谷崎潤一郎「女の王国」、岡本かの子「3人の男奴隷」文豪の私生活スキャンダルを読む3冊

 文豪と呼ばれる人も、教科書に出てくるような人も、時に傍から好奇の目で見られたり、スキャンダルで世間を騒がせたりした。世間一般の「清く正しい」枠にはまらない側面を見つけてしまうことは、邪道で下世話ではあるが、そういう人間くさい側面から作者や作品に興味が湧いたりすることもある。今回紹介する作品は、そんな業の深い人にお薦めしたい新旧3作品だ。

『デンジャラス』(中央公論新社刊/著: 桐野 夏生)

denjarous0702 妻・松子、妻の妹・重子、妻の連れ子である義理の娘・恵美子、たくさんの若い女中。人気作家として地位を確立した谷崎潤一郎の家には、彼の気に入った女たちばかりが一緒に住んでいる。谷崎のつくった、小さな理想の王国で、満足して暮らす女たち。そこにある日、「義理の息子の嫁」として、美しく才能のある女・千萬子が加わり、“王国”のバランスが崩れていく――。

 桐野夏生氏の新刊小説『デンジャラス』は、幾度となく世間から好奇の目で見られた谷崎の中年から晩年の家庭事情を、大まかな流れは事実を基に、小説として昇華した作品だ。谷崎の代表作『細雪』の雪子のモデルとされる、妻の妹・重子の視点から語られている。

 大阪の旧家で育った美人4人姉妹を描いた小説『細雪』は、ノーベル文学賞の最終候補に二度上がったこともある名作長編。主役の1人である三女・雪子は、美しく、一見おとなしいが一癖あるチャーミングな女性として、読者を強く惹きつけた。『細雪』は、雪子の縁談がまとまり、居候していた次女夫婦(モデルは谷崎夫婦)の元を離れるところで幕を閉じるが、明らかに雪子のモデルであった重子は、結婚後もしばしば谷崎家に身を寄せ、疎開を理由に夫と別居した。一時夫の元に戻るものの、夫に先立たれて再び谷崎夫婦と共に暮らすようになる。

 そんな重子を挑発するように、深い愛情をかける谷崎。“私は姉の付録”と言い聞かせながらも、重子は姉・松子とともに谷崎の芸術の養分として「実人生が小説に吸いとられていく」喜びを味わっていた。

 そんな中、谷崎の意向で別居していた義理の息子が、結婚を機に谷崎家の離れに住むことになる。息子の嫁・千萬子は美しく、気が強く、新しい文化を好む女性だった。千萬子を面白がった谷崎は、やがて特別に寵愛するようになる。息子夫婦が別居した後も、毎日速達を往復させるほど親密になっていく谷崎と千萬子。谷崎は、松子・重子姉妹が嫉妬するさまも、創作の刺激にしている節すらある。そうして出版された『瘋癲老人日記』は、「息子の嫁」に執着する老人の性やフェティシズムが描かれ、晩年の代表作として高く評価されることになる。

 妻たちを傷つけてでも、若い千萬子から芸術の刺激を受けようとする晩年の谷崎の執念、「自分たちこそが谷崎のミューズである」というプライドを傷つけられつつも、表面上は取り乱さず、静かに水面下で千萬子を遠ざける策略をめぐらせる松子・重子の老姉妹、谷崎の寵愛を頼りに高価な品々から生活費、住処までも手に入れつつ、決して一線は踏み越えない千萬子。それぞれの業の深さとえぐみが、ドロドロ劇の一歩手前までは表れるが、重子の上品な語り口で決して口当たりは悪くない。そして終盤には、重子が押し殺していた“姉の付録ではない私”が奔流し、谷崎作品の背徳的な雰囲気をも湛える展開を迎える。

 事実には沿っていても、内面の真実は当事者たちにしかわからない。あくまでフィクションとして、当時世間から好奇の目で見られた「谷崎一家」の隆盛と静かな終焉が堪能できる。

『かの子撩乱』(講談社文庫/著: 瀬戸内晴美 ※瀬戸内寂聴)

kanoko0802 そして、谷崎に翻弄された重子たちの姿とリンクしたのは、新刊ではないが、谷崎と同時代に活躍した作家・岡本かの子の生涯を追う評伝小説『かの子撩乱』だ。同作の取材で、かの子の妹・きんは生前のかの子を回想してこう語る。

「ああいう強い個性の芸術家が一人誕生するためには、まわりの者はみんな肥料に吸いとられてしまうのでございましょうか。姉の芸術のかげにはそれはそれはたくさんの犠牲が捧げられております」

 谷崎と同時代に活躍した小説家・岡本かの子。今なら、「岡本太郎の母」と言った方が身近に感じられる人が多いかもしれない。急逝したため執筆期間は短いものの、川端康成は「最近もつとも立派な仕事をしつつある作家の一人だ」(原文ママ)と評している。文学に生涯をささげたかの子もまた、小説のために自らが女王として君臨する「王国」をつくり上げ、夫、愛人、書生らと同居していた。きんも、その王国を補助する一員として、時に身の回りの世話をしていた1人といえる。

 瀬戸内寂聴氏の『かのこ撩乱』は、ノンフィクションの体を取りつつ、かの子、夫・一平の内面まで深く踏み込んだ、評伝の枠には収まらない作品だ。当事者含む関係者への取材、未発表(当時)だった資料、そしてかの子が憑依したかのような心理描写が精緻に編みこまれ、かの子の生涯を中心に、かの子の夫で、新聞漫画家の第一人者として時代の寵児だった一平、恋人として同居した仁田(仮名)、長男である岡本太郎らで構成された“岡本一家”の流転が描かれる。

 晩年の作品自体は高く評価されるものの、私生活や本人の振る舞いについては毀誉褒貶どちらも激しかった岡本かの子。熱狂的に愛されるか、嫌われ敬遠されるか、好悪が極端に分かれる彼女の生涯を簡単に語ることはできないが、最も好奇の目を集めたうわさの1つは「夫と恋人、さらにもう1人の男性との同居」という伝説だろう。

 当時、世間からはひそかに男妾と笑われることもあった仁田、垣松(仮名)の2人の男性は、決して経済的に独立できない「ヒモ」だったわけではない。垣松は、岡本家に住み、かの子夫婦の身の回りの世話をしながら、大学で講師を務めていた。戦後には島根県知事を2期務めている人物でもあるが、彼にとっては「自分の一番輝かしい生活だったのは、かの子さんと暮らしていたころ」と語るほど、生涯唯一の時期となった。

 仁田も、慶應大学病院の優秀な医師だった。名家の生まれで、「人妻に溺れて男妾になった」と世間から笑われる息子を心配した仁田の母が、岡本家に出向いたものの、むしろかの子を気に入り「この人の元なら」と息子を置いて戻ったエピソードも残っている。かの子の死後、夫の一平としばらく共に暮らしお互いを支えた仁田もまた、かの子と同居した日々が最も華やいでいた時期であると、寂聴氏に語る。そんな2人の目には、「男妾」とあざ笑う世間には見えない景色が広がっているようだ。

 かの子は、才能を持った男性たちを思うがままに従えた。それは、谷崎と同じく「芸術」のために必要不可欠だと信じていたからだと分析されている。寂聴氏は、信じるままに生きる暴力的なかの子の純粋さを、「一人の女が、怖しい芸術の魔神に魅入られ、三人の男を奴隷のように足元にふみすえ、その生血をしぼりとり、それを肥料に次第に自分の才能を肥えふとらせていく」(原文ママ)と表現する。

 本作は雑誌連載の初出から半世紀がたつが、寂聴氏自身もかの子の魔力に絡め取られているかのような筆致は、いまだ熱くみずみずしい。序盤には、学生時代の谷崎とかの子の交流も描かれる。『デンジャラス』を楽しんだ人に、薦めたい作品だ。

『諧調は偽りなり(上・下)』(岩波現代文庫/著: 瀬戸内寂聴)

kaityou0802jyou 最後に紹介するのは、『かの子』と同じ作者になってしまうが、瀬戸内寂聴氏による評伝小説『諧調は偽りなり(上・下)』。谷崎と1歳違いで、思想家として活動し、アナキストを貫いて惨殺された大杉栄と、その最後の妻となり、大杉と共に殺された伊藤野枝の後半生を描いた作品だ。

 伊藤野枝は、女性の手で作られた雑誌「青鞜」の編集部員(後に編集長となる)として活動する中で、大杉と出会う。大杉に惹かれた野枝は、衝動のままに夫と幼い息子を捨て彼の元に身を寄せる。その一連の流れだけでも当時のメディアを軽く騒がせたが、大杉と野枝が広く世間に知られたきっかけは、主に「日蔭茶屋事件」と呼ばれる不倫刃傷沙汰だろう。

 大杉は、恋愛流儀として「フリーラブ(特定の恋人をつくらず、それぞれが経済的に独立し、複数と平等に付き合うことを許容し合う関係)」を提唱し、実践した結果、野枝も含めた四角関係に陥り、野枝に嫉妬した愛人・神近市子に刺されている。そもそも「フリーラブ」を提唱している大杉が既婚者であるうえに、大杉も野枝も、大杉を刺した神近の稼ぎに頼って生きていた。おそらく、一般に広く「バカみたい」と思われただろうことは想像に難くない。

 この事件に翻弄されつつ、結局、大杉と野枝は事実婚関係を結び、5人の子どもが生まれ、大杉は勉強のために渡欧したものの活動前に投獄され、帰国後は政府に目を付けられながら活動し、野枝と共に殺される――という激動の4年間を濃く描いた本作。2人の前半生を書いた前作『美は乱調にあり』(同)の続編ではあるが、前作を経ていなくても、問題なく読むことができる。

 2人の生き方も思想もここでは省くが、個人的には全肯定できるものではない。しかし、思想の是非と人の好悪が一致するとは限らない。政府から危険人物とみなされた2人だが、どちらにも人懐こいところがあり、監視役としてついてくる憲兵に荷物を持ってもらったり、ちょっとした買い物を頼んだりできるような関係を築くようになる。本作には、彼らの愚かなところも容赦なく収められているが、憲兵もついほだされるほどの不思議な魅力も、全編にちりばめられている。思想には否定の立場を取っていても、実際の彼らを目の前にしたら、好意を持ってしまうかもしれない。自然とそう思わせる、彼らの引力が伝わってくる。

 大杉栄享年38歳、伊藤野枝享年28歳。2人は関東大震災の混乱に乗じて惨殺された。大杉の葬儀には、思想上は対立する立場の人々も多く参列し、彼の死を悼んだ。野枝の前夫は、「野枝さんにどんな欠点があろうと、彼女の本質を僕は愛している」と追悼文を送った。「畳の上では死ねないだろう」という覚悟の上で生きた2人に、「子どもがいるのに無責任」という言葉も響かなかっただろう。それでも子どもたちはそれぞれ、親の生涯から、自分勝手に生きる代償も、信じた道に殉じる気韻も受け継いで生きたように見える。

 伊藤野枝と大杉栄も、谷崎潤一郎も、岡本かの子も、現代で同じ生活を送ったとすれば、当時と同じように、もしくはそれ以上に批判や揶揄を受けることになるだろう。時代が違うと言ってしまえばそれまでだが、その当時にあって冷蔵庫やソファベッドも使うような谷崎の義妹・重子は一見私たちと地続きで、ひどく遠いとは思えない。

 清くない、正しくない、筋が通らないところを踏まえても、たぶん犯罪を犯さない限りは「どれだけ人に迷惑をかけたか」「どれだけ間違ったか」より、「どれだけ人に愛されたか」「何を創造したか」の方が世に残って、時に後世の人を助けることすらある。芸術家でなくても、そんな法則を知っておくことは、おそらく他人への視線を寛容にし、引いては自分自身の生き方を楽にするはずだ。
(保田夏子)

美少年、バッタ、童話作家――「偏愛」に生きる“賢くない”者たちによる魅力的な3冊

好きなことをとことんやっていい、と言われて、どこまで突き詰められるだろうか。好奇心と熱情だけを信じて進むなんて、多くの者には恐ろしいことだ。しかしそこを越え、新しい世界を見つけた“偏愛家”3名の著書を紹介する。

■『セツ先生とミチカの勝手にごひいきスター』(長沢 節、石川 三千花/河出書房新社)

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 2017年は故・長沢節の生誕100周年に当たる。「長沢節」という人物を知らない人の中にも、彼の私塾「セツ・モードセミナー」出身者の名を知る人は多いだろう。女優・樹木希林、漫画家の安野モヨコや桜沢エリカ、「コム デ ギャルソン」の川久保玲、「ピンクハウス」の金子功――幅広いジャンルに、独自の存在感を示すクリエイターを多数輩出した「セツ・モードセミナー」。その創始者である長沢氏が生前に書いた映画評をまとめ、同校出身のイラストレーターであり、映画評論家でもある石川三千花が解説を加筆した本が、『セツ先生とミチカの勝手にごひいきスター』だ。

「美少年というのは、来年、再来年はたぶん美少年ではなくなっているのだ。そんな空しい美しさとして、なんとかけがえのない現在だろう」

――と、序文から熱量の高い本書は、映画評でありつつ、長沢氏がお気に入りの美青年&美少年スターの肉体を語る“偏愛レビュー”でもある。ダニエル・デイ=ルイス、デヴィッド・ボウイからレオナルド・ディカプリオまで、俳優ごとに章が分けられ、出演作品ごとに肩や指先、脚、骨格まで、肉体の細部に宿った美(もしくは醜さ)が、どのように堪能できるかが綴られる。

 「手首の薄さ」「指先のとんがり」「足指の上品さ」「土踏まずの深さ」と、俳優の体について綴る長沢氏の視点はフェティッシュだが、「これは素晴らしい」「これは醜い」とばっさり斬る文章はカラッとして小気味よい。さらに、「足があまりにも美しいので、かわいそうな場面のはずが、楽しい場面に見えてしまうのをどうすることもできなかった」といった記述からは、長沢氏のチャーミングさが漏れ出ているようで、時に「太い短い下品な脚と腕!」などとけなしていても、不思議と嫌な後味を残さない。映画にはいろいろな楽しみ方があるが、長沢氏は、“俳優たちの、ひと時の美を閉じ込めた記録映像”として作品を味わい尽くし、その魅力を読者に伝えている。

 加えて、章ごとに加筆された石川氏の解説も、まるで長沢氏が目の前にいるような語り口で同意したり反論したり、遠慮なくツッコミを入れつつ、さりげなく生前のエピソードを交えて、彼の独自の美意識を読者に教えてくれる。

 本書は、単に面白い映画を知りたい人より、美しい青年&少年を堪能できる映画を見つけたい人向けの一冊といえるだろう。さらに、レビューを通して長沢氏独自の哲学・美学を自然と知ることができる「長沢節入門本」にもなっている。映画より俳優より、長沢節という人間を好きになってしまうかもしれない。

『バッタを倒しにアフリカへ』(前野ウルド浩太郎 (著) /光文社文庫)

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「なんということでしょう。生活のことをうっかり忘れていた。軽く取り返しのつかないところまで、私は人生を進めていた」

 好きなことだけやって生きたいけど、大抵の大人は、食べるために社会でお金を稼がなければならない。「やりたいこと」と「稼ぐこと」を天秤にかけ、どうバランスをとっていくか迷う人は多いだろう。『バッタを倒しにアフリカへ』は、そんな迷いと正面から向き合った昆虫学者による、ノンフィクションエッセイだ。

 バッタを愛し、「緑色の服を着て、全身でバッタと愛を語り合いたい」という情熱で昆虫学の博士号を取得したものの、バッタ研究では就職口が得られずに、いわゆる“ポスドク”状態になった前野氏。研究対象を需要のある昆虫に替えるという道もあったが、「それでもバッタを研究したい」という思いでアフリカ・モーリタリアに旅立ち、現地の研究者と共にバッタと向き合う日々が本書につづられている。

 金もコネもない、現地の言葉も十分にしゃべれない、あるのは熱意だけ、という状態からフィールドワークで成果を上げるのは、想像よりも一筋縄ではいかない。初っ端から入国拒否に遭い、その後も「60年に1度の干ばつでバッタが発生しない」「30万かけて作った飼育ケージがすぐ壊れる」「その後再び別の飼育ケージが壊れてバッタが熱死する」など次々とトラブルが起き、貯金も底を尽きかける。同世代の研究者が成果を上げていく中で、将来に何の保障もなく、不安と困難の多い道のりを歩むことになるが、前野氏はその荒れ道を非常に楽しそうに進んでいくため、深刻さがまったく見えてこないところが、本書の突出した魅力だろう。

 徐々に現地にも慣れ、臨機応変に研究地を替えながら研究の手応えを得ていく前野氏。研究資金のためにブログや著作活動を始め、自分の知名度を上げることで研究の重要性をプレゼンしていく。最終的には、研究実績を元に京都大学への就職が決めるという、まるでフィクションのような成功を見せるのだ。

 「好きなことに人生を賭け、夢を追って成功する」と言葉にすると、一見、子どもたちのお手本になるような、美しく正しいことのように捉えられるが、現実に実行した前野氏の行動は、大多数の人にとってはリスクが高く、狂気にすら見えるものだ。成功しているからといって、気軽に薦められる選択肢ではないだろう。しかし、成功・失敗にかかわらず、「好きだから」という狂気を貫き通せた人々だけに見える世界がある。安全で、賢い道を選択することだけが正しいと考えがちな私たちの視界を開き、気づかせてくれる一冊だ。

■『ありのままのアンデルセン:ヨーロッパ独り旅を追う』(晶文社刊/著: マイケル・ブース,訳: 寺西のぶ子)

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 日本食の魅力をユーモアたっぷりに描き話題を呼んだ『英国一家、日本を食べる』(亜紀書房)の著者マイケル・ブース氏による『ありのままのアンデルセン:ヨーロッパ独り旅を追う』は、童話作家として世界的に知られるアンデルセンの知られざる魅力に憑かれた著者が、172年前のアンデルセンの一人旅を再現し、その素顔に迫ろうとする異色の旅行記だ。

 結婚を機にデンマークで暮らすことになった著者は、語学学校を通して、アンデルセン作品『人魚姫』の魅力に触れる。原語であるデンマーク語で読んだ『人魚姫』は、英語で読んだ『人魚姫』とも、広く知られるディズニー作品とも違う、人間の弱さ、暗さ、エロティシズムを表現した作品だった。アンデルセンに惹かれた著者は、“人間アンデルセン”の実態をさらに深く知るために、残された自伝や旅行記を元に、できる限り同じルートをたどる旅を始める――。

 ドイツ、イタリア、ギリシャ、オーストリアなど欧州各国を渡り歩き、その土地の風土や国民性の違いを記した旅行記でありながら、資料や現地取材に基づいて、アンデルセンの素顔を明らかにしていく評伝でもある本書。日記や書簡、多くの先行研究をもとに、貧しい家に生まれ育ち、自らの容姿にコンプレックスを持ち、有名人や貴族から称賛されることに人一倍飢えていたことを明らかにする。

 さらに著者は、諸説あるアンデルセンの性的嗜好に関しても踏み込んでいく。プロポーズした女性への執着や、ラブレターにしか見えない男性への手紙から想像されるアンデルセンの心情を、まるで当時の彼を見ていたかのように細かに描写し、バイセクシュアル傾向であったと分析する著者。ほとんどの関係者が亡くなっている今、真実がわかることはないだろうが、執着とも呼べる著者の丁寧な読み込みに、舌を巻く読者も多いだろう。

 本書では、資料からわかるアンデルセンの見栄っぱりな一面や、俗物的な一面も、淡々と明らかにされていく。欠点ばかりのようでも、著者をはじめとした多くの研究者を惹きつけて離さないのは、世界的に知られた童話群に、彼が悩み向き合った自身のそうした欠点や悩みが昇華されていることに気づかされるからだろう。ぜひ本書を通して、アンデルセンの素顔の一部に触れてみてほしい。
(保田夏子)

ジョブズとウォズニアック、ユングとフロイト……“相棒”との出会いで才能が花開いたペアの6段階

 人間関係の最小単位“2人組”。仕事、友情、恋愛……関係は違えど、深くて濃い1対1の関係を扱った本2冊を紹介する。

■『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』(ジョシュア・ウルフ・シェンク著、矢羽野薫訳、英治出版)
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 『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』は、歴史に残るような天才を、1人の才能によるものではなく、補完し合う「2人」の功績として捉え、分析を試みるレポート。

 画家ゴッホと弟のテオ、キュリー夫妻、ライト兄弟、「ビートルズ」のジョン・レノンとポール・マッカートニー、アップル社の共同設立者スティーヴ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック、タイガー・ウッズとキャディのスティーブ・ウイリアムス、ダライラマ14世と個人秘書官――。芸術、科学、ビジネスなどさまざまな分野で偉業を残した人々には、直接/間接的に支えてくれた「相棒」がいる。本書では90組以上のペアについての資料やインタビューから、ペアの生まれ方、共通する傾向を探り、最終的には「普通の人々がクリエイティブ・ペアと出会う方法」について考察をしている。

 本書では、成功した2人組を“クリエイティブ・ペア”と呼び、2人が出会い、関係を発展させ、別れるまでの過程を「邂逅」「融合」「弁証」「距離」「絶頂」「中断」の6つの段階に分類している。それぞれの段階で章立てし、時代もジャンルも異なる複数のペアのエピソードを幾つも重ねていくことで、各段階に見られる特徴を浮き彫りにしていく。

 たとえば「邂逅」の章では、多くの偉大なペアは初対面時に「互いにあまり印象が良くない」か、「果てしのない会話が続く」かの2つのパターンが多いと分析。Googleの共同創業者であるラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは「出会ってから数時間で激しい口論」となり、後にキュビスムを担う中心となるパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックは「不安をかき立てられた」。一方で、アップル社の共同設立者ジョブズとウォズニアックは、初対面のときから「家の前の歩道に座り込み、何時間もしゃべって」いたし、精神医学に大きな影響を与えたユングとフロイトも「初めて会ったときに『13時間、休みなくしゃべりつづけた』」という。

 偉人や著名人の評伝は数多くあるが、本作は、1対1で結ばれる“恋愛以外”での濃密な人間関係にまつわるエピソードが、時代もジャンルも超えて「関係性の段階」でソートされて膨大に詰まっている。天才たちのドラマのような関係性を堪能したい人は、必ず楽しめる一冊だ。

 さらに著者は、クリエイティブ・ペアの定型を明らかにすることで、孤高の天才ではなくても、普通の人が“相棒”と出会って天才になる道を探っている。自分のクリエイティブ・ペアに出会うには、どのような場所に足を運び、相手にどう振る舞うべきなのか?その考察が成功しているかはさておき、2人組のエピソードを大量に分析してきた著者だからこそ、表現を変えて繰り返される「本当の創造性は自分の頭の中ではなく、自分と他人の間に起きる化学反応から生まれる」という知見は聞く価値があるものだ。新たな仕事や、趣味に挑戦したい人にとっても、ヒントをくれる本になるだろう。

■『誓います 結婚できない僕と彼氏が学んだ結婚の意味』(ダン・サヴェージ著、大沢章子訳、みすず書房)

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 『POWERS OF TWO~』では、主には恋愛・夫婦関係ではない2人組のエピソードが取り扱われていたが、一般的に、社会で最もメジャーな2人組は夫婦だ。本書『誓います 結婚できない僕と彼氏が学んだ結婚の意味』は、米国の男性カップルが、結婚に足踏みする日々をユーモアたっぷりにつづることで、「結婚とはなにか」をパートナーと考えることの楽しさを教えてくれるノンフィクションだ。

 米国で人気新聞記者・コラムニストとして活躍する著者ダンと、10年間交際を続けている男性パートナー、テリーは、結婚という形をとらずに、6歳になる息子を育ててきた。しかし、周囲とは違う自分の家族に疑問を抱くようになった息子に、さまざまなタイプの家族を見せるため、ダンは自身の親族を集めたキャンプを企画する。

 結婚・同棲はしないと決めている長兄とその恋人、子連れ同士で再婚した次兄夫婦、子どもはいるが結婚はしない妹夫婦。2度目の結婚生活を送っている母。家族の形態はさまざまだが、それぞれの違いにこだわらずに共同生活を送ることで、結婚/未婚/再婚、同性カップル/異性カップルの違いを問わず、いい家族とは助け合う共同体であり、“普通”と違ったとしてもコンプレックスを持つ必要はないということが、息子だけでなく読者にも説得力をもって伝わってくる。しかし、病を患っている母が、本気で自分たちの結婚を望んでいることを知ったダンは、テリーや息子と、結婚について少しずつ検討を始めようとする――。

 「同性婚が法的に認められていない州に住んでいる」「息子は結婚に反対している」「誓いとか、披露宴などで見世物になりたくない」「そもそも10年間結婚せずに順調なのに、必要ないのでは」……と“結婚しなくていい理由”ばかりが次々と挙がり、「お互いの名前を入れたタトゥーの方がまだマシでは」とまで考えるダンとテリー。当初は結婚に積極的とはいえなかった2人は、それでも家族や友人、さらには人生相談のコラムニストにまで「セカンドオピニオン」を求め、結婚するべきかどうか検討を重ねる。結婚のメリットとデメリットを、毒を交えつつも真剣に語り合い、時にぶつかり合う2人を通して、読者は自分にとって結婚とはなにか、改めて考え直すことになるだろう。

 2人の迷いは、異性カップルに通じるものもあれば、同性カップルだからこその迷いもある。けれども同性婚への理不尽な偏見や差別など、いくらでも深刻に語れる話題も、笑いを交えながら理性的に表現されることで、決して外国の特別なカップルの話ではなく、身近な1組のカップルの迷いとして受け止めることができる。

 日本でも、結婚情報誌の最大手「ゼクシィ」(リクルート)が、「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」をキャッチコピーに選び共感を呼ぶ時代、「結婚=絶対的な正解」でないことは誰もが知っている。いつ結婚するか、そもそも結婚するのかしないのか、複数の選択肢が並べられているからこそ、正解がわからず迷ってしまうカップルは日本においても多いだろう。

 ダンとテリーは、結婚について話し合ううちに、知らず知らず結婚することに気持ちが傾きつつも、失敗したときのリスクを天秤にかけて足踏みする。そんな2人を後押ししたのは、「人生はそもそも大きな賭けであり、みんないつかは死んでしまうのよ」というダンの母のすがすがしい言葉だった。結婚してもしなくてもリスクは負うし、選んだ道で幸せになれるかどうかは誰にもわからない。ただきっと、2人で悩み、深く話し合った分だけ、決断した道を正解にしていくスタミナが蓄えられていくのかもしれない。
(保田夏子)

「ちゃんとした料理を作らなきゃ」「ていねいに暮らさなきゃ」、“料理”に自分で呪いをかけてない?

 春は、一人暮らしを始める人が多い季節。それまで日常的に家事をしていなかった人ほど、料理や掃除を伴う初めての「生活」に戸惑い、早々に疲れてしまうだろう。今回紹介する「台所」に焦点を当てた日米の2冊は、そんな新生活にストレスを感じている人、そして、自分は「料理が苦手」だと思っている人に読んでほしいノンフィクションやエッセイだ。

■『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』(キャスリーン・フリン著、村井理子訳、きこ書房)

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 『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』は、タイトルだけ見ると、“料理ができない女=ダメ女”と、本に叱られそうで敬遠してしまう人もいるかもしれない。本書は、むしろ、そんな女性に寄り添い、パワフルに力づけてくれるノンフィクションだ。

 世界的に有名な料理学校「ル・コルドン・ブルー」を37歳で卒業した著者が、料理に苦手意識がある「普通の女性」10人に料理の基礎を教えることで、彼女らのキッチンや食生活がどう変わったかをリポートした本書。彼女らを「ダメ女」と呼ぶのは、著者ではなく、「料理ができない」ことがコンプレックスになっている生徒たち自身だ。生徒は、20代から60代までの女性。一人暮らしで自炊は難しいと思っている女性、子どもを持つワーキングマザー、経済的に困窮して自炊の必要性を感じ始めた弁護士など、立場や事情はそれぞれ違うが、料理に苦手意識を抱えている。

 包丁の使い方、基本的な肉・魚・卵料理、パスタソースの作り方や簡単なパンの焼き方、残り物でさっと料理をするコツ。そんなシンプルな技術を学ぶことで、彼女らは、自らが「料理をする」というハードルを、無駄に高くしていたことに気づく。出来合いで済ませているパスタソースやドレッシングを手作りすることは、「すっごく難しいこと」なのか。生徒たちは、学べば学ぶほど「知っていたら絶対自分で作る」「こんなに簡単なの?」と口にする。

 さらに著者は、レッスンを通して、料理を作れない人が増えている背景や、インスタント食品やファストフードの普及がもたらした現代人の健康被害、米国の「食」をめぐる社会問題に触れる。本書では、外食やレトルト食品のデメリットも語るが、「絶対に使うな」という立場ではない。「何から何まで手作りしなければダメだなんて、うそっぱちだよ。(略)インスタントのツナキャセロールと、“トップ・シェフ”の間に、あなたにとって心地よい場所を見つければいい」と、選択肢を広げることの重要性を説く。多忙な育児や仕事の合間に、数時間かかるような料理を作ることは難しい。けれども、買い物に出るよりも短い時間で、外食より安く簡単な食事が作れるのに、「方法を知らない」というだけでインスタント食品に手を伸ばす人が多いことに警鐘を鳴らすのだ。

 終盤では、10人の生徒の“その後の台所の様子”を追う。全員が日常的に台所に立つようになり、食への意識を大きく変えていた。生徒の1人、母親の影響で「料理なんて自分にできるはずがない」と思っていた61歳の精神科医は、自宅を訪ねてきた著者に語る。

「まさか私があんなに美しいものを作れるなんて。自分だって信じられなかった。私の年齢でも、変わることができるなんてすばらしいことだわ。この年になっても、自分を驚かせることができるのよ」

 “料理ができない女=ダメ女”ではない。けれども、料理の技術は、人生の質を確実に上げてくれる手段のひとつだ。そして、料理に限らず「できないと決めつけていたこと」が簡単にできるようになる体験は、何歳になっても、その人に新たな自信を与えてくれる。料理が苦手だと思っている人にとって、本書は料理の基礎を教えてくれる実用書であり、かつその苦手意識を自信に変えてくれる本になるだろう。

■『男と女の台所』(大平一枝、平凡社)

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 『男と女の台所』は、『ダメ女~』の段階を越えて、食と自分との“心地よい場所”を見つけ出している人々の半生と、19の台所を静かに写し出した1冊だ。

 有名無名問わず、料理や食、生き方に哲学を持つ人々のインタビューと共にその「台所」を写真に収めた本書。撮影された台所は、完璧に整えられたモデルルームにあるキッチンとは違う、それぞれの魅力であふれている。54年間連れ添う団地暮らしの夫婦の台所、人気ブロガー女性の台所、40代女性と20代男性のカップルの台所、3人の子どもを育てるシングルマザーの台所、路上生活する夫婦の台所、同性カップルの台所――取材された人も、台所の広さも新しさもまちまちだが、それぞれ自分にしか送れない確かな生活の佇まいをバリエーション豊かにのぞかせる。

 持ち主の顔が映った写真はなく、台所に立つ後ろ姿がほとんど。しかし、料理経験や台所をきっかけに語られる、恋愛や夫婦関係についてのインタビューが、その人の飾らない人となりを描き出す。

 離婚後、何を食べてもおいしいと思えず、料理も作らなくなった女性が回復するまでを語ったり、義母の手を借り、働きながら育児をこなしたシングルマザーが「上手に迷惑をかけて、助け合う方がお互い楽になれる」と語ったり――。料理や台所の話をしているはずなのに、不思議とそこには、倦んでしまいがちな中年期・老年期をしなやかに生きるヒントが詰まっている。

 特に印象深く描かれているエピソードは、共働き家庭で2児を育てる40代の女性を取材した一篇「ていねいになんて暮らせない」。仕事に家事に育児に多忙の中、「ていねいにできない自分をせめずにはいられな」かった女性が、夫の作る簡単な朝食やおにぎりをきっかけに「人それぞれ持って生まれた性質があって、自分に合った方法でいい」と気づき、「ていねいに暮らさない自分」に罪悪感を持たないと割り切る決心を描く。バブル崩壊後、特定の世代に根強くかけられている、“ていねいな暮らし”という呪いから解いてくれる短編小説のような読後感を残す。

 台所から生まれるものは、おいしい料理や笑顔だけではない。思うようにいかない苦しい日々も、泣きながら作ったおいしくない料理もすべて呑み込んで、地道に生活を続けるための場所だ。新生活に戸惑い悩む人たちにとっても、台所が苦手な場所でなく、ゆっくりと大切な居場所になることを祈りたい。

(保田夏子)

男もファッションも大好きなフェミニストが、「男らしさ」に苦しむ男性も救う?

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン(サイ女)読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します!

■『バッド・フェミニスト』
男もファッションも大好きなフェミニストが、「男らしさ」に苦しむ男性も救う?の画像1

 タイトルに「フェミニスト」という単語がついていることで、反射的にこの本を敬遠する人がいるとしたらもったいない。『バッド・フェミニスト』(ロクサーヌ・ゲイ著、野中モモ訳、亜紀書房)は、ポップカルチャーやタレント、ロクサーヌ自身についてのエッセイを通して、米国、ひいては先進国に横たわる“差別”と“文化”の関係を見渡す時評エッセイだ。

 「フェミニスト」という言葉には、「怒りっぽい、セックス嫌いの、男嫌いの、被害者意識でいっぱい」というイメージがついてしまいがちだ。そのイメージが、女性をフェミニズムから遠ざけていることを踏まえつつ、それでもあえて「フェミニスト」を名乗るのは、大学教授で作家でもあるロクサーヌ。ハイチ系黒人女性として生まれた彼女は、「ピンクが大好きで羽目を外すのも好きで、時には女性の扱いがひどいとよーーくわかっている曲に合わせてノリノリで踊ってしまうこともある」と語り、自身を「バッド・フェミニスト」と称する。

 彼女は、フェミニストらしく、ほぼ女性のみによって作られたコメディー映画『ブライズメイズ』が映画史に果たした功績や、ヒット映画『ヘルプ~心がつなぐストーリー~』や『ジャンゴ 繋がれざる者』に存在している性差別と人種差別に切り込む。しかし一方で、『ハンガー・ゲーム』などヤングアダルト(10代向け)作品への偏愛を語り、低俗だけど圧倒的に大衆人気の高いリアリティー番組の楽しみも語る。それらは時にレイプやトラウマを扇情的に扱うような、フェミニズム的に見れば一見不適格な作品だ。けれども彼女自身の10代の時の経験を通して、そういった“バッド”な10代向けのフィクションこそが、読者を救済する効能について理知的に分析する。

 ロクサーヌにとっての「フェミニズム」は、「男と同じになる」とか「男を憎み、セックスを憎み、キャリアに集中し、毛を剃らない」ことではない。彼女は、ドレスや「VOGUE」が好きで、男性もセックスも好きだ。さらに、虫退治や車の修理は苦手だから、パートナーや父親に頼るし、女性を侮辱する言葉を使う小説家やミュージシャンの才能に、心をつかまれることすらある。それでも、女性が「女性だから」という理由で不当な扱いを受ける時には、声を上げるべきであることを強く訴える。

 彼女のコメントを切り貼りして、短絡的に「矛盾している」「女性という立場を盾にとっている」という批判も成り立つだろう。けれども、「女性らしいことが好きだし、完璧に一人で自立できる人はいない」と語る彼女が理想とするフェミニズムは、「女性らしさを強制されず、逆に抑圧もされず、自身をそのまま認めること」という点で一貫している。その考えは、女性はもちろん、突き詰めれば「男らしさ」を強制されてしんどそうな男性たちも救う世界に見える。

■『文庫解説ワンダーランド』

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 文庫本を買うと、たいてい巻末には数ページの「解説」がついてくる。批評家や研究者、著者と親交のある作家や著名人が作品や作家について紹介してくれる日本特有の文化「解説」を評論した本が『文庫解説ワンダーランド』(斎藤美奈子、岩波書店)だ。

 夏目漱石、太宰治ら、複数の出版社から出されている人気作品の複数の解説を読み比べたり、『赤頭巾ちゃん気をつけて』(庄司薫)、『なんとなく、クリスタル』(田中康夫)など社会現象にもなったベストセラーの解説を読み込み、数十年を経て、文学史上の重要性が認識され、再評価されていることを指摘したり。『文庫解説ワンダーランド』そのものが、時代を長期的に俯瞰した文学批評として成立している。

 そんな、作品の理解を深める優れた名解説の紹介が知見を広げてくれる一方で、著者の腕の良さが際立つ点は、読者を迷子にする迷解説、謎解説を、毒とユーモアたっぷりに引き揚げているところだ。

 『失楽園』など、男性的な視点で描かれる性愛小説を生み出した渡辺淳一の作品解説には、「一見褒めてるようでよく読むと直接的な作品評価から逃げている」解説が多いことを指摘し、角田光代、林真理子ら幾人もの著名な女性作家たちが「褒めず殺さず作品を立てる」ためにどのようなテクニックを駆使したかを邪推する。

 また、思想家・鶴見俊輔が、赤川次郎の『真珠色のコーヒーカップ』に寄せた定型外の解説も紹介。赤川読者の大半は中高生であるにもかかわらず、鶴見は読者に「私の同時代の日本に失望している」と語りかける。そして唐突に『風土記』の時代・世界観への憧憬をつづり、「(赤川作品は)私にとって現代の『風土記』である」とダイナミックに着地する。大人でもなかなかついていけないほど飛躍しまくるこの解説が、年若い読者に与えるインパクトについて思いをはせる著者。数ページの解説から透けて見える背景や作品への愛情を深読みし、あたかもボケにツッコむ漫才のような、ひとつのエンターテインメントに仕上がっているのだ。

 王道であれ邪道であれ、テキストの読み方はひと通りではなく、異なる角度からの分析を知ることでさらに楽しめることを、改めて気づかせてくれる本書。読後は、各作品の文庫本を買って、解説を読みたくなってしまう1冊だ。
(保田夏子)

男もファッションも大好きなフェミニストが、「男らしさ」に苦しむ男性も救う?

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■『バッド・フェミニスト』
男もファッションも大好きなフェミニストが、「男らしさ」に苦しむ男性も救う?の画像1

 タイトルに「フェミニスト」という単語がついていることで、反射的にこの本を敬遠する人がいるとしたらもったいない。『バッド・フェミニスト』(ロクサーヌ・ゲイ著、野中モモ訳、亜紀書房)は、ポップカルチャーやタレント、ロクサーヌ自身についてのエッセイを通して、米国、ひいては先進国に横たわる“差別”と“文化”の関係を見渡す時評エッセイだ。

 「フェミニスト」という言葉には、「怒りっぽい、セックス嫌いの、男嫌いの、被害者意識でいっぱい」というイメージがついてしまいがちだ。そのイメージが、女性をフェミニズムから遠ざけていることを踏まえつつ、それでもあえて「フェミニスト」を名乗るのは、大学教授で作家でもあるロクサーヌ。ハイチ系黒人女性として生まれた彼女は、「ピンクが大好きで羽目を外すのも好きで、時には女性の扱いがひどいとよーーくわかっている曲に合わせてノリノリで踊ってしまうこともある」と語り、自身を「バッド・フェミニスト」と称する。

 彼女は、フェミニストらしく、ほぼ女性のみによって作られたコメディー映画『ブライズメイズ』が映画史に果たした功績や、ヒット映画『ヘルプ~心がつなぐストーリー~』や『ジャンゴ 繋がれざる者』に存在している性差別と人種差別に切り込む。しかし一方で、『ハンガー・ゲーム』などヤングアダルト(10代向け)作品への偏愛を語り、低俗だけど圧倒的に大衆人気の高いリアリティー番組の楽しみも語る。それらは時にレイプやトラウマを扇情的に扱うような、フェミニズム的に見れば一見不適格な作品だ。けれども彼女自身の10代の時の経験を通して、そういった“バッド”な10代向けのフィクションこそが、読者を救済する効能について理知的に分析する。

 ロクサーヌにとっての「フェミニズム」は、「男と同じになる」とか「男を憎み、セックスを憎み、キャリアに集中し、毛を剃らない」ことではない。彼女は、ドレスや「VOGUE」が好きで、男性もセックスも好きだ。さらに、虫退治や車の修理は苦手だから、パートナーや父親に頼るし、女性を侮辱する言葉を使う小説家やミュージシャンの才能に、心をつかまれることすらある。それでも、女性が「女性だから」という理由で不当な扱いを受ける時には、声を上げるべきであることを強く訴える。

 彼女のコメントを切り貼りして、短絡的に「矛盾している」「女性という立場を盾にとっている」という批判も成り立つだろう。けれども、「女性らしいことが好きだし、完璧に一人で自立できる人はいない」と語る彼女が理想とするフェミニズムは、「女性らしさを強制されず、逆に抑圧もされず、自身をそのまま認めること」という点で一貫している。その考えは、女性はもちろん、突き詰めれば「男らしさ」を強制されてしんどそうな男性たちも救う世界に見える。

■『文庫解説ワンダーランド』

男もファッションも大好きなフェミニストが、「男らしさ」に苦しむ男性も救う?の画像2

 文庫本を買うと、たいてい巻末には数ページの「解説」がついてくる。批評家や研究者、著者と親交のある作家や著名人が作品や作家について紹介してくれる日本特有の文化「解説」を評論した本が『文庫解説ワンダーランド』(斎藤美奈子、岩波書店)だ。

 夏目漱石、太宰治ら、複数の出版社から出されている人気作品の複数の解説を読み比べたり、『赤頭巾ちゃん気をつけて』(庄司薫)、『なんとなく、クリスタル』(田中康夫)など社会現象にもなったベストセラーの解説を読み込み、数十年を経て、文学史上の重要性が認識され、再評価されていることを指摘したり。『文庫解説ワンダーランド』そのものが、時代を長期的に俯瞰した文学批評として成立している。

 そんな、作品の理解を深める優れた名解説の紹介が知見を広げてくれる一方で、著者の腕の良さが際立つ点は、読者を迷子にする迷解説、謎解説を、毒とユーモアたっぷりに引き揚げているところだ。

 『失楽園』など、男性的な視点で描かれる性愛小説を生み出した渡辺淳一の作品解説には、「一見褒めてるようでよく読むと直接的な作品評価から逃げている」解説が多いことを指摘し、角田光代、林真理子ら幾人もの著名な女性作家たちが「褒めず殺さず作品を立てる」ためにどのようなテクニックを駆使したかを邪推する。

 また、思想家・鶴見俊輔が、赤川次郎の『真珠色のコーヒーカップ』に寄せた定型外の解説も紹介。赤川読者の大半は中高生であるにもかかわらず、鶴見は読者に「私の同時代の日本に失望している」と語りかける。そして唐突に『風土記』の時代・世界観への憧憬をつづり、「(赤川作品は)私にとって現代の『風土記』である」とダイナミックに着地する。大人でもなかなかついていけないほど飛躍しまくるこの解説が、年若い読者に与えるインパクトについて思いをはせる著者。数ページの解説から透けて見える背景や作品への愛情を深読みし、あたかもボケにツッコむ漫才のような、ひとつのエンターテインメントに仕上がっているのだ。

 王道であれ邪道であれ、テキストの読み方はひと通りではなく、異なる角度からの分析を知ることでさらに楽しめることを、改めて気づかせてくれる本書。読後は、各作品の文庫本を買って、解説を読みたくなってしまう1冊だ。
(保田夏子)

転職先としての非営利業界・海外移住。「脱出」の先に待っているものとは?

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン(サイ女)読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します!

■『ブラック企業やめて上海で暮らしてみました』
shanhaidekurashite

 会社を辞めて、語学留学し、いずれ海外で働く。そんな転身を夢見たことがある人は、意外と多いのではないだろうか。『ブラック企業やめて上海で暮らしてみました』(原作:初田宗久、イラスト:にしかわたく/扶桑社)は、「40歳」「独身」「突出した語学力も、コネもない」状態から日本を飛び出し、上海でその夢を実現した男性の日々をコミック化した本だ。

 2~3日の徹夜も当たり前のアダルト雑誌の編集部に勤めていた、自称“メタボ気味おっさん”初田氏。パワハラ上司の目を盗んで会社のトイレで眠る日々に嫌気が差し、40歳にして退職し、一念発起して中国への語学留学を決心。留学当初は苦戦するものの、1年弱で中国語版TOEICと呼ばれるテストで最高レベルの点数を獲得。上海の情報サイトの記者となり、訪中した浅田真央や福山雅治といった著名人にもインタビューする日々が始まる。

 流れだけを追うと成功ずくめの華麗な転身のようだが、本作の主軸は、ほとんど勢いで中国に飛び込んだ初田氏の戸惑いと、笑いを交えたたくさんの失敗談だ。思うように伸びない語学力に涙し、日本製品の購入を頼み込んでくる図々しい中国人の同僚をあしらい、一筋縄ではいかない大家さんと渡り合い、反日デモにおびえ、タクシー運転手からは領土問題の議論を挑まれる……そんな、次々と降りかかる厄介な状況を、ユーモアに変えて振り返る。

 当然、もし海外での転職に成功したとしても、そこがそのまま理想郷になるわけではない。中国では、日本とはまた違う、独特の濃い人間関係を維持しなければ、仕事をうまく進めることもできない。それでも、異なる文化に体当たりすることで獲得した「海外でゼロからハードな日々を乗り越えた」経験値は、単に「理想的な職場」を得るより貴重なものだ。

 5年ほど編集記者を務めた初田氏は、部署全体の閉鎖で失業し、台湾への再留学を経て、現在は中国系企業会長の通訳アシスタントとしてアジア各国を巡っている。「40歳で留学」という選択について、あとがきでは「本当に正解だったかどうかは今でもわからない」とつづっている。けれども初田氏は、中国でのハードな日々を通して、たとえ一見「不正解」を引いても、その都度軌道修正していくしたたかさを得ているように見える。それは、先の読めない人生を存分に楽しむために、大切なスキルではないだろうか。

■『N女の研究』

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 「非営利業界で働く人々」と聞いて、どのようなイメージを描くだろうか。『N女の研究』(中村安希/フィルムアート社)は、非営利業界(NGO/NPO)で働く20代後半~30代の女性10人の半生、仕事内容、賃金ややりがいなどについて、団体を立ち上げた創立メンバーではなく、あえて、「就職先として選んだ女性(=N女)」に取材したノンフィクションだ。

 本作には、転職先に非営利業界を選んだ女性も多く登場する。飲料メーカーから難民支援事業へ、広告代理店から保育事業へ、学童職員から若者の就職支援へ――彼女たちの事情や背景はさまざまだが、N女たちに向けられる、漠然とした“優しそう”“意識高そう”というイメージは本作であっさりと覆される。

 若者の就労支援を手掛ける女性の一人は、「就労支援は甘やかしではないか」と見る意見に、「若者がかわいそうだから助けたいのではなく、納税者を増やしたいからやっている。今解決しないと、私たちの世代やその次の世代にまで負担がのしかかる」と、はっきり答える。

 彼女たちの多くは、きれいごとやイメージではなく、目の前の課題を具体的に解決するための1つの手段として、非営利団体を選んでいる。一般企業では、結婚や出産・育児などライフスタイルの変容をきっかけに、勤務形態を変えざるを得ず、昇進を選ばない女性も多い。そんな中、フラットな組織として意見が出し合えて、任される裁量も大きい非営利団体が選択肢に入るのは自然なことだろう。

 非営利業界を支援するNPO法人に勤める職員は、この傾向を「ライフイベントに合わせて柔軟に働ける、自分らしく働ける職場環境、もう1つ別の路線」として、非営利業界が「女性の第3のキャリアパス」となる可能性を示す。

 しかし一方で著者は、非営利業界で働くことの問題点もえぐり出す。彼女らのほとんどは収入が低く、理解ある家族・配偶者の収入に支えられるケースが多い。さらに団体の質も一定ではなく、成果を重視しない団体、生産性の低い団体も現実的には存在する。そして、やる気のある職員ほど私生活を犠牲にし、疲弊して離職する傾向にもある。

 収入は低く、周りに支援者が必要で、団体の仕事の質にも大きな差がある――。非営利業界は、「社会貢献したい女性が輝ける」ときれいにまとめるには、あまりに不安定で、前途洋々とはいえない。しかし、本書に取り上げられたN女たちに悲壮感はなく、むしろその状況を積極的に受け止めているように見える。それは、N女の活動を通して見える現代社会のひずみを受け止めれば、どちらにしても、今の30代以下の世代のほとんどの未来は前途多難だからだ。

 本書では、30代を「逃げ切れない世代」と呼ぶ人もいる。30代以下は、かつての「大手企業に正社員として勤め(る夫を持て)れば安心」という時代が取りこぼしてきた負の面と、近い将来向き合わざるを得ない。「逃げ切れる世代」が仕切る変革を待っていては間に合いそうにないから、「どうせ向き合うなら早いうちから」と行動を起こしているのが、「N女」であると著者は分析する。

 結婚してもしていなくても、子どもがいてもいなくても、N女でも、N女でなくても、問題山積の未来が私たちを待っている。両手を広げて困難を受け止めるには、本書に取材されたN女たちのしなやかな考え方、問題への向き合い方は、きっと参考になるはずだ。

(保田夏子)

米ベストセラーとなった、名門大のレイプ事件のノンフィクションと、売れっ子女性クリエイターの“戦記”

 2017年には、正式にドナルド・トランプ大統領が生まれることになる。1つの転機を迎えたアメリカで、近年ベストセラーになった2冊を紹介したい。

■『ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度』(ジョン・クラカワー著・菅野楽章翻訳、亜紀書房)

missaula

 『ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度』は、10~12年に連続して明るみに出た、米名門大学の強豪アメフトチームに所属する男子学生たちが起こした複数のレイプ事件の深層を探ったノンフィクション。戦地取材の経験もあるジャーナリストが、長期にわたり関係者に綿密に取材し、全米でベストセラーとなっている。本作は、専門家への取材や、最新の統計研究にも触れることで、一般に持たれがちな「レイプ犯罪」に対する偏った認識を修正してくれる一冊でもある。

 近年米国では、大学生、特に入学したばかりの女子学生が高い確率でレイプ被害に遭っていることが「キャンパスレイプ」と呼ばれ、大きな社会問題になっている。これは日本で似たケースも見られるが、本書で取り上げられた事件は、少し事情が異なる。加害者とされた男子学生たちは、この地域のスターであり、シンボルのような存在でもあるモンタナ大学のアメフトチーム「グリズリーズ」のメンバーだった。

 同時期、同じ大学で起こったアジア系男性によるレイプ事件は、圧倒的に被害女性へ同情が寄せられた一方で、「グリズリーズ」メンバーの起こした事件は、地域やメディアを巻き込み、加害者が「守られている」ように見える。主な理由は、「彼らが、レイプするほど女性に不自由するはずがない」「女性はレイプされたとよく嘘をつく」「アルコールや薬物の入った若い男女の諍いである」といったものだ。

 本書には、女性がレイプをでっち上げた事件も含め、複数の事件が取り上げられている。その中で最も詳しく描かれた事件の加害者は、「グリズリーズ」の中でもスター的存在で、男女問わず人気があり、友人や家族から紳士的なスポーツマンだと思われていた。しかし一方で、過去にもレイプ未遂を起こし(男女含むグループが、彼の犯行を必死で止め、未遂となった)、自分の罪を認め、被害者に謝罪した後でも、周囲にはそのこと自体を隠し、「前から性交渉があり、合意の上だった」と平然と事実無根の中傷を続けるような一面もあったのだ。

 レイプ犯罪というと、“異性との関係をうまく築けない男性が、見知らぬ女性を襲う”というケースが、1つの典型のように思える。しかし、レイプの85%が顔見知りによる犯行で、加害者がモテそうなタイプであることも珍しくなく、そして、その被害のほとんどが届けられていないと推定されているデータを見れば、むしろ、本書に取り上げられたようなケースの方が典型的であるといえる。少数の“隠れレイピスト”が、訴えられないことを隠れみのに犯罪を繰り返すため、多数の被害者を生み出しているのが実情だ。

 米国女性の19.3%、男性の1.7%がレイプ被害を受けた経験があるという、米疾病予防センターの報告書を引きつつ、この犯罪における「女性の虚偽報告の高さ」を検証する研究も取り上げる。著者は、被害報告が虚偽である可能性が、特別に高いわけではないことを、データに基づいて淡々と示していく。本書での結論は、「レイプ被害者が話を信じてもらえないことで受けるダメージは、少なくとも、無実の男性がレイプで不当に訴えられて受けるダメージと同じ」「そして疑いなく、前者の方が後者よりもはるかに頻繁に起こっている」と書かれている。

 私がもし男性だったら、雰囲気で一夜を共にした女性に、後から唐突にレイプ被害を訴えられるのは怖いし、先に挙げたようなデータは、そんな悪意ある女性に都合が良いように思えるかもしれない。しかし、本書を読めば、女性がレイプ被害を訴えるメリットは、そう大きくはないことがわかる。PTSD(心的外傷後ストレス障害)にさいなまれ、周囲の中傷に耐えながら、次の被害者を生まないよう自身を奮い立たせている女性が多く存在する。そして、レイプ犯罪は、男性にとっても人ごととは言えない。本書では、“隠れレイピスト”は児童への虐待率が高いことも示されている。自分の子どもや恋人が、そして自分自身が被害に遭わないとはまったく言い切れないのだ。

 米国でも、また日本でも、表に出ているレイプ犯罪は氷山の一角で、その裾野には膨大な同様の犯罪、そしてグレーケースが眠っていることは想像に難くない。裁判に関わった市民陪審員は、著者の取材に“女性が死ぬまで抵抗すれば、レイプ事件は認められる”という趣旨の感想を漏らす。被害者が普通に生き延び、加害者には当たり前に罪を負わせられる世界になるまでの道のりの長さ、荷の重さを思うと暗澹たる気持ちになるが、一人ひとりがレイプ犯罪に対する正確な知識を持つことが、その道の荷物を少しずつ分け合うことにつながるのだと信じたい。

■『ありがちな女じゃない』(レナ・ダナム著・山崎まどか訳、河出書房新社)

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 その重い荷物を人一倍抱えながら、パワフルに歩いている女性の1人が、エッセイ『ありがちな女じゃない』の著者、レナ・ダナムだ。

 『ありがちな女じゃない』は、27歳で米誌「TIME」の“世界で最も影響力のある100人”に選ばれたレナ・ダナムによる初めてのエッセイ。13年、ドラマ『Girls/ガールズ』で脚本・監督・主演を務め、ゴールデン・グローブ賞(テレビの部)でミュージカル・コメディー部門の作品賞・主演女優賞を受賞した彼女は、日本での知名度はまだ高いとはいえないが、米国では若い世代を代表するクリエイターの1人として注目を集めている。

 そんな華やかな経歴を持つレナのエッセイは、9歳の時「高校卒業までは処女でいる」と誓いを立てたものの、19歳になるまで、その誓いが脅かされるような機会自体がなかったという、地味な話から始まる。大学を卒業しても定職に就かず、何の展望もないまま「成功したい」と野心だけを持て余していた時期の焦燥、太りすぎてマタニティウェアしか着られるものがなかったこと、ダイエットと摂食障害、映画監督としてハリウッドデビューして出会った業界のおじさんたち(レナいわく“若いエキス吸い取りじじい”)に認められたくて消耗したことなど、順風満帆にキャリアを積んでいるように見える彼女の、格好いいとはいえないエピソードが、適度なユーモアと品のなさで痛快に語られている。

 本書が、単なる才能あふれる成功した女性のありがちなエッセイに終わらないのは、自分の失敗や黒歴史、みっともない動揺を、自虐でもなく、「自分の一部」としてカラッと振り返っているところだ。親しい女友達に明かすような語り口で、イケてない初体験を語るレナにつられて、読者も彼女と会話するように、普段は忘れている恥ずかしい行動、恥ずかしい経験を記憶の底から取り出し、ほとんどの記憶は笑い飛ばすことができるだろう。

 基本的にはユーモアたっぷりに、軽快につづられる本書だが、笑い飛ばせない過去については、真剣に振り返る。学生時代、彼女が顔見知りから受けたキャンパス・レイプと、その後遺症について語った「バリー」の章も、その1つだ。

 被害を受けたとき酩酊状態だったレナは、『ミズーラ』でレポートされた被害者と同じように、「自身の経験はレイプと呼ぶほどではない」「たいしたことではない」と自分に言い聞かせ、笑い話として扱おうとしていた。しかし、大人になった彼女は、友人や恋人との会話をきっかけに、その経験でどんなに傷ついていたかを初めて自覚することになる。おそらく米国でも、本章で書かれたことが、レイプかどうかについては意見が分かれるところだろう。それでも、「第三者からどう思われても、自分はその経験で傷ついている」という事実を受け入れることの大切さに気付かされる。

 レナが「この本はそんな私が戦う最前線からお届けする、希望に満ちた緊急メッセージなの」と書くように、『ありがちな女じゃない』は、少女時代から現在に至るまで、人一倍たくさんのものと戦ってきた現代女性の戦記だ。全戦全勝ではない、立ち直れないと思えるほどの経験もオープンにした彼女の言葉の端々から感じられるのは、自慢や自虐ではない。多かれ少なかれ、同じような壁にぶつかる同世代の女性たちに向けた、「何回負けても、そして負けたことを認めても、自分が駄目になるわけではない」というメッセージだ。そのエールは、海を越えて私たちにも届く。日本で生きる女性たちが歩む道も明るくし、勇気づけてくれるだろう。
(保田夏子)

米ベストセラーとなった、名門大のレイプ事件のノンフィクションと、売れっ子女性クリエイターの“戦記”

 2017年には、正式にドナルド・トランプ大統領が生まれることになる。1つの転機を迎えたアメリカで、近年ベストセラーになった2冊を紹介したい。

■『ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度』(ジョン・クラカワー著・菅野楽章翻訳、亜紀書房)

missaula

 『ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度』は、10~12年に連続して明るみに出た、米名門大学の強豪アメフトチームに所属する男子学生たちが起こした複数のレイプ事件の深層を探ったノンフィクション。戦地取材の経験もあるジャーナリストが、長期にわたり関係者に綿密に取材し、全米でベストセラーとなっている。本作は、専門家への取材や、最新の統計研究にも触れることで、一般に持たれがちな「レイプ犯罪」に対する偏った認識を修正してくれる一冊でもある。

 近年米国では、大学生、特に入学したばかりの女子学生が高い確率でレイプ被害に遭っていることが「キャンパスレイプ」と呼ばれ、大きな社会問題になっている。これは日本で似たケースも見られるが、本書で取り上げられた事件は、少し事情が異なる。加害者とされた男子学生たちは、この地域のスターであり、シンボルのような存在でもあるモンタナ大学のアメフトチーム「グリズリーズ」のメンバーだった。

 同時期、同じ大学で起こったアジア系男性によるレイプ事件は、圧倒的に被害女性へ同情が寄せられた一方で、「グリズリーズ」メンバーの起こした事件は、地域やメディアを巻き込み、加害者が「守られている」ように見える。主な理由は、「彼らが、レイプするほど女性に不自由するはずがない」「女性はレイプされたとよく嘘をつく」「アルコールや薬物の入った若い男女の諍いである」といったものだ。

 本書には、女性がレイプをでっち上げた事件も含め、複数の事件が取り上げられている。その中で最も詳しく描かれた事件の加害者は、「グリズリーズ」の中でもスター的存在で、男女問わず人気があり、友人や家族から紳士的なスポーツマンだと思われていた。しかし一方で、過去にもレイプ未遂を起こし(男女含むグループが、彼の犯行を必死で止め、未遂となった)、自分の罪を認め、被害者に謝罪した後でも、周囲にはそのこと自体を隠し、「前から性交渉があり、合意の上だった」と平然と事実無根の中傷を続けるような一面もあったのだ。

 レイプ犯罪というと、“異性との関係をうまく築けない男性が、見知らぬ女性を襲う”というケースが、1つの典型のように思える。しかし、レイプの85%が顔見知りによる犯行で、加害者がモテそうなタイプであることも珍しくなく、そして、その被害のほとんどが届けられていないと推定されているデータを見れば、むしろ、本書に取り上げられたようなケースの方が典型的であるといえる。少数の“隠れレイピスト”が、訴えられないことを隠れみのに犯罪を繰り返すため、多数の被害者を生み出しているのが実情だ。

 米国女性の19.3%、男性の1.7%がレイプ被害を受けた経験があるという、米疾病予防センターの報告書を引きつつ、この犯罪における「女性の虚偽報告の高さ」を検証する研究も取り上げる。著者は、被害報告が虚偽である可能性が、特別に高いわけではないことを、データに基づいて淡々と示していく。本書での結論は、「レイプ被害者が話を信じてもらえないことで受けるダメージは、少なくとも、無実の男性がレイプで不当に訴えられて受けるダメージと同じ」「そして疑いなく、前者の方が後者よりもはるかに頻繁に起こっている」と書かれている。

 私がもし男性だったら、雰囲気で一夜を共にした女性に、後から唐突にレイプ被害を訴えられるのは怖いし、先に挙げたようなデータは、そんな悪意ある女性に都合が良いように思えるかもしれない。しかし、本書を読めば、女性がレイプ被害を訴えるメリットは、そう大きくはないことがわかる。PTSD(心的外傷後ストレス障害)にさいなまれ、周囲の中傷に耐えながら、次の被害者を生まないよう自身を奮い立たせている女性が多く存在する。そして、レイプ犯罪は、男性にとっても人ごととは言えない。本書では、“隠れレイピスト”は児童への虐待率が高いことも示されている。自分の子どもや恋人が、そして自分自身が被害に遭わないとはまったく言い切れないのだ。

 米国でも、また日本でも、表に出ているレイプ犯罪は氷山の一角で、その裾野には膨大な同様の犯罪、そしてグレーケースが眠っていることは想像に難くない。裁判に関わった市民陪審員は、著者の取材に“女性が死ぬまで抵抗すれば、レイプ事件は認められる”という趣旨の感想を漏らす。被害者が普通に生き延び、加害者には当たり前に罪を負わせられる世界になるまでの道のりの長さ、荷の重さを思うと暗澹たる気持ちになるが、一人ひとりがレイプ犯罪に対する正確な知識を持つことが、その道の荷物を少しずつ分け合うことにつながるのだと信じたい。

■『ありがちな女じゃない』(レナ・ダナム著・山崎まどか訳、河出書房新社)

arigachinaonn

 その重い荷物を人一倍抱えながら、パワフルに歩いている女性の1人が、エッセイ『ありがちな女じゃない』の著者、レナ・ダナムだ。

 『ありがちな女じゃない』は、27歳で米誌「TIME」の“世界で最も影響力のある100人”に選ばれたレナ・ダナムによる初めてのエッセイ。13年、ドラマ『Girls/ガールズ』で脚本・監督・主演を務め、ゴールデン・グローブ賞(テレビの部)でミュージカル・コメディー部門の作品賞・主演女優賞を受賞した彼女は、日本での知名度はまだ高いとはいえないが、米国では若い世代を代表するクリエイターの1人として注目を集めている。

 そんな華やかな経歴を持つレナのエッセイは、9歳の時「高校卒業までは処女でいる」と誓いを立てたものの、19歳になるまで、その誓いが脅かされるような機会自体がなかったという、地味な話から始まる。大学を卒業しても定職に就かず、何の展望もないまま「成功したい」と野心だけを持て余していた時期の焦燥、太りすぎてマタニティウェアしか着られるものがなかったこと、ダイエットと摂食障害、映画監督としてハリウッドデビューして出会った業界のおじさんたち(レナいわく“若いエキス吸い取りじじい”)に認められたくて消耗したことなど、順風満帆にキャリアを積んでいるように見える彼女の、格好いいとはいえないエピソードが、適度なユーモアと品のなさで痛快に語られている。

 本書が、単なる才能あふれる成功した女性のありがちなエッセイに終わらないのは、自分の失敗や黒歴史、みっともない動揺を、自虐でもなく、「自分の一部」としてカラッと振り返っているところだ。親しい女友達に明かすような語り口で、イケてない初体験を語るレナにつられて、読者も彼女と会話するように、普段は忘れている恥ずかしい行動、恥ずかしい経験を記憶の底から取り出し、ほとんどの記憶は笑い飛ばすことができるだろう。

 基本的にはユーモアたっぷりに、軽快につづられる本書だが、笑い飛ばせない過去については、真剣に振り返る。学生時代、彼女が顔見知りから受けたキャンパス・レイプと、その後遺症について語った「バリー」の章も、その1つだ。

 被害を受けたとき酩酊状態だったレナは、『ミズーラ』でレポートされた被害者と同じように、「自身の経験はレイプと呼ぶほどではない」「たいしたことではない」と自分に言い聞かせ、笑い話として扱おうとしていた。しかし、大人になった彼女は、友人や恋人との会話をきっかけに、その経験でどんなに傷ついていたかを初めて自覚することになる。おそらく米国でも、本章で書かれたことが、レイプかどうかについては意見が分かれるところだろう。それでも、「第三者からどう思われても、自分はその経験で傷ついている」という事実を受け入れることの大切さに気付かされる。

 レナが「この本はそんな私が戦う最前線からお届けする、希望に満ちた緊急メッセージなの」と書くように、『ありがちな女じゃない』は、少女時代から現在に至るまで、人一倍たくさんのものと戦ってきた現代女性の戦記だ。全戦全勝ではない、立ち直れないと思えるほどの経験もオープンにした彼女の言葉の端々から感じられるのは、自慢や自虐ではない。多かれ少なかれ、同じような壁にぶつかる同世代の女性たちに向けた、「何回負けても、そして負けたことを認めても、自分が駄目になるわけではない」というメッセージだ。そのエールは、海を越えて私たちにも届く。日本で生きる女性たちが歩む道も明るくし、勇気づけてくれるだろう。
(保田夏子)

田中カツやキュリー夫人ら“偉人”のイメージに隠れた、人間臭い真の魅力に迫る

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン(サイ女)読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します!

■『小説 田中カツ』(渡辺順子、随想舎)

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 「足尾鉱毒事件」や「田中正造」という単語は広く知られているが、その妻のことを知る人は少ない。『小説 田中カツ』は、現代に残された手紙や日記、関係者への聞き込みから、正造の妻・カツをはじめとする、足尾鉱毒事件に関わった“明治の女”たちの生涯を描き出した小説だ。

 「明治の女」と聞いて浮かぶのは、江戸時代からの風習を引きずり、夫や家族につき従う「旧(ふる)い女」か、平塚らいてうに代表される、女性の人権を訴える「新しい女」の両極端だろう。そして、カツの生涯は、その表層をなぞれば、献身的に夫に尽くした前者のタイプと見る人が多いかもしれない。

 評判の美少女で、正造に熱心に口説かれるまま、15歳で田中家に嫁いだカツ。村の名主の跡取りとして生まれた正造は、その人生のほとんどを足尾鉱毒事件の被害者たちに捧げている。衆議院議員として全国から支援を募り、資金や食物、自宅、さらにはその時着ているものまで、片っ端から農民に渡していた正造。死後には神として祀られるほど尊敬される一方で、癇が強く、強情で、妻には特に厳しく当たる正造は、当時の価値観から見ても“一般的な良き夫”とは言い難かった。しかし、結婚当初こそ正造に傷つけられたカツだが、その信念の理解者となり、家を仕切りながら、夫の指示のまま被災地を巡る支援活動に身を投じるようになる。

 そんなカツを、「夫に献身的に尽くした女性」と見ることもできるが、本書からは、単なる耐え忍ぶ女性像にはとどまらない彼女の姿も浮かび上がってくる。

 正造が選挙に立った際には積極的に票を読み、親から結婚を反対されている女性を助けるために正造を動かし、夫の知らないところで経済的にも自立するすべを心得た彼女の生涯は、「夫に尽くした」という言葉に収まらない生命力と才覚にあふれているように見える。正造の死後、裁判を引き継いで決着に尽力したカツは、晩年も地域の住民から慕われ、穏やかに暮らし、臨終の際には部屋に入りきらないほどの見舞い客が集まった。その人生は、ただ忍んでいただけでは味わえない豊かなものだろう。

 そして、本書ではカツだけではなく、足尾鉱毒事件に関わり、闘うことを決めた女性、闘わざるを得なかった女性たちの半生も詳しく描かれている。

 本書に登場する女性のほとんどは、30代、40代、50代以上だ。鉱毒事件の被害を訴えるため上京し、一軒家で共同生活する女性たちの生き生きとした姿や、被災地で1人、あばらやのような小屋で生きていくことを決めた老女。両親の意向で最先端の教育を施され、新聞記者として活躍する女性もいれば、DV夫から逃げ出したことで非難されつつ、社会活動に身を投じる女性もいる。そのどの人生も、単純に「旧い女」「新しい女」とは分けられない、それぞれの道だ。

 ほぼ同時代に生まれた彼女たちの生涯を俯瞰することで明らかになるのは、生まれたときの家庭環境や教育、地域の価値観が、その後の人生を左右し、自ら解こうとしない限り、知らず知らずのうちに縛られているということ。それは、明治時代にかかわらず、現代でも同様だろう。人は生まれてくる環境を選べない。それでも、置かれた境遇に絶望せず、自らの生きる道を選択して闘ったあまたの明治の女たちの姿が、「夢」や「希望」にはない泥臭さで、活力を感じさせてくれる。

■『改訂 マリー・キュリーの挑戦 ―科学・ジェンダー・戦争』(川島慶子、トランスビュー)
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 “偉人伝”の中で定番として挙げられる女性の1人、日本でもなじみ深いキュリー夫人(マリー・キュリー)。田中カツや正造が生きた時代と、彼女がソルボンヌ大学(パリ大学)初の女性教授になり、史上初めて2度目のノーベル賞を受賞した時代は、ほぼ同時期だ。

 本書は、科学史研究者である川島慶子氏による、科学者“キュリー夫人”ではない、1人の「マリー・キュリー」という女性像を、さまざまな資料から探り、再解釈を試みる評伝。著者自身が、「子どものころは優等生のイメージがあるキュリー夫人より、自由なアインシュタインのほうに惹かれていた」と語る通り、キュリー夫人には、偉大な科学者でありながら妻としての役割も果たし、夫婦協力して科学の発展に努めた“優等生”のイメージが強い。しかし実際は、「優等生キュリー夫人 対 ユニークな天才アインシュタイン」という、一般的に広まるイメージこそすでにバイアスがかかっているものだと著者は分析する。

 さまざまな角度からマリー・キュリーのエピソードが語られる本書では、マリーの娘が執筆した「キュリー夫人伝」には書かれていない、夫の死後の恋愛についても触れられている。年下の既婚男性と不倫関係が疑われたことで、ゴシップ誌の格好の餌食になってしまったマリー・キュリー。男性は妻と別居し、離婚裁判中だったといわれるが、宗教や移民問題で外国人排斥の風潮が高まっていた当時のフランスで、彼女が「善良なフランス家庭を壊した外国人女」として、過剰なバッシングの対象になってしまった歴史的な背景も解説する。

 そして本書では、山田延男や湯浅年子といった、マリー・キュリーの下で研究を続けた日本人研究者の生涯や功績も詳しく語られている。異文化での研究生活に大きな刺激を受けた湯浅は、後に初めて戦後フランスで正式に職を得た日本人女性となり、その後も日仏をつなぐ役目を果たす。マリー・キュリーのような歴史上の偉人、遠い国の史実として触れていた人々の息吹が、時を超えて現代の日本にもつながっていることを感じさせてくれる。

■『マリー・アントワネットの嘘』(惣領冬実・ 塚田有那、講談社)

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 『マリー・アントワネットの嘘』は、ベルサイユ宮殿の総監修・フルサポートの下で作られた惣領冬実氏によるコミック『マリー・アントワネット』(同)出版と連動して作成された、フランス革命史実を再検証するノンフィクションだ。

 不細工で気弱な国王、欲求不満でフェルセンと密通した贅沢ざんまいの王妃……。当時のフランス市民の間でやゆされ、20世紀に世界的なベストセラーとなったツヴァイク版の小説でも定着した(さらに日本では池田理代子氏による漫画『ベルサイユのばら』でより広く定着した)フランス王・王妃のイメージは、どこまで信頼が置けるのか。これらの小説や漫画の出版後に明らかになった最新資料を踏まえ、徹底的に解説する。

「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」という王妃の発言や、国王と王妃との間に、長い間性交渉がなかったとされる定説を大胆に否定しながら、歴史が、時により市民の面白い方へ歪曲されてしまう仕組みも分析してくれる。

 2世紀以上の時代を経た今、本当の意味でどれだけ正しいのか確かめることは難しい。しかし、史実との矛盾点を解説し、虚像と資料のギャップを埋めていく経過を明らかにしてくれる本書は、漫画を読んでいなくても、痛快な歴史読み物として十分楽しむことができる。

 もちろん、惣領氏へのインタビューや萩尾望都氏との対談なども収録され、漫画のファンであればさらに深く読み込める一冊。惣領氏が描きだす、『ベルばら』とは異なる新しいマリー・アントワネット像が、今後は定着していくのかもしれない。
(保田夏子)