「普通のおばちゃん」が“やりたい”を貫く7年半――『お遍路ズッコケ一人旅』で描かれた40代女性の情熱

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

『お遍路ズッコケ一人旅 うっかりスペイン、七年半の記録』(波環、青弓社)

【概要】

 40歳まであまり運動もしてこなかった中年の著者が、東日本大震災で徒歩移動した経験をもとに、いざという時、自分と息子を守るために「足は速くも美しくもなくていいが、使えるようにはしておかなくてはならない」と決意。徒歩能力を強化しようと「四国お遍路」に挑戦。さらに、スペインからキリスト教聖地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラまで100km近く歩いた巡礼を振り返ったエッセイ。ひたすら歩くことに魅せられた、7年半の記録がつづられる。

*********

 『お遍路ズッコケ一人旅 うっかりスペイン、七年半の記録』は、ほっこりした素朴なタイトルと表紙で気づかれにくいが、中年女性が自らの冒険心を躍らせた、爽快な一冊だ。普段は北海道で会社員として勤めながら一人息子を育てていた、自称「ごく普通のおばちゃん」が、「やってみたい」という衝動に従い、新たな世界を開いた7年半の記録が、生き生きとつづられている。お遍路に適した服装や装備、宿の実際など体験を元にした初心者に向けた役立つ読みどころも多くあるが、もし、お遍路やスペイン巡礼に興味がない人が読んだとしても、ゼロから新たな何かに向かって一歩踏み出したくなるような魅力に満ちている。

 「お遍路(四国遍路)」とは、四国に点在する八十八の番号が付いた弘法大師ゆかりのお寺にお参りをすること。全長約1,100~1,400km(ルートによって異なる)に及ぶ行程を、著者は40代から50代初めにかけて9回に分けて徒歩で巡り切る。さらに、スペインに飛び、10日間でキリスト教の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの100km近くの巡礼を達成。もともと「走る、跳ぶ、スピードに対応する、私はどれもまったくだめ」と、運動が得意とはいえなかった中年女性にとっては、ハードルの高い挑戦のようにも思えるが、彼女にはどうしても祈願したい事柄があったわけではなく、信仰心があつかったわけでもない。純粋に「歩いて旅をする」という行為に、本人にも飼いならせないほどの情熱が生まれ、「誰にも頼まれたわけではないし、そこに意味なんて求めていなかったけれど、やらずにいられなくて、やってしまった」というように、ただただ、その熱に突き動かされているのだ。

 著者も幾度か「取り付かれた」「狂気」と表現する通り、はたから見れば不可解な情熱が、著者をどんどん新たな世界に導いていく様子が鮮やかに描かれる。遍路を体験しなければ縁のなかった、後に友人となる人々との出会いや、地元のあたたかいもてなし。議論を吹っかけてくる不思議なおじさん。長距離移動で爪がはがれるほど酷使される足をケアするためにテーピングを覚え、股ずれを防ぐためにVIO脱毛を始め、体力をつけるためにスポーツジムに通い始める。

 さらに著者は、日本ではほとんど紹介されていないスペインでの巡礼ルートを知るために、ガイド本の英訳を始める。スペインの公営巡礼宿では、男女相部屋でドイツの若者に挟まれて眠り、ガリシア語やスペイン語をほとんど話せないまま、道程の先々で自身の「おばさん力」を発揮して地元の同世代女性と仲良くなっていく――。

 著者は歩くことへの情熱を「誰に強いられたものでもないし、お金にもならないし、誰かに認めてもらうためでもない。やらないという選択肢がなかっただけだ」とシンプルにつづるが、自らの好奇心の向く先を真っすぐ見つめ、試行錯誤を積み重ねながらやりたいことを実現する姿は、何歳であってもその人をパワフルに見せ、読む人をも元気づける。

 仕事やお金になる見込みもない。時間や労力をかけても、失敗するかもしれないことをやりたいと思っても、実行するのは簡単ではない。仕事や家族などさまざまな事情で、思うように身動きが取れない時期もある。それでも「スキあらば、やりたいことはやってみよう」「整った道ではなくても、こっそり一人で歩いてみよう」と、本書は少しずつ、できる範囲で自身の衝動に従う楽しさを見せてくれる。「いつか」と思っていても、時間は有限で、中年を迎えれば体力も知力も無限に伸びるものではない。さまざまな挑戦を経てもなお「今しかやれてないことがやれているだろうか」と自問で結んでいる著者の姿は、読者の冒険心を少なからずたきつけるだろう。
(保田夏子)

「普通のおばちゃん」が“やりたい”を貫く7年半――『お遍路ズッコケ一人旅』で描かれた40代女性の情熱

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

『お遍路ズッコケ一人旅 うっかりスペイン、七年半の記録』(波環、青弓社)

【概要】

 40歳まであまり運動もしてこなかった中年の著者が、東日本大震災で徒歩移動した経験をもとに、いざという時、自分と息子を守るために「足は速くも美しくもなくていいが、使えるようにはしておかなくてはならない」と決意。徒歩能力を強化しようと「四国お遍路」に挑戦。さらに、スペインからキリスト教聖地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラまで100km近く歩いた巡礼を振り返ったエッセイ。ひたすら歩くことに魅せられた、7年半の記録がつづられる。

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 『お遍路ズッコケ一人旅 うっかりスペイン、七年半の記録』は、ほっこりした素朴なタイトルと表紙で気づかれにくいが、中年女性が自らの冒険心を躍らせた、爽快な一冊だ。普段は北海道で会社員として勤めながら一人息子を育てていた、自称「ごく普通のおばちゃん」が、「やってみたい」という衝動に従い、新たな世界を開いた7年半の記録が、生き生きとつづられている。お遍路に適した服装や装備、宿の実際など体験を元にした初心者に向けた役立つ読みどころも多くあるが、もし、お遍路やスペイン巡礼に興味がない人が読んだとしても、ゼロから新たな何かに向かって一歩踏み出したくなるような魅力に満ちている。

 「お遍路(四国遍路)」とは、四国に点在する八十八の番号が付いた弘法大師ゆかりのお寺にお参りをすること。全長約1,100~1,400km(ルートによって異なる)に及ぶ行程を、著者は40代から50代初めにかけて9回に分けて徒歩で巡り切る。さらに、スペインに飛び、10日間でキリスト教の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの100km近くの巡礼を達成。もともと「走る、跳ぶ、スピードに対応する、私はどれもまったくだめ」と、運動が得意とはいえなかった中年女性にとっては、ハードルの高い挑戦のようにも思えるが、彼女にはどうしても祈願したい事柄があったわけではなく、信仰心があつかったわけでもない。純粋に「歩いて旅をする」という行為に、本人にも飼いならせないほどの情熱が生まれ、「誰にも頼まれたわけではないし、そこに意味なんて求めていなかったけれど、やらずにいられなくて、やってしまった」というように、ただただ、その熱に突き動かされているのだ。

 著者も幾度か「取り付かれた」「狂気」と表現する通り、はたから見れば不可解な情熱が、著者をどんどん新たな世界に導いていく様子が鮮やかに描かれる。遍路を体験しなければ縁のなかった、後に友人となる人々との出会いや、地元のあたたかいもてなし。議論を吹っかけてくる不思議なおじさん。長距離移動で爪がはがれるほど酷使される足をケアするためにテーピングを覚え、股ずれを防ぐためにVIO脱毛を始め、体力をつけるためにスポーツジムに通い始める。

 さらに著者は、日本ではほとんど紹介されていないスペインでの巡礼ルートを知るために、ガイド本の英訳を始める。スペインの公営巡礼宿では、男女相部屋でドイツの若者に挟まれて眠り、ガリシア語やスペイン語をほとんど話せないまま、道程の先々で自身の「おばさん力」を発揮して地元の同世代女性と仲良くなっていく――。

 著者は歩くことへの情熱を「誰に強いられたものでもないし、お金にもならないし、誰かに認めてもらうためでもない。やらないという選択肢がなかっただけだ」とシンプルにつづるが、自らの好奇心の向く先を真っすぐ見つめ、試行錯誤を積み重ねながらやりたいことを実現する姿は、何歳であってもその人をパワフルに見せ、読む人をも元気づける。

 仕事やお金になる見込みもない。時間や労力をかけても、失敗するかもしれないことをやりたいと思っても、実行するのは簡単ではない。仕事や家族などさまざまな事情で、思うように身動きが取れない時期もある。それでも「スキあらば、やりたいことはやってみよう」「整った道ではなくても、こっそり一人で歩いてみよう」と、本書は少しずつ、できる範囲で自身の衝動に従う楽しさを見せてくれる。「いつか」と思っていても、時間は有限で、中年を迎えれば体力も知力も無限に伸びるものではない。さまざまな挑戦を経てもなお「今しかやれてないことがやれているだろうか」と自問で結んでいる著者の姿は、読者の冒険心を少なからずたきつけるだろう。
(保田夏子)

本国で13万部の大ヒット! 注目の韓国文学『わたしに無害なひと』が、“私たち”に響くワケ

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『わたしに無害なひと』(チェ・ウニョン著、古川綾子訳、亜紀書房)

【概要】

 2013年にデビューし、初の単行本『ショウコの微笑』が韓国で瞬く間にベストセラーとなった文学界期待の作家、チェ・ウニョンの2冊目の単行本。主に思春期から青年期にかけて起こった、忘れられない苦い思い出を繊細に回想する7つの中短編が収録されている。本作は、韓国では2018年“小説家50人が選ぶ今年の小説”に選出され、さらに第51回韓国日報文学賞を受賞。累計販売数も13万部を超え、好評を博している。

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 幼少期から青年期にかけて一時期を親しく過ごしたのに、苦い別れ方をした友人や恋人。その人なしでは今の自分はいないと思えるほど深く関わり合ったのに、もう会わない人々。もし会ったとしても、以前の関係には戻れないとわかっている人々。そんな相手との記憶はどんなに鮮やかでも、持ち主のいなくなったアルバムのように、永遠にひもとかれることはない。

 『わたしに無害なひと』は、フラッシュバックするほどヒリヒリと焼き付いているのに一生誰かに語ることもない、大人になれば誰もが記憶の底に埋めているような思い出を、ひそやかに、しかし美化せず厳しく活写してくれる短編集だ。

 本書に収められた7つの短編のほとんどは、時間をかけて紡いだかけがえのない関係と、そのあっけない喪失にまつわる回想だ。長く付き合った恋人、幼なじみの隣人、姉妹、ネットで心の中を見せ合い親しくなった友人、学生時代の仲良しグループ、少女時代に身を寄せた親戚、海外移住先で出会った異邦人。友情でも恋愛でも家族関係でも、ぴったりとお互いがかみ合っていた頃の世界の輝き、通じ合わなくなったときの戸惑いやいらつき、そんな移ろいやすい関係の機微を、読者にそのまま体験させるかのように抒情的に描き出す。

 そして、美しい風景やこまやかな心理描写の中に、必ずと言っていいほど現代韓国の抱える社会問題の一端がさりげなく織り込まれている。格差問題、家庭内暴力、パワハラ、非正規労働者の搾取、いじめ、デートDVなど、その多くは韓国特有の問題ではなく、日本社会にも通じるゆがみだ。登場人物の多くは繊細な若者で、社会的な強者や権力者からさまざまな形で圧力、時には暴力を受ける。特に家父長制に基づく男子優先志向は、日本より重いゆがみがかかっていると思わせる部分もあるが、だからこそ、その圧力に対して鈍感でありたくない、弱くても誠実に生きる人々に公平でありたいという語り手の姿勢がどの作品にも貫かれ、国境を超えて私たちにも響く。

 本作の最も特徴的で巧みな構造は、そんな“強者の無神経さや残酷さ”を嫌悪している語り手のほとんどが、大切な相手を“無神経で残酷に”傷つけてしまった過去を回想しているところだ。

 自分の意向なのに「あなたのためだ」と恋人に別れを切り出したイギョン(「あの夏」)、親友の真剣な苦しみと愛情をまともに取り合おうとしなかったナビ(「砂の家」)、カムアウトした友人を「人間じゃないみたいに」見て何も言えなかったミジュ(「告白」)――。人を傷つける無神経な振る舞いを憎んでいるのに、相手との関係において知らず知らず“強者”の側に立っていた時、大事だった相手に自分が同じことをしてしまう。そんな人間の弱さや醜さも含めて描き切っているからこそ、単なる“きれいな思い出”で終わらないインパクトを読者の胸に残していく。

 「差しのべる手」で描かれる、突然消息を絶った叔母のステージをこっそり観に行った語り手・ヘインが「暗いほうからは明るいほうがよく見えるでしょ。でも、どうして明るいほうからは暗いほうがよく見えないのかな」という言葉をふいに受け取るエピソードも暗示的だ。明るい場所に立つ人には、普通にしていたら暗いほうに立つ人が見えない。明るいほう――強いほうが弱者に無神経になれるのは、とびきりひどい悪人だからとは限らない。もしかしたら、自分も「明るいほう」に立ってしまえば、暗いほう――弱いほうの痛みは、目を凝らさなければ、想像しなければ、見えにくいものなかもしれない。

 弱いほうに立つ誰かを傷つけたくはない。それでも、一切誰も傷つけずに「無害」に生きてきたと胸を張って言える人は、ほとんどいない。語り手たちは、そのことにうっすら気づいていながらも、自分が「有害なひと」であった瞬間に鈍感になれない。その繊細さを少しじれったく感じつつも、「仕方がなかった」「相手も悪かった」と開き直れずに誠実にもがく彼女ら彼らの様子が、不思議と自分自身の忘れたくても忘れられない苦い記憶や傷を探し当てる。しかし、遠い過去となったからこそ、一歩引いてみられるようになっている自分に気づくはずだ。年を重ねるたびに味わい深くなる、何度でも読み返したい1冊だ。
(保田夏子)

少年アヤ、最新エッセイ『ぼくの宝ばこ』レビュー:“可愛いもの”を愛した「ぼく」がつづる、“なじめなさ”の記憶

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『ぼくの宝ばこ』(少年アヤ、講談社)

【概要】

『尼のような子』(祥伝社)、『焦心日記』(河出書房新社)など、自身のセクシュアリティや恋愛、家族や過去のトラウマとの対峙を、時に諧謔を交えながら研ぎ澄まされた文章で表してきた少年アヤの最新エッセイ集。好きなものを好きと言えなかった少年期や「オカマ」を自称していた過去を積み下ろし、あえて真っすぐに「かぐわしいもの、きらめくもの」への愛をつづり、自身の思い出をひもとく。女性マンガ誌「ハツキス」(講談社)に連載されたエッセイをもとに、大幅な加筆修正を加えて書籍化。

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「ぼくはかぐわしいものが好きです。きらめくものが好きです。それだけのことで、うんこみたいな扱いを受けてきました」

 胸をつく文章で始まる少年アヤの『ぼくの宝ばこ』は、少年アヤが愛してやまない美しいものや人、光景をそっと見せてくれるエッセイ集だ。幼少期の思い出から現在の話に至るまで、エピソードごとに小さなドアを開けて異なる世界をのぞくような楽しみがあり、それぞれ著者が浸った空気感ごと味わわせてくれる掌編が収められている。

 セーラームーン、サンリオ、少女マンガ誌の付録、ファンシーグッズ、セボンスター、竹下通り、祖母がくれたお土産、東京タワー、恋人――著者が見せてくれる「宝」は、いわゆる“可愛いもの”も多い。これらのものが大好きな人々にももちろんおすすめしたいが、“可愛いもの”とは一歩距離を置いてきた、なじめないと感じてきた女性にこそ、本作は深く刺さるかもしれない。なぜなら『ぼくの宝ばこ』には、可愛いものへの愛情と一緒に、“なじめなさ”の記憶が詰められているからだ。

 冒頭に引用した「ほんとうを生きたい」で示されている通り、著者にとって好きなものを真っすぐに好きと言うことは、同性の集団から外れること、時にあざけりの対象となることと同義だ。チャンバラやミニ四駆が大好きな「ただしい男の子」である同級生・しがくんとの交流を回想する「彼らとぼくのみぞ」。そこに描かれているのは、好きなものを素直に好きと叫べる同性への苦手意識と、かすかな羨望、絶望、それでも手放せない「かぐわしいもの、きらめくもの」で形づくられた聖域への小さな自負。

 著者の宝ばこに収められた大切なものたちは、理不尽な世界を生き抜くために、子どものころから慎重に編まれてきた命綱の一部だ。その命綱は、鏡で映したように「ただしい女の子」に上手になじめなかった女たちのもつれた記憶もたぐり寄せ、ゆっくりと解きほぐしていく。

 本書は、著者が少しだけ開けてくれたドアから、どこか人を安心させるような美しい世界を心ゆくまで満喫できるエッセイであると同時に、さまざまな局面で声を上げられなかった人の存在、もしくは幼すぎてうまく整理がつかなかった子どものころの記憶を、読者に意識させる。セーラームーンになりたいとストレートに言えなかった男の子の痛みを想像させる「ぼくはセーラームーンになれた」。「子どものころ、コンビニでエロ本が読めるのってうれしかった」と切り出しながら、なぜ性的表現にはゾーニングが必要かという問いへの一つの回答に美しく帰結する「うさぎちゃんをいじめるな」。好きなものを好きとはっきり顕示できない、さまざまな“クローゼット”への優しいメッセージとも読める「いっしょにおでかけ」。人に嫌われがちな毛虫が、踏み潰されそうになりながらけなげに道を横断しようとする姿に、消えてしまえとののしりを受けた自身を投影する「ちいさなものたちへ」――。

 少年アヤがその繊細な表現力、巧みな構成力、知性を駆使して組み立てたエッセイが架け橋となって、声を上げられずに「いないもの」とされる人々や、今この瞬間も見えないところで膝を抱える寄る辺ない子どものそばまで、私たちの想像力をつなげようとしてくれる。

 かぐわしいものやきらめくものが好きな男の子、というだけでうんこだと笑われる世界は、やっぱり理不尽だ。それはセクシュアリティに限らず、すべての“自分では選べない側面で多数派から外れてしまう子ども”が受ける痛みと地続きで、そういう子どもが普通に受け入れられる余地のある世界であってほしいと思う。そして、著者がさらっと看破する通り、可愛いものが好きな男の子をあざけってもよいとする思想の底には、「女たちの側に転落した男」への侮蔑もまたある。

 まだまだ「ただしい男の子」の生きやすさを前提とした世界で、著者がピエロにならず自虐せず、美しい言葉で好きなものを素直に好きと語ることは、世界の枠を緩ませる大きな意味がある。自分たちをうんこだと笑う集団の声がどんなに大きくなっても、鈍せず、怒り悲しみ、同時に愛するものにうっとりすることが、理不尽な世界を徐々に組み替えることに必ず連なっている。それが大げさだなんて、私は全く思わない。
(保田夏子)

『すべての夫婦には問題があり、すべての問題には解決策がある』レビュー:最も一緒にいる「他人」だからこそ、関係性のメンテナンスを

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『すべての夫婦には問題があり、すべての問題には解決策がある』(犬山紙子、扶桑社)

【概要】

 『負け美女』(マガジンハウス)や『言ってはいけないクソバイス』(ポプラ社)などの著書で知られ、現在は情報番組のコメンテーターとしても活躍するエッセイスト・犬山紙子が、3年にわたって多数の夫婦を取材した「週刊SPA!」(扶桑社)の連載「他人円満」を書籍化。自分と夫の過去も振り返りながら、元は他人同士だった夫婦がそれぞれの問題を乗り越え、円満に暮らすためのヒントを探す。

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 新型コロナウイルス感染防止のために外出自粛となり、自宅で配偶者と向き合う時間が増えたことで、良い意味でも悪い意味でも「こんな人だったんだ」と新たな面に触れた人は多いだろう。生涯のパートナーと決めた相手でも、もしくは長年の恋人や友人でも、時間がたつにつれ、当初の関係性とはズレが生じてくる。そこに戸惑いや引っ掛かりを感じる人におすすめしたい本が、『すべての夫婦には問題があり、すべての問題には解決策がある』だ。

 夫婦間に起きがちな問題――「ケンカ」「不倫・浮気」「家事の分担」「育児」「不妊治療・セックスレス」「パートナーの精神疾患」――ごとに、トラブルを乗り越えた夫婦に取材し、関係修復のヒントを探っていく本作。夫が家事をするようになった夫婦、妻の「察して」や夫の「キレ癖」がなくなった夫婦、不倫を経てより関係を深くした夫婦など、具体例は夫婦に限定されるが、本作に通底する「関係性というのは生き物なのでメンテナンスをしないといつか死ぬ」という価値観は普遍的で、さまざまな人間関係に応用できるものだ。

 本作には、事実婚を選択している夫婦、複数の生活拠点を持ち、妻と息子だけシェアハウス生活を送る夫婦など、トラディショナルな「夫婦」とは異なるスタンスで生きる人々にも取材している。そういう意味では、誰にでも適用できるマニュアル書ではない。しかし、多様な事例を知ることによっておのずと思考・選択の幅が広がり、問題を乗り越えた夫婦関係に、いくつかの共通点が浮かび上がってくる。

 不満やズレははっきり言葉で伝えること、相手の言葉も受け止め、「ケンカが成立する関係」を構築・維持すること、ケンカをいわゆる「論破」で終わらせず、有益なコミュニケーションにするために知識を得続け、価値観は更新され続けるべきものだと認識すること。要点だけ抜き出すと「わかってるよ!」と言いたくもなるかもしれないが、もし「わかってるけどできない」とすれば、そこには理由があり、読者自身が自らその原因を解きほぐすためのトライしやすい一言、小さな行動のヒントが多数詰められている。

 そして、多様な夫婦の事例に加えて、犬山氏と夫・劔樹人氏の夫婦の間に生じた危機もさらけ出して語っているからこそ、「結婚は人生の墓場にもなり得るし、聖域にもなる」「円満の秘訣は妥協ではない」という言葉は説得力を持つ。

 本作のタイトルにも込められている通り「もめることはしょうがないし、問題だって起こる」という前提に立ち、取材する著者の視点が、常にフラットで優しい。自分も相手も、強くて優しい人格者であればいいが、そうではない。1つや2つでは済まない欠点を抱えて、時には心身が弱り、間違うこともある。本書はそんな人間の弱さや過ちを糾弾するのではなく、弱い人間同士が夫婦として寄り合うことで強くなれる場合もある、そんな希望を見せてくれる。完璧ではない私たちが、完璧でないまま、関係をより成熟したものにメンテナンスするための手引書になっているのだ(※一方で、本作は離婚したほうがいいケース、離れるべき人を見極める基準についても触れている)。

 時間とともに、あらゆる物事は変わっていく。靴やバッグを長持ちさせたいなら、コストを掛けてでも修理が欠かせないように、関係性にもメンテナンスが必要だ。面倒なら、容易に取り換えられるものを複数持ってもいいし、あえて何も持たない、という選択肢もある。人生においてはどんな選択も自由で、死ぬ時に本人が満足できたなら、まっとうな道・あるべき道というものはない。ただ、個人的には、自分一人では持ちきれない苦楽を分かち合える人がいれば幸せだし、愛する人にとって自分がそうなれたとすればうれしい。そんなふうに考える人に、本作はパートナーと幸福な関係を築くための「気づき」にあふれているはずだ。
(保田夏子)

『わたしの外国語漂流記』レビュー:読み物としてもおもしろく、外国語習得のヒントも得られる1冊

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『わたしの外国語漂流記 未知なる言葉と格闘した25人の物語』(松村圭一郎、佐久間裕美子、丸山ゴンザレスら著/河出書房新社)

【概要】

 世界を渡り歩く武器でもあり、自分と海外の人々を結ぶよすがにもなる「外国語」。言語学者や文化人類学者、通訳、トラベルコーディネーターなど複数の言語を駆使する職業に就く人から、『クレイジージャーニー』(TBS系)で広く知られたジャーナリスト・丸山ゴンザレス、元テニス選手の杉山愛、タレント・LiLiCoら、さまざまな分野で活躍する25人が、自身の学習法や、言語習得にまつわる思い出、語学を学んで得られたことについてつづるエッセイ集。

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 職業も年齢もばらばらな25人がそれぞれ「外国語」を学び、格闘した思い出をつづったエッセイ集『わたしの外国語漂流記』は、その言語の多様さから、自宅に居ながら世界各地を巡ったような気分を味わえる1冊だ。言語学者や通訳といった「プロ」から、タレント、スポーツ選手、料理人など海外に進出するために学んだ人まで背景はさまざまだが、「母語以外の言語」を学ぶ苦楽、習得した人だけが得られる醍醐味が語られている。「14歳の世渡り術シリーズ」の1冊として出版され、若い読者向けに読みやすい言葉で書かれてはいるが、大人が読んでもこの先の時代を生き抜くための示唆に富んでいる。

 本作のユニークなところは、英語や中国語、スペイン語など比較的話者が多い言語を学習した人々のエピソードと併せて、グリーンランド語、ハワイ語など、他の公用語と併用されている地域言語や、さらにカラーシャ語といった文字を持たない言語、ユネスコ(国連教育科学文化機関)から「消滅危機言語」に指定されているという日本の方言・奄美語など、普通なら一生出合うことなどないであろう多種多様な言語が取り上げられている点だ。

 比較的話者の少ない、いわばマイナーな言語についてのエピソードは、その土地での暮らしや、言葉の特徴について語られる段階で、読み物として十分に魅力的だ。成熟段階や用途によって細かくココナッツの呼称が変わるフィジー語。北欧の厳しい寒さをしのいできたために、特に雪に関連する語彙が他言語より圧倒的に豊富なサーミ語。ほかの生物に対する心理的距離が近く、人間と生物の区別がつけにくかったり、財産を集落全体で共有する暮らしが根付いていて、「ありがとう」に当たる言葉が存在しないプナン語など、使用地域が限られる言語ほど、成り立ちにはその土地の文化や、生き抜いてきた先人の知恵が深く影響している。文化人類学者・奥野克巳氏が「言葉を学ぶとは、たんに言葉を学ぶことではない。言葉の背景にある文化を知ることに直結している」と語るように、言語習得はそのまま異文化学習にもつながっている。

 また、英語のようなメジャーな言語と、話者が少ない言語についてのエピソードが並列されている本書では、どんな言語でもまず「母語以外に深く触れる」という経験自体が学習者の視界の解像度を上げ、世界を広げていることがわかる。世界中に存在すると思っていた言葉がなかったり、逆に日本語では表せない概念や感情を得たり――外国語を学ぶ前と後で自身の見えていた世界がどのように変貌したかが、さまざまに表現されている。今自分が見えている世界だけが、世界のすべてではない。それは実際の体感を踏まえた人の言葉だからこそ、強い説得力をもって響いてくる。

 開発援助の分野で活躍する岡田環氏は、語学学習を「新しい窓を開ける」と例える。新型コロナウイルス感染拡大に伴い、自宅で過ごす時間が増えた昨今。精神的なプレッシャーを感じる人にとって本書は、読むだけでもその閉塞感を和らげ、“新しい窓”からの風を感じられるような本になるだろう。そして、時間を持て余している人にとっては、語学学習を始めるモチベーションとなる1冊にも。20代半ばでオランダ語を学び始めた翻訳家の鵜木桂氏は「英語が苦手な人にとっては逆にマイナー言語はチャンス」と書き、言語学者・上田広美氏は「人によって、この言語は覚えやすかったけれど、この言語はとっつきにくいといった、言語との相性もありそう」と分析する。英語でも、その他の言語でも、人生の選択肢を広げてくれる手段の一つになる語学習得。『わたしの外国語漂流記』は、そのきっかけを作ってくれる本になるかもしれない。

『わたしの外国語漂流記』レビュー:読み物としてもおもしろく、外国語習得のヒントも得られる1冊

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

『わたしの外国語漂流記 未知なる言葉と格闘した25人の物語』(松村圭一郎、佐久間裕美子、丸山ゴンザレスら著/河出書房新社)

【概要】

 世界を渡り歩く武器でもあり、自分と海外の人々を結ぶよすがにもなる「外国語」。言語学者や文化人類学者、通訳、トラベルコーディネーターなど複数の言語を駆使する職業に就く人から、『クレイジージャーニー』(TBS系)で広く知られたジャーナリスト・丸山ゴンザレス、元テニス選手の杉山愛、タレント・LiLiCoら、さまざまな分野で活躍する25人が、自身の学習法や、言語習得にまつわる思い出、語学を学んで得られたことについてつづるエッセイ集。

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 職業も年齢もばらばらな25人がそれぞれ「外国語」を学び、格闘した思い出をつづったエッセイ集『わたしの外国語漂流記』は、その言語の多様さから、自宅に居ながら世界各地を巡ったような気分を味わえる1冊だ。言語学者や通訳といった「プロ」から、タレント、スポーツ選手、料理人など海外に進出するために学んだ人まで背景はさまざまだが、「母語以外の言語」を学ぶ苦楽、習得した人だけが得られる醍醐味が語られている。「14歳の世渡り術シリーズ」の1冊として出版され、若い読者向けに読みやすい言葉で書かれてはいるが、大人が読んでもこの先の時代を生き抜くための示唆に富んでいる。

 本作のユニークなところは、英語や中国語、スペイン語など比較的話者が多い言語を学習した人々のエピソードと併せて、グリーンランド語、ハワイ語など、他の公用語と併用されている地域言語や、さらにカラーシャ語といった文字を持たない言語、ユネスコ(国連教育科学文化機関)から「消滅危機言語」に指定されているという日本の方言・奄美語など、普通なら一生出合うことなどないであろう多種多様な言語が取り上げられている点だ。

 比較的話者の少ない、いわばマイナーな言語についてのエピソードは、その土地での暮らしや、言葉の特徴について語られる段階で、読み物として十分に魅力的だ。成熟段階や用途によって細かくココナッツの呼称が変わるフィジー語。北欧の厳しい寒さをしのいできたために、特に雪に関連する語彙が他言語より圧倒的に豊富なサーミ語。ほかの生物に対する心理的距離が近く、人間と生物の区別がつけにくかったり、財産を集落全体で共有する暮らしが根付いていて、「ありがとう」に当たる言葉が存在しないプナン語など、使用地域が限られる言語ほど、成り立ちにはその土地の文化や、生き抜いてきた先人の知恵が深く影響している。文化人類学者・奥野克巳氏が「言葉を学ぶとは、たんに言葉を学ぶことではない。言葉の背景にある文化を知ることに直結している」と語るように、言語習得はそのまま異文化学習にもつながっている。

 また、英語のようなメジャーな言語と、話者が少ない言語についてのエピソードが並列されている本書では、どんな言語でもまず「母語以外に深く触れる」という経験自体が学習者の視界の解像度を上げ、世界を広げていることがわかる。世界中に存在すると思っていた言葉がなかったり、逆に日本語では表せない概念や感情を得たり――外国語を学ぶ前と後で自身の見えていた世界がどのように変貌したかが、さまざまに表現されている。今自分が見えている世界だけが、世界のすべてではない。それは実際の体感を踏まえた人の言葉だからこそ、強い説得力をもって響いてくる。

 開発援助の分野で活躍する岡田環氏は、語学学習を「新しい窓を開ける」と例える。新型コロナウイルス感染拡大に伴い、自宅で過ごす時間が増えた昨今。精神的なプレッシャーを感じる人にとって本書は、読むだけでもその閉塞感を和らげ、“新しい窓”からの風を感じられるような本になるだろう。そして、時間を持て余している人にとっては、語学学習を始めるモチベーションとなる1冊にも。20代半ばでオランダ語を学び始めた翻訳家の鵜木桂氏は「英語が苦手な人にとっては逆にマイナー言語はチャンス」と書き、言語学者・上田広美氏は「人によって、この言語は覚えやすかったけれど、この言語はとっつきにくいといった、言語との相性もありそう」と分析する。英語でも、その他の言語でも、人生の選択肢を広げてくれる手段の一つになる語学習得。『わたしの外国語漂流記』は、そのきっかけを作ってくれる本になるかもしれない。

『いつもひとりだった、京都での日々』『わたしの好きな街』レビュー:新生活=有意義な日々、じゃなくていい

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

【概要】

『いつもひとりだった、京都での日々』(宋欣穎・著、光吉さくら・訳、早川書房)

 東京アニメアワードをはじめ複数の映画賞を受賞し、2019年、米アカデミー賞長編アニメーション賞エントリー25作にも選出されたアニメーション映画『幸福路のチー』を手掛けた台湾の女性映画監督・宋欣穎(ソン・シンイン)。彼女が留学生として京都大学で過ごしたひとときを振り返ったエッセイ。

『わたしの好きな街:独断と偏愛の東京』(SUUMOタウン編集部監修、ポプラ社)

 雨宮まみ、岡田育、ひらりさ・もぐもく(いずれも劇団雌猫)、山田ルイ53世、山内マリコら総勢20名の著名人・文化人が、東京で暮らすこと、偏愛する街、上京の思い出について本音を語るエッセイ・インタビュー集。

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 進学、就職などで、見知らぬ土地で新生活を始める人が多い春。慣れない環境に身を置き、生き抜く人に向けて、孤独感や寂しさが力に変わるような2冊の本を紹介したい。

 『いつもひとりだった、京都での日々』は、台湾の作家・映画監督の宋が京大生として京都に滞在した約2年間を、色彩豊かに振り返ったエッセイ。京都に暮らすさまざまな人との触れ合いを中心につづられているが、タイトルに冠されているように、どこか孤独感が漂っている。しかし、著者が漂わせる寂しさは、同時にどこかすがすがしさを連れてくるものだ。

 「湯婆婆」のような老女が夜だけ開く古い喫茶店、電灯のない真っ暗な部屋で一人の生活を愛する「金子さん」、南米の音楽に乗りながら創作料理を振る舞ってくれる60歳の「名和さん」、舞妓を偏愛する「赤内くん」――。このエッセイに登場する京都の人々は、外部の人が「日本人」「京都の人」と聞いた時に想像するような、典型的なタイプはほぼいない。それは、変わった人ばかりを取り上げているわけではなく、“普通の人”が普通に持つその人だけの個性を著者が逃さずすくい上げているからだろう。そんな彼女のフィルターを通して京都の暮らしをのぞき見ることで、市井の人々の普通の日常生活が、時には幻想小説の一幕のような光景として映し出されていく。

 渡日直前、親友の自死に直面したエピソードから幕を開ける本作には、ある種の感傷が最後まで通底している。親友に最後にぶつけた言葉を後悔しつつ、ロボットのように無理やり日常生活をこなしていた著者は、あるきっかけで鴨川の光る川面を眺めながら、どうしても過去には戻れないことを悟る。川の水は流れ続け、戻ることはないが、彼女はそこに寂しさだけでなく美しさも見いだす。日本でできた友人「金子さん」が「ずっと同じ環境にいると、きれいな風景も目に入らなくなる。そうなると人は麻痺しちゃう」と彼女に漏らしたように、長く親しんだ人や風景から無意識に受け取っていた美しさや幸福に気づくのは、たいてい受け取れなくなってからだ。過去に戻れないことは人を苦しめるが、進むしかないからこそ、新たな場所で別の幸福を見つけることもある。

 この一冊の中で、著者自身も、出会った友人たちも、すみかを替え仕事を替え、家族を作ったり離れたり、亡くなったりして、とどまることなく移ろいゆく。表層はあくまで淡々とすべらかな筆致だが、状況や環境が変わることで生じる景色が開けるような楽しさと、息が止まるほどの悲しさ、両方が丁寧に写し取られている。だからこそ、新たな環境で戸惑う人々の感傷を優しく包み、前を進ませてくれるようなエッセイになっている。

 『わたしの好きな街: 独断と偏愛の東京』は、時に「住む場所ではない」などと揶揄される過密都市・東京に暮らす多様な20名の著名人・文筆家らが、東京や上京について語ったエッセイ&インタビュー集。「この街のオススメスポット」といったガイドブック的な要素はないが、書き手が個人的に愛する場所や思い入れのある街の思い出により、「東京」という都市の魅力が複層的に描き出されている。

 東京は、いわば複数の街の集合体であり、一言でその特色を語り尽くすのは難しい。しかし、「あの街で暮らした十年間が、たぶん、私の青春だった」とつづる雨宮まみのエッセイ「西新宿」には、まさに「一つの側面では語りきれない東京像」が凝縮されている。都庁やパークハイアット東京、高層ビルが林立するエリアと、昔ながらの住宅が密集するエリアがほぼ隣接する西新宿。古アパートの1階に住みながら、2つのエリアを日常的に行き来していた雨宮が、「こんな生活には、いつか別れを告げてやる」と怒りにも近い情熱をじりじり燃やす日々は、その熱も相まって、東京と、東京という場所が象徴する「上への情熱」が端的に書き残されている。

 また、作家・山内マリコが「本当に全然ダメだった」「一体なにをしていたかというと、なにもしていなかった」と振り返る「吉祥寺」も、まるで一編の短編小説のような味わいを残す。25歳で上京し、駅まで徒歩30分、立派な畑や野生のタヌキを確認できる部屋で過ごした4年間は、一見優雅なようで、自身の不安に押しつぶされないようもがいた日々でもあった。玉川上水ののどかな景色を背景に、とある吉兆を大切に受け取ったエピソードは、少し滑稽ながらも美しい。

 ほかにも「あの街での毎日が明るいものではなかった」と回顧する芸人・山田ルイ53世の「中目黒」、自身の育った街の魅力を「なんとなくぐちゃっと、全部入り」と愛たっぷりに表した、もぐもぐ(劇団雌猫)の「町田」など、都心から郊外まで、本書にはそれぞれ東京についての思い出や偏愛が詰まっている。この一冊で、表情をさまざまに変える東京の一端を知ることができるだろう。

 書き手たちが振り返る思い出は各人各様だが、輝かしいばかりの時期より、あやふやに過ごした日々や、映えない日常を重ねていた街のエピソードが圧倒的に多い。うまくいかなかった時期や無為に過ごした風景のほうが、書き手の記憶に強く焼き付き、それが人生を助ける礎石になることもある。上京を控える人や東京で暮らす人だけではなく、先の見えない日々にもどかしさを抱える人々にも届いてほしい一冊だ。

『いつもひとりだった、京都での日々』『わたしの好きな街』レビュー:新生活=有意義な日々、じゃなくていい

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

【概要】

『いつもひとりだった、京都での日々』(宋欣穎・著、光吉さくら・訳、早川書房)

 東京アニメアワードをはじめ複数の映画賞を受賞し、2019年、米アカデミー賞長編アニメーション賞エントリー25作にも選出されたアニメーション映画『幸福路のチー』を手掛けた台湾の女性映画監督・宋欣穎(ソン・シンイン)。彼女が留学生として京都大学で過ごしたひとときを振り返ったエッセイ。

『わたしの好きな街:独断と偏愛の東京』(SUUMOタウン編集部監修、ポプラ社)

 雨宮まみ、岡田育、ひらりさ・もぐもく(いずれも劇団雌猫)、山田ルイ53世、山内マリコら総勢20名の著名人・文化人が、東京で暮らすこと、偏愛する街、上京の思い出について本音を語るエッセイ・インタビュー集。

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 進学、就職などで、見知らぬ土地で新生活を始める人が多い春。慣れない環境に身を置き、生き抜く人に向けて、孤独感や寂しさが力に変わるような2冊の本を紹介したい。

 『いつもひとりだった、京都での日々』は、台湾の作家・映画監督の宋が京大生として京都に滞在した約2年間を、色彩豊かに振り返ったエッセイ。京都に暮らすさまざまな人との触れ合いを中心につづられているが、タイトルに冠されているように、どこか孤独感が漂っている。しかし、著者が漂わせる寂しさは、同時にどこかすがすがしさを連れてくるものだ。

 「湯婆婆」のような老女が夜だけ開く古い喫茶店、電灯のない真っ暗な部屋で一人の生活を愛する「金子さん」、南米の音楽に乗りながら創作料理を振る舞ってくれる60歳の「名和さん」、舞妓を偏愛する「赤内くん」――。このエッセイに登場する京都の人々は、外部の人が「日本人」「京都の人」と聞いた時に想像するような、典型的なタイプはほぼいない。それは、変わった人ばかりを取り上げているわけではなく、“普通の人”が普通に持つその人だけの個性を著者が逃さずすくい上げているからだろう。そんな彼女のフィルターを通して京都の暮らしをのぞき見ることで、市井の人々の普通の日常生活が、時には幻想小説の一幕のような光景として映し出されていく。

 渡日直前、親友の自死に直面したエピソードから幕を開ける本作には、ある種の感傷が最後まで通底している。親友に最後にぶつけた言葉を後悔しつつ、ロボットのように無理やり日常生活をこなしていた著者は、あるきっかけで鴨川の光る川面を眺めながら、どうしても過去には戻れないことを悟る。川の水は流れ続け、戻ることはないが、彼女はそこに寂しさだけでなく美しさも見いだす。日本でできた友人「金子さん」が「ずっと同じ環境にいると、きれいな風景も目に入らなくなる。そうなると人は麻痺しちゃう」と彼女に漏らしたように、長く親しんだ人や風景から無意識に受け取っていた美しさや幸福に気づくのは、たいてい受け取れなくなってからだ。過去に戻れないことは人を苦しめるが、進むしかないからこそ、新たな場所で別の幸福を見つけることもある。

 この一冊の中で、著者自身も、出会った友人たちも、すみかを替え仕事を替え、家族を作ったり離れたり、亡くなったりして、とどまることなく移ろいゆく。表層はあくまで淡々とすべらかな筆致だが、状況や環境が変わることで生じる景色が開けるような楽しさと、息が止まるほどの悲しさ、両方が丁寧に写し取られている。だからこそ、新たな環境で戸惑う人々の感傷を優しく包み、前を進ませてくれるようなエッセイになっている。

 『わたしの好きな街: 独断と偏愛の東京』は、時に「住む場所ではない」などと揶揄される過密都市・東京に暮らす多様な20名の著名人・文筆家らが、東京や上京について語ったエッセイ&インタビュー集。「この街のオススメスポット」といったガイドブック的な要素はないが、書き手が個人的に愛する場所や思い入れのある街の思い出により、「東京」という都市の魅力が複層的に描き出されている。

 東京は、いわば複数の街の集合体であり、一言でその特色を語り尽くすのは難しい。しかし、「あの街で暮らした十年間が、たぶん、私の青春だった」とつづる雨宮まみのエッセイ「西新宿」には、まさに「一つの側面では語りきれない東京像」が凝縮されている。都庁やパークハイアット東京、高層ビルが林立するエリアと、昔ながらの住宅が密集するエリアがほぼ隣接する西新宿。古アパートの1階に住みながら、2つのエリアを日常的に行き来していた雨宮が、「こんな生活には、いつか別れを告げてやる」と怒りにも近い情熱をじりじり燃やす日々は、その熱も相まって、東京と、東京という場所が象徴する「上への情熱」が端的に書き残されている。

 また、作家・山内マリコが「本当に全然ダメだった」「一体なにをしていたかというと、なにもしていなかった」と振り返る「吉祥寺」も、まるで一編の短編小説のような味わいを残す。25歳で上京し、駅まで徒歩30分、立派な畑や野生のタヌキを確認できる部屋で過ごした4年間は、一見優雅なようで、自身の不安に押しつぶされないようもがいた日々でもあった。玉川上水ののどかな景色を背景に、とある吉兆を大切に受け取ったエピソードは、少し滑稽ながらも美しい。

 ほかにも「あの街での毎日が明るいものではなかった」と回顧する芸人・山田ルイ53世の「中目黒」、自身の育った街の魅力を「なんとなくぐちゃっと、全部入り」と愛たっぷりに表した、もぐもぐ(劇団雌猫)の「町田」など、都心から郊外まで、本書にはそれぞれ東京についての思い出や偏愛が詰まっている。この一冊で、表情をさまざまに変える東京の一端を知ることができるだろう。

 書き手たちが振り返る思い出は各人各様だが、輝かしいばかりの時期より、あやふやに過ごした日々や、映えない日常を重ねていた街のエピソードが圧倒的に多い。うまくいかなかった時期や無為に過ごした風景のほうが、書き手の記憶に強く焼き付き、それが人生を助ける礎石になることもある。上京を控える人や東京で暮らす人だけではなく、先の見えない日々にもどかしさを抱える人々にも届いてほしい一冊だ。

『氷室冴子とその時代』レビュー:誰より少女の自立を願っていたのに、少女小説家の“レッテル”に悩んだ作家の苦悩

――本屋にあまた並ぶ新刊の中から、サイゾーウーマン読者の本棚に入れたい書籍・コミックを紹介します。

■『氷室冴子とその時代』(嵯峨景子、小鳥遊書房)

■概要

少女小説の文脈で語られることが多かった故・氷室冴子を、コバルト文庫以外の小説やエッセイを含めた作家活動、プライベートにもスポットを当て再構築した評論。当時の社会情勢や少女小説の盛衰とともに、知られざる氷室の仕事や功績を改めて見直す一冊。

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 氷室冴子は、1980年代~90年代前半に少女時代を過ごした女性にとって、なじみ深い作家の1人だ。代表作である『なんて素敵にジャパネスク』(集英社、以下『ジャパネスク』)はシリーズ累計発行部数800万部を超え、「学校中高生読書調査」では84~95年までランクインし続けた。実際、79年生まれの筆者にとっても『ジャパネスク』は、小学校高学年から中学生にかけてクラスで回し読みされていた人気シリーズで、主人公の瑠璃姫や高彬の活躍は、決して一部の漫画・小説好きのグループだけのものではなく、クラスの多くの女子にとって共通の話題だったと記憶している。

 80年代後半から湧き起こった少女小説ブームを牽引した一人であり、さらに、スタジオジブリによってアニメ化された『海がきこえる』(徳間書店)、『銀の海 金の大地』『クララ白書』(共に集英社)、など、数々のヒット作を生み出した氷室。『ジャパネスク』の大ヒットもあり、「コメディを得意とする少女小説家」というイメージも根強い。しかし、『氷室冴子とその時代』は彼女の全仕事を徹底的に解読し、イメージをアップデートさせてくれる一冊だ。さらに氷室らをきっかけとして「少女小説」がブームになり、変容した経緯も明らかにしている。

 77年、大学在学中に作家デビューを果たした氷室は、結婚を強く望む母の元を離れて経済的に独立するために、コメディ路線に作風を変え、少女向けレーベル・コバルト文庫で出版した『クララ白書』『雑居時代』(集英社)などで大きく読者の支持を集める。そして、平安時代を舞台に、あえて現代的な口語を駆使したコメディ活劇『なんて素敵にジャパネスク』シリーズで、その人気を確立することになる。本書によると、『ジャパネスク』シリーズは、2冊同時発売された際には初版で合わせて100万部近く発行されている。単純比較はできないが、2017年、村上春樹の『騎士団長殺し』(全2巻)の初版発行部数が2冊合わせて100万部だったことが出版界の大きなニュースになっていることを見ても、破格の部数であることがわかる。

 本書は、コメディ路線で人気を確立し始めた氷室が、当時死語となっていた「少女小説」という言葉を意識的に自身に冠し始めたことを指摘している。少女を作品の主題としていた小説家・吉屋信子を愛読していた氷室にとって、少女小説は思い入れの深い言葉だった。「女の子がなにものにも矯められずに生きられる世界を描くことで、私は無条件に自分の性の原型としての女の子を祝福したかった」とエッセイにつづったように、氷室の描く少女は主体的で、自身で考え行動することが魅力につながるキャラクターとして造形され、そこに当時の読者の大きな共感があった。

 しかし、氷室らコバルト文庫の人気作家たちが爆発的な売れ行きを見せたことで、少女小説は“金脈”として多方面から発見されてしまう。他社の参入もあり、次第に「少女小説」から氷室らの意思や文脈は剥ぎ取られ、実際は多様なジャンルを包括するものであったが、特に外野からは「少女の一人称モノローグ体」「共感できるヒロイン造形」「マンガチックな展開」といったマニュアル化されたジャンルとして捉えられることが多くなる。

 量産された「少女小説」ブームの波に「チョコレート売ってるんじゃないんだから」と違和感を唱えていた氷室も、良くも悪くもその波に巻き込まれていく。時に評論家から「小説ではない」と軽んじられ、取材記者から「処女じゃないと書けないんでしょ」などと暴言を吐かれるなか、一度は自ら冠した「少女小説家」という肩書から、少しずつ距離を置くようになっていく経緯が、複数の資料をもとに解説される。

 その後の氷室は、少年を主人公とした小説や、一般向けのエッセイ・小説、家庭小説ジャンルのプロデュースなど、さまざまな仕事を手掛けている。ひたすら結婚を求める母との葛藤をつづった一般向けのエッセイや、アニメ化された『海がきこえる』で少女以外の読者層を獲得し、“自分の一番書きたいもの”と語った一切のコメディ要素が排された古代ファンタジー『銀の海 金の大地』を生み出す。「少女向けのコメディ作家」というポジションでは語りきれない、常に新たな表現を求めて作風や文体を変えた作家であったといえるが、休筆期間を経て新作発表直後にがんを告知され、08年51歳で早逝する。本書では新作が生まれなかった期間、氷室の死の前後も含め取材し、氷室の人柄がしのばれるエピソードも丹念に伝えている。

 氷室と同じ生年の漫画家・作家――柴門ふみ、高橋留美子、森博嗣らが、現在も一線で活躍していることを思えば、氷室氏の早逝は惜しまれるものだ。本書では、『名探偵コナン』(小学館)シリーズ中のある連作が氷室作品へのオマージュになっていることをはじめ、ライトノベル『涼宮ハルヒ』シリーズ(KADOKAWA)や、小説家・柚木麻子の作品に登場する氷室作品、同じく作家の上遠野浩平、奈須きのこらが影響を受けた人として氷室を挙げたテキストを追うことで、彼女の作品やスタイルがどのように現代のエンタメ作品に引き継がれたか、丁寧に考察している。

 しかし、本書において90年代以降に生まれた世代と氷室の「断絶」が指摘されているように、同時期に同ジャンルで活躍した他の作家と比べて、現代で氷室作品がしっかり読み継がれているとは言い難い。熟練したストーリー展開、歴史ものにおいては綿密な時代考証に裏打ちされた設定の下で描かれた彼女の作品群は、現代の読者にも十分エンタテインメント作品として強度を持つものだ。さらに、氷室が初期から一貫して描き続ける、男性や大人に媚びず、環境や思想の違う友人と連携して、それぞれのスタイルで世界の困難に立ち向かっていく少女像は、既に成人した“元少女”をもまだまだ魅了し、勇気づけてくれる。同書と共に、氷室の作品群が改めて評価され、一人でも多くの人々の元に届くことを祈りたい。