社会と日常、その狭間。あまり明るくなさそうな将来におびえつつ、なんとなく日々を過ごしてしまっている小市民的な視点から、見えてくるものを考える。
茹でガエル理論、茹でガエル現象、茹でガエルの法則などと呼ばれる警句がある。主にビジネスシーンで使われてきたものらしい。
カエルを残酷にも熱湯に落とし入れると、もちろんすぐに飛び出して逃げる。しかし、常温の水に入れて少しずつ熱していくと、カエルは微妙な温度の上昇を見過ごして行動を起こさず、気づいたときには息も絶え絶えで動けなくなり、そのまま茹で上がってしまう——。
環境の変化を敏感に感じ取っていかないと、いつしか「座して死を待つのみ」みたいな致命的状況に陥ってしまうから注意しましょうね、という話である。
茹でガエル理論は日本社会そのものに当てはまる?
Twitterでワード検索などしてみると、この茹でガエル現象をビジネスシーンについてではなく、今の日本社会そのものに当てはめている人が多い。日本社会に生きる私たち自身が徐々に茹でられているカエルということだ。
そう言いたくなる気持ちは、わかる。毎日のように「おいおい、ちょっと待てよ。そりゃないだろ」と呆れ果てたり、憤慨したりせざるを得ないようなニュースばかりで、いい加減にこちらとしても慣れてくるというか、「はいはいまたですか」という気持ちになってくる。そして、「もはやどうにもなりませんな」と、どうでもよくなってきてはいないか。実際のところ、どうすることもできないわけだし。
しかし、そんな薄らぼんやりした茹でガエル状態になっていても、ときどき「うわっ、熱っ!」と、気づかされることがある。これ実はかなりやばいことになっているんじゃないか、と思わず目を開かれるのだ。
最近そんな思いをしたのは、今年6月に入管施設で収容中のナイジェリア男性が“餓死”していたというニュースだった。
朝日新聞が10月1日付で「入管施設での外国人死亡は餓死 入管庁「対応問題なし」(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191001-00000031-asahi-soci)と見出しをつけて報道した記事によると、今年6月に長崎県の大村入国管理センターに収容されていた40代のナイジェリア人男性が死亡。その死因を出入国在留管理庁(入管庁)がようやく公表したのだが、なんとハンガーストライキによる“飢餓死”だったという。
21世紀の日本でハンスト餓死。衝撃的だ。飢餓いう状態は精神的にも身体的にも想像を絶する苦しさに苛まされると聞く。ハンストは長期収容に対する抗議と、健康上の問題などから入管施設からの一時的に釈放される仮放免を求めてのものだったというが、そこには壮絶な覚悟と恐らくは怒り、絶望があったのだろう。しかし、より衝撃的でのけぞるような思いをしたのは、その“飢餓死”に対して入管庁が「対応に問題はなかった」と表明していることだった。
いや、そんなわけないから。
ひとりの人間が飢えて死んでいる。
自分たちが管理運用している施設に収容している人間が、その管理運用のあり方について文字通り命がけの抗議をして、その抗議を無視した結果として彼は死んだのである。問題がないわけない。
餓死したナイジェリア人男性が施設で具体的にどのような処遇を受けていたかは明らかではないが、入管の収容者に対する待遇のひどさはこれまでにも幾度となく問題視されてきた。収容者の自殺や自殺未遂、自傷行為が相次ぎ、今回の事件の他にもハンストが起きている。そうした入管行政のあり方を見直し、餓死という結果に終わる前に処遇改善をはかるという道もあったのでないか。
結局、「何もしない」という決断をくだした入管庁の言い分としては、本人が職員の警告に応じずに治療を拒否したから問題がなかったということだが、目の前で人が餓えて衰弱のままに死んでいくのを見過ごして「問題がなかった」というのは、法的な手続きに問題がないということだろうか。では、「問題がない」と決定を下した人は、それを人としても問題はなかったと心から言えるのだろうか?
こうした入管庁の態度と同じように衝撃的だったのが、事件に対する“世間”の態度だった。
先に挙げた朝日新聞の記事はYahoo!ニュースに転載されて、数多くのユーザーが事件についてコメントを投稿している。コメント欄のトップには“オーサー”としてフリージャーナリストの志葉玲氏のコメントが掲載され、法令に基づいた収容者の健康や命に対する入管庁の責任や長期収容による二重刑罰といった法的な問題点を指摘している。しかし、ユーザーのコメントの多くは「対応に問題はない」と入管庁に同調を示したもので、「すぐに強制送還すればよかった」「餓死も自業自得」などという意見が目立った。こうしたコメントを寄せている人たちにとって、不法滞在という罪を犯した外国人犯罪者は、餓死という悲惨な最期を遂げたところで同情に値しない存在なのだろう。
餓死したナイジェリア人男性は施設内で“サニーさん”と呼ばれて慕われていたという。西日本新聞の記事によると、サニーさんは皆が親切、穏やかと口をそろえる人物で、同部屋で過ごしたことのあるフィリピン人男性は「兄のような存在。食事が足りない時には分けてくれた」とコメントをしている。
サニーさんには日本人女性との間にできた子供がいる。帰国を拒んでいたのは「出国すると子供に会えなくなる」からだという。ちなみに日本で生まれたこの子供は、もちろん日本人だ。
自分の子供との再会を望んでいたサニーさんはなぜハンストという抗議をせざるを得なかったのか。その背景にどんなことがあったのか。徐々に衰弱して死に向かうなかで、サニーさんはどんなことを思ったのだろう。
すべては想像でしかないが、きっと、その人生にはひとりの人間として、悲しみや苦しみ、怒り、そして喜びがあっただろう。サニーさんは窃盗などの罪で実刑判決を受けて服役もしている。恥辱、悪意、葛藤、後悔——そんなネガティブな感情に溺れるような思いをしたことがあるかもしれない。その一方で、自分の子供の誕生を寿ぎ、その小さな体を抱いて、そのか弱さと温かさに目を細めて笑ったこともきっとあっただろう。
Yahoo!ニュースにコメントを寄せた多くに人にとっては、“自業自得のハンストで餓死した外国人犯罪者”に過ぎないかもしれないが、その人生には暗闇もあれば、輝きもあり、それは私たちひとりひとりとまったく変わらないかけがえのないものであったはずだ。
サニーさんの収容期間は3年7ヶ月に及んだ。
1977年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件で、当時の福田赳夫首相は「人命は地球より重い」と述べて、テロリストの要求に従った。その是非はさておき、現在の日本では人命よりも“自己責任”のほうが重そうだ。
社会学者の故・山岸俊男はいくつかの著作のなかで、心理学の“臨界質量”という概念を使って人々の社会的行動を説明している。信号無視、自転車の違法駐輪、学校のいじめ……どのような現象であっても、実は集団の大半は“周りのみんな”の行動に合わせて行動をしている。例えば、誰かひとりが信号無視をしても、ほとんどの人はそのまま信号を守る。しかし、信号無視をする人が少しずつ増えていき、ある“一線”を超えると、「みんながやっているんだから自分も……」と一斉に信号無視をしてしまう。この集団の行動を分ける分水嶺となる比率が“臨界質量”だ。
サニーさんの餓死を報道した記事に投稿された入管庁に同調する多くのコメントには、自己責任論と他者への不寛容、権威主義がひそんでいることが読み取れる。そこに自由や平等といった理念、そして人権を尊重し、弱者への共感はほとんど見られない。そうした傾向はこの件に限らず、社会全体にも蔓延しつつあるだろう。“臨界質量”を超える日も近いかもしれない。私たちが水に入れられたカエルだとすれば、その水の温度はもはや火傷する寸前くらいにまで高くなっているのではないか。
実際のところ、常温から少しずつ茹でられたカエルは水が熱くなったらさっさと逃げ出すそうだ。そりゃそうだろう。カエルと比べるのはどちらにとって失礼なのか、という話だが、より問題なのはカエルと違って、こちらはさっさと逃げ出すことができないことだ。
ちなみに臨界質量の“潮目”は、社会集団のトップやリーダー的な存在の態度に影響されて変わることがあるという。例えば、熱血教師が「いじめは絶対に許さない」と常日頃から公言し、いじめが起きたら断固たる処分を下す。そうして生徒から得ることができれば、「いじめは絶対にしない」という“良い子”を増やすことはできなくとも、周りに合わせて行動する大多数の生徒の気持ちにわずかながら“良い影響”を与え、結果的にいじめの臨界質量が下がっていくのだ。
もちろん、その逆もまた起こりうる。アメリカでトランプ大統領当選後にヘイトクライムが増加している事実をみれば、さもありなんという感じである。さて、我が日本では……思い半ばに過ぎるといったところだろうか。