『氷室冴子とその時代』レビュー:誰より少女の自立を願っていたのに、少女小説家の“レッテル”に悩んだ作家の苦悩

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

■『氷室冴子とその時代』(嵯峨景子、小鳥遊書房)

■概要

少女小説の文脈で語られることが多かった故・氷室冴子を、コバルト文庫以外の小説やエッセイを含めた作家活動、プライベートにもスポットを当て再構築した評論。当時の社会情勢や少女小説の盛衰とともに、知られざる氷室の仕事や功績を改めて見直す一冊。

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 氷室冴子は、1980年代~90年代前半に少女時代を過ごした女性にとって、なじみ深い作家の1人だ。代表作である『なんて素敵にジャパネスク』(集英社、以下『ジャパネスク』)はシリーズ累計発行部数800万部を超え、「学校中高生読書調査」では84~95年までランクインし続けた。実際、79年生まれの筆者にとっても『ジャパネスク』は、小学校高学年から中学生にかけてクラスで回し読みされていた人気シリーズで、主人公の瑠璃姫や高彬の活躍は、決して一部の漫画・小説好きのグループだけのものではなく、クラスの多くの女子にとって共通の話題だったと記憶している。

 80年代後半から湧き起こった少女小説ブームを牽引した一人であり、さらに、スタジオジブリによってアニメ化された『海がきこえる』(徳間書店)、『銀の海 金の大地』『クララ白書』(共に集英社)、など、数々のヒット作を生み出した氷室。『ジャパネスク』の大ヒットもあり、「コメディを得意とする少女小説家」というイメージも根強い。しかし、『氷室冴子とその時代』は彼女の全仕事を徹底的に解読し、イメージをアップデートさせてくれる一冊だ。さらに氷室らをきっかけとして「少女小説」がブームになり、変容した経緯も明らかにしている。

 77年、大学在学中に作家デビューを果たした氷室は、結婚を強く望む母の元を離れて経済的に独立するために、コメディ路線に作風を変え、少女向けレーベル・コバルト文庫で出版した『クララ白書』『雑居時代』(集英社)などで大きく読者の支持を集める。そして、平安時代を舞台に、あえて現代的な口語を駆使したコメディ活劇『なんて素敵にジャパネスク』シリーズで、その人気を確立することになる。本書によると、『ジャパネスク』シリーズは、2冊同時発売された際には初版で合わせて100万部近く発行されている。単純比較はできないが、2017年、村上春樹の『騎士団長殺し』(全2巻)の初版発行部数が2冊合わせて100万部だったことが出版界の大きなニュースになっていることを見ても、破格の部数であることがわかる。

 本書は、コメディ路線で人気を確立し始めた氷室が、当時死語となっていた「少女小説」という言葉を意識的に自身に冠し始めたことを指摘している。少女を作品の主題としていた小説家・吉屋信子を愛読していた氷室にとって、少女小説は思い入れの深い言葉だった。「女の子がなにものにも矯められずに生きられる世界を描くことで、私は無条件に自分の性の原型としての女の子を祝福したかった」とエッセイにつづったように、氷室の描く少女は主体的で、自身で考え行動することが魅力につながるキャラクターとして造形され、そこに当時の読者の大きな共感があった。

 しかし、氷室らコバルト文庫の人気作家たちが爆発的な売れ行きを見せたことで、少女小説は“金脈”として多方面から発見されてしまう。他社の参入もあり、次第に「少女小説」から氷室らの意思や文脈は剥ぎ取られ、実際は多様なジャンルを包括するものであったが、特に外野からは「少女の一人称モノローグ体」「共感できるヒロイン造形」「マンガチックな展開」といったマニュアル化されたジャンルとして捉えられることが多くなる。

 量産された「少女小説」ブームの波に「チョコレート売ってるんじゃないんだから」と違和感を唱えていた氷室も、良くも悪くもその波に巻き込まれていく。時に評論家から「小説ではない」と軽んじられ、取材記者から「処女じゃないと書けないんでしょ」などと暴言を吐かれるなか、一度は自ら冠した「少女小説家」という肩書から、少しずつ距離を置くようになっていく経緯が、複数の資料をもとに解説される。

 その後の氷室は、少年を主人公とした小説や、一般向けのエッセイ・小説、家庭小説ジャンルのプロデュースなど、さまざまな仕事を手掛けている。ひたすら結婚を求める母との葛藤をつづった一般向けのエッセイや、アニメ化された『海がきこえる』で少女以外の読者層を獲得し、“自分の一番書きたいもの”と語った一切のコメディ要素が排された古代ファンタジー『銀の海 金の大地』を生み出す。「少女向けのコメディ作家」というポジションでは語りきれない、常に新たな表現を求めて作風や文体を変えた作家であったといえるが、休筆期間を経て新作発表直後にがんを告知され、08年51歳で早逝する。本書では新作が生まれなかった期間、氷室の死の前後も含め取材し、氷室の人柄がしのばれるエピソードも丹念に伝えている。

 氷室と同じ生年の漫画家・作家――柴門ふみ、高橋留美子、森博嗣らが、現在も一線で活躍していることを思えば、氷室氏の早逝は惜しまれるものだ。本書では、『名探偵コナン』(小学館)シリーズ中のある連作が氷室作品へのオマージュになっていることをはじめ、ライトノベル『涼宮ハルヒ』シリーズ(KADOKAWA)や、小説家・柚木麻子の作品に登場する氷室作品、同じく作家の上遠野浩平、奈須きのこらが影響を受けた人として氷室を挙げたテキストを追うことで、彼女の作品やスタイルがどのように現代のエンタメ作品に引き継がれたか、丁寧に考察している。

 しかし、本書において90年代以降に生まれた世代と氷室の「断絶」が指摘されているように、同時期に同ジャンルで活躍した他の作家と比べて、現代で氷室作品がしっかり読み継がれているとは言い難い。熟練したストーリー展開、歴史ものにおいては綿密な時代考証に裏打ちされた設定の下で描かれた彼女の作品群は、現代の読者にも十分エンタテインメント作品として強度を持つものだ。さらに、氷室が初期から一貫して描き続ける、男性や大人に媚びず、環境や思想の違う友人と連携して、それぞれのスタイルで世界の困難に立ち向かっていく少女像は、既に成人した“元少女”をもまだまだ魅了し、勇気づけてくれる。同書と共に、氷室の作品群が改めて評価され、一人でも多くの人々の元に届くことを祈りたい。

『しらふで生きる』レビュー:酒、趣味、人間関係に無意識で依存している人に響く「解脱」までの日々

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■『しらふで生きる 大酒飲みの決断』(町田康、幻冬舎)

『しらふで生きる』レビュー:酒、趣味、人間関係に無意識に依存している人に読んでほしい、「解脱」までの日々の画像1

【概要】
大酒飲みとして知られていた作家・ミュージシャンの町田康が、「酒をやめよう」と突然思い立った。ドクターストップがかかったわけでもなく、心境の変化があったわけでもないのに、なぜ禁酒を始めたのか。習慣化されていた飲酒をどのようにやめ、禁酒で心身がどう変わったか。内面の葛藤や、精神状態の変化が饒舌につづられるエッセイ。

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 「飲みに飲んで、差されれば必ず受け、差されなくても手酌で飲んで斗酒をなお辞さない」ような酒豪生活を30年間1日も休まず続けていた作家・町田康。その彼が禁酒を始めた。酒を断ってからの数年の変化をつづる『しらふで生きる 大酒飲みの決断』は、「禁酒」という行為を通して、町田氏の人生観の変遷を大真面目に、かつエンタテインメントとして描き切った一冊だ。それは、何にも依存したことのない、バランスのとれた生活を送っている人にとっては喜劇のように読めるだろう。しかし、アルコールに限らず、何かへの依存に悩んでいる人にとって、このエッセイは脱却の手がかりになるかもしれない。

 大まかに「(酒を)なぜやめたか」「どうやってやめたか」「やめたらどうなったか」という3つのパートから構成された本作。酒を断って1年半弱の時点から語られる序盤は、町田康らしさが炸裂する、饒舌な「酒飲みの申し開き」だ。

 「人生の目標、目的は酒を飲むことであり、すべては酒のために存在する」「飲んでいないときはただ耐えるだけ」「いずれ死ぬのに、節制など卑怯」と酒を心底愛していた町田氏にとって、「飲みたい」こそが正気で、「飲まない」が狂気だ。仕事中は飲まない、昼からは飲まないというルールを守っているから中毒ではない、と述べつつ、「飲む以外のことの価値が(略)とても低くなっている」状態の不毛さに気づいていてもアルコールを欲してしまう。そんな自身のせめぎ合いを、「飲みたい、という正気と飲まないという狂気の血みどろの戦い」と表し、徹底的に戯画化していく。

 「酒飲みが意志の力で完全に酒をやめるのは重い土嚢を千袋運ぶより辛い」「『こんなに苦しいなら酒を飲むしかない』『その酒をやめてるのだ』を7秒に4回繰り返す」と、と多彩な比喩を駆使しつつ、酒への衝動に七転八倒する姿は滑稽でつい笑わされてしまうが、どこかシンパシーを感じてしまう人は多いだろう。苦しみながらも、医療機関や周囲に頼らず、どこまでも自身の内面と向き合うことで禁酒を実行し、「人生は幸福である必要はない」「他人と自分を比べることで自分の価値を計らない」という内観に帰着する過程は、おもしろおかしく描かれてはいるが、ほとんど哲学だ。

 ふざけているような、真剣なような町田節に引っ張られるうちに、3カ月、半年、1年、3年と着々と禁酒は継続され、徐々に「飲まない状態が正気」になっていく。そして、「痩せた」「睡眠の質が向上した」「浪費しなくなった」「脳髄のええ感じにより仕事が捗るようになった」「精神的に余裕が生まれた」など、序盤の葛藤がうそのように、立て続けに禁酒のメリットが挙げられるようになる。酒をやめても幸せになるわけではないし、賢くなれるわけでもないとつづられているが、終盤の心象風景は憑き物が落ちたように軽やかで、もうアルコールに溺れることに魅力を感じているようには見えない。

 本書の冒頭では、自身の起こした酒席でのトラブルを幾つも挙げつつ「『ああ、あの人は酒飲みだから』ということで、風景として受け入れられ」てきたと振り返っている。優れた作家であり、作家デビュー前から熱狂的な支持を受けるミュージシャンでもあった彼の周囲には、おそらく「酒に溺れるような破滅的な生き方こそ、一流のアーティスト」と称賛する人もいただろう。しかし、禁酒後のほうが「仕事が目に見えてよくなる」と断言する町田氏の言葉は、一部の人が持つような、ある種凝り固まったアーティスト像を気持ちよく吹き飛ばしてくれる。

 「酒を飲んでも飲まなくても、人生はもともと寂しいもの」「渇いているからといって(銭で購える)幸福をがぶ飲みすると、その後がもっと苦しくなる」という持論は、酒の話ではあるが、何かに依存している人すべてに通じる話でもある。本作は、「酒徒を論難したり排撃したりするのはやめてほしい」とある通り、飲酒を否定するものではない。おそらく、適量で収められるなら、禁酒する必要もないのだ。ただ、町田氏がそうであったように、「適量」と思って気づかずに依存状態に陥っている場合もある。酒に限らず、趣味やSNS、ショッピング、特定の人間関係――本来やるべきことをやめてまでやりすぎてしまったり、不足すると過剰に不安になったりするものに覚えがあるとしたら、実は依存状態に足を踏み入れてしまっているのかもしれない。そんな、自身の無自覚な一面を突き付けられ、ぞっとしてしまう一冊でもある。
(保田夏子)

『子育てとばして介護かよ』『親の介護をしないとダメですか?』:同居も無理もしない介護のリアルを描く

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『子育てとばして介護かよ』(島影 真奈美、KADOKAWA)

 別居している義母からのかみ合わない電話をきっかけに、義父母の認知症が立て続けに発覚。「仕事は続ける」「同居はできない」という前提で挑む、「介護1年生」エッセイ。義父母が拒む中でどう認知症の認定を受けてもらい、ケアサービスまでこぎ着けるか、お役所仕事の介護申請とどう折り合うか、夫との危機感の差をどう受け止めるか――。初めての介護に振り回された日々を、イラストを交え、軽やかにつづる。現在も仕事と大学院研究と介護の「3足のわらじ」をはく著者の、途中報告リポート。

『親の介護をしないとダメですか?』(吉田 潮、ベストセラーズ)

 コラムニスト・吉田潮が、自身の父の老化を見つめ、母による介護の限界を経て、特別養護老人ホーム(特養)に入所してもらった日々を、母と共同の介護日誌とともに振り返る。元新聞記者で闊達だった父から意欲が減少し「文化」がなくなる経緯や、頻繁な転倒や排泄の失敗を家族で介護する困難さ、施設選びに際する注意点や特養の実態、実際にかかった費用など、介護の現実が淡々と書かれている。「美談でもないし、悲惨な状況にも陥っていないし、自宅介護は一ミリもお勧めしない」、異色の介護エッセイ。

************

 年に1度か2度会うたびに、親が小さくなり、老いていく。一定の年齢になれば、それは当たり前のことなのに、普段親と離れて暮らしていると、その事実に心ひそかにうろたえてしまう。それは、私が「老い」をよく知らないからだ。

 「老い」とは、年を取ることで体や精神的機能が衰えていくこと。頭では理解していても、核家族で育ち、進学で地元を離れそのまま就職し、仕事でも私生活でも高齢者と深く関わらない日常を過ごしていると、老化が具体的にどういう状態なのか、実はまったくわかっていない。「老い」という科目を履修しそびれたまま大人になっている不安が、時折頭をよぎって、しかし「まだ大丈夫」と先送りにしている。

 9月中旬に、そんな老化と介護の現実の一端を見せてくれる本が、2冊ほぼ同時に刊行された。『子育てとばして介護かよ』と『親の介護をしないとダメですか?』は、どちらも40代女性著者による、「親の介護」「親の認知症」の始まりを書いたエッセイ。前者は、別居する義父母の認知症に気づき、ケアサービスを受けるまでを振り返り、後者は、急激に身体機能が衰えた実父が特養に入所する過程を語っている。状況はそれぞれ異なっているが、両作とも「仕事を辞めない、同居もしない」というスタンスをとっている点が共通する。

 大学院で老年学を研究している島影氏と、過去にホームヘルパー2級を取得している吉田氏。ある程度の知識があるといっていい両者が、エッセイを通して強く訴えているのは、介護において「自分(もしくは家族)が『少し無理すればなんとかなる』」という考えの危うさだ。

 別居したまま、義父母の介護の窓口となった島影氏は、「少し無理すればできること」を重ねて、次第に精神的に追いつめられる。彼女は、介護への対応を強制されたわけではない。しかし、周囲の空気を読んで「自分がやったほうが早い」と対処しているうちに、無意識のうちに抱えきれない負担を抱えてしまう。そのような状況は珍しくはないだろう。そんな彼女が、小さなことからでも周りに「できない」と発信することで、新たな選択肢が増え、環境が変わった過程も丁寧につづられている。

 一方、『親の介護を―』は、「同居介護はしない」「介護はその道のプロに任せるべき」という著者の姿勢は当初から一貫している。しかし、著者の母の根強い「夫の介護は妻がやるもの」という意識を変えることは難しい。病に倒れて身動きが取れなくなった両親を助けながら、安易な「自宅介護」が、悲劇を生み出す種になり得ることに警鐘を鳴らす。

 「自分がやらなくては」という精神は一見美徳だが、“火事場の馬鹿力”は永遠には出せない。介護者が疲弊してしまえば、最終的には被介護者も十分なケアを受けられなくなってしまう。被介護者のためにも、持続性のある介護環境を作るために、どのように情報を集め、公共サービスをどのように活用していくか、両作にはその対策がちりばめられている。

 手続きや費用面の解説など、実用的に役立てられる面も多くあるが、両作の一番の魅力は、「要介護」に至る前の段階から、日常生活を送ることが困難になるまでの「老い」の実態の一端が、美化されず、深刻にもなりすぎずに具体的に描かれている点だ。『子育て―』には、身体的には健康で一見何の問題もないように見えるのに、会話に妄想が入り込む「認知症」と向き合う難しさが、『親の介護を―』には、身体的な衰えに加え、好奇心旺盛だった父から「文化」が削がれていくさまがつづられる。

 老化とは、普通にできたことが、まだらに欠けていくこと。本人も自覚しないまま、約束や待ち合わせが守れなくなる。理路整然と会話ができているのに、行きたいところに自力でたどり着けなくなる。それまで好きだった娯楽が楽しめなくなる。予備知識なしに直面すると戸惑ってしまうような、わかりにくい老化を、両者とも時にユーモアを交えながら描写することで、さりげなく読者が「老い」に向き合う心構えをも軽くしてくれる。

 老化は、生きていれば誰もが通過する自然現象だ。さらに言えば、自分もいずれ歩む道でもある。親も、自分自身も、できないことが増えていく中、限られた時間で何ができるのか改めて見直すきっかけにもなるだろう。

 現在進行形で別居介護に直面している人にとっては、心強い友人を得たようなエッセイになっているであろう両作。しかし私は「介護はまだ先の話だから」と、親の老いの兆しと向き合うことそのものも先送りにしている人にも、読んでおくことを勧めたい。ある日突然、「親 介護」「両親 認知症」で検索する必要に迫られる前に。
(保田夏子)

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『子育てとばして介護かよ』(島影 真奈美、KADOKAWA)

 別居している義母からのかみ合わない電話をきっかけに、義父母の認知症が立て続けに発覚。「仕事は続ける」「同居はできない」という前提で挑む、「介護1年生」エッセイ。義父母が拒む中でどう認知症の認定を受けてもらい、ケアサービスまでこぎ着けるか、お役所仕事の介護申請とどう折り合うか、夫との危機感の差をどう受け止めるか――。初めての介護に振り回された日々を、イラストを交え、軽やかにつづる。現在も仕事と大学院研究と介護の「3足のわらじ」をはく著者の、途中報告リポート。

『親の介護をしないとダメですか?』(吉田 潮、ベストセラーズ)

 コラムニスト・吉田潮が、自身の父の老化を見つめ、母による介護の限界を経て、特別養護老人ホーム(特養)に入所してもらった日々を、母と共同の介護日誌とともに振り返る。元新聞記者で闊達だった父から意欲が減少し「文化」がなくなる経緯や、頻繁な転倒や排泄の失敗を家族で介護する困難さ、施設選びに際する注意点や特養の実態、実際にかかった費用など、介護の現実が淡々と書かれている。「美談でもないし、悲惨な状況にも陥っていないし、自宅介護は一ミリもお勧めしない」、異色の介護エッセイ。

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 年に1度か2度会うたびに、親が小さくなり、老いていく。一定の年齢になれば、それは当たり前のことなのに、普段親と離れて暮らしていると、その事実に心ひそかにうろたえてしまう。それは、私が「老い」をよく知らないからだ。

 「老い」とは、年を取ることで体や精神的機能が衰えていくこと。頭では理解していても、核家族で育ち、進学で地元を離れそのまま就職し、仕事でも私生活でも高齢者と深く関わらない日常を過ごしていると、老化が具体的にどういう状態なのか、実はまったくわかっていない。「老い」という科目を履修しそびれたまま大人になっている不安が、時折頭をよぎって、しかし「まだ大丈夫」と先送りにしている。

 9月中旬に、そんな老化と介護の現実の一端を見せてくれる本が、2冊ほぼ同時に刊行された。『子育てとばして介護かよ』と『親の介護をしないとダメですか?』は、どちらも40代女性著者による、「親の介護」「親の認知症」の始まりを書いたエッセイ。前者は、別居する義父母の認知症に気づき、ケアサービスを受けるまでを振り返り、後者は、急激に身体機能が衰えた実父が特養に入所する過程を語っている。状況はそれぞれ異なっているが、両作とも「仕事を辞めない、同居もしない」というスタンスをとっている点が共通する。

 大学院で老年学を研究している島影氏と、過去にホームヘルパー2級を取得している吉田氏。ある程度の知識があるといっていい両者が、エッセイを通して強く訴えているのは、介護において「自分(もしくは家族)が『少し無理すればなんとかなる』」という考えの危うさだ。

 別居したまま、義父母の介護の窓口となった島影氏は、「少し無理すればできること」を重ねて、次第に精神的に追いつめられる。彼女は、介護への対応を強制されたわけではない。しかし、周囲の空気を読んで「自分がやったほうが早い」と対処しているうちに、無意識のうちに抱えきれない負担を抱えてしまう。そのような状況は珍しくはないだろう。そんな彼女が、小さなことからでも周りに「できない」と発信することで、新たな選択肢が増え、環境が変わった過程も丁寧につづられている。

 一方、『親の介護を―』は、「同居介護はしない」「介護はその道のプロに任せるべき」という著者の姿勢は当初から一貫している。しかし、著者の母の根強い「夫の介護は妻がやるもの」という意識を変えることは難しい。病に倒れて身動きが取れなくなった両親を助けながら、安易な「自宅介護」が、悲劇を生み出す種になり得ることに警鐘を鳴らす。

 「自分がやらなくては」という精神は一見美徳だが、“火事場の馬鹿力”は永遠には出せない。介護者が疲弊してしまえば、最終的には被介護者も十分なケアを受けられなくなってしまう。被介護者のためにも、持続性のある介護環境を作るために、どのように情報を集め、公共サービスをどのように活用していくか、両作にはその対策がちりばめられている。

 手続きや費用面の解説など、実用的に役立てられる面も多くあるが、両作の一番の魅力は、「要介護」に至る前の段階から、日常生活を送ることが困難になるまでの「老い」の実態の一端が、美化されず、深刻にもなりすぎずに具体的に描かれている点だ。『子育て―』には、身体的には健康で一見何の問題もないように見えるのに、会話に妄想が入り込む「認知症」と向き合う難しさが、『親の介護を―』には、身体的な衰えに加え、好奇心旺盛だった父から「文化」が削がれていくさまがつづられる。

 老化とは、普通にできたことが、まだらに欠けていくこと。本人も自覚しないまま、約束や待ち合わせが守れなくなる。理路整然と会話ができているのに、行きたいところに自力でたどり着けなくなる。それまで好きだった娯楽が楽しめなくなる。予備知識なしに直面すると戸惑ってしまうような、わかりにくい老化を、両者とも時にユーモアを交えながら描写することで、さりげなく読者が「老い」に向き合う心構えをも軽くしてくれる。

 老化は、生きていれば誰もが通過する自然現象だ。さらに言えば、自分もいずれ歩む道でもある。親も、自分自身も、できないことが増えていく中、限られた時間で何ができるのか改めて見直すきっかけにもなるだろう。

 現在進行形で別居介護に直面している人にとっては、心強い友人を得たようなエッセイになっているであろう両作。しかし私は「介護はまだ先の話だから」と、親の老いの兆しと向き合うことそのものも先送りにしている人にも、読んでおくことを勧めたい。ある日突然、「親 介護」「両親 認知症」で検索する必要に迫られる前に。
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『待ち遠しい』レビュー:世代も価値観も違う人たち「普通」の衝突と、なにげなく再生される関係を丁寧に描く

『待ち遠しい』レビュー:世代も価値観も違う人たち「普通」の衝突と、なにげなく再生される関係を丁寧に描くの画像1

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■『待ち遠しい』(柴崎友香、毎日新聞出版)

【概要】

 2014年『春の庭』で芥川賞を受賞した柴崎友香が、出身地・大阪を舞台にした長編小説『待ち遠しい』(毎日新聞出版)。住み心地のいい離れの一軒家で一人暮らしを続ける39歳の北川春子の視点から、60代、20代と世代の違う3人の女性の“ご近所付き合い”を中心に、「現代の生きにくさ」を抱えながらもひたむきに生きる彼女たちの姿が、丁寧に描かれている。

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 『待ち遠しい』は、世代も性格も生き方も異なる3人の女性の関わりを中心に描いた小説だ。3人の共通点は、近所に住んでいることと、偶然同じカーディガンを持っていたことくらい。「日本中の人がなにか一つは持っているであろう、低価格カジュアル衣料品店」で買ったそのカーディガンですら、異なる色を選んでいる。

 美大を卒業したものの専門とは関連のない職に就き、一軒家の離れを借りて暮らしている春子(39)はライトグレー。春子の大家の長女で、亡くなった大家に代わって母屋の主となった青木ゆかり(63)は黄色。ゆかりの甥と結婚し、一軒家の裏手に住む遠藤沙希(25)は淡いピンク。本作は、そのカーディガンのように無難で穏やかな女たちが織り成すほっこりした小説――のように見せかけて、世代や価値観の違う人々が、それぞれの「普通」を持ち寄った時に起こる摩擦や違和感、かみ合わなさを丹念に切り取った一作だ。

 大学卒業後、就職氷河期の波にのまれ非正規職を転々としていた春子は、3年前から正社員として事務職に就き、休日は美術館を巡ったり、自宅で趣味の刺繍や消しゴムはんこ作りに打ち込む穏やかな日々に概ね満足している。彼女の周りにいる女性は、春子と同じように独身で働いているか、キャリアをいったん横に置き、子育て中。それが春子にとっての「普通」だ。

 そんな春子に“ご近所付き合い”という新しい世界をもたらしたゆかりにとって、自分の時代の「普通」は「結婚して子どもを育てる人生」だった。しかし、今はいろんな生き方があっていいと理解したうえで、春子と良い友人のような関係を作っていく。明るく世話好きで、人と関わることに生きがいを感じるタイプだったが、夫と母を立て続けに亡くし、子どもからも距離を置かれ、一人で静かに孤独と闘っている。春子の生き方を否定するつもりはなかったのに、春子と近所の男性との仲を取り持とうとし、春子と気まずくなってしまう。

 一方で、沙希の「普通」は、自宅から半径5km以内の世界にぴったり収まっている。近所で生まれ育ち、現在も近所の整形外科に勤め、シングルマザーで苦労して自分を育ててくれた母とは親密すぎる関係だ。「女は結婚して子どもを育てて初めて一人前」という「普通」を疑いなく受け入れ、子どもはかわいいが絶対ほしいというわけではない春子には、「女に生まれてきたんやから、普通は子供ほしくないわけない」「人として普通じゃない」と容赦なく攻撃的な言葉をぶつける。

 本作では、きわめて狭い視野で語られる沙希の「普通」について、正誤のジャッジは下されない。その代わりに、沙紀の攻撃的な物言いやトラブルに巻き込まれた春子の視点で、沙希の半生があらわになっていく。漫画や絵を描くのが好きで、漫画家になりたいと思っていただろう少女時代。暴力を振るう父から自分を守り、昼夜問わず働いてくれた母に、「親子揃ってなんの取り柄もないから」「なんもできへんけど、それでもうちには、この子がいちばん」と言われ続けて育ってきたこと。大学進学をあきらめた彼女にとって、美大に進み、一人で好き勝手に暮らしている(ように見える)春子は、自身のアイデンティティを脅かすような存在だったのかもしれない。しかし、そんな春子自身も沙希と同じように、両親から「なんでもそこそこなんやから、なんもせんでええから」と言われて育ち、その言葉が呪いのように彼女の人生を縛っている。

 春子は沙希の人となりを知るにつれ、彼女を見離せないと感じるようになる。そして沙希もはっきりと考えを改めることはないが、家族とのケンカ、人生の転機を経て、春子やゆかりに頼るようになり、少しずつ変容していく。

 人それぞれの「普通」は、生まれた時代、地域、家庭環境など、不可抗力の要素に影響されているものだ。「普通」が他人によって揺り動かされたとき、相手を批判することは簡単だ。しかし時には悪態をついたり、気まずくなったり、衝突したりしながらも、相手の背景を推し量ることができれば、相手の理解できない面に折り合いをつけて、関係を再生することもできるのだ。

 そしてその過程で、自分の「普通」が数ミリ動いたり、そもそも「普通」であることは必須ではないと気づかされることもある。本作終盤、春子が「自分は普通じゃない」と思ってしまう“負い目”を学生時代からの友人に告白したとき、彼女は即座に「わたしは春子のこと普通とかおかしいとか、そういう基準で考えたことないよ」と返す。たくさんの「普通」が提示され、衝突する本作だからこそ、さりげなく置かれたこの会話は読者を癒やしてくれる。

 『待ち遠しい』には、どの「普通」が正しいといった、わかりやすいカタルシスはない。しかしそれは、私たちが生きる現実そのものでもある。勝ち負けも間違いも衝突も「日常」という大河がのみ込み、一見淡々と日々を紡ぐ春子たち。彼女たちを通して、読者自身の日常に立ち向かう力が蓄えられる一冊だ。
(保田夏子)

『待ち遠しい』レビュー:世代も価値観も違う人たち「普通」の衝突と、なにげなく再生される関係を丁寧に描く

『待ち遠しい』レビュー:世代も価値観も違う人たち「普通」の衝突と、なにげなく再生される関係を丁寧に描くの画像1

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

■『待ち遠しい』(柴崎友香、毎日新聞出版)

【概要】

 2014年『春の庭』で芥川賞を受賞した柴崎友香が、出身地・大阪を舞台にした長編小説『待ち遠しい』(毎日新聞出版)。住み心地のいい離れの一軒家で一人暮らしを続ける39歳の北川春子の視点から、60代、20代と世代の違う3人の女性の“ご近所付き合い”を中心に、「現代の生きにくさ」を抱えながらもひたむきに生きる彼女たちの姿が、丁寧に描かれている。

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 『待ち遠しい』は、世代も性格も生き方も異なる3人の女性の関わりを中心に描いた小説だ。3人の共通点は、近所に住んでいることと、偶然同じカーディガンを持っていたことくらい。「日本中の人がなにか一つは持っているであろう、低価格カジュアル衣料品店」で買ったそのカーディガンですら、異なる色を選んでいる。

 美大を卒業したものの専門とは関連のない職に就き、一軒家の離れを借りて暮らしている春子(39)はライトグレー。春子の大家の長女で、亡くなった大家に代わって母屋の主となった青木ゆかり(63)は黄色。ゆかりの甥と結婚し、一軒家の裏手に住む遠藤沙希(25)は淡いピンク。本作は、そのカーディガンのように無難で穏やかな女たちが織り成すほっこりした小説――のように見せかけて、世代や価値観の違う人々が、それぞれの「普通」を持ち寄った時に起こる摩擦や違和感、かみ合わなさを丹念に切り取った一作だ。

 大学卒業後、就職氷河期の波にのまれ非正規職を転々としていた春子は、3年前から正社員として事務職に就き、休日は美術館を巡ったり、自宅で趣味の刺繍や消しゴムはんこ作りに打ち込む穏やかな日々に概ね満足している。彼女の周りにいる女性は、春子と同じように独身で働いているか、キャリアをいったん横に置き、子育て中。それが春子にとっての「普通」だ。

 そんな春子に“ご近所付き合い”という新しい世界をもたらしたゆかりにとって、自分の時代の「普通」は「結婚して子どもを育てる人生」だった。しかし、今はいろんな生き方があっていいと理解したうえで、春子と良い友人のような関係を作っていく。明るく世話好きで、人と関わることに生きがいを感じるタイプだったが、夫と母を立て続けに亡くし、子どもからも距離を置かれ、一人で静かに孤独と闘っている。春子の生き方を否定するつもりはなかったのに、春子と近所の男性との仲を取り持とうとし、春子と気まずくなってしまう。

 一方で、沙希の「普通」は、自宅から半径5km以内の世界にぴったり収まっている。近所で生まれ育ち、現在も近所の整形外科に勤め、シングルマザーで苦労して自分を育ててくれた母とは親密すぎる関係だ。「女は結婚して子どもを育てて初めて一人前」という「普通」を疑いなく受け入れ、子どもはかわいいが絶対ほしいというわけではない春子には、「女に生まれてきたんやから、普通は子供ほしくないわけない」「人として普通じゃない」と容赦なく攻撃的な言葉をぶつける。

 本作では、きわめて狭い視野で語られる沙希の「普通」について、正誤のジャッジは下されない。その代わりに、沙紀の攻撃的な物言いやトラブルに巻き込まれた春子の視点で、沙希の半生があらわになっていく。漫画や絵を描くのが好きで、漫画家になりたいと思っていただろう少女時代。暴力を振るう父から自分を守り、昼夜問わず働いてくれた母に、「親子揃ってなんの取り柄もないから」「なんもできへんけど、それでもうちには、この子がいちばん」と言われ続けて育ってきたこと。大学進学をあきらめた彼女にとって、美大に進み、一人で好き勝手に暮らしている(ように見える)春子は、自身のアイデンティティを脅かすような存在だったのかもしれない。しかし、そんな春子自身も沙希と同じように、両親から「なんでもそこそこなんやから、なんもせんでええから」と言われて育ち、その言葉が呪いのように彼女の人生を縛っている。

 春子は沙希の人となりを知るにつれ、彼女を見離せないと感じるようになる。そして沙希もはっきりと考えを改めることはないが、家族とのケンカ、人生の転機を経て、春子やゆかりに頼るようになり、少しずつ変容していく。

 人それぞれの「普通」は、生まれた時代、地域、家庭環境など、不可抗力の要素に影響されているものだ。「普通」が他人によって揺り動かされたとき、相手を批判することは簡単だ。しかし時には悪態をついたり、気まずくなったり、衝突したりしながらも、相手の背景を推し量ることができれば、相手の理解できない面に折り合いをつけて、関係を再生することもできるのだ。

 そしてその過程で、自分の「普通」が数ミリ動いたり、そもそも「普通」であることは必須ではないと気づかされることもある。本作終盤、春子が「自分は普通じゃない」と思ってしまう“負い目”を学生時代からの友人に告白したとき、彼女は即座に「わたしは春子のこと普通とかおかしいとか、そういう基準で考えたことないよ」と返す。たくさんの「普通」が提示され、衝突する本作だからこそ、さりげなく置かれたこの会話は読者を癒やしてくれる。

 『待ち遠しい』には、どの「普通」が正しいといった、わかりやすいカタルシスはない。しかしそれは、私たちが生きる現実そのものでもある。勝ち負けも間違いも衝突も「日常」という大河がのみ込み、一見淡々と日々を紡ぐ春子たち。彼女たちを通して、読者自身の日常に立ち向かう力が蓄えられる一冊だ。
(保田夏子)

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』レビュー:差別の応酬を乗り越え、多様性を成熟させる「元・底辺中学校」生徒の奮闘記

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』レビュー:差別の応酬を乗り越え、多様性を成熟させる「元・底辺中学校」生徒の奮闘記の画像1

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

■『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ、新潮社)

【概要】

 アイルランドの父を持ち、日本人(著者)を母に持つ英国生まれの息子が、人種差別が根強く残る地域の中学校に通うことを決めた――。殺伐とした英国の縮図のような「元・底辺中学校」で、ぶつかり合いながらもたくましく過ごす息子や友人たちの日常を描くノンフィクション。著者は、保育士として見た英国社会を活写したルポタージュ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』で、新潮ドキュメント賞を受賞したブレイディみかこ。英国で教育現場に携わったこともある著者ならではの視点で、今の英国が向き合う混乱と、それに立ち向かう人々が描かれる。

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 7月24日、英国では、メイ前首相に代わり、ボリス・ジョンソン首相が就任した。新首相がEU強硬離脱を宣言したことで、英国は欧州のみならず、世界からその動向を注視されている――とはいっても、多くの日本人にとって英国の社会事情はかなり遠い話だ。しかし英国は、日本が近い将来確実に直面し、かつ悩み惑うであろう問題にすでにぶつかり、向き合いつつある“先輩”なのかもしれない。そう感じさせたのが、英国在住のブレイディみかこ氏によるノンフィクション『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)だ。

 白人が圧倒的マジョリティーとして、1991年には人口の94%を占めていた英国。経済のグローバル化や人的移動、少子化が進んだ結果、2011年の調査では白人の割合は87%まで減少した。経済的に成功した移民は子どもを教育レベルの高い学校に入れるため、英国では学費も学力レベルも高いほど人種に多様性があり、一方で学力レベルが低い公立学校には白人労働者階級の子どもが集中するという、著者が“人種の多様性格差”と名付けてしまうような現象が起こっている。

 それまで、比較的裕福(つまり人種も多様)なミドルクラスの子どもが通う地域一番の教育校とされる小学校で、「人種差別はあってはならないもの」と学んでいた著者の息子は、中学進学時に、白人労働者階級の子どもが多く通う「元・底辺中学校」を選んだ。音楽やダンスなど生徒が積極的に興味を持つ分野の教育に力を入れることで、生徒の意欲を育み、学力ランキングも上げることに成功したという、雑多だが活気のある学校だ。しかしそこで息子は、今まで関わりの少なかった層の人々と触れ合い、ミドルクラスに属していては見えない、英国のある種の「現実」とぶつかり、戸惑うことになる。

 通学中に見知らぬ男性に「ファッキン・チンク」(※中国人、ひいては東洋系に向けた差別用語)とののしられたり、自身も移民なのにあからさまに人種差別をする同級生・ダニエルに怒りを覚えたり、衣食住が十分に整わない「アンダークラス(※日本でいう生活保護に近い福祉サービスを受ける層)」に属し、万引で苦しい生活を補おうとする同級生・ティムと出会ったり――。11歳の少年が引き受けるには複雑で重い日々のトラブルに、11歳だからこそ真っすぐ、正面から体当たりでぶつかっていく日常が、母である著者を通して描かれていく。

 著者の息子が持ち帰ってくる日々の悩みは、英国をはじめとする社会がぶち当たっているひずみみそのものだ。「元・底辺中学校」は、人種や国籍の多様性に乏しい代わりに、貧富の差や家庭環境には大きなバラつきがあった。「多様性はいいこと」だと学校で学んでいた息子は、頻発するトラブルの厄介さに「どうして多様性があるとややこしくなるの?」と母に質問する。

「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」

「楽じゃないものが、どうしていいの?」

「楽ばっかりしてると、無知になるから。(略)多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」

 多様性は、差別意識も複雑なものにする。比較的裕福な家庭のダニエルは、金銭的事情で生活用品を十分にそろえられないティムをバカにし、対して英国人であるティムは東欧系であるダニエルの人種を差別することで巻き返そうとする。それは、社会のいたるところで起こっている、差別の応酬だ。対象は人種や国籍、性別に限らない。貧富、階級、出身、性的指向、高齢者と若者などさまざまなレイヤーの差別が複雑に絡み合い、単純に善悪をつけられるほうがまれだ。しかし、複雑な状況について知り、考えることをあきらめれば、それぞれの階層の分断が深まっていくばかりだ。

 息子たちは、学校という場で、その分断と向き合わざるを得ない。いじめも暴力も差別もまん延する中で、息子とダニエルは好きな音楽や映画を通して友情を深め、取っ組み合いのケンカをしたダニエルとティムはサッカーを通して相手を少しずつ認め始める。分断された端と端から、少年たちが小さな手を取り合っていくさまは、大人にとってはまぶしく、学ばされることも多い光景だ。

 年齢より大人びた息子の考え方は、自身がミックスとして生まれ、英国にも日本にもはっきりとした帰属意識を持てないことと無関係ではないだろう。英国では「チンク」とあおられるのに、日本に帰省すれば「ガイジン」と言われたり、知らない中年男性に「YOUは何しに日本へ?」と、しつこく絡まれたりする。ルーツとなるどちらの国からも「異邦人」として扱われる違和感が、彼に成熟を促し、人を区別することにまつわる感覚を繊細にしている。

 日々分断と差別による対立に向き合うための一助として、息子は学校教育で学んだ「エンパシー(empathy)」という概念について両親に語る。エンパシーとは、息子にとっては「自分で誰かの靴を履いてみること」であり、著者は「自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだと思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のこと」だとつなげる。それは、英国のみならず、世界中のそこかしこで起きている混乱を乗り越えるために、これから身につけなければいけない能力なのかもしれない。

 日本も、ここ5年で在留外国人が増加の一途をたどり、過去最高を更新し続けている。英国が移民の流入に混乱するさまを、遠い国のこととして見ていられる時間はもう少ないかもしれない。遠くない将来には、ルーツも信念も宗教観も多様な人々と、今よりさらに身近に関わり合って生きることになるだろう。それは、圧倒的なマジョリティとして“楽”に生きてきた人――つまり多くの日本人が、“うんざりするほど大変だし、めんどくさい”ことと向き合うことを意味する。それを受け入れようと受け入れまいと、多様性の広がりが逆行することはない。それならば、前を向いて進んでいくしかない。そう考える人々にとって本書は、肩肘張らない参考書になるはずだ。
(保田夏子)

『栗本薫と中島梓』レビュー:家庭環境と過剰な想像力による孤独感をBL作品として昇華した、稀代のストーリーテラー

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

『栗本薫と中島梓 世界最長の物語を書いた人』(里中高志、早川書房) 

【概要】

 100巻を超えるファンタジー小説『グイン・サーガ』シリーズや、ミステリー小説『伊集院大介』シリーズなど、エンターテインメント作家としての功績が広く知られている「栗本薫」。彼女は評論家、音楽家、舞台演出家の「中島梓」という一面も持っていた。幅広い活動と超人的な創作スピード、1980~90年代のサブカルチャー黄金期を支えていた彼女。周囲の人々への綿密な取材と資料で、彼女の人生と内面に切り込んだ評伝。

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 昨年多くのドラマ賞を受賞した『おっさんずラブ』(テレビ朝日系)に続き、19年4月期のドラマ『きのう何食べた?』(テレビ東京系)も視聴者からの大きな支持を集めた。10年ほど前には「隠れて楽しむもの」という人も多かった“ボーイズラブ(BL)”ものが、テレビというマスメディアを席巻したことに、時代の潮目を感じる人も少なくないだろう。矢野経済研究所によると、自身を「BLオタク」と考える人は推定50万人。もはやメジャージャンルとして定着感があり、今後ますます商業的な広がりが予見される。

 「ボーイズラブ」という言葉が生まれたのは約30年前、1990年代初頭。それまでは、男性同士の関係性を主題に書かれた女性向けコンテンツは「JUNE」「やおい」などと呼ばれることが多かった。「JUNE」の語源は、78年に創刊された日本初の「女性読者を対象にした、男性同士の恋愛を書いた創作」を専門とする商業誌「JUNE」(サン出版、創刊当時は「comic JUN」)からくる言葉だ。

 厳密に言えば「JUNE=BLの前身」ではない。しかし、“主に男性同士の濃い関係性を題材にしたコンテンツ”という大枠、書き手、読者層など重なり合うところも多く、JUNEは、現在大きく広がるBLの源流のひとつであり、80年代のJUNEの隆盛、書き手の輩出が、現在のBLに果たした役割は小さくはないだろう。

 そんな雑誌「JUNE」の創刊に深く関わり、読者の開拓、書き手の育成にも努めたのが、中島梓だ。今回は、「JUNE」やBLへの寄与という側面から、『栗本薫と中島梓』を読み解いてみたい。

 77年、24歳で評論家「中島梓」として群像新人賞を受賞し、その翌年には「栗本薫」名義で江戸川乱歩賞を当時の最年少で受賞。主に2つの名義で作品を世に出し続けた彼女は、評論、ファンタジー、ミステリー、SF、ホラー、そして男性同士の性愛を描いたJUNEなど多彩な分野で活躍し、56歳で亡くなるまでに424冊(文庫化、再販を除く)にも上る著作を出版した。さらに、舞台にのめり込み、何度も脚本・演出を手掛け、ミュージシャンとしてピアノ演奏やライブ活動も定期的に行い、長唄や清元の名取でもあった。加えて同人誌も販売し、パソコン通信でファンと日々やりとりし、mixi上でも日記を書き、その上で発表の当てのない小説を書きためていたという。

 「JUNE」初代編集長には「何かをしていないと正気を保てないというくらい、病的なほどエネルギッシュ」、ファンクラブ会長には「書いてないと死んじゃうような人」と評された。中島の夫や息子、母の回想からは、自身でも制御できない過剰な想像力に振り回され、孤独感や不安を手離せない生涯だったことがうかがえる。著者は、その一因を家庭環境にあると推察する。

 裕福な家庭に長女として生まれ、何不自由なく育ってきた中島だが、彼女の弟は生後間もなく重度の障害を抱えた。中島梓の名前で書かれた私小説『弥勒』によると、主人公(中島)の母は「お姉ちゃんがとこちゃん(弟)の分までおつむをもってっちゃったからね」「本当はともたん(弟)は大秀才だったのよね」と口癖のようにつぶやく。中島は、どうしても弟中心に回らざるを得ない家庭に複雑な思いを抱え、弟への嫉妬自体に罪悪感を覚える。著者や中島の夫は、彼女が両親から十分な愛情を注がれていたとみているものの、当時に、両親と弟の強固な絆からはじき出されたという孤独感が、異様とも呼べるほどの創作意欲に影響を与えたと考察している。

 彼女がデビュー前に書きためていたのが、初期の代表作ともなる『真夜中の天使』だった。19歳の美少年が芸能界の大物男性たちに抱かれながら歌手として成り上がり、マネジャーとの暴力的とも呼べる愛を紡ぐ。本作のあとがきの中で、中島(栗本)はこうつづったという。

「ただ私にとってそのとき切実に知りたかったこと――それは、一人の人間が、どうしたら、ほんとうに孤独ではなくなるか、ということでした。(略)かれらはみんな、何とかして他人に、ものすごく、全存在をかけるほど強烈に関心をもってほしかっただけなのです」

 『栗本薫と中島梓』の著者は、「中島梓の活動のなかで、<JUNE>という雑誌は非常に重要な位置を占めている」という。創刊初期、注目の新人作家として多忙だったにもかかわらず、中島・栗本名義のほかにも複数の筆名で小説を「JUNE」に寄稿し、新人育成も買って出るほど精力的に活動した。なぜ中島は「JUNE」というジャンルに強く固執したのか。彼女は、投稿小説を講評するコーナー「小説道場」内で、「JUNEにおける男どうしの必然性というのは『この個人でなくてはならない』ことの強調」であると説いている。さらに、JUNE小説は「誰からも理解されないのではないか」「他の人間とひとつになることができないのではないか」といった少女の孤独や不安に応えるものとして存在するジャンルだと解説(『小説道場』第1巻)する。

 そして「男性同士の性愛関係に熱狂する女性オタク層」――今では“腐女子”と呼ばれる層については、現代に通じるジェンダー的な感覚の鋭さをもって論じる。

 中島は、当時の腐女子層を「現代社会で弱者に立たされた者たちの過剰適応」だと捉えていた。91年当時の人気漫画やアニメにおいて、女性としての評価が「いっそう身も蓋もない美醜や老若、性としての優劣に集約」されるようになったと指摘。男性同士の関係性をメインにする作品は、そんな社会の選別のまなざしから逃れつつ、「人に人を欲させる愛という見知らぬ素材を存分に解剖したりいじりまわしたりすることができる」と分析している(『コミュニケーション不全症候群』ちくま文庫)。

 これらの考察は、80~90年代初めに書かれた論であり、社会環境や、ジャンルそのものの成熟段階が全く異なるため、現代では当てはまらない面が多々見られる。しかし、まだ一部にしか知られていなかった「男性同士の関係に熱狂する女性オタク層」を、彼女らの苦しみに寄り添う形で評論の俎上に載せ、外部との橋渡し役になった功績は大きい。

 中島は、デビュー前から晩年までJUNE小説を書き続けた。それはもちろん、あふれるように湧き出たアイデアの泉によるものであるだろう。しかし『栗本薫と中島梓』を読むと、創作衝動の代償のようにつきまとう孤独感から生涯目をそらせなかった彼女が、自分と同じような不安を抱える少女への助けになりたいという願いを込めて、JUNE小説を世に送り出し続けていたようにも思える。現代のBLの隆盛、華やかな広がりの底には、中島の、そして幾人もの書き手による救済の意思が、今もひそやかに流れているのかもしれない。そんな思いに至ってしまう一冊だ。

(保田夏子)

『彼女が大工になった理由』レビュー:“ニュースサイトの仕事”に疲れた彼女が、“手で作る仕事”から得た学び

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■『彼女が大工になった理由』(ニナ・マクローリン著、宮崎真紀訳/エクスナレッジ)

【概要】
 仕事を辞め、アパートを引き払い、恋人とも別れた30歳女性が、全くの未経験から大工の世界に飛び込んだ――。ボストンの新聞社で一日中パソコンに向かい続けることに疲弊した著者が、大工という職業に就き、戸惑い失敗を重ねながら新たな自分を発見した数年を振り返る、異色の大工エッセイ。

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「目覚めている間はたいていパソコンの画面の前でクリックしているようになって何年かすると、自分が椅子の上に乗ったただの肉のかたまりになってしまったことに気づいた。(略)脳みその皺がしだいに伸びて、ゆっくりと頭が鈍り、怠惰になっていく」

 パソコンの前で一日中デスクワークをする人、何時間もインターネットを見続けてしまうような人なら、誰もが自分のことを言われているようでヒヤリとしてしまうこのテキストは、ノンフィクションエッセイ『彼女が大工になった理由』(エクスナレッジ刊)の著者ニナ・マクローリンが、ニュースサイトの編集に倦み疲れていた時を振り返った言葉だ。

 ボストンの新聞社に勤め、ジャーナリストの仕事を天職だと思っていたニナ。就職した当初は楽しく、充実した日々を過ごしていたが、インターネットの台頭によって仕事の内容が徐々に変化し、「無数のクリック」が仕事の大半になったとき、生きる意味を見失ってしまう。「実体があるものを相手にしたい、手でさわれるものができあがる仕事がしたい」という思いで仕事を辞め、同時に恋人とも別れ、引っ越し、人生をリセットすることになる。

 そんな彼女が、偶然見つけた「大工見習い:とくに女性の方、応募をお待ちしています」という募集に飛びつき、募集主である女性大工・メアリーに情熱を認められ、採用される。プラスドライバーとマイナスドライバーの違いもわかっていない、本当に素人からの転身だった。30歳・未経験から大工見習いを始めることになったニナが、何もかもが初めての環境の中で、失敗を重ねながらもさまざまな技術をゆっくりと自らのものにしていく様子がつづられていく。

 本書の大半は、大工としての日常を活写するエッセイだ。タイルを貼り、階段を解体し、テラスを作り、壁を設置する。その日の気候や現場にいる同業者や雇い主との会話、工具の扱いや作業内容を細かに語り、さらに、その作業でどんなに肉体を消耗したかについて丁寧につづる。それは、大工という職業に興味がない人にとっては、退屈な描写になる――かと思いきや、その描写こそが、このエッセイにほかにはない魅力を与えている。

 自分の力で新たな壁ができあがったことに興奮し、戸棚の出来栄えに誇りを持つニナの様子は生き生きとしていて、体を動かして実体のあるものを生み出したり、触れ合ったりすることの楽しさを雄弁に語っている。「抽象などいっさいない、完全な現実」と彼女が感嘆するように、物理的に疑いようのない仕事の成果が彼女の自信につながり、肉体は疲労していても、帰路に就く彼女の世界は記者時代よりずっと明るく輝いている。

 そしてもうひとつ、本書の大きな魅力は、ニナのボスである女性大工・メアリーの存在だろう。白髪まじりのショートヘアで43歳、歯はガタガタで口数は少なく、車や家は乱雑に散らかっている。ニナよりさらに小柄で高い声で話し、「妖精さんのよう」と描写されたメアリーだが、彼女だけ想像上の存在なのでは、と疑ってしまうほど上司として理想的な存在だ。

 全くの未経験であるニナに対して根気強く接し、自分の持つ知識や経験値を惜しげもなく分け与える。メアリーのアドバイスを聞かなかったせいでニナが失敗しても、ニナのうっかりした行動で親指の爪をはがされても、「大工仕事の大部分は失敗をどう挽回するか考えることだよ」と諭し、冷静にフォローに回る。職人気質でぶっきらぼうではあるが、娘について話す時は柔らかい表情を見せ、パートナー(メアリーは同性愛者で、女性と結婚している)には甘い声で優しく接する。上司として、職人として、ほとんど完璧な振る舞いを見せるメアリーのファンになってしまう読者は多いだろう。

 どんなに失敗しても、知恵を絞ってフォローし、じっくり指導してくれるメアリーの仕事への態度から、次第にニナも忍耐強さを学びとっていく。仕事でも恋愛でも人間関係でも、ひとつのミスで投げ出さず、時間と労力を注ぐことが重要だと悟ったニナは、自身の変化を受け入れ、いままでになかったほど深くわかり合える恋人を得て、さらに感情的なしこりがあった父親との関係も、穏やかに再構築していくことになる。本書は30代女性の、静かでダイナミックな成長物語でもあるのだ。

 エッセイの中には、しばしばアントン・チェーホフ、サミュエル・ベケット、ガブリエル・ガルシア=マルケスといった作家たちの名作や古典からの引用がなされ、彼女の思索を華麗に彩っている。しかし、「世界じゅうの言葉を集めても本棚はできない。人がやるのを観察し、自分でやり、失敗し、何度も挑戦したすえに、やっと完成するのである」という彼女の実感に満ちた素朴な言葉は、本書の中ではそれら文豪の言葉に負けないほど美しく強い。

 抽象的な思索に耽り、バーチャル世界に身を置くことも大事だ。しかし、どちらか一方ではなく、抽象と具象を両輪としてバランスよく走らせた時の充実感は、より人生を豊かにするのかもしれない。ニナは、本書を出版した後、大工業と著述業を両立し、活躍を続けている。インターネットの発達で、人類史上、おそらく最も急激に抽象にまみれている私たちだからこそ、本書の言葉に耳を傾けることは、自身の人生を見直すヒントになるだろう。

(保田夏子)

『私がオバさんになったよ』レビュー:“排他的な日本”を生き抜く上で、最も必要なスキルは……

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■『私がオバさんになったよ』(ジェーン・スー、幻冬舎)

『私がオバさんになったよ』レビュー:排他的な日本を生き抜く上で、最も必要なスキルは……の画像1

■概要

 『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(同)で、アラサー女性が引っかかりがちな諸問題を軽妙に提示し、講談社エッセイ賞を受賞したコラムニスト、ジェーン・スー氏。『私がオバさんになったよ』は、彼女が「テーマを設けず自由に話したい」と思った8人の“中年”と、縦横無尽に語り合った最新対談集。

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 大型連休前の忙しさに流される中で、気がつけば「人生再設計第一世代」と定年したてのおじさんのような名札を貼られていた30代後半~40代の氷河期世代。個人的には「再設計もなにも、まだ一度もまともに人生設計したことない」という困惑はあるものの、働き方、家族の在り方、社会保険制度、何をとっても親世代のような人生を送るのは難しいだろう。『私がオバさんになったよ』は、その世代が、対話を通して自分たちの生き方やスタンスを改めて整理し、「人生後半」の先にある(はずの)明るさを信じようとする対談集だ。

 対談相手は、タレント・光浦靖子、作家・山内マリコ、脳科学者・中野信子、社会学者・田中俊之、漫画家・海野つなみ、ラッパー・宇多丸、エッセイスト・酒井順子、文筆業・能町みね子。さまざまなジャンルでオリジナルな活躍をする中年男女たちが、気の赴くままに自由に話しつつ、若さを失ったことでぶつかった壁、逆に得た視点などを気さくに語り合う。

 その中で、特に出色となっているのは、脳科学者・中野氏との対談だ。中野氏の科学的見地に、コラムニストといういわば文系の代表のようなジェーン氏の知見が加わり、今の日本を覆う「時代の空気」とその先を予見する、鋭敏な社会分析にもなっている。

 話題は多岐に広がっているが、重点的に語られたテーマのひとつは「多様性」だ。近年にその重要性が叫ばれつつ、「そのあとすごいスピードで『排他』が来たから混乱する」と漏らすジェーン氏に、仲間意識と他者への攻撃性に相関を見いだす医学研究の結果を例に挙げながら、「不寛容はいけない、仲良くしましょうって口では言うんだけど、(略)でも、この仲良くしましょうこそが不寛容の源になっている」と打ち返す中野氏。

 仲良くしようとすればするほど、他者への攻撃性が高まってしまうという前提から2人が提示する多様性への最適解は、「放置」「干渉しない」だ。「放置しつつ、社会で見守り、困っている時には助ける」というシステムを日本で成立させる困難さを踏まえた上で、それでも中野氏は「こんなに私たちが多様でなければならなかった事情がある」と、多様性が種の生存戦略として有効であることを科学的に解説する。

 多様性に乏しい種は、外的な環境変化で簡単に滅びやすい。加えて中野氏は、「集団に馴染めなかった奴ら」が人類の活動範囲を広げてきた人類史の一面も挙げる。もともと肥沃なアフリカの森の中で暮らしていた人類の祖先のうち、逸脱者=マイノリティーが森を下り、危険な狩りを始め、寒冷地や砂漠で暮らす術を編み出し、海を渡る――。「人類の歴史は逸脱者の歴史」でもあり、多様性を抱えていればいるほど、種としてタフになることが、さまざまな角度から指し示される。それは、集団の在り方としても同様だろう。

 2人は、「干渉できない者には愛着はわかない」という率直な感覚を認めつつ、他者の多様性を尊重するための第一歩として、「自分自身も多様性の一部を担っていると自覚する」ことを勧める。それは、それぞれ違う分野において働き盛りの最前線を走っていながら、若手でも大御所でもない“オバさん”同士だからこそたどり着く結論であり、対談全体に、今の日本において、社会性と多様性の両輪を走らせるための手がかりがちりばめられている。

 ほかにも、男性学を研究する田中俊之氏や『逃げるは恥だが役に立つ』(講談社)の作者・海野つなみ氏との対談から、男性にかかっているプレッシャーがコインの裏表のように女性の生きづらさにつながっているという考察や、地方でも東京でも社会階層の分断・固定化が強化されている現状を見据える作家・山内マリコ氏との対談など、本書には、そこかしこに今の社会が抱える歪みと、その歪みに向かい合ってみた人の“途中報告”が詰まっている。

 さまざまな対話に通底するメッセージは、「普通はこうだから」「これまではこうだったから」などという枠にとらわれず、自分でひたすら考え抜くことの重要性だ。オバさんになった私たちは、結婚、育児、介護、病気、それぞれバラバラの事情と責任を抱えていて、中年以降の人生をどう歩むにも自分なりの解答を見いだすしかない。あまりにも漠然とした問いの厳しさに途方に暮れたとき、この本に登場する、考えることを諦めない面々の「人生、折り返してからの方が楽しい」という確信は、迷いの先にある未来におぼろげな光を当ててくれるだろう。本当はオバさんだけでなく、男女や世代にかかわらず、幅広い大人に読まれてほしい一冊だ。