『南極ではたらく』レビュー:「中年女性」や「キャリアブランク」を生かした著者の強さ

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――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

『南極ではたらく:かあちゃん、調理隊員になる』(渡貫淳子、平凡社)

■概要

 映画『南極料理人』(2009)で、南極で働く人々の姿に刺激を受け、「ここで働きたい! この人たちのごはんを作りたい!」と決意した調理師・渡貫淳子。3度目の応募で合格し、民間人女性初の女性調理隊員として、第57次南極地域観測隊に参加した2年弱を中心に、著者の半生をつづったエッセイ。バラエティー番組『世界一受けたい授業』(日本テレビ系)で紹介され、大きな反響を呼んだ「悪魔のおにぎり」などの「家庭で作れる南極リメイクレシピ」も掲載。

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 『南極ではたらく』は、30代半ばで「南極で働きたい!」と大きな目標を見つけ、40代で実現した女性の明るいパワーに満ちた“お仕事エッセイ”だ。

 約1年間、南極圏内の昭和基地で、研究や観測・設備維持を行う南極地域観測隊(越冬隊)。著者が所属した「第57次南極地域観測隊」は30人、平均年齢40歳超。1年間、食糧や機材などの補給が入ることはなく、主にひとつの施設で30人が暮らすことになる。水や電気などライフラインの使用には制限があり、天候によっては外出もできない。厳しい自然環境下、わずかな判断ミスがチーム全体の生死を左右する、責任の重いプロジェクトだ。

 調理関係の職に就き、結婚・出産後は一度職を離れ、一児の母として暮らしていた渡貫氏は、なにげなく見た新聞記事や映画『南極料理人』をきっかけに、南極での「調理隊員」という仕事に強く惹きつけられる。「自分の心の中に一滴、しずくが落ちたような気がした」と、出会いはまるで少女マンガで描かれる恋のようだが、彼女の行動は現実的で迅速だった。

 SNSを通じて人脈を得て、調理隊員経験者に自身をしっかりプレゼンし、推薦状をもらう。体力勝負の職務であり、現実的に40代という年齢や性別は不利に働くというアドバイスを受けるも、3度目の応募で合格。民間人女性として、そして母親として初の調理隊員となり「第57次南極地域観測隊」に所属することになる。

 極地での勤務がどれだけ特殊かは想像することは難しいが、“調理師”という比較的身近な役割を通して描かれることで、わかりやすく伝わってくる。基地の厨房で毎日3食プラス間食・夜食の調理が仕事ではなく、出発前には2,000品目、30トンという約1年分の使用計画を立て、仕入れを行う能力が求められる。赴任後は、雪上車内や、直前まで凍っていた基地外の小屋で料理することもある。さらに夏期には、建物の本格的な修繕も担当し、1年を通して、雪かきや雪上車の運転など、調理以外の作業にも加わる。

 南極ならではの不便さや隊員とのけんか、失敗経験なども語られるが、調理隊員を務めている時の渡貫氏の筆致は、基本的にどの局面でも生き生きとして、ユーモアに満ちている。それは彼女の目に映るほかの隊員の様子も同様で、エッセイのそこかしこに心からやりたい仕事をやっている人特有の充実感がちりばめられている。

 本書の帯には「平凡な主婦」と書かれている主婦だが、専門教育を受け、料理学校職員・講師を経験するなど、そもそも調理師として十分な実力があったからこそ合格したのは間違いないだろう。しかし著者自身は、「ごはんを作ったり、洗濯ものをたたんだり、子どもにお小言を言ったりといった日常は、平凡でなんてことのない毎日かもしれません。(略)でも、そのなんてことのない日常こそが自分のスキルになっていたと気が付いたのも南極でした」と、南極越冬隊という特殊な環境下で、主婦・母親としての平凡なスキルが自分を支えていたと語る。

 大学教授、建設技術員など異なるバックグラウンドを持った人々が、基本的には対等に協力し、寝食を共にする1年間。上下関係に頼らず、価値観や性格が合わない人とも、粘り強くコミュニケーションをとる能力は、仕事だけをこなしているより、主婦業や育児を通して、より培われやすいものなのかもしれない。

 加えて、女性隊員の中でも最年長であり、唯一の育児経験者だった渡貫氏が、男女隊員の間で言いにくいことを伝える架け橋のような役目を果たしている様子もうかがえる。女性であること、中年であること、出産・育児でキャリアにブランクがあること。それらはデメリットとして取り上げられがちだが、キレイごとではなく表裏一体のメリットもあるのだ。

 年齢や環境を言い訳にせず、むしろ糧にして、「これをやりたい」という意志をまっすぐに実現させた渡貫氏の姿はすがすがしく、単純にとても格好良い。「主婦であるからとやりたいことを我慢するのも違うなと思うようになった」とつづる彼女のエッセイの、まっとうな明るさに力づけられる人は多いだろう。

(保田夏子)

『あちらにいる鬼』レビュー:誰にも理解されない「一筋縄ではいかぬ男への恋慕」が結びつけた、妻と愛人の数奇な友情

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■『あちらにいる鬼』(井上荒野、朝日新聞出版)

■概要

 2008年には『切羽へ』(新潮社)で直木賞を、18年には『その話は今日はやめておきましょう』(毎日新聞出版)で織田作之助賞を受賞するなど、多様な作風で実績を残す作家・井上荒野。彼女の最新刊『あちらにいる鬼』は、男性小説家とその妻、小説家の愛人を描いた長編小説だ。自身の父であり芥川賞作家である井上光晴と母、父と不倫関係にあった瀬戸内寂聴がモデルになっていることで、大きな反響を呼んでいる。

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「作者の父井上光晴と、私の不倫が始まった時、作者は五歳だった」

 寂聴から寄せられた異色の帯文が目を引く本作は、著者の父母と、父の愛人だった寂聴の関係をフィクションに昇華した小説だ。作中に登場する小説家・白木篤郎は明らかに光晴で、篤郎の愛人・みはる(出家後は寂光)は、寂聴そのままだ。そう聞いてしまうと、よその家庭のゴシップをのぞくような下世話な好奇心を携えて本を開かざるを得ないのだが、本作で淡々と描かれているのは、人生の華として扱われがちな恋愛の、重くて鬱々とする側面だ。

 「戦後派」を代表する作家・篤郎は、妻子がいるのに、好みの女性を見つけたら口説かずにはいられない、そしてそのことを妻に無意識に伝えずにはいられない、どうしようもない男だ。美しく、プロのような料理の腕前をもち、篤郎の仕事の助手でもある、妻として非の打ちどころのない笙子(しょうこ)は、そんな夫にあきれつつも、数カ月単位で恋人を替える夫の行状に知らぬふりを続けていた。そんな中、仕事の旅行で篤郎と出会った流行作家・みはるは、彼に引かれ、関係を持つようになる。作家の師弟としても結びついた2人は、これまで篤郎がカジュアルに繰り返してきた恋愛とは異なる、深い関係を紡ぎだす。数年の交際ののち、恋愛の行き着く先に死を感じたみはるは、生き抜くために出家を決める。出家という反則技で無理やり恋愛関係を断ち切りつつ、友人として篤郎をつなぎ留めたみはる(寂光)に羨望を覚えた笙子は、寂光と友情のような関係を作り上げていく――。

 笙子とみはる、交互に替わる2人の女性の視点を通して、約半世紀にわたる3人のもつれた関係が浮かび上がる本作。全編を通して際立っているのは、まず、白木篤郎という男の一筋縄ではいかない姿だ。

 小説に真摯に向き合い、社会の不均衡のせいで報われない人々に心底心を痛め、自費を投ってまで地方の人々の啓発に心を砕き、幼い娘たちが大人になることに思いを馳せて涙ぐむ。そんな純粋な優しさや情熱と表裏一体で、女性にだらしなく、女を口説いては捨てることをやめられない。流産させられたことで自殺を図った女への見舞いに妻を遣り、自分はその妹と付き合い始める。口説いている女たちを、寂光の自宅に連れてくる。都合が悪くなれば、子どもがつくようなウソでその場をしのぐ。ウソをついているうちに本人も真実と信じ込んでしまうため、周囲が否定すると怒りだしてしまう。

 そんなでたらめな男に本気で呆れているのに、笙子も寂光も結局死ぬまで篤郎を手放さない。2人の目に映る篤郎は、ウソも優しさも同じぐらいの熱量で吐き出す厄介な男だ。他の誰にも理解されない矛盾した篤郎への理解と恋情が、笙子と寂光の間では共有できたからこそ、篤郎の死後も2人の交流が静かに続いていくのだろう。

 本作冒頭から最後の一文まで貫かれているひとつのテーマは、一旦とらわれてしまえば理屈も通らない、恋愛の不可思議な一面だ。3人とも初めての恋でもないのに、それぞれの恋に人生を大きく翻弄され、執着から逃れられない様子は、はたから見ればまるで病のようだ。実際、本作の中では、恋と病はほぼ同様に描かれている。

 終盤、長年数多の“浮気”と“本気”を黙認してきた笙子が、篤郎の軽い浮気に「どうして今許せないのかわからないまま」初めて強烈な嫉妬を爆発させる。それは、自覚症状はないものの、篤郎ががんに侵され始めたタイミングだった。さらに、寂光の視点ではより端的に、「白木がわたしから離れていく。(略)病気はあたらしい女みたいに、彼に寄り添っていた」と示される。ふたりにとって篤郎の病が彼の新しい恋愛のように映るのは、3人の長く深く絡み合った恋愛関係自体が病である、という著者からの示唆のようにも見える。

 篤郎の死後、笙子自身の希望で、寂光が住職を務める寺に篤郎の墓がつくられ、笙子も共に入ることになる。そして、現実でも、井上夫妻の遺骨は、寂聴が住職を務める天台寺に納められている。「誰にもわかりはしないのだ」「好きなように推測すればいい」――寂光の独白通り、3人の誰より近いところで見てきた荒野が推測を昇華させた本作は、ずっしりとした読みごたえを残す一冊だ。
(保田夏子)

『少女まんがは吸血鬼でできている』レビュー:中世への憧れとBL的世界が詰まった“吸血鬼ジャンル”を徹底分析

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■『少女まんがは吸血鬼でできている 古典バンパイア・コミックガイド』(中野純・大井夏代、方丈社)

■概要

 私設図書館「少女まんが館」共同館主である中野純・大井夏代夫妻による、「吸血鬼ジャンル」に特化した少女まんがガイドブック。名作吸血鬼まんが『ポーの一族』(萩尾望都、小学館)をはじめとした1950~70年代の古典少女まんがを中心に、終戦直後の少女雑誌の「よみもの」から現代の人気作まで総ざらいし、吸血鬼ジャンルの特有の魅力を徹底的に紹介してくれる1冊。ほぼすべての作品がカラー画像で収録されている。

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 女子高校生と神秘的な雰囲気をまとった美形ヴァンパイアの恋を描いた映画『トワイライト』シリーズが、アメリカを中心に爆発的ヒット作となったのは約10年前。この作品を見た人々の中で、日本の少女まんがに親しんできた人の多くが思ったであろう、「なんか……少女まんがっぽい!!」。本格的なバトルシーンなど独自の魅力を備えている作品だが、その設定やキャラクターの雰囲気に、過去に親しんだ華やかな空気を感覚的に嗅ぎ取った人は多いのではないだろうか。

 そんな感覚に最も熱く共感してくれるのが、中野純・大井夏代夫妻かもしれない。少女まんが研究家であり、「少女まんが館」を運営する2人が著した『少女まんがは吸血鬼でできている』は、タイトル通り、少女まんがの“定番”である「吸血鬼モノ」を収集し、ほぼすべての作品にカラー写真と丁寧なレビューを添えた完全ガイドブックだ。

 『リボンの騎士』(手塚治虫、講談社)や『ベルサイユのばら』(池田理代子、集英社)、『キャンディ・キャンディ』(水木杏子・原作、いがらしゆみこ・画、講談社)が少女まんが界の「健全な名作」として君臨するなら、吸血鬼モノは少女まんがの「不健全な名作」として、「実は少女まんがの黄金時代を築いてきた陰の立役者」ではないかという考察のもと、吸血鬼まんがの歴史をひもといていく。

 人気シリーズものである『ポーの一族』、『夢の碑(いしぶみ)』(木原敏江、小学館)、『最終戦争』シリーズ(山田ミネコ、白泉社ほか)などの長編については、1シリーズごとにレビューと考察を加え、それぞれの作品がその後にどのような影響を与えたかを解説する。

 さらに、「少女まんがに吸血鬼が初めて登場した作品かもしれない」という横山光輝の『紅こうもり』。そこから始まる50~70年代の作品群については、雑誌掲載の読み切り作品や、『ガラスの仮面』(美内すずえ、白泉社)の「カーミラの肖像」などの作中作に至るまで徹底的に押さえられ、80年代以降も『ときめきトゥナイト』(池野恋、集英社)や『トランシルヴァニア・アップル』(樹なつみ、白泉社)、さらには『黒薔薇アリス』(水城せとな、秋田書店)といった近年の作品まで、代表的な作品が取り上げられている。

 膨大な作品リストに圧倒されるが、間に差し挟まれる著者によるコラムによって、さらに吸血鬼まんがへの理解が深まる。ホラーにも純愛ものにもなり、少女が憧れる中世ヨーロッパの雰囲気をたたえ、適度に性行為を連想させる吸血行為や絶対的な弱点によってドラマが作りやすく、BL的世界観とも合致――。そんな数多くの要素が絡み合って、少女たちに熱狂的に受け入れられる奥深いジャンルとなり得たことがわかる。

 さらには、少年まんがにおける吸血鬼モノとの比較、少女まんが誌の前身ともいえる20~40年代の少女雑誌の「よみもの」として掲載されていた吸血鬼譚など、周辺ジャンルまで幅広く押さえ解説している。少女まんが好きはもちろん、そうでなくても十分に楽しめる充実の内容だ。

(保田夏子)

『<女流>放談』レビュー:異なる時代を生きた11人の作家の“生の声”によって見えてくる、「女」の変遷

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■『<女流>放談――昭和を生きた女性作家たち』(イルメラ・日地谷=キルシュネライト、岩波書店)

■概要

 1982年当時、駆け出しの日本文学研究者であったドイツ人女性が日本の女性作家に取材したまま非公開となっていたインタビュー集。それが、約36年もの時を経て『<女流>放談――昭和を生きた女性作家たち』として刊行された。生年順に11人の女性作家を「明治生まれの先駆者たち」(佐多稲子、円地文子)、「『戦中派』の戦後」(河野多惠子、石牟礼道子、田辺聖子、三枝和子、大庭みな子、戸川昌子)、「『戦後派』の憂鬱」(津島佑子、金井美恵子、中山千夏)と3つのタームに分けて収録している。金井、中山が改めてメッセージを寄せているほか、特別編として2018年に行われた瀬戸内寂聴へのインタビューも収録。

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 私たちを取り巻く社会情勢、価値観は、ここ100年足らずのうちに急速に変遷し、今も変わり続けている。当たり前ではあるが、当たり前すぎて普段意識することはない、近代の歴史の変遷を実感させられるインタビュー集が同作だ。

 今現在も第一線で活躍する金井、芥川賞をはじめとする数々の文学賞を受賞している人気作家・田辺、政治家としても存在感を見せた中山、女性として初めて芥川賞の選考委員を務めた大庭と河野――。1982年に、日本文学研究者であるドイツ人女性イルメラ・日地谷=キルシュネライトが、近現代の日本文学を語る上でも欠かせない10数名の女性作家に取材したものの、さまざまな事情で邦訳公開されることのないまま30年以上眠っていたインタビューが、イルメラの友人で詩人・伊藤比呂美による働きかけをきっかけに、昨年末に出版された。

 学位を取ったばかりの若いイルメラが、はるばるドイツから来日し、当時活躍していた人気女性作家たちに公衆電話で直接アポイントを入れ、自宅や仕事場に飛び込むようなかたちで敢行されたインタビュー取材(一部は84年・88年取材)。インタビュアーの並々ならぬ熱意に応えるように、作家たちも、小説論のみならずジェンダー観や敗戦した日本で小説が果たす役割について語っている。シビアな質問にも率直に答え、時に取材の域を超えて、友人との会話のように活発に意見を交わしている。

 本書の魅力の1つは、インタビューに答える作家たちの、それぞれの人間味が垣間見える点だ。特に、出版前に故人となってしまった8人のインタビューについては、「原則として音声から起こしたままの記録」となっている。そのためか、取材の導入に当たるなにげないあいさつや、本題からそれた話題、インタビュー中に訪れた隣人との話など、通常のインタビュー記事には掲載されない言葉もつぶさに書き起こされており、今はもう聞くことのできない、作家たちの“生の声”をすぐそばで耳にしているような、貴重な資料となっている。

 そしてもう1つの魅力は、イルメラが全員に共通して「女性の作家としての役目」を主軸に質問を投げかけていることで、当時のジェンダー観のバリエーション、世代による変遷がうかがえることだ。

 イルメラは、さまざまな質問を駆使して、「女流作家」という言葉への違和感、そして単純に女性であることの不公平を炙り出そうとしている。その中で語られる彼女らの境遇を追っていけば、今から100年ほど前には、全く異なる風景だったことに気づかされる。女性は高度教育を受ける資格を得られなかった80年前、貧しければ口減らしに娘だけ家を出された70年前、男性と同様の教育は受けられるものの就職する資格は得られない40年前。そんな中で複数の作家が、上の世代が闘ってくれたから「私たちはかなり楽」と述べ、さらに恵まれるであろう将来を見据えて、後世を生きる女性に期待を懸けている。

 本書を通して読めば、ジェンダー観、人の生き方に対する多様性は、ここ100年足らずの間に急速に更新を重ね続けていて、どのような経緯で今に至っているのか、その潮流の一筋を感じることができる。その時代がまとっていた精神の変遷を、「女性作家へのインタビュー」という1つの軸を通すことで、彼女たちと共に駆け抜けたような爽快感も味わえるのだ。

 また、本書には、イルメラのエッセイとして、当時の日本・欧州の時代背景についての補足、各作家の意見のまとめ、インタビューしたものの収録がかなわなかったという森茉莉、有吉佐和子らの取材時を振り返ったエピソードが収録され、さらに80年代当時は取材時間が取れなかった瀬戸内の2018年版インタビューまで加えられている。

 イルメラは、女性作家たちの発言と現代の状況を照らし合わせながら、「過去を知ることによって、初めて現在をも把握できる」と自身のエッセイを結ぶ。平成も区切りを迎える今だからこそ、本書は特に女性にとって、自分が今立っている場所を知るために有効な、貴重な1冊になるだろう。

(保田夏子)

暴食の醍醐味、硬い食べ物への偏愛……“おいしい”だけじゃない食べ物の魅力をつづった『わるい食べ物』

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■『わるい食べもの』(千早茜/ホーム社)

■概要

デビュー作『魚神(いおがみ)』(集英社)で、小説すばる新人賞と泉鏡花文学賞をダブル受賞し、直木賞にも複数回ノミネートされている注目の小説家・千早茜による、初のエッセイ集。世の中に氾濫する「いい食べ物」を横目に、糖質たっぷりの食事への思い入れや、食にまつわる幼少期の思い出、食をめぐる常識への疑問など、さまざまな角度から「食べること」をテーマにした41編が収録されている。

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 世の中に、「いい食べ物」についての本はあふれている。おいしいレストランを教えてくれるガイド本や健康にいい食材や調理について書かれた本――。小説家・千早茜がつづった『わるい食べもの』は、“食べること”についての思い入れを語るエッセイだが、タイトルから察せられる通り、「いい食べ物」についての話ばかりではない。序文に「おいしいものしか食べたことがない、という人がいたら相当の幸せ者だろう。たいていの人は『おいしい』の裏にある膨大な『まあまあ』や『まずい』や『うまくもまずくもない』を経験して生きている」とある通り、特別ではない日常食への愛から、おいしいというわけではない食事の思い出、体の毒になる暴食の醍醐味まで、「食」というジャンル自体を表も裏も味わい尽くすようなエピソードが詰まっている。

 本作で一貫しているのは彼女の「健康のために食事をするなんて人生の無駄だと思っている。食べる目的はただひとつ。体が求めるから」というさっぱりした姿勢だ。

 自宅で食べるカレーや牛丼は「がんがん食べ『あー食べ過ぎた!』と転がって後悔したい」と語り、体にいい食材だけを食べられるデリに連れてこられれば、豊富すぎる選択肢に「この中から即断できる人ってすごい。日々バリバリ英断を下している意識高い系ビジネスマンならわけもないのかもしれない」とおののきつつ、「菓子と肉への意識だったら私だってべらぼうに高い」と謎の対抗心を見せる。愛する「硬い食べ物」の魅力をつづり、「『ふわふわ~』とうっとりするようなグルメ番組だけではなく、『ものすごい歯ごたえです!』『噛んでも噛んでも終わらない気がします!』『私、もう顎が限界です!』とリポーターが顔をゆがめながら食すグルメ番組があればいい」と妄想する。

 しばしば自身を「偏屈爺」と呼ぶ通り、著者の食へのこだわりは強いが、どのエッセイにも食自体への愛が込められていて、偏屈さを発揮している時ほど「好きなことを語っている人」特有の熱がこもり、妙に生き生きとしている。

 そして、類は友を呼ぶのか、著者の周りにはチャーミングな食いしん坊が集まっている。料理人である著者の夫を筆頭に、大の甘党で「とらやの羊羹なら一本食いができる」篆刻(てんこく)の師匠・S先生。「死んだら棺桶にあんこを詰めてくれ」が口癖の、著者が勤めていた病院のO部長。がんを患い、生きるか死ぬかの瀬戸際でもこっそりケーキを食べ、「いつどうなってもいいように、好きなものを食べ、悔いのない人生を送る」と語った京都の洋菓子店の奥さん。著者によって描写される「体にわるいかもしれないけど、精神にいい食べ物」を愛する人々の姿は、それぞれひと癖ある魅力にあふれていて、その人なりの信念があれば、「体にいい食事」ばかりが食べ方の正解ではないと思わせてくれる。

 ほとんどの人は、日常の食について深く意識することはない。それでも、今日自分が口に入れた食べ物、昨日作ったメニュー、そういった一つ一つの食にはそれぞれの選択があり、自分だけの思い出が詰まっている。『わるい食べもの』は、著者がユーモアを込めて語る食の好みや思い出を楽しくたどるうちに、読者自身の食にまつわる個人的な思い入れをも呼び起こしてくれる。いい食べ物もわるい食べ物も合わせて、あらためて自分の食の記憶を味わいたくなるような1冊だ。

(保田夏子)

お金の支配されない人生が、仕事を自由にする!? 『仕事にしばられない生き方』が問う人生の本質

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■『仕事にしばられない生き方』(ヤマザキマリ、小学館)

■概要

 古代ローマに生きる風呂設計技師が、現代日本にタイムスリップし銭湯と出会うコメディ『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン)。「書店員の選ぶマンガ大賞2010」や「第14回手塚治虫文化賞(短編賞)」を受賞し、2012年に阿部寛主演で映画化もされた同作で知られるマンガ家ヤマザキマリが、自らの半生を振り返りながら、仕事とお金との付き合い方について語るエッセイ。チリ紙交換からビジネス通訳、テレビ番組のリポーターまで、学生のころから国内外で複数の職種を渡り歩き、成功も失敗も味わったからこそ培われた、仕事との距離感が明かされる。

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 海外文化や美術に造詣の深い作品群で知られる、人気マンガ家ヤマザキマリ。『仕事にしばられない生き方』は、ヤマザキ氏の半生を通して、お金や仕事との向き合い方に迫ったエッセイだ。

 ヤマザキ氏の経歴を、「音楽家の母に育てられ、17歳でイタリア国立の美術学校に入学。10年以上イタリアで暮らし、29歳でマンガ家デビュー。43歳の時に『テルマエ・ロマエ』が大ヒットし、現在はイタリアと日本を行き来しつつ、イタリア人の夫や米国の大学に通う息子との関係も良好」――とまとめると、いかにも経済的・文化的素養に恵まれた女性のように映る。その経歴はウソではないが、本エッセイで語られる実態は、その文面から想像する以上に波瀾万丈なものだ。

 早くに父を亡くし、ヴィオラ奏者の母と妹と、北海道の団地で暮らした幼少時代。決して裕福とはいえない経済状況の中でもメリハリをつけて家計をやりくりする母親の下で、幼いころからシビアな金銭感覚を養ってきた著者は、高校に入学してすぐ、チリ紙交換をはじめとするさまざまなアルバイトを経験する。画家を目指した留学先のイタリアでも仕送りはほとんどなく、通訳やガイド、絵描きなど、あらゆる手段で生活費を稼ぎ、さらに恋人の借金返済にも明け暮れることに。

 住居を追い出され、駅で夜を明かすような生活を経て、日本でシングルマザーとなることを選択する。マンガ家としてデビューしたものの、当初は食べていくために、事務職、イタリア語講師、テレビリポーターなど10種以上の職業を掛け持っていた。現在の夫であるイタリア人男性と結婚したことで海外に拠点を移し、マンガ家としても『テルマエ・ロマエ』という大ヒット作が出たものの、昼も夜もなく仕事を受けたことで家庭が崩壊寸前に――。

 そのままマンガやドラマになってしまいそうな起伏の激しい半生。彼女の母親をはじめ、人生に次々と立ち現れる、欠点もあるが憎めないチャーミングな人々とのエピソードを読むだけでも十分に楽しめる本作だが、同時にそんな経験を得たヤマザキ氏だからこそ語ることができる、裕福さや仕事上の成功についての強いメッセージが込められている。

 たとえば、「物腰はちゃんとしてるのに、そろいもそろって、お金がない」若者が集う文化サロン“ガレリア・ウプパ”を「第二の家」としていたイタリア時代。そのサロンで対話や討論の醍醐味を知ったヤマザキ氏は、主宰者が貧しさの中で亡くなったことに触れつつ、「与えられた命と知性を使って、この世界をより深く掘り下げ、知っていく喜び」が最高のぜいたくだと語る。

 一方で、『テルマエ・ロマエ』のヒット後、夫がシカゴ大学の客員教授となり、米国で暮らしていた時期については、「はたから見れば、エリート校の研究者として教鞭をとり、タワーマンションの高層階で暮らしているなんて、アメリカン・ドリームそのもの」と語りつつも、そこに喜びはない。彼女自身は仕事を受け過ぎた過労で、夫と息子はそれぞれ厳しい競争にさらされ、家族全員が疲弊していく。経済面で苦労することがなく、どんなに傍から見て成功していたとしても、本人たちが幸せかどうかは全く別の話なのだ。

 いくつものエピソードに繰り返し織り込まれているのは、ヤマザキ氏の、“お金は非常に大切なものだが、本当のぜいたくは「お金がすべて」という考えに対抗できる価値観を培うこと”という信念だ。お金への向き合い方に一本筋が通れば、仕事も自分の生き方に添ってくる。達観した潔い彼女の姿勢に、勇気づけられる人も多いだろう。つい近視眼的に「働くこと」だけについて考えて行き詰まりそうな時、本作には、いったん立ち止まって視点を変え、現状を俯瞰させてくれるようなヒントが詰まっている。

(保田夏子)

趣味、処世術、自分を解放するためのツールとして……“装うこと”の自由を示した話題の本『だから私はメイクする』

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『だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査』(劇団雌猫、柏書房)

■概要

 オタク女性の浪費の実態をポジティブにあらわにした『浪費図鑑』(小学館)で話題をさらった女性チーム「劇団雌猫」。彼女たちの新作『だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査』(柏書房)もまたネット上では大きな反響を呼んでいる。化粧やファッションを中心に、エステや整形、矯正下着やダイエットなどさまざまなジャンルの美にこだわりを持つ女性たちが、その思い入れや自身の美意識をつづり、それぞれの「装う理由」をあらわにしていく匿名エッセイ集。

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 ナチュラルメイクに一切興味がなく、“作り込まれた顔”にこだわる「あだ名が『叶美香』の女」。普段の仕事着は適度な服装で通し、プライベートで本気を出す「会社では擬態する女」。逆に、仕事場で納得いくまで装うことで自信を持って職場で振る舞う「デパートの販売員だった女」「仕事のために○○する女」。アイドルに「かわいい」と言われるために限定コスメをチェックする「アイドルにモテるために化粧する女」――。

 自分のため、仕事のため、愛する“推し”のため……理由は違えど、装うことにこだわりを持つ女性15人が、愛するブランドやお気に入りのサービスを語るエッセイ集『だから私はメイクする 悪友たちの美意識調査』は、「装うこと」というフィルターを通して、現代を生きる女性の半生を浮き彫りにする自伝短編集でもある。

 メイクやファッションは、良くも悪くも、現代に生きる女性の多くにとって切っても切れない存在だ。だからこそ、オシャレが好きでも嫌いでも、理由について真剣に語り始めれば、知らず知らず社会に向き合う自分のスタンスが浮き彫りになり、その女性の生き方の一片がにじみ出る。

 例えば、「痩せたくてしかたがない女」。幼いころからふっくらとした体形で、「かわいい」を感じさせるものが嫌い、「キラキラ、ふわふわしたものは自分には似合わないだろう」と思っていた女性が、あることで感情を爆発させた際に、ふいに「嫌いだと思い込んで自己防衛していた」「私は本当はこういう風になりたかったんだ」と自分の本心に気づく。自分の欲望を無意識に抑えていたのは、ふさがりかけていた人生の傷口を開くことになるかもしれないからだ。それでも、自分を縛る思い込みは自らの手でほどくことができるし、本心に気づけばどんなに傷が痛くても、視界が一気に広がるような感覚を味わえる。一人の人間の変化を鮮やかに捉えた、よくできた短編のようなエッセイになっている。

 また、特別企画として収録された、TBS宇垣美里アナウンサーのインタビューも秀逸だ。ミスキャンパスを経て、民放キー局のアナウンサーになるという、ある種の典型的な「世間が求める女性像」を体現するような経歴を持つ宇垣だが、そんな彼女にとってのメイクは「自分のためのもの」。

 一見おとなしそうで、周りから「御しやすい女性」と思われた学生時代の苦労、就職して「笑ってるだけでいいから」と“お人形”でいることのストレスをためた新人時代を経て、今は「ふっきれた」という宇垣。人一倍周囲の視線にさらされるからこそ、外見には自覚的な意思うと戦略がある。強い女に見えるメイクを意識し「化粧は魔除け」「自分の身を守るためによそおってる」「ヒールを履いてるときは『気に入らないことがあったら、これで踏み潰しちゃうぞ(ハート)』という気持ち」ときっぱり語る彼女はすがすがしく、明確にスタンスを示す姿勢はシンプルに格好いい。

 本書に収められたエッセイやインタビューはどれも、時に迷い傷つきながらも「こうありたい」という理想を掲げ、自分の人生と向き合っている人が持つ強さがある。だから、前書きにつづられた、「自分の『好き』をつらぬいた格好も、世間の『ウケ』を狙った格好も、その人の生き方の表明である限り、ひとしく美しく、そしてめちゃくちゃかっこいいものなのです」という言葉が、きれいごとではなくしっくりくるのだ。

 メイクや美容は、好感度の高い女を目指すためだけのものではないし、ましてや嫌々“量産型”の鋳型に自分を押し込めるために使うものではない。女性は(本当は男性も)、自分のために装ったり、時にあえて装わなかったりすることを自覚的に選択することができる。『だから私はメイクする』は、「外見を飾る」ことの楽しみを、よくあるわかりやすい型に収めずに、人生を楽しむ手段の一つとしてバリエーション豊かに示している。装う/装わないことへの固定概念を外し、新たな扉を開くきっかけになってくれるだろう。

(保田夏子)

“SNSにおける小さな快楽”の先にある真っ暗な闇――『静かに、ねぇ、静かに』の読後感の悪さ

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

■『静かに、ねぇ、静かに』(本谷有希子、講談社)

■概要

 演劇界で頭角を現し、小説家としても野間文芸新人賞、三島由紀夫賞、そして17年に『異類婚姻譚』で芥川賞受賞と、主な純文学系文学賞を総なめにしている本谷有希子の芥川賞受賞後初作品『静かに、ねえ、静かに』。「本当の旅」「奥さん、犬は大丈夫だよね?」「でぶのハッピーバースデー」という3本の中編・短編が収められ、インターネットに翻弄され、人生を浸食される人々を、一見コミカルに、時に皮肉とかすかな憐憫を込めて描き切ったノワール集になっている。

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 『静かに、ねえ、静かに』は、インターネットに救いを求め、“オフラインの現実”に裏切られる現代の人々を描いた中編~短編集だ。

 インスタグラムにアップする写真に“本当”を求める3人組がクアラルンプールを旅する「本当の旅」、ネットショッピング依存から抜け出せない女性が、夫によって強引に倹約家夫婦とキャンプさせられる「奥さん、犬は大丈夫だよね?」、うまくいかない現実にくすぶり、自分たちの“不幸の印”を世間に見せつけるために動画撮影を始める夫婦を描いた「でぶのハッピーバースデー」の3編が収められている。

 どの作品にも、もし身近にいたらネタにしてしまうようなキャラクターばかり登場し、喜劇のように話が進められるのに、破滅や悲劇を予感させた直後にスピードを上げ、突然なにもない暗闇に静かに放り出される。幽霊もいないし、現実的にあり得ることしか起きないのに、その読み心地はホラー小説に近い。

 特にその味わいが濃いのは、冒頭に収められた、LCCでクアラルンプールを旅行する3人の“若者ふう”中年の道中が書かれる「本当の旅」だ。「社会から報酬を貰わないことで、人とは違う眼差しを手に入れてる」42歳、おそらくニートのインスタグラマー“づっちん”。知り合いの店を転々とし、今はTシャツ屋に勤める“ヤマコ”。づっちんに心酔し、づっちんの勧めで細々と地方で兼業農家を始めた39歳の“ハネケン”。3人の共通項は、インスタグラムを通して「世界中に僕らのポジティブなヴァイブレーションを行き渡らせ」ようとしていることだ。

 旅行でうまくいかないことがあっても、目の前の光景を面白おかしく切り取り、ネガティブな言葉は吐かない。空港で旅のスタートを台無しにした鈍くさいおばさんを写真から削除し、雑踏でぶつかって怒りだしたクアラルンプールのおじさんを動画から削除しながら、一瞬よぎったはずのネガティブな感情をなかったことにして、「清らかな心」で何事にも感謝する3人。料理を皿に残したまま、自分たちが投稿した食事風景を見て「美味しそう」「俺ら仲よさそう」と喜び合う。残って冷めた魚料理を「とても食べられた代物ではない」と思いつつ、ハネケンはつぶやく。「僕が本当はどう感じたかなんて、たいしたことではないのだ。大切なのは、料理が美味しそうなこと。旅が楽しそうなこと。僕らが幸せそうなことなんだ」

 3人は、街で適当に拾ったタクシーに乗り込む。暗くなっていく中、目的地とは違う場所に連れて行かれているようなのに、誰もおかしいと言いだせない。逃げ出すチャンスは何度もあったのに、自分のネガティブな感覚を信じきれず、LINEトーク上のうわべの平穏にすがりつく。「本気でヤバい状況なら、こんなノリの返事が送られてくるはずがない」。タクシーにはごみ袋とスコップを持った知らない現地のおじさんも乗り込み、3人は人けのない郊外へ連れられていく――。

 最初はのんびりと、徐々に加速していく巧みな展開の中に、意に沿わないものは排除する自分本位のポジティブ精神や、SNSに投稿されたことが本当で現実で感じたことはどうでもいい、という心理のシュールさが皮肉を効かせながら織り込まれている。

 中年男性視点だと思うと少しむずかゆい文体は、おそらく大方の読者にとっては感情移入しにくいものだ。自分とは遠い存在として読んでいるからこそ、彼らの滑稽さを楽しめるが、顧みれば「実際幸せかどうかより、SNSで幸せそうに見えることが大事」という心理は、人ごとではなく、私たちの身近な感覚を浸食していることに気づかされる。

 そんなに好みではなくても、目の前にSNS映えする光景、はやっているスイーツがあればとりあえず撮影する。投稿して、「いいね!」をもらう。「自分が実際に感じたことより、SNSで残ったことが重要」という感覚がおかしいことはわかっていても、手軽に得られる小さな快感に抗えない。「みんなやってることだから」「少しくらいなら」、そう思いながらズルズルと麻痺した先になにがあるのか。「本当の旅」は、そんな無意識の不安をすくい取っているから、後味が悪いと感じつつも、どこかスッとのみ込めてしまうのだろう。

 ネットショッピングへの依存が正常な判断を失わせてしまう「奥さん、犬は大丈夫だよね?」でも、「不幸そうな外見だから、幸せになるべきではない」という諦念と倦怠がこびりついた「でぶのハッピーバースデー」でも、著者は、インターネットがもたらした小さな違和感を拡大し、エスカレートさせた先の暗黒を読者に提示する。3編とも読後感は苦い。しかし、キラキラしたSNSの世界に息苦しさを覚えた人には、その後味の悪さはわずかな清涼感となるのだ。

(保田夏子)

『こころ』はBL、『三四郎』は草食系男子!? 漱石作品の多彩な魅力を教えてくれる『夏目漱石、読んじゃえば?』

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

■『夏目漱石、読んじゃえば?』(奥泉光、河出書房新社)・エッセイ

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■概要
「小説を最初から最後まで全部読む必要なんてない」「物語を脇に置こう」「難しい漢字は無視する」――。つい、学生時代のように「作者の訴えたいことを受け取らなくては」と固く構えてしまいがちな「近代文学の名作を読む」という行為から離れ、夏目漱石を愛する芥川賞受賞作家・奥泉光が楽しく読む方法を伝授する、読書法指南本。

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 「読書好き」だからといって、教科書に載っているような、いわゆる文豪の名作を読まなければならないわけではない。そのため、古めかしい、格式が高くて自分に関係なさそう、学生時代に読んであまり面白くなかった、そんな理由で夏目漱石を“読まず嫌い”している人も多いだろう。読まなければいけないわけではないが、触れたことのない作品には、知らない魅力が眠っていることもある。『夏目漱石、読んじゃえば?』は、“日本の近代文学史上もっとも有名な作家”である夏目漱石作品への凝り固まったイメージを鮮やかに変え、読書自体の魅力を広げてくれる1冊だ。

 本書は、中学生から大人までが楽しめるように企画された「14歳の世渡り術」シリーズの中の1冊。読書自体に苦手意識がある10代にも届けようとしているため、少し鼻につくくらい平易な文体だが、読書と改めて向き合いたい大人に向けても書かれている。

 「小説には正しい読み方とか間違った読み方は存在しない」と強調する奥泉氏の読書指南は、「タイトルを読んだだけでも読んだことにしていい」「忘れながら読むことだって、立派な読書」「『わからない』ことを楽しむ」と、一見極端な暴論にも読める。しかし、意図的に一番ハードルを下げたところから、少しずつ読書の楽しみを示す流れになっており、段階を踏みつつ自然と読書の質を上げることができるようになっている。

 そして、「小説の読み方は自由」と前置きしつつも、著者はツアーガイドのように“こんな読み方もある”と、初心者にも取っ掛かりやすそうな入口を少しだけ提示してくれる。『吾輩は猫である』は猫が可愛いシーンだけ拾い読みしてみてもいい。無鉄砲で血気盛ん、というイメージのある『坊っちゃん』の主人公は、実は暗い、コミュニケーションが苦手な男子の物語と読めるし、『三四郎』の主人公は現代の草食系男子に通じる。『草枕』は、ストーリーを放棄して字面を鑑賞するだけでもいい。『こころ』は傑作だと思って読まない方がいいし、実はBLとして読みこむ人もいる。

 現代人にも触れやすいよう、サービス精神にあふれた切り口はそれぞれ興味深いが、なにより、各作品の魅力を喜々として語る奥泉氏の姿が、漱石作品の魅力を伝えているともいえる。楽しそうな人がいる場所に人が集まるように、奥泉氏の熱狂が、時代を超えて文豪と呼ばれる漱石の底知れない引力を自然と示してくれているのだ。

 「小説を読んで言葉を使う技術を獲得していくことは、自分の人生をより豊かにする」と信じる奥泉氏の読書論は、漱石作品に限らず、あらゆる本を読む際に応用できるようなヒントがちりばめられている。漱石を“読まず嫌い”している人はもちろん、読書に新しい楽しみを見いだしたい人にも薦めたい1冊だ。
(保田夏子)

切迫する生活と死の気配が官能的な空気を作る、異色の恋愛小説『じっと手を見る』

■『じっと手を見る』(窪美澄、幻冬舎)

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 6月の雨の中、樹海近くの町の古びた一軒家でのひそやかな情事から始まる小説『じっと手を見る』(幻冬舎)。富士山を望む小さな町で、介護士として忙しく働く日奈を中心に、4人の男女の視点で、それぞれの恋や執着が巡る連作短編集だ。恋愛小説では避けられてしまうことの多い、老いや生活感が恋愛と深く絡まり合い、色濃く、官能的に仕上げられている。

 幼いころに両親を亡くし、学生時代に唯一の肉親だった祖父も失った日奈は、老朽化した家に一人で暮らし、「年寄り相手に大変な仕事して、休みになったらモール行って、ユニクロとか無印で服買って、なんたらフラペチーノとかばっかり飲んで」いる生活を淡々と続けている。元恋人で、なにかと世話を焼きに来る介護士仲間の海斗を横目に、職場で取材を受けたことをきっかけに知り合った、東京に住む「宮澤さん」と初めて恋に落ち、町を飛び出す――。

 日奈や海斗が住む小さな町にあるのは、さびれた商店街に、人がにぎやかに行き交う大型ショッピングモール。体もメンタルも削られる重労働を誠実にこなして、贅沢は望めないが、不自由なく生きていくことができる。それは、地方や郊外にありふれた光景だろう。

 「親父たちはまだ夢見られたよな、ぎりぎり。俺たちには、それすら許されない。失敗したら絶対に浮き上がれない」と語る海斗と、東京・港区の裕福な家庭に生まれ、似たような育ちの妻を持ち、何回でも失敗できる“余裕”を持っている宮澤は対照的な存在だ。人生の全てが丁重にお膳立てされ、生きている実感がぼんやりとしている宮澤は、若くて可愛いのにきつい仕事を選んで、黙々と地味な生活を続けられる日奈に、否応なく惹かれていく。しかし、彼が惹かれた日奈の生命力は、唯一の肉親を亡くしてさえも立ち止まることを許されない、穏やかだが切迫する生活の裏返しにある力でもある。それは、幸か不幸か、おそらく宮澤には一生得ることのできないものだ。

 一方で海斗は、日奈への思いを引きずったまま、やたら自分に絡んでくる胸の大きな同僚・畑中と体を重ね、関係を深めていく。介護する老人に平然と胸を触らせ、口の悪い物言いで職場の女性陣から嫌われがちな畑中だが、彼女主観の短編(「水曜の夜のサバラン」)を経たあとでは、彼女の寂しい生い立ちや、老いて弱っていく人々に冷たくできない不器用な一面が浮き彫りになってくる。

 どんな登場人物も、一つの身体の中に愚かなところと美しいところを抱えながら生きている。そして、どんな生き方をしていても、いずれは必ず死という1点で結ばれる。そんな当たり前だが厳しい世界観を自然に漂わせている本作だが、同時に恋愛が上手くいかない人、間違ってしまった人も柔らかく許容している。ふだん恋愛小説を苦手だと感じている人にも薦めたい一冊だ。

■『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック 女子刑務所での13ヵ月』(パイパー・カーマン、駒草出版)

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 オンラインストリーミングサービス「Netflix」の人気ドラマシリーズ『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』の原作である本書は、アメリカの裕福な家庭で育ち、名門女子大を卒業した女性・バイパー が、若い頃同性の恋人に頼まれて犯してしまった麻薬取引の罪で逮捕され、刑務所で過ごした体験を回想して大ヒットしたノンフィクション・エッセイだ。犯罪に手を染めた経緯から、10年後に起訴され、裁判・刑務所入ってから出所するまでの濃厚な日々を、真摯に、かつユーモアたっぷりに振り返っている。

 彼女が最も長く過ごした刑務所・ダンブリーは、基本的に軽犯罪を犯した女性が集められる施設だ。そのため警備は非常に緩く 、食堂での調理や施設の設備修理、刑務所を出入りする囚人の送迎(!)まで、囚人たち自身によって行われている。弁護士から「周りを信用するな」と言われ、当初は右も左もわからないまま、注意深く他人と距離を取っていたバイパーだが、自主的に囚人たちが整えた新人受け入れ態勢の下で優しく受け入れられ、次第に信頼できる人物を探し当て、これまで触れ合ってこなかったようなタイプの囚人とも深い人間関係を紡ぐようになる。

 一言で囚人といっても、そのバックグラウンドはさまざまだ。キッチンでおいしいパンを焼き、夜は静かに読書をするジャマイカ出身のナタリー、多くの女性の尊敬を集めるシスター、囚人を集めて定期的にヨガクラスを開くジャネット、男性から女性に性転換したトランスジェンダーの美女ヴァネッサ、そして、バイパーが逮捕されるきっかけを作った元恋人のノラ……まるで映画やドラマを見るように、個性的な女性たちが次々に登場する。

 本作は、不当な嫌がらせをしてくる看守、恒常的にウジのわいている不衛生なシャワールーム、現実には役に立たない社会復帰プログラムなど、刑務所生活の実態や問題点を浮き彫りにする実録ルポであり、自身の犯した罪と向き合う内省的なエッセイである。しかし一方で、誰かが誕生日を迎えればにぎやかに祝い、出所するときには手作りのカギ編みベストをプレゼントし惜しみながら別れ、土曜の夜にはキッチンでおいしいカレーやハンバーガーを作ってもらったりする、微笑ましい回想記でもある。

 女子校の寮生活を描いたかのようなエピソードを通して、バイパーは、全囚人がどうしようもない悪党というわけではなく、生まれ育った家庭環境などから犯罪を選択せざるを得なかっただけの不幸な女性が大勢いることを自然と伝えてくる。生まれたときから公平ではない世界を、どうとらえていくべきなのか、考えさせられるエッセイだ。

■『ババア★レッスン』(安彦麻理絵、光文社)

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 『ババア★レッスン』は、そのインパクト大のタイトルの通り、48歳になる著者が「いいババア」になるための道筋を探り、目標となる先輩ババア像を模索する、ポジティブでパワフルな加齢にまつわるエッセイだ。「ババア」という言葉は、侮蔑語として使う場合があるため、言葉だけで不快感や抵抗を覚える人もいるかもしれないが、そんな人にこそ読んでほしい本でもある。

 ここで使われる“ババア”は揶揄ではない。著者は「ババア」という言葉に面白さや人間味を含めた、ポジティブな意味合いを込め、少しでも浸透することを狙っている。「40過ぎたらみなババア」というざっくりした定義の下、ババアの恋とセックス、ババアの趣味、ババアのダイエット、海外のババア事情などについてつづり、さらにはババア観を広げてくれる映画、本、海外のコメディ番組まで紹介する。

 「どんなふうに年を取りたいか」と問われた時の女性の回答の定番は、著者が言うように「縁側でひなたぼっこをしてる、可愛いおばあちゃん」だろう。さらに著者自身も憧れていたという「宇野千代」さんも定番の1人と言える。そんな定番以外のロールモデルを求める著者が「81歳の現役DJ」スミロック氏を材した章は、異様な熱気がこもっている。深夜1時にクラブイベントに参加する彼女のパワフルな活躍と言動に触れれば、 “わけのわからない”活力が湧いてくるだろう。

 加齢と気持ちの折り合いがつかない中年以降の女性はもちろん、まだ10~20代なのに、つい「ババア」を自称してしまう、年齢の鎖にガチガチに縛られた女性たちにも読んでみてほしいエッセイだ。
(保田夏子)