今から30年ほど前、「アイドル冬の時代」と呼ばれる時期があった。「メジャーなアイドルが出てこなかった時期」という意味で使われるが、実はこの時代こそ、「アイドルファン」にとって冬の時代だったのだ。
今でこそメジャーな趣味になったアイドルだが、当時、アイドルファンは「かっこ悪いもの」「モテないやつの趣味」という目で見られることが多く、私自身、学校や職場でカミングアウトすることをはばかったものだ。
遠因は、アニメや漫画に端を発する熱狂的なマニア、いわゆる“オタク”というものを、どこか危険視するような風潮にあった。ちょっと変わった嗜好を持つ人が、差別的に扱われることは古くからあることだ。周囲に合わせたコミュニティを作り、身を守っていくための本能でもある。
それに比べれば、今は好きな趣味を突き詰めていける時代になった。オタクもだいぶ市民権を得ているようだし、ネットの普及によって、同好の士と繋がることが簡単にできるようになった。しかし、それで全ての問題が解決したわけではない。いくら「多様性の時代」と言われようとも、根底にある「異質なものを排除しようという気持ち」が、完全になくなることはないだろう。現実の世界には、今もまだ、家族や職場の偏見を恐れ、そのことをひた隠しにしている人も大勢いるのだ。
そんな、“隠れオタク”を題材にしたドラマ『トクサツガガガ』(NHK総合)が話題となっている。
主人公は、特撮マニアのOL・仲村叶(小芝風花)。職場では自分の趣味を隠し、普通の女子を演じているが、心の中では、自分の趣味をわかってもらいたい、そしてリアルな誰かと趣味の話を思いっきりしたい、と願っていた。
そんな時、電車で出会った吉田さん(倉科カナ)が同じ特撮オタクであることを知り、仲良くなる。そこで彼女は、オタク同士で繋がることの喜びを知るのである。
一方、叶の職場には、北代(木南晴夏)という、気難しい女性がいた。なかなか自分のことを話さない彼女だったが、実は名古屋のボーイズアイドル『Bee Boys』のオタクだということが判明し、2人は急速に仲良くなる。
そして、北代のオタク仲間・みやび(吉田美佳子)や、行きつけの駄菓子屋の強面店主・任侠さん(カミナリ・竹内まなぶ)、特撮好きの少年・ダミアン(寺田心)なども巻き込んで、オタクならではのドタバタ劇が繰り広げられるのだ。
このドラマの人気の秘密は、オタク心をくすぐる構成と小ネタにある。
脈々と続く戦隊もののパロディをはじめ、アニメや懐かしのテレビ番組のテイストが、これでもかと詰め込まれている。しかも、劇中で使われる、特撮番組『獅風怒闘ジュウショウワン』や、そこで使われる曲なども、実にしっかりと作りこまれている。画面に出てくる字幕なども、オタクが好きそうなポイントを見事に押さえたもの。ネットを通してリアルタイムに、「あの元ネタは◯◯」「あれの構成は××っぽい」と盛り上がれるようにできているのだ。何より、ドラマを通して、作り手の“オタク心”が見えてくるようなところがいい。
もちろん、小芝風花をはじめとしたキャストの熱演も魅力だ。オタクであることがバレないようにと、コソコソと活動をするときの緊迫した表情、好きな特撮を見ているときの恍惚の表情、自分と通じ合える人と出会ったときの歓喜の表情。少しオーバーなくらいの演技が、このドラマにはぴったりとハマっている。
物語が佳境に入り、大きなテーマとなっているのが、親との関係だ。叶の家庭では、両親が離婚しており、母親(松下由樹)に育てられた。しかし、その母親は、オタクや、他人と違うことが大嫌いという性格。当然、叶の特撮好きも許すことなどできずにいたのだ。
このような親との関係は、オタクにとって最大の難問だ。学生のうちは、何といっても、貴重な財源が親から出ているということがある。親の意に反し、小遣いをもらえなくなったら、オタク活動もできなくなるのだ。独立してからも、その関係は、そう簡単に断ち切ることはできない。それまで世話になった恩義もあるし、世間的な目もあるだろう。
ただ、自分の経験からいっても、親の考えを完全に変えることはできない。自分よりもずっと長く、それこそ全く違う価値観の中で生きてきたのだ。ならばどうするか。
一つの結論としては、「距離を置く」ことだ。親族の冠婚葬祭や、必要最小限のやりとり。それ以外は、長くコミュニケーションすることを避けたほうが良い。ある程度、円滑な関係を築きながらそれができれば一番いいが、お互いの歩み寄りが無理なようであれば、多少ギスギスするのも覚悟して、距離を保つこと。それが、最善策だと思う。
このような問題にぶつかった時感じるのは、「オタクというのは、いつからオタクになるのだろうか?」という疑問だ。生まれつきなのか、育った環境によるのか。ただ、私自身振り返ってみても、幼い頃から、何かどうでもいいことが気になって仕方のない性格ではあった。
テレビに出てきた怪獣の名前を全部覚えないと気が済まなかったり、学校でみんなが持っているのとは違うものを欲しがったり。それによって、周囲から偏見を持たれてしまったり、心無い言葉を言われたこともあった。でも、そんなことより、自分の中で、その「なぜだかわからないこだわりの心」と折り合いをつけることが、一番苦しかった気もする。自分の中のオタク性と向き合い、「オタクとはそういうものだ」と、自分を納得させられるようになったのは、だいぶ大人になってからだ。
残念ながら、差別や偏見は無くならない。それは、人間の持っている性とも言えるから。でも、もしオタクだからといってつらい思いや悲しい思いをした時は、それと同じくらいの強い繋がりを得ることができると信じてほしい。
事実、オタク同士の会話は楽しいものだ。自分たちの詳しいことだけで話が進むので、まるで周りには通じない共通言語で話しているような気持ちになる。ネットのやりとりとは違う、リアルタイムの言葉のキャッチボールができるのである。
この「やっと言葉が通じる人と出会えた気持ち」は、オタクでない人にはあまり理解されないかもしれない。言い換えれば、そんな時に感じられる楽しさは、オタクだけに与えられた特権なのだ。
私は、「オタクであるがゆえの苦しみ」と「オタクであることの幸福」の総量を比べてみれば、結局、普通の人の平均値ぐらいにはなるのではないかと思っている。
多分、オタクというのは“振り幅が大きい”生き方なのだ。つらいことも多い分、喜びも大きい。どちらがいいということではない。オタクではない人たちが、周りの人と同じような穏やかで平均的な幸せの中にいることも、それはそれで素敵なことである。
どうして自分はオタクなんだろう? どうして他の人と同じにできないんだろう? そんな迷いを乗り越えてなお、オタクとして生きている人は、知らず知らずのうちにそれなりの覚悟を決めている。
そんな事情を踏まえた上で、単にオタクのこだわりを、笑ったり揶揄したりするだけではなく、そのつらさや悲しみにも寄り添って作られている。それこそが、このドラマが支持される一番の要因ではないかと思う。
人と違ったっていい、好きなことは「好き」って言っていい。誰も見ていないかもしれないけど、わかってくれる人はきっといる。
その証拠に、こんな素敵な作品が背中を押してくれるのだ。世の中そんなに悪いものではない。
だから、オタクのみんな、頑張って生きていこうな!
(文=プレヤード)