現在放送中のNHK連続テレビ小説『おちょやん』。ヒロインの千代は、喜劇女優の浪花千栄子さんをモデルとしていて、夫の天海一平も劇作家の渋谷天外が元となっています。そんなドラマの登場人物の“本当の話”を、『あたらしい「源氏物語」の教科書』(イースト・プレス)などの著作を持つ歴史エッセイストの堀江宏樹氏が解説!

『おちょやん』の第20週「何でうちやあれへんの?」では、天海一平(成田凌さん)が、劇団の新人女優・朝日奈灯子(小西はるさん)とデキてしまった理由として、脚本家としてスランプに陥っていたことが挙げられました。
史実でも、一平のモデルである渋谷天外が浪花千栄子(ヒロイン・千代のモデル)と離婚、九重京子こと喜久恵を新しい妻にしようと思った理由は「よい本が書きたいから」というものでした。九重の手記『思い出の記』(主婦の友社『渋谷天外伝』内)の言葉を引用すると、「浪花千恵子という女優と結婚していると、家庭にやすらぎもなく、脚本の執筆もうまくいかない」と渋谷は九重に訴えたそうです。
これらの一見、身勝手とも思える言葉を、浪花千栄子という上昇志向の強い女優への「あてつけ」だったと解釈して前回はお話しました。しかし……実は重大な秘密が隠されている可能性もあるのです。
渋谷天外は勝ち気な人ですから、スランプだったことを自伝などでは認めていません。しかし、すでに彼は脚本の執筆作業に行き詰まり、苦しんでいたのかもしれない。そして、その“巻き添え”を食らったのが、浪花千栄子だったのかも……というのが、今回のテーマです。実際、渋谷には後に大問題となった「盗作疑惑」が起きていますからね。
脚本執筆のやり方は、かなり異様
喜久恵は、40代で初めてパパになった渋谷の意気込みあふれる言葉を書き残しています。
「私(=喜久恵)が妊娠したことを知らせると生まれてくる子供のためにいい仕事を残して置きたい。子供が大きくなって『おやじ、つまらん本を書いていたのかと思われたくないからな。お前も子供のためにがんばってくれ』と(渋谷は)言った。四十歳を過ぎて初めて我が子の顔が見られることを、とても喜んでいた」(『思い出の記』)
さかんにアピールされている渋谷天外の創作への熱い思いですが、実際のところはどうだったのでしょう。関係者の証言から見る限り、一平のモデルである渋谷天外の脚本執筆スタイルは、かなり異様なものでした。
名脚本家として世間から認知されていた渋谷ですが、逆に「名作を書かねばならない」というプレッシャーに悩む日々を送っていたようです。松竹新喜劇の主演俳優にして、脚本家という二足のワラジを履いた渋谷ですが、彼の役者としての後継者は藤山寛美でした。藤山は、ドラマでは前田旺志郎さんが演じている、松島寛治のモデルで、天才喜劇俳優といわれた人物です。女優・藤山直美さんのお父さんでもありますね。
一平と千代の夫婦が、まるで実の子どものようにかわいがっていた寛治ですが、史実でも渋谷と浪花夫妻には子どもがおらず、それゆえ藤山を養子にする計画が何度も持ち上がっては消えたそうです。ドラマでは千代に懐いている寛治ですが、史実では渋谷が藤山という俳優に執心を見せていたという色彩が強かったそうですよ。
しかし、脚本家としての自分の後継者には出会えていなかった渋谷は、劇団内に「文芸部」を設立。自分の脚本執筆作業を手伝わせるスタッフを4人ほど雇いました。彼らに脚本を提出させ、それらを添削・指導して実際に舞台にかけ、自分の後継者を育てるのが目的でした。
……しかし何時の頃からか、渋谷は普通に脚本を書くことができなくなってしまっていたようです。名脚本家といわれているわりに、現代のわれわれの多くが『おちょやん』放送まで、渋谷天外についてほぼ何も知らなかった理由は、渋谷の脚本が出版されていないからです。そして、その理由は渋谷本人が出版に消極的だったからです。渋谷いわく、文字で黙読するのに喜劇の脚本は適していない……、などがその表向きの理由でした。
しかし、それにはウラの事情も確実にあったようです。渋谷が“書いた”脚本は、通常の形式をしていないのです。たとえば一時期、松竹新喜劇・文芸部のエースだった花登筺(はなとこばこ)の証言では、渋谷天外の執筆スタイルは次のようなものでした。
深夜、自宅で飲酒して興がのった渋谷は、ベラベラと新作についてしゃべりはじめ、それを文芸部のスタッフが書き留めていくのです。後にその内容がさらに推敲され、通常の脚本の形式にまとまるというのです。
ぜんぜん自分で書いていないことに違和感がありますが、この“執筆”作業には利点もあったと思われます。脚本は、俳優によって演じられるものです。セリフを耳で聞いた客が「おもしろい」と感じられなければ失敗なので、当初からアイデアを口頭披露し、文芸部のスタッフたちから良い反応が得られたら、そのテーマで思いつくままに語っていくと、手早くおもしろいものを作れますし、それは合理的だといえるのかもしれません。
花登筺は一晩で原稿用紙100枚分の脚本を仕上げるほど、速筆で知られました。また、渋谷の語る“あらすじ”を文字化する技術も大したものでした。こうして一晩で、渋谷は2演目を「完成させることもあった」そうです。
しかし、こうした渋谷天外の創作スタイルは「事実とは異なる」と言うのが、同じく松竹新喜劇の文芸部に在籍していた藤井薫という人物です。
彼は元・新聞記者という経歴の持ち主ですが、創作に熱い思いを抱え、脚本家になるための「踏み台」として新喜劇を使うつもりでした。しかし、彼の脚本はたとえば雑誌「オール読物」(文藝春秋)の新人賞最終候補に残る程度。劇団内でも渋谷天外にかなり「直された」脚本が、前座に上演されることがある程度の地位にとどまり続けていました。
藤井によると、渋谷は実際に脚本を書いていたといいます。深夜12時を過ぎた頃、渋谷はねじり鉢巻きで自室にて執筆を開始。藤井によると、書く前には酒は絶対に飲まなかったといいます。しかし、渋谷が書いた脚本には、ト書きや役名もいっさいナシ。仕上がりは「半紙のような白紙に鉛筆で符号のような文字で書きなぐったもの」(情報センター出版局『さらば松竹新喜劇』)だったそうです。
それを4人の文芸部員が解読、通常の脚本の形にするだけでなく、ガリ版印刷して台本の代わりを作ります。なぜなら、渋谷によって脚本が“書かれる”のは、いつも舞台稽古初日の早朝で、普通に印刷所を利用することができなかったからです。
そんな渋谷ですから、何度も盗作疑惑が向けられました。中でも深刻だったのが、昭和39年8月、東京・日生劇場で初演された『わてらの年輪』という作品の盗作騒動です。例の文芸部員・藤井薫の証言によると、盗作されたのは彼の脚本『乱れ友禅』だということです。
まぁ、結論から言うと、ほとんど出版されていない渋谷脚本の中でも珍しく『わてらの年輪』は活字化されています。一方、藤井の『乱れ友禅』は文字になっていません。ですから、スランプで脚本を書けなくなった渋谷が、『乱れ友禅』を下敷きにして、新作を形にしたという藤井の主張に、客観的な検証手法は存在せず、なんとも言いようがないのです。
しかし……、酔っ払った渋谷の語る“あらすじ”を、脚本にするべく文字起こしせねばならなかったという花登筺、さらに自分の脚本を下敷きに、渋谷がオリジナルキャラクターとエピソードを加え、アレンジしたものが『わてらの年輪』にすぎないと主張する藤井薫、その二人とも、渋谷によって松竹新喜劇から追放されたという事実があるのです。
さらに、松竹芸能の社員も「みんながアイデアを出し合って(脚本を)作っていて、(それが)誰の(作品)だということになれば、普通はまとめた人の名を使います」(『渋谷天外伝』)などと、渋谷の創作スタイルが普通ではなかったことを認めています。
こうして考えれば、渋谷天外の“盗作疑惑”、これはかなりクロに近いグレーゾーンではないか……と思ってしまう筆者でした。「いい脚本を書きたい」と渋谷は主張し、浪花千栄子を傷つけて離縁。しかし、「その結果がこれ?」と思ってしまうガッカリな逸話です。
『おちょやん』の松島寛治なら、「どあほー!」の一言かもしれませんね。