとやさしい内容に書き換えるといったことは、いつの時代も行われてきたと思います」

『桃太郎』は戦時中、その内容から軍国主義の普及とスローガンに利用され、「桃太郎が真珠湾を攻撃する」というアニメまで制作されたが、その結果として戦後は教科書から消えてしまった。書き換えに関しても今回、スペインで排除の対象となったグリム童話も、前述したようにさまざまな口承をグリム兄弟が市民道徳に合うよう“調整”し、不純な性描写や残酷描写を取り除いた結果、今でも世界的に親しまれる作品になった。また、現在、絵本や児童書として市場に出回っている昔話は、今の価値観にアップデートされたものがほとんどだろう。
「多くの昔話は作者がいるわけでもないし、決まった形が定められているわけでもない。そのため、口伝によってバリエーションが増えて、変わっていくんです。変わっていくというのは、面白く変わっていくこともあれば、前述の『桃太郎』のように政治的な意図をもって変えられることもあり、誰かの都合によって変えられることもある。しかし、基本的には、そういった流れを淘汰できる物語だけが残っていくわけですから、今回のスペインのように一方的に昔話を規制するのはあってはならないことです」(同)

 今回のスペインにおける動きは世界中で報道され、議論を巻き起こしている。しかし、このようなポリティカル・コレクトネス的な観点に基づく童話の規制運動は、90年代から欧米諸国でたびたび起こっていた。

 例えば1990年には米国・カリフォルニア州の教育関係者が『赤ずきん』をやり玉に挙げ、結果として2つの校区で禁止される出来事があった。問題視されたのは「おばあちゃんへの贈り物に含まれていたワイン」である。具体的には、未成年にアルコールを扱わせたこと、狼がワインを飲み干して顔を赤くする描写などが「教育上よろしくない」とされた。

 さらに米国では92年にも、グリム童話の名作『ヘンゼルとグレーテル』に対し「魔女の品位を貶めている」と、クレームがついた。しかも、声を上げたのは自称「魔女」の女性。いわく、「この物語は『魔女を殺し、その所有物を盗んでも問題はない』という考えを植えつける」「魔女は子どもを食べたりしないし、黒帽子に長い鼻といったイメージも実態とは異なる」とのこと。さすがに、この訴えは黙殺されたが、地元の小学校ではヘンゼルとグレーテルを殺人罪の被告とした模擬裁判が行われるなど、思わぬ反響があった。

 近年では2017年、SNS上で「#MeToo」ムーブメントが盛り上がる中、イギリスの主婦が『いばら姫』の、王子による目覚めのキスを問題視。「禁止しろとまでは言わないが、(自分の息子が属する)小学校低学年のカリキュラムからは除外すべき」と、提言して炎上騒ぎとなった。この『いばら姫』について、野口氏はこう語る。

「グリム版のキスによる目覚めには性的な意味ではなく、口から生命を吹き込むという意味があるのです。西洋昔話では『キス』は精神的な愛を意味し、肉体的な『性交』を意味するものではありません。フランスのペロー版『眠れる森の美女』では、王子はキスをせず、姫と性的関係を持ちます。イタリアのバジレ版『太陽と月のターリア』では、妻帯者の王は眠っているターリアを犯して妊娠させます。『あまりに美しいので、愛の果実を摘み取った』と詩的な文章で書かれていますが、要はレイプしたのです。このバージョンを問題視するのならまだしも、グリム版のキスを問題視するのは見当違いです。グリム兄弟は結婚前に妊娠出産する南欧の『眠り姫』バージョンを、結婚後に出産する北欧の『いばら姫』バージョンに改変したのです。それによってグリム童話は広く市民社会に受け入れられてきたのです」

 木を見て森を見ず、とはまさにこのことである。このように物語の本質を理解しないまま、表面的な部分だけを見て排除してしまうのは、文化の破壊ともいえるのではないだろうか?

「童話や伝承の中に今の常識では理解できない部分はあったとしても、それを拒否するとか、なくしてしまおうとすることは許されないでしょう。例えば日本には『瓜子姫』という、ウリから産まれた瓜子姫が天邪鬼に連れ去られて木に吊るされる、あるいは殺されてしまうといった内容の民話がありますが、この物語は今の時代からすると、完全に児童虐待であり、堂々と人前で話せるものではないと思います。しかし、『こんな小さな女の子がなぜ、むごたらしく死ななければならない?』といったように、その時代の中で少女の置かれていた立場といったことを考えるには、この物語はひとつのヒントにはなるかもしれない。もっと強引に言えば、現代の女性に対する性差別を考える、ひとつのきっかけを与えるかもしれません」(三浦氏)

 前出のスペインの調査団体も、6~12歳の小学生児童については「物語を批評的に分析する能力が備わっており、性差別的な要素に自ら気づくこともある。本はそういった学びの機会を与える」と、一定の理解を示している。だが、スペインで起きたような童話排除の動きは今後、世界にも波及するのだろうか?

「スペインの場合でも図書館がどういう経緯でこの判断に至ったのかは、ニュースなどでは詳しく書かれていませんが、子どもにどういう物語を与えればいいのかは人によって立場が違うし、『この本やめよう』となったら、その時点で図書館に入らないわけですから、ないとはいえない。知らないところで、見えない規制は、すでに行われているのではないでしょうか。図書館運営の中心になってくるのは司書ですから、彼ら/彼女らの判断によるところが大きくなりそうですね。とはいえ、誰かが決まった形を作るよりも、自然のなりゆきに任せるのが本来の昔話のあり方なんじゃないでしょうか? みんなが面白いと思ったものが後世に語り継がれていくわけで、『これはダメ、これはOK』というのは、誰かが上から決めるものではないと思います」(同)

 ポリティカル・コレクトネスを重視するのも、ひとつの時代の流れではある。しかし、それにかこつけて臭いものに蓋をするような対応は、過去だけでなく未来あるいは書物そのものをも冒涜する行為であることは肝に銘じておくべきだ。(月刊サイゾー7月号『ヤバい本150冊』より)

テレビ朝日『報ステ』最高責任者が”キス強要”のセクハラ更迭で、徳永有美アナが降板の現実味

 テレビ朝日系の看板報道番組『報道ステーション』のチーフプロデューサー(以下、CP)K氏が、8月30日付で、社内の懲戒処分を受け、3日間の謹慎及び同職から更迭され、BS朝日に飛ばされていたことが明らかになった。

 K氏は40代後半の妻子持ちで、昨年7月に『グッド!モーニング』から『報ステ』に異動し、人事や予算の権限ももつ最高責任者として君臨していた。同9月いっぱいで小川彩佳アナ(現フリー)を降板させ、同10月からOGで“不倫”の前科があるフリーアナ・徳永有美アナを抜擢する人事を執行したのもK氏だとされる。

 そのK氏が10人以上の女子アナ、女性スタッフに対し、セクハラ行為を行ったとして、同局のコンプライアンス統括室に告発され、調査の結果、CP解任が決まった。セクハラの内容は体を触ったり、手を握ったり、抱きついたり、キスを強要したりといったものだったという。

 被害者の中で、実名で報道された、同番組フィールドキャスターの森葉子アナは、居酒屋で2人きりで酒を飲んだ後、タクシーで自宅マンションまで送られてエレベーターでキスをされ、無理やり自室に入られそうになったとされる。

 これまで被害を受けてきた女子アナ、女性スタッフにとっては、K氏が更迭されてひと安心だろうが、ひとり旗色が悪くなった女子アナがメインキャスターの徳永アナだという。

「K氏は、まさにやりたい放題だったようで、K氏の『飲みに行こう』との誘いを小川アナが断ったため、その腹いせに降板させたとも言われています。K氏は早河洋会長の“子飼い”で、局内の反対意見を押し切って、会長のお気に入りである徳永アナを起用したとされています。その徳永アナは無難に仕事をこなしていますが、いまだにウッチャンナンチャン・内村光良とのドロ沼不倫(後にテレ朝局員の夫と離婚し、内村と再婚)による負のイメージは払拭できず、視聴者からは根強い徳永アレルギーがある。そもそも徳永アナを抜擢した理由は、視聴率獲得のため、不倫騒動で出禁状態にある内村を起用するためとも言われましたが、その出禁解除は実現していません。『報ステ』の視聴率は、一時はジリ貧に陥ったものの、最近では持ち直しています。しかしキャスターの若返りや、負のイメージを払拭し、さらなる視聴率アップを図るため、徳永アナに代わって、局員の若手・中堅女子アナを起用したいとする意見が多いのも事実。会長の子飼いであるK氏が更迭されたことで、来春にも徳永アナ降板案が浮上する可能性が高くなってきました」(テレビ局関係者)

 早河会長とK氏の肝いりで、よもやの『報ステ』復帰を果たした徳永アナだが、K氏が飛ばされたことで、近い将来、番組から去る日が来るかもしれない。