生理を理由に、無実の女性が殺人犯に仕立て上げられ、死刑判決を受けた「甲山事件」

 月経(生理)のある女性の大多数が経験している月経前症候群(PMS)。

 PMSには頭痛、腹痛、浮腫みといった身体的な症状のほかに、不安感、憂鬱などの精神的な症状も見られる。日本では精神症状の方が注目されがちで、「暴言を吐く」「暴力を振るう」「集中力を欠き仕事ができなくなる」といったことまでが、PMSの症状としてカウントされている。しかし、精神科のカテゴリーでは、日常生活にまで支障をきたすような症状はPMSではなく、月経前不快気分障害(PMDD)という別の概念で捉えられるようになってきており、治療法も確立しつつある(1)。

 いまだほとんどのメディアが、多くの女性に見られるPMSと、重篤な精神症状が現れるPMDDを混同して伝えているのだが、月経と精神不調を安易に結びつけることは、女性はもちろん社会に対しても不利益をもたらす。

 今回は、偏った月経観を放置しておくとどんなことが起こるか、という話をしたい。

 以前この連載で、海外からPMSの概念が入ってくるまで、女性の精神不調は「月経前」ではなく「月経中」に起こるとされていた、と書いた。女性の犯罪や自殺も月経中に起こることが多いと信じられており、この考えに基づいて捜査や司法判断が行われていた。その中でも最も象徴的で恐ろしい事例が、「甲山(かぶとやま)事件」である。

 1974年3月に兵庫県西宮市の知的障がい児施設「甲山学園」で、浄化槽から2園児の遺体が発見された際(のちに事故であったことが判明)、職員の中でアリバイがはっきりしなかったのが、当時22歳のSさんだった。警察は、「生理中の女性は気が昂ぶっていて、発作的な犯行に及ぶかも知れない」(2)という考えから、女性職員全員の月経日を調べ、たまたま事件の日に月経が始まったSさんへの嫌疑を深めた。

 逮捕されたSさんは、過酷な取調べに負けて自供してしまい、死刑判決を下されてしまう。支援者らとともに無実を叫び続け、無罪判決が下されたのは、事件から25年後のことだった。

 今も月経と犯罪の関連性について説く専門書が存在する。かつて「月経中」と書かれていたところが「月経前」に変わっているだけであったり、いまだに「月経中」と書かれていたりするものもある。情報番組で、女性被疑者や女性被告人について語る際、月経との関連性に言及するコメンテーターもいて、恐ろしい限りである。

 PMSは、女性の健康に関する話題として扱われるため、それが女性に対する偏見につながるか否かといったことはほとんど意識されない。だから余計にタチが悪い。

 例えば、ある会社の人事担当者が「女性は月経前に仕事が疎かになる」という話を信じていたら、採用の際にも昇進の際にも、女性は男性より圧倒的に不利になる。

 かつては、「女は結婚や出産で会社を辞めるから、育て甲斐がない。だから積極的には採用しない」と公言する会社が珍しくなかった。今は結婚や出産をしない女性も多いが、月経はほとんどの女性にある。女性を男性よりも劣位に置きたい場合、最後の拠り所となるのが月経なのである。

 そうは言っても、現に月経前に不調が出る人もいれば、月経痛がひどいという人もいるだろう。それを隠す必要はない。むしろ語ることで、月経にまつわる不調には個人差があるということが、当たり前に認識されるようになることが望ましい。同時に治療法についての情報も広く共有されるべきであり、そのためにも有効な初経教育が必要である。

 日常的に耳にする 「女性には周期性がある」「感情にムラがある」といった発言もかなり無責任である。多くの女性が月経周期を意識しながら生活しているが、だからと言って月経周期に支配されているわけではない。

(1)山田和男『月経前不快気分障害(PMDD)』星和書店
(2)松下竜一『記憶の闇 甲山事件1974→1984』河出書房新社

くわばたりえ、証明写真ボックス内で雨宿りも「誰か来たら退いてやるよ」…図々しさに絶句

 11月7日放送の『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)にて、「ズケズケ関西女軍団」のひとりとして出演したクワバタオハラのくわばたりえ(41)の発言が物議を醸している。

 問題になっているのは「理解してほしい関西女の言動」として明かした“証明写真ボックスの中で雨宿りする”という行為。くわばたは友人と待ち合わせをしていた際、10分~15分早く着いてしまった上に雨が降って来たので、近くにあった証明写真ボックスに入り写真も撮らずに座っていたそうだ。

 彼女の語ったエピソードにMCの明石家さんま(62)は、「おかしいやろ」「商売道具やで」「マナーがなってない」と正論でツッコんだ。しかしくわばたは「誰か来たら退いてやるよって気持ちはある」と譲らず、「写真を撮っていたら良い」との指摘にも「撮るぐらいやったら喫茶店行くもん。金かかるやん」と返答。これにもさんまは「それなら喫茶店行けアホ!」と正論で返したのだが、他の関西女性芸人たちも「効率重視の大阪人の感覚大好き」などとくわばたに同意し、スタジオ内はまるで“関西女だから仕方ない”という雰囲気になっていた。

 これには「この人たちがズレてるだけ。関西人でくくるのはやめてほしい」「こんな風にはなりたくない」「威力業務妨害になるのでは?」との声が続出。また「なんでこんな非常識な発言しながらママ代表みたいな顔できるんだろう?」と疑問を浮かべる人も少なくない。

 くわばたは、2010年に第一子を出産してからというもの、3冊の育児本を刊行、育児に関するイベントにゲストとして多数出演、情報番組のコメンテーターを務めたりと、芸人としての仕事は極わずか。公式ブログでもお笑い要素は少なく、子供の写真と共に子育て記録を投稿するなど、ママタレとして活動している。

 その一方で今回の“雨宿り”発言のように、図々しいエピソードを披露して「常識外れ」などと批判されることもしばしば。今年5月に放送された『好きか嫌いか言う時間』(TBS系)でも、「病院は、最善を尽くして診療に当たるものの、100%治せるわけではない」という医師の言葉に「それ病院が言ったらアカン」「そんな傲慢な医者はダメです」と噛みつき話題になっていた。視聴者から「100%治せないなんて当たり前なのになんで反論してんの?」「これは典型的なクレーマー」と批判を受けていた。

 これらのエピソードも含め、図々しいテレビタレントのエンタメとして「世の中にはこんな人もいるんだな」と消費する分には問題はないが、くわばた自身が「別にええやん」と、さも常識かのようにドヤ顔で披露するのは閉口する。“たくましい関西人ママ”という立ち位置を狙っているのかもしれないが、これでは“たくましい”ではなく“面倒な人”だ。

(ボンゾ)

武豊、「路チュー不倫」スクープの赤っ恥! 競馬タブーで報道規制も「業界ではクズで有名」

 11月10日発売の写真週刊誌「フライデー」(講談社)が、競馬騎手・武豊と競馬番組のキャスターを務めるタレント・小浦愛の“路チュー不倫”をスクープした。武は1995年に元タレント・佐野量子と結婚している既婚者だが、「大騒動には発展しなさそう」(テレビ局プロデューサー)という。それは一体なぜなのだろうか。

 同誌は10月下旬、深夜の京都・四条河原町の交差点で、武と小浦が激しいキスを交わし、手をつないで街に消えていく様子をキャッチ。後日、記者が小浦を直撃すると、怒った様子で去っていったという。

「一方、武への直撃時は、自宅前だったこともあって佐野も登場。仲睦まじげな夫婦ショットが同誌に掲載されていますが、関係者の間では『ヤラセ写真のようなもの』と呆れられています。武も小浦を友達と説明していたけれど、実際に現場を撮られているだけに無理がある。ただ、競馬界はマスコミの大広告主だけに、こうしたスキャンダルもテレビや新聞はやりづらいので、さほど大事にはならないでしょう」(同)

 また、一部業界関係者の間では、以前から武の“クズ男ぶり”は有名だったようだ。

「武は90年代後半に有名タレント・Sと知り合い、愛人関係を築いていたんです。すでにその関係は解消されていますが、Sは今でも武のことを大切に思っているらしく、『武のために独身を貫いている』ともいわれています」(芸能プロ関係者)

 このように武が長年自由を謳歌できるのは、「“妻の理解”があってこそなのでは」(同)という。今回の小浦の件に関しても、「フライデー」への対応を見る限り、妻も納得済みだったようだ。その上、テレビなどでスキャンダルが報じられないとなると、武は今後もやりたい放題なのか……と思いきや、実はそうでもないとの指摘もある。

「いくらテレビで大々的に取り上げられなくても、規制やしがらみのないネットでは、スキャンダルが拡散されてしまいます。昔は“芸の肥やし”として許容されていた歌舞伎俳優や落語家の不倫も、昨今は批判の声が可視化されている。武も、いい加減落ち着いた方が身のためかもしれません」(前出・プロデューサー)

 このご時世、どんな立場の人間も不倫は許されそうにない。

キモくて金のないおっさんの文学論~『二十日鼠と人間』と『ワーニャ伯父さん』

 少し前にインターネットを騒がせていた言葉に「キモくて金のないおっさん」というものがあります。これは社会的弱者であるが権利運動とか救済の対象として想定されていない男性を指す俗語です。

 このおっさんたちはどうやら非常に社会的、経済的に苦しい状況に置かれている一方で、マイノリティとして見えづらいため女性とか少数民族、セクシュアルマイノリティ、障害者などに比べると自己主張しづらい状況に置かれているそうです。「キモくて金のないおっさん」については、こうした不可視化、つまり存在が認識されていないことが問題だと考えている人が多いようです。

 しかしながら、私の見るところ、文学史上にはあまたのキモくて金のないおっさんが登場します。そこで今回は私が個人的にキモくて金のないおっさん文学の名作だと思っている、ジョン・スタインベックの『二十日鼠と人間』と、アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん』をとりあげ、古典がどのようにおっさんを掘り下げているのか見ていきたいと思います。

※『二十日鼠と人間』の引用については、基本的に原書はJohn Steinbeck, Of Mice and Men (Penguin Books, 2002)を使い、日本語の引用は拙訳ですが、大門一男訳(新潮文庫、1993)も参照しました。『ワーニャ伯父さん』についてはアントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』浦雅春訳(光文社、2009)に拠ります。

キモくて金のないおっさんとは?
 分析するからにはまず「キモくて金のないおっさん」とはどういう人かイメージせねばなりません。困ったことにこの言葉は大変曖昧でわかりにくいところがあります。金がないのはまあわかります。「おっさん」というからには自分のことを男性だと考えていて、どんなに若くても30過ぎでしょう。「おっさん」という言葉自体にネガティヴな雰囲気があって本当はあまり使わないほうがいいのかもしれませんが、決まった言い方で流布しているものを言い換えるわけにもいかないので、この文章では「おっさん」という語を使用します。

 問題なのは「キモい」の定義です。「キモい」というのは非常に主観的で、容姿や印象が悪いというような表面的なことから、人格面で高潔さや思いやりが皆無だというような人間関係に破壊的影響を及ぼすことまで、様々な意味で用いられているようです。青柳美帆子は湯川玲子などを引きながら、この言葉を「出世しておらず、カネがなく、女がなく、競争に勝てなかった中年(以上の)男性」として定義しています。女に好かれない、連れ添う女がいないというのはこの種の議論によく出てくる「キモさ」で、どうもヘテロセクシュアルの男性を想定しているようです。まとめると、キモくて金のないおっさんとは、ヘテロセクシュアルで、仕事も私生活もうまくいかず、金銭的に問題を抱えた中年以上の男性を指すようです。

 キモくて金のないおっさんが社会から無視されてきたと思われる方もいるようですが、実は近現代文学はこのようなおっさんの宝庫です。お金もなく、女にモテず、不幸で若くもない男の絶望に対しては、19世紀からこのかた、アメリカやヨーロッパの優れた男性作家が関心を寄せてきました。イギリスやアイルランドの演劇にはこの手のおっさんが山ほど出てきます。サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』(1953)に登場するキモくて金のないおっさん、ウラディミールとエストラゴンの役には多数の名優が挑戦してきましたし、最近ではアイルランド系イギリス人の劇作家マーティン・マクドナーがこうしたおっさん劇を得意としています。少なくとも文学史上においては、キモくて金のないおっさんは無視されるどころか主役なのです。

女とおっさんが弱者同士足を引っ張り合う『二十日鼠と人間』
 こうしたキモくて金のないおっさん文学の中でも、もっとも現代に通じそうな物語を紡いでいるのがアメリカ文学の古典であるジョン・スタインベック『二十日鼠と人間』(1937)です。大恐慌のあおりで貧困に苦しむカリフォルニア州の労働者を描いた中編小説です。主要登場人物のほとんどはキモくて金のないおっさんで、さらにそれぞれ異なる個性的なキモさ、つまり不幸の要因を抱えています。

 主人公のジョージとレニーは農場を渡り歩く季節労働者です。ジョージは賢い小男で、レニーは力強く心優しい大男ですが、知的障害があります。2人は親友で、ジョージはレニーを守り、常に一緒に行動しています。レニーはふわふわした可愛らしいものが大好きで、動物でも布地でもそうしたものを見かけるとなんでも触って強く掴んでしまうため、悪気なく女性の服に触って変質者扱いされたり、動物を殺してしまったり、しょっちゅうトラブルを起こしています。この2人はあまり年齢がはっきりしておらず、おっさんというにはやや若いかもしれないのですが、30歳は越えているように思われます。一般的な意味ではこの2人はキモくないというか、読者の共感を誘うキャラなのですが、貧困のせいでとにかく不幸です。

 農場で働く他の男たちもほとんどはキモくて金のないおっさんです。キャンディはかなりの年で、仕事中の事故で手を失い、障害を抱えています。馬丁のクルックスは背中が曲がっており、アフリカ系であるため他の労働者と同じ家に住まわせてもらえません。この2人も一般的な意味でキモい人物ではありませんが、貧しくぱっとしない独身男です。

 おっさんたちはそれぞれ異なる要因で社会から疎外されているため、なかなか連帯できません。レニーは知的障害、ジョージはレニーとの絆、キャンディは老いと身体障害、クルックスは人種と身体障害のせいで不当な差別にさらされ、不安な暮らしを強いられています。非常に人望があり、キモくて金のないおっさんではないラバ追い名人スリムは、季節労働者は仲間を連れずひとりで移動するのがふつうだと指摘してジョージとレニーの友情を不思議がります。おっさんたちはふだん、分断されてバラバラに生きているのです。

 このおっさんたちを結びつけるのが、おっさんだけで自由に安心して暮らせる共同体を作るという夢です。ジョージとレニーは型破りで同性同士の強い友愛で結ばれた2人組ですが、お金をためて農場を買い、そこに落ち着くという夢を持っています。これを知ったキャンディは自分がお金を出すのでその農場に入れて欲しいと頼みます。この話には、いつもは超然としているクルックスまで心を動かされます。分断されていたおっさんたちが、夢によって一瞬、連帯しかけるのです。最後はこの夢が儚く潰えるのですが、この作品が提示するキモくて金がないおっさんたちの救済策は、自分を好いてくれる女ではなく、気の合う同性同士でのどかに暮らせる安全な場所の確保です。

 この作品が現代的であるポイントのひとつは、弱者であるおっさんたちが、また別の弱者である女を敵に仕立て上げてしまうところです。おっさんたちは金がなさすぎて結婚や恋愛のことはほとんど考えておらず、売春宿で気晴らしすることはあるようですが、それが解決にならないことは知っています。おっさんたちは異性愛が幸せをもたらしてくれるとは全く考えず、むしろ女がトラブルを運んでくることを恐れています。

 それを象徴するのが、男たちがボスの息子であるカーリーの新妻に向ける視線です。カーリーの若く美人な妻は、新婚の夫が自分を思いやってくれないことに腹を立てています。不満をつのらせたカーリーの妻は男たちに話しかけて気晴らしをしようとしますが、男たちは彼女が自分たちに色目を使うふしだらでイヤな女だとして避けようとします。一見、美貌で結婚を勝ち取った「強者」に見えるカーリーの妻ですが、実のところ彼女は貧しく抑圧的な田舎で育ち、女であるため教育も受けられなければ自活できるような仕事にも就けず、肉体を武器に結婚する以外に男社会で生きる道がない弱者です。夫からも対等な人間として尊重されておらず、極めて不幸です。しかしながら同じく弱者であるはずのおっさんたちは自分をこき使う金持ちの男たちではなく、カーリーの妻を敵視するのです。現在の弱者男性に関する論議では、時として「勝ち組」とされる、結婚や仕事でなんとか生き抜いた女たちがひどく敵視されることがありますが、この弱者同士の争いを予見しているかのような展開です。

 小説ではこのあたりの描写はやや薄っぺらく、カーリーの妻は不愉快な女に見えます。しかしながら2014年にこの小説の戯曲版(もともと小説が演劇的な構成で、スタインベック本人により戯曲化されました)が再演された際、カーリーの妻役を演じたレイトン・ミースターは史料調査にもとづくフェミニスト的な読みをまじえて社会の犠牲者である女性として役作りを行いました。作者のスタインベックは初演の際、カーリーの妻は常に男性から性欲の対象として扱われてきたにもかかわらず、結婚まで処女でいなければならないという抑圧も受けてきており、この矛盾ゆえに意義ある人間関係を築けなくなっている女性として演じてほしいという手紙を書いており、ミースターはこの手紙を研究したのです。ミースターが出演したプロダクションはジェームズ・フランコとクリス・オダウド主演でナショナル・シアター・ライヴにより日本でも映像が上映されたので、ご覧になった方もいるかもしれません。観客にも男性中心的な偏見が染みついているため、ミースターの役作りが完全に理解されたわけではなかったようですが、少なくとも私が見た限りでは新解釈が芝居に奥行きを与えているように思えました。このように再解釈によって刷新することが可能なのも、古典の魅力のひとつです。

 『二十日鼠と人間』は悲劇的な結末を迎えます。おっさんたちが見た夢は、異性愛からはみ出た人間同士の多様な関係を認めず、障害や貧困、異人種などを迫害する抑圧的な社会によって打ち砕かれます。幸せが訪れることはありませんでしたが、この作品はキモくて金のないおっさんを苦しめる社会に対して強い批判を投げかけていると言っていいでしょう。

全員、人生が詰んでいる『ワーニャ伯父さん』
 アントン・チェーホフの戯曲の特徴は、登場人物ほぼ全員の人生が詰んでいるということです。チェーホフの作品にはキモくて金のないおっさんがたくさん登場するのですが、おっさんどころか才能ある若者とか、大変な美女とか、「勝ち組」扱いされそうな連中もめちゃくちゃ不幸です。そこを突き放しつつ、哀愁をまじえてリアルに人生を描き出すのがチェーホフです。

 『ワーニャ伯父さん』(1899年初演)のタイトルロールであるワーニャは、『二十日鼠と人間』のジョージやレニーに比べればだいぶ恵まれています。一応健康で、明日の食べものにも困るほどの金欠ではありません。住まいも家族もあり、しっかり者の姪ソーニャがいろいろ助けてくれます。

 しかしながらワーニャはたいへん不幸です。ワーニャは亡き妹の夫セレブリャコフ教授の学識を尊敬し、妹の残した屋敷を管理して、その収益を都会で暮らす教授に送金していました。ところが47歳になったワーニャは、自分が独身で手もとにはたいした財産もないということに気づき、実はたいした才人というわけでもない教授に搾取されてきただけだと考えるようになります。ワーニャは教授の若妻で27歳の美女エレーナに言い寄ろうとしますが、うまくいきません。

 この作品の残酷さは、観客がワーニャをいくら可哀想と思っても、彼のキモさ、つまり感じの悪さや性格の欠点にも気付かざるを得ないようになっているところです。娘のソーニャを田舎にほったらかして自分は収入を吸い上げ、ろくに感謝もしない教授にいいようにされてきたワーニャは気の毒ですが、この作品に登場する他の人々に比べてとくに人格などが優れているわけではなく、どちらかというと気難しくてあまり人好きのしない男です。ワーニャが初めて会った時にエレーナに求婚していれば……と妄想して独白するところは、彼がいわゆるキモいおっさんであることを残酷なまでに明らかにしています。

あのとき彼女は十七で、ぼくは三十七だった。どうしてあのとき恋してプロポーズしなかったんだろう。やろうと思えばできたじゃないか。そうしていれば、あの人は今ではぼくの妻だ……。そう……。さだめし今ごろは、二人して嵐に目を覚ましていることだろう。彼女は雷鳴におびえている。ぼくは彼女を抱き寄せて、ささやきかける。「さあ、心配はおよし、ぼくがいるからね」。ああ、考えるだけでうっとりするなあ。思わず笑みまでこぼれてくるじゃないか……。(第2幕、pp. 47–48)

 ここでワーニャは「20年前に求婚しても断られたかもしれない」という、観客ならば当然思いつく可能性をまったく考えずに妄想に浸っています。ワーニャは教授に比べると学識はないし、森林保護活動家でやはりエレーナに恋している医師アーストロフのように情熱的な理想を持っているわけでもなく、知的な男が好みらしいエレーナの気を惹けそうなところはありません。以前『西の国のプレイボーイ』に関する記事で、自信が無さそうなわりになぜかヒロインと結婚できると信じ込んでいる男性キャラクター、ショーンに触れましたが、ワーニャもあまり自分に魅力が無いことは知っているのに、ついついエレーナと結婚できたかもとか思ってしまうのです。

 この戯曲のポイントは、ワーニャのキモさが平凡な人間であれば誰でも持ち合わせているような要素であり、観客に「ワーニャはキモいけど、つらい時は自分も含めて誰でもああいうキモいことを考えるよな」という自省に導く作用があるところです。ワーニャは『二十日鼠と人間』に登場する男たちに比べるとかなり文字通りキモいおっさんですが、それでも観客はワーニャが自分たちに近いと考えます。ワーニャは結局、財産のことで逆上して大騒ぎし、自殺を試みるが失敗するという結末を迎えます。この結末はワーニャ自身のあまり感じがいいとはいえない性格を示すものである一方、観客の親近感を誘うものでもあります。

 この作品のもうひとつのポイントとして、キモくて金のないおっさんは不幸だが、若いのにキモい女も実に不幸だ、ということが示唆されているという点があります。ワーニャの姪ソーニャは親切で感じも良く、普通の意味でキモい人ではありませんが、不美人で自分でもそれをよく理解しています。第3幕では美女エレーナの前で、不細工な自分に対して他人は皆気を遣うのだと告白までします。ソーニャはアーストロフに恋をしていますが、相手にされていません。そんなソーニャですが、自殺騒ぎを起こして死ぬことすらできなかったワーニャに対して「ひょっとすると、あたし、伯父さんよりずっと不幸かもしれない。でも、あたし、自棄なんかおこさないわ」(第4幕、p. 114)となだめます。ワーニャはまだ男として不幸を騒ぐことが許されているのですが、ソーニャは周りから女として家を守り、他人を助けることを期待されていて、その役割を覚悟して引き受けています。

 このソーニャの台詞は、人生のつらさ比べをしてもあまり意味はないのだ、という諦念をも示唆するものです。この作品では、ワーニャやソーニャはもちろん、美女のエレーナであろうと、色男のアーストロフであろうと、全員等しく人生がどん詰まりです。エレーナは不幸な結婚生活を続けますし、アーストロフは失恋して酒浸りです。美しかろうが不細工だろうが、若かろうが年だろうが、様々な理由で人生はつらいし、笑っちゃうくらい不幸だというのがチェーホフ劇なのです。

 『二十日鼠と人間』も『ワーニャ伯父さん』もキモくて金のないおっさんについての物語ですが、方向性はだいぶ違っています。『二十日鼠と人間』ではおっさん同士の女性を介さない連帯の可能性が語られますが、その夢は容赦なく社会につぶされます。『ワーニャ伯父さん』では全く解決が提示されていません。一方で弱者男性が女を敵視する『二十日鼠と人間』に対して、『ワーニャ伯父さん』ではキモいおっさんと同じくらいつらい女や色男も登場します。結末は表現のスタイルは違いますが、こうした名作が時代の壁を越えてキモくて金のないおっさんに声を与えてきたことは確かだと思います。皆さんも是非、いろいろな本をひもといて、過去の作家たちがいかにキモくて金のないおっさんたちのことを真剣に考えていたか、知って欲しいと思います。

参考文献
John Steinbeck, A Life in Letters, ed. Elaine Steinbeck and Robert Wallsten (The Viking Press, 1975).
John Steinbeck, Of Mice and Men (Penguin Books, 2002).
ジョン・スタインベック『二十日鼠と人間』大門一男訳(新潮文庫、1993)。
アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』浦雅春訳(光文社、2009)。

キモくて金のないおっさんの文学論~『二十日鼠と人間』と『ワーニャ伯父さん』

 少し前にインターネットを騒がせていた言葉に「キモくて金のないおっさん」というものがあります。これは社会的弱者であるが権利運動とか救済の対象として想定されていない男性を指す俗語です。

 このおっさんたちはどうやら非常に社会的、経済的に苦しい状況に置かれている一方で、マイノリティとして見えづらいため女性とか少数民族、セクシュアルマイノリティ、障害者などに比べると自己主張しづらい状況に置かれているそうです。「キモくて金のないおっさん」については、こうした不可視化、つまり存在が認識されていないことが問題だと考えている人が多いようです。

 しかしながら、私の見るところ、文学史上にはあまたのキモくて金のないおっさんが登場します。そこで今回は私が個人的にキモくて金のないおっさん文学の名作だと思っている、ジョン・スタインベックの『二十日鼠と人間』と、アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん』をとりあげ、古典がどのようにおっさんを掘り下げているのか見ていきたいと思います。

※『二十日鼠と人間』の引用については、基本的に原書はJohn Steinbeck, Of Mice and Men (Penguin Books, 2002)を使い、日本語の引用は拙訳ですが、大門一男訳(新潮文庫、1993)も参照しました。『ワーニャ伯父さん』についてはアントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』浦雅春訳(光文社、2009)に拠ります。

キモくて金のないおっさんとは?
 分析するからにはまず「キモくて金のないおっさん」とはどういう人かイメージせねばなりません。困ったことにこの言葉は大変曖昧でわかりにくいところがあります。金がないのはまあわかります。「おっさん」というからには自分のことを男性だと考えていて、どんなに若くても30過ぎでしょう。「おっさん」という言葉自体にネガティヴな雰囲気があって本当はあまり使わないほうがいいのかもしれませんが、決まった言い方で流布しているものを言い換えるわけにもいかないので、この文章では「おっさん」という語を使用します。

 問題なのは「キモい」の定義です。「キモい」というのは非常に主観的で、容姿や印象が悪いというような表面的なことから、人格面で高潔さや思いやりが皆無だというような人間関係に破壊的影響を及ぼすことまで、様々な意味で用いられているようです。青柳美帆子は湯川玲子などを引きながら、この言葉を「出世しておらず、カネがなく、女がなく、競争に勝てなかった中年(以上の)男性」として定義しています。女に好かれない、連れ添う女がいないというのはこの種の議論によく出てくる「キモさ」で、どうもヘテロセクシュアルの男性を想定しているようです。まとめると、キモくて金のないおっさんとは、ヘテロセクシュアルで、仕事も私生活もうまくいかず、金銭的に問題を抱えた中年以上の男性を指すようです。

 キモくて金のないおっさんが社会から無視されてきたと思われる方もいるようですが、実は近現代文学はこのようなおっさんの宝庫です。お金もなく、女にモテず、不幸で若くもない男の絶望に対しては、19世紀からこのかた、アメリカやヨーロッパの優れた男性作家が関心を寄せてきました。イギリスやアイルランドの演劇にはこの手のおっさんが山ほど出てきます。サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』(1953)に登場するキモくて金のないおっさん、ウラディミールとエストラゴンの役には多数の名優が挑戦してきましたし、最近ではアイルランド系イギリス人の劇作家マーティン・マクドナーがこうしたおっさん劇を得意としています。少なくとも文学史上においては、キモくて金のないおっさんは無視されるどころか主役なのです。

女とおっさんが弱者同士足を引っ張り合う『二十日鼠と人間』
 こうしたキモくて金のないおっさん文学の中でも、もっとも現代に通じそうな物語を紡いでいるのがアメリカ文学の古典であるジョン・スタインベック『二十日鼠と人間』(1937)です。大恐慌のあおりで貧困に苦しむカリフォルニア州の労働者を描いた中編小説です。主要登場人物のほとんどはキモくて金のないおっさんで、さらにそれぞれ異なる個性的なキモさ、つまり不幸の要因を抱えています。

 主人公のジョージとレニーは農場を渡り歩く季節労働者です。ジョージは賢い小男で、レニーは力強く心優しい大男ですが、知的障害があります。2人は親友で、ジョージはレニーを守り、常に一緒に行動しています。レニーはふわふわした可愛らしいものが大好きで、動物でも布地でもそうしたものを見かけるとなんでも触って強く掴んでしまうため、悪気なく女性の服に触って変質者扱いされたり、動物を殺してしまったり、しょっちゅうトラブルを起こしています。この2人はあまり年齢がはっきりしておらず、おっさんというにはやや若いかもしれないのですが、30歳は越えているように思われます。一般的な意味ではこの2人はキモくないというか、読者の共感を誘うキャラなのですが、貧困のせいでとにかく不幸です。

 農場で働く他の男たちもほとんどはキモくて金のないおっさんです。キャンディはかなりの年で、仕事中の事故で手を失い、障害を抱えています。馬丁のクルックスは背中が曲がっており、アフリカ系であるため他の労働者と同じ家に住まわせてもらえません。この2人も一般的な意味でキモい人物ではありませんが、貧しくぱっとしない独身男です。

 おっさんたちはそれぞれ異なる要因で社会から疎外されているため、なかなか連帯できません。レニーは知的障害、ジョージはレニーとの絆、キャンディは老いと身体障害、クルックスは人種と身体障害のせいで不当な差別にさらされ、不安な暮らしを強いられています。非常に人望があり、キモくて金のないおっさんではないラバ追い名人スリムは、季節労働者は仲間を連れずひとりで移動するのがふつうだと指摘してジョージとレニーの友情を不思議がります。おっさんたちはふだん、分断されてバラバラに生きているのです。

 このおっさんたちを結びつけるのが、おっさんだけで自由に安心して暮らせる共同体を作るという夢です。ジョージとレニーは型破りで同性同士の強い友愛で結ばれた2人組ですが、お金をためて農場を買い、そこに落ち着くという夢を持っています。これを知ったキャンディは自分がお金を出すのでその農場に入れて欲しいと頼みます。この話には、いつもは超然としているクルックスまで心を動かされます。分断されていたおっさんたちが、夢によって一瞬、連帯しかけるのです。最後はこの夢が儚く潰えるのですが、この作品が提示するキモくて金がないおっさんたちの救済策は、自分を好いてくれる女ではなく、気の合う同性同士でのどかに暮らせる安全な場所の確保です。

 この作品が現代的であるポイントのひとつは、弱者であるおっさんたちが、また別の弱者である女を敵に仕立て上げてしまうところです。おっさんたちは金がなさすぎて結婚や恋愛のことはほとんど考えておらず、売春宿で気晴らしすることはあるようですが、それが解決にならないことは知っています。おっさんたちは異性愛が幸せをもたらしてくれるとは全く考えず、むしろ女がトラブルを運んでくることを恐れています。

 それを象徴するのが、男たちがボスの息子であるカーリーの新妻に向ける視線です。カーリーの若く美人な妻は、新婚の夫が自分を思いやってくれないことに腹を立てています。不満をつのらせたカーリーの妻は男たちに話しかけて気晴らしをしようとしますが、男たちは彼女が自分たちに色目を使うふしだらでイヤな女だとして避けようとします。一見、美貌で結婚を勝ち取った「強者」に見えるカーリーの妻ですが、実のところ彼女は貧しく抑圧的な田舎で育ち、女であるため教育も受けられなければ自活できるような仕事にも就けず、肉体を武器に結婚する以外に男社会で生きる道がない弱者です。夫からも対等な人間として尊重されておらず、極めて不幸です。しかしながら同じく弱者であるはずのおっさんたちは自分をこき使う金持ちの男たちではなく、カーリーの妻を敵視するのです。現在の弱者男性に関する論議では、時として「勝ち組」とされる、結婚や仕事でなんとか生き抜いた女たちがひどく敵視されることがありますが、この弱者同士の争いを予見しているかのような展開です。

 小説ではこのあたりの描写はやや薄っぺらく、カーリーの妻は不愉快な女に見えます。しかしながら2014年にこの小説の戯曲版(もともと小説が演劇的な構成で、スタインベック本人により戯曲化されました)が再演された際、カーリーの妻役を演じたレイトン・ミースターは史料調査にもとづくフェミニスト的な読みをまじえて社会の犠牲者である女性として役作りを行いました。作者のスタインベックは初演の際、カーリーの妻は常に男性から性欲の対象として扱われてきたにもかかわらず、結婚まで処女でいなければならないという抑圧も受けてきており、この矛盾ゆえに意義ある人間関係を築けなくなっている女性として演じてほしいという手紙を書いており、ミースターはこの手紙を研究したのです。ミースターが出演したプロダクションはジェームズ・フランコとクリス・オダウド主演でナショナル・シアター・ライヴにより日本でも映像が上映されたので、ご覧になった方もいるかもしれません。観客にも男性中心的な偏見が染みついているため、ミースターの役作りが完全に理解されたわけではなかったようですが、少なくとも私が見た限りでは新解釈が芝居に奥行きを与えているように思えました。このように再解釈によって刷新することが可能なのも、古典の魅力のひとつです。

 『二十日鼠と人間』は悲劇的な結末を迎えます。おっさんたちが見た夢は、異性愛からはみ出た人間同士の多様な関係を認めず、障害や貧困、異人種などを迫害する抑圧的な社会によって打ち砕かれます。幸せが訪れることはありませんでしたが、この作品はキモくて金のないおっさんを苦しめる社会に対して強い批判を投げかけていると言っていいでしょう。

全員、人生が詰んでいる『ワーニャ伯父さん』
 アントン・チェーホフの戯曲の特徴は、登場人物ほぼ全員の人生が詰んでいるということです。チェーホフの作品にはキモくて金のないおっさんがたくさん登場するのですが、おっさんどころか才能ある若者とか、大変な美女とか、「勝ち組」扱いされそうな連中もめちゃくちゃ不幸です。そこを突き放しつつ、哀愁をまじえてリアルに人生を描き出すのがチェーホフです。

 『ワーニャ伯父さん』(1899年初演)のタイトルロールであるワーニャは、『二十日鼠と人間』のジョージやレニーに比べればだいぶ恵まれています。一応健康で、明日の食べものにも困るほどの金欠ではありません。住まいも家族もあり、しっかり者の姪ソーニャがいろいろ助けてくれます。

 しかしながらワーニャはたいへん不幸です。ワーニャは亡き妹の夫セレブリャコフ教授の学識を尊敬し、妹の残した屋敷を管理して、その収益を都会で暮らす教授に送金していました。ところが47歳になったワーニャは、自分が独身で手もとにはたいした財産もないということに気づき、実はたいした才人というわけでもない教授に搾取されてきただけだと考えるようになります。ワーニャは教授の若妻で27歳の美女エレーナに言い寄ろうとしますが、うまくいきません。

 この作品の残酷さは、観客がワーニャをいくら可哀想と思っても、彼のキモさ、つまり感じの悪さや性格の欠点にも気付かざるを得ないようになっているところです。娘のソーニャを田舎にほったらかして自分は収入を吸い上げ、ろくに感謝もしない教授にいいようにされてきたワーニャは気の毒ですが、この作品に登場する他の人々に比べてとくに人格などが優れているわけではなく、どちらかというと気難しくてあまり人好きのしない男です。ワーニャが初めて会った時にエレーナに求婚していれば……と妄想して独白するところは、彼がいわゆるキモいおっさんであることを残酷なまでに明らかにしています。

あのとき彼女は十七で、ぼくは三十七だった。どうしてあのとき恋してプロポーズしなかったんだろう。やろうと思えばできたじゃないか。そうしていれば、あの人は今ではぼくの妻だ……。そう……。さだめし今ごろは、二人して嵐に目を覚ましていることだろう。彼女は雷鳴におびえている。ぼくは彼女を抱き寄せて、ささやきかける。「さあ、心配はおよし、ぼくがいるからね」。ああ、考えるだけでうっとりするなあ。思わず笑みまでこぼれてくるじゃないか……。(第2幕、pp. 47–48)

 ここでワーニャは「20年前に求婚しても断られたかもしれない」という、観客ならば当然思いつく可能性をまったく考えずに妄想に浸っています。ワーニャは教授に比べると学識はないし、森林保護活動家でやはりエレーナに恋している医師アーストロフのように情熱的な理想を持っているわけでもなく、知的な男が好みらしいエレーナの気を惹けそうなところはありません。以前『西の国のプレイボーイ』に関する記事で、自信が無さそうなわりになぜかヒロインと結婚できると信じ込んでいる男性キャラクター、ショーンに触れましたが、ワーニャもあまり自分に魅力が無いことは知っているのに、ついついエレーナと結婚できたかもとか思ってしまうのです。

 この戯曲のポイントは、ワーニャのキモさが平凡な人間であれば誰でも持ち合わせているような要素であり、観客に「ワーニャはキモいけど、つらい時は自分も含めて誰でもああいうキモいことを考えるよな」という自省に導く作用があるところです。ワーニャは『二十日鼠と人間』に登場する男たちに比べるとかなり文字通りキモいおっさんですが、それでも観客はワーニャが自分たちに近いと考えます。ワーニャは結局、財産のことで逆上して大騒ぎし、自殺を試みるが失敗するという結末を迎えます。この結末はワーニャ自身のあまり感じがいいとはいえない性格を示すものである一方、観客の親近感を誘うものでもあります。

 この作品のもうひとつのポイントとして、キモくて金のないおっさんは不幸だが、若いのにキモい女も実に不幸だ、ということが示唆されているという点があります。ワーニャの姪ソーニャは親切で感じも良く、普通の意味でキモい人ではありませんが、不美人で自分でもそれをよく理解しています。第3幕では美女エレーナの前で、不細工な自分に対して他人は皆気を遣うのだと告白までします。ソーニャはアーストロフに恋をしていますが、相手にされていません。そんなソーニャですが、自殺騒ぎを起こして死ぬことすらできなかったワーニャに対して「ひょっとすると、あたし、伯父さんよりずっと不幸かもしれない。でも、あたし、自棄なんかおこさないわ」(第4幕、p. 114)となだめます。ワーニャはまだ男として不幸を騒ぐことが許されているのですが、ソーニャは周りから女として家を守り、他人を助けることを期待されていて、その役割を覚悟して引き受けています。

 このソーニャの台詞は、人生のつらさ比べをしてもあまり意味はないのだ、という諦念をも示唆するものです。この作品では、ワーニャやソーニャはもちろん、美女のエレーナであろうと、色男のアーストロフであろうと、全員等しく人生がどん詰まりです。エレーナは不幸な結婚生活を続けますし、アーストロフは失恋して酒浸りです。美しかろうが不細工だろうが、若かろうが年だろうが、様々な理由で人生はつらいし、笑っちゃうくらい不幸だというのがチェーホフ劇なのです。

 『二十日鼠と人間』も『ワーニャ伯父さん』もキモくて金のないおっさんについての物語ですが、方向性はだいぶ違っています。『二十日鼠と人間』ではおっさん同士の女性を介さない連帯の可能性が語られますが、その夢は容赦なく社会につぶされます。『ワーニャ伯父さん』では全く解決が提示されていません。一方で弱者男性が女を敵視する『二十日鼠と人間』に対して、『ワーニャ伯父さん』ではキモいおっさんと同じくらいつらい女や色男も登場します。結末は表現のスタイルは違いますが、こうした名作が時代の壁を越えてキモくて金のないおっさんに声を与えてきたことは確かだと思います。皆さんも是非、いろいろな本をひもといて、過去の作家たちがいかにキモくて金のないおっさんたちのことを真剣に考えていたか、知って欲しいと思います。

参考文献
John Steinbeck, A Life in Letters, ed. Elaine Steinbeck and Robert Wallsten (The Viking Press, 1975).
John Steinbeck, Of Mice and Men (Penguin Books, 2002).
ジョン・スタインベック『二十日鼠と人間』大門一男訳(新潮文庫、1993)。
アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』浦雅春訳(光文社、2009)。

紗栄子の生殖器が弱っている報告に「気持ち悪い」「ぞわぞわする」ジョークが通じず大惨事

 11月5日、タレントの紗栄子(30)がInstagramに画像を投稿し、自身の生殖器が弱ってることを報告した。

 彼女が投稿したのは、住谷杏奈(34)の紹介で訪れた中国式足裏マッサージを受けている時の写真。撮影者は住谷で、施術されながら寝ている紗栄子が写っている。

 案の定、「なぜ寝顔写真をわざわざ投稿するのか?」「寝顔でも可愛いアピール?」との非難の声もコメントが寄せられているが、今回注目したいのは「#生殖器のツボ押された時だけ飛び起きる私」というハッシュタグ。住谷のInstagramにも「紗栄子さんは#生殖器 私は#膀胱が1番疲れているみたい。でもスッキリ」と投稿されており、紗栄子は“生殖器のツボ”が他のツボと比べてかなり痛かったようだ。

 すると、珍しく下ネタを連想させるジョークに、ネット上では「気持ち悪い」「ぞわぞわする」「今年イチいらない報告」と冷ややかな声が続出。中には「欲求不満かな?」との声もあるが、ちょっと待ってほしい。欲求不満と生殖器の不調は無関係だろう。本当に“生殖器が弱ってる”のかもしれず、だとしたら由々しき事態だ。

 子供がイギリスの寄宿学校に進学したことで、現在彼女は日本とイギリスを行き来しながら、子育てから解放された一人時間を満喫している。11月6日のInstagramには、自作料理の画像と共に「別にお料理するの好きではないし、子供達のいない東京は毎日外食して会いたい人に会うんだって思っていたのに」「初めてかも。自分のためだけにご飯作ったの」とコメントしており、子供たちをイギリスへ送り出してからは特に外食の機会が多くなっていた模様だ。

 実業家でもあり会食も仕事のうちだろうが、たとえ紗栄子が人一倍タフだとしても、不規則な生活は子宮や卵巣など女性特有の臓器にダイレクトなダメージを来たすことが考えられる。しかも多くの女性芸能人も語るように、アラサーは体調が急に変化する節目で、だからこそ女性の厄年は30代に集中している。多忙なうえ外食三昧となれば、内臓が悲鳴を上げるのも無理はない。慣れない生活に疲れも溜まっているのだろう。

 11月2日のInstagramには「テレビに出るのが怖いと思っていた時期もあったけれど、最近とても楽しくお仕事させていただいているなぁとふと思った」と仕事に前向きな姿勢を語っていた紗栄子。本当に身体が弱っているのなら、大事になる前に何らかの対処を行い、今度も元気な姿を見せてほしい。

(ボンゾ)

映画『それでもボクはやってない』が見せていない「痴漢の被害に遭った女性」の視点を想像する

 今春、電車内で痴漢を疑われた男性が線路に飛び降り逃走する事案が頻発した。このうち一件は実際に迷惑防止条例違反で逮捕起訴されており、すでにwezzyでも報じた通りである。またもう一件、逃走後に電車にはねられ死亡した男性が女性に液体をかけた暴行罪で死亡後に書類送検されたこともつい最近報じられた。

 これらの飛び降り逃走事案は、最近までワイドショーやネットニュースを騒がせ、またその際に「痴漢被害」ではなく「痴漢冤罪」の恐ろしさについてもセットで報じられる現象が巻き起こった。『痴漢』とくれば“冤罪が怖い”という連想が、「とりあえず」といえば「ビール」のごとく浸透していたということである。ここまで「痴漢といえば冤罪」という認識……いやむしろ“恐怖”を広めたのは、2007年に公開された周防正行監督の映画『それでもボクはやってない』の影響が小さくはないのではないか。このたび「痴漢といえば冤罪」の根元に迫るべく、改めてこの映画を見直してみた。

 就活中のフリーター・鉄平は、面接のために乗った満員電車で女子中学生に痴漢と間違えられて逮捕されてしまう。当番弁護士は示談を進めるが鉄平はこれを突っぱね、自身の無実を証明するために裁判に挑む……というストーリーである。周防監督が「どうしても作りたかった」という本作は、前作『Shall we ダンス?』公開後に地道な調査を重ね制作された。

※以下、映画『それでもボクはやってない』のネタバレを含みます。

映画が伝えたかったことは「痴漢冤罪に気をつけろ」ではない
 この日、鉄平は大事な面接のために普段は乗らない通勤ラッシュの時間帯の電車に乗っていた。加えて履歴書をちゃんと持ってきていたか不安になり、目的地とは異なる駅で一旦電車を降り、リュックの中を確認して再びぎゅうぎゅうに混み合う電車に乗り込んだ。そのとき、ドアにスーツのを挟まれてしまい、ごそごそと引っ張っているうちに、右側に立つ女性が振り返って鉄平を見た。会釈して「すみません」と謝る鉄平。その後もスーツを引っ張っているうちに、が「やめてください」と声をあげた。また会釈する鉄平。そして電車を降りてからその女子中学生に痴漢だと言われ、駅員らに駅事務所に連れて行かれる……ここから鉄平の地獄が始まる。

 警察署に着くなり刑事に「一体何が面白い!! いつもこんなことやってんのか」と大声で怒鳴られ、完全に“犯人”扱いされて面食らう鉄平。「女が言ってんだよ、お前にやられましたってな」と、続けてぶつける。こうした非人道的な取り調べを受け、当番弁護士には「示談で済むものを裁判やってもしょうがない。認めて示談にすれば明日か明後日はここを出られる」と、勧められる。だが鉄平はこれに応じず戦う姿勢を示したため、釈放されることなく取り調べは続いた。

 留置場に入る際は着るものをパンツ以外全部脱いで身体検査をされ、食事は同房の人間と一緒に、床にビニールを敷いてそこに食器を並べて食べる。検察庁での取り調べのために移送される際は、他の被疑者と一緒に手錠をはめられ、狭い待合室の中に仕切り程度のバーしかついていないトイレで用を足す。検察官調べでも否認を貫けば検察官に「いつまでも否認してただですむと思うなよ、絶対に落としてやるからな」と怒鳴られる。さらに裁判所における勾留質問でも否認の意思を示したことで10日間の勾留が決定する。

 痴漢容疑をかけられて否認を貫けばいかに恐ろしい事が待っているかという描写がこれでもかと続く、気の重い作品である。だが本作が訴えているのは「痴漢冤罪の恐ろしさ」ではない。当時の日本における行政や司法に対する問題提起……つまり被疑者取り調べや、刑事裁判がいかに人権を無視したものであるか、だ。

 説明するまでもないが、被疑者、被告人という立場は、有罪か無罪かがまだ決まっていない。それなのに、もう犯罪者であるかのごとく、こんなに非人道的な扱いを受けていいのか? 監督は全編にわたり、これを訴えている。

 もうひとつ監督が訴えたかったことは、日本の刑事裁判がいかに検察寄りで自白偏重主義に陥り続けているかということだろう。本作では警察官、検察官、裁判官、いずれも悪役のごとくに描かれている。警察官は被疑者段階でも人権を無視した扱いを平気でするものだ、検察官は有罪立証のために不利な証拠は隠す、裁判官は検察を忖度し、逮捕直後に自白した調書を何よりも重要視する……。そんな姿が描かれている。当初、鉄平の裁判は、無罪を連発していた裁判官が担当していたが、突如異動となってしまうことで、風向きも変わってしまい、バッドエンディングを迎えるのである。

 監督は作品を観る人たちに、司法について身近な問題として捉えてもらうために電車内の痴漢を題材にしたのかもしれない。だがこれは「無実の男性から見た痴漢裁判」を題材として、そこから見える行政や司法に対する問題を炙り出しているため、被害を訴えた女子中学生は「嘘をついている」立場として描かれる。彼女は公判で証人出廷するが、供述が変遷する。この描写がかなり含みをもたせているため、嘘をついているのか、勘違いなのか、判然としない様子に映る。女子中学生の勘違いなのか、別に真犯人がいるのか、そのどちらかだろうが、不可解に供述を変遷させるさまは、証人出廷に備え、警察や検察と事前に口裏合わせをしたのではないかという疑いを多分に感じさせる。いずれにしてもここに『痴漢といえばでっち上げで冤罪』、『女は怖い』の刷り込みを生んだ元凶を見た。

 一方、これを女子中学生側から見た場合はどうか。「痴漢被害者から見た痴漢裁判」として見れば、「決死の覚悟で捕まえた痴漢が法廷で嘘をついている」であろう。だがそちら側は一切描かれない。これは「無実の男性から見た痴漢裁判」だからだ。「無実の男性から見た痴漢」からの視点で描かれているが、痴漢という犯罪においては「本当に痴漢の被害に遭った女性」も確かに存在するのだが、そのことを忘れさせてしまう構成になってしまっている。

 日本の行政、司法に対する問題提起のみを純粋に観る者に訴えるのであれば、別の罪名でやったほうがよかった……この映画が公開された当時、仲の良い傍聴マニアとそんな話をした。そう、私は本作で「最低の人たち」と鉄平の弁護人に毒づかれている傍聴マニアという人種であるが、本作での傍聴マニアの描写も、警察官や検察官、裁判官たちと同様に悪役然としていた。無罪を争う被告人に向かって「本当はやった?」と不躾に法廷で話しかける不届き者など見たことがない。一方的な決めつけに基づく悪意のある描写は、10年前に観たときと同様、今回改めて観てもやはり腹立たしさを覚えるが、こうした腹立たしさを、真面目にやっている警察官や検察官、裁判官らも抱いているのではないかと思うのである。

 本作では裁判の流れ自体はディテールが細かい。弁護側請求証拠を却下する裁判官のあっさりした様子、次回期日を決める際に法廷で交わされるやり取りなど挙げればきりがない。これまで見てきた法廷モノの映画やドラマとは比べ物にならないほどのリアリティだと感服する。長期化した公判の途中で裁判官が異動になる流れも、あるあるである。だが実際は痴漢裁判の多くでその被告人は罪を認め、初公判で結審してしまう。つまり「真っ向否認を貫く痴漢裁判」自体がそもそもレアなのだ。迷惑防止条例違反で多数の証人が出廷していれば、おそらく3~4回目ぐらいで傍聴マニアに広く知られる話題の裁判となる。映画のように、必死に支援者を集めずともマニアや記者らでおのずと傍聴席は満席となるだろう。痴漢の否認裁判というレアケースを題材にして行政・司法の問題をあぶりだしたが、そのレアケースが観る者に鮮烈な印象を与え、10年という時を経て、痴漢といえば冤罪という恐怖だけが残ってしまった。

映画『それでもボクはやってない』が見せていない「痴漢の被害に遭った女性」の視点を想像する

 今春、電車内で痴漢を疑われた男性が線路に飛び降り逃走する事案が頻発した。このうち一件は実際に迷惑防止条例違反で逮捕起訴されており、すでにwezzyでも報じた通りである。またもう一件、逃走後に電車にはねられ死亡した男性が女性に液体をかけた暴行罪で死亡後に書類送検されたこともつい最近報じられた。

 これらの飛び降り逃走事案は、最近までワイドショーやネットニュースを騒がせ、またその際に「痴漢被害」ではなく「痴漢冤罪」の恐ろしさについてもセットで報じられる現象が巻き起こった。『痴漢』とくれば“冤罪が怖い”という連想が、「とりあえず」といえば「ビール」のごとく浸透していたということである。ここまで「痴漢といえば冤罪」という認識……いやむしろ“恐怖”を広めたのは、2007年に公開された周防正行監督の映画『それでもボクはやってない』の影響が小さくはないのではないか。このたび「痴漢といえば冤罪」の根元に迫るべく、改めてこの映画を見直してみた。

 就活中のフリーター・鉄平は、面接のために乗った満員電車で女子中学生に痴漢と間違えられて逮捕されてしまう。当番弁護士は示談を進めるが鉄平はこれを突っぱね、自身の無実を証明するために裁判に挑む……というストーリーである。周防監督が「どうしても作りたかった」という本作は、前作『Shall we ダンス?』公開後に地道な調査を重ね制作された。

※以下、映画『それでもボクはやってない』のネタバレを含みます。

映画が伝えたかったことは「痴漢冤罪に気をつけろ」ではない
 この日、鉄平は大事な面接のために普段は乗らない通勤ラッシュの時間帯の電車に乗っていた。加えて履歴書をちゃんと持ってきていたか不安になり、目的地とは異なる駅で一旦電車を降り、リュックの中を確認して再びぎゅうぎゅうに混み合う電車に乗り込んだ。そのとき、ドアにスーツのを挟まれてしまい、ごそごそと引っ張っているうちに、右側に立つ女性が振り返って鉄平を見た。会釈して「すみません」と謝る鉄平。その後もスーツを引っ張っているうちに、が「やめてください」と声をあげた。また会釈する鉄平。そして電車を降りてからその女子中学生に痴漢だと言われ、駅員らに駅事務所に連れて行かれる……ここから鉄平の地獄が始まる。

 警察署に着くなり刑事に「一体何が面白い!! いつもこんなことやってんのか」と大声で怒鳴られ、完全に“犯人”扱いされて面食らう鉄平。「女が言ってんだよ、お前にやられましたってな」と、続けてぶつける。こうした非人道的な取り調べを受け、当番弁護士には「示談で済むものを裁判やってもしょうがない。認めて示談にすれば明日か明後日はここを出られる」と、勧められる。だが鉄平はこれに応じず戦う姿勢を示したため、釈放されることなく取り調べは続いた。

 留置場に入る際は着るものをパンツ以外全部脱いで身体検査をされ、食事は同房の人間と一緒に、床にビニールを敷いてそこに食器を並べて食べる。検察庁での取り調べのために移送される際は、他の被疑者と一緒に手錠をはめられ、狭い待合室の中に仕切り程度のバーしかついていないトイレで用を足す。検察官調べでも否認を貫けば検察官に「いつまでも否認してただですむと思うなよ、絶対に落としてやるからな」と怒鳴られる。さらに裁判所における勾留質問でも否認の意思を示したことで10日間の勾留が決定する。

 痴漢容疑をかけられて否認を貫けばいかに恐ろしい事が待っているかという描写がこれでもかと続く、気の重い作品である。だが本作が訴えているのは「痴漢冤罪の恐ろしさ」ではない。当時の日本における行政や司法に対する問題提起……つまり被疑者取り調べや、刑事裁判がいかに人権を無視したものであるか、だ。

 説明するまでもないが、被疑者、被告人という立場は、有罪か無罪かがまだ決まっていない。それなのに、もう犯罪者であるかのごとく、こんなに非人道的な扱いを受けていいのか? 監督は全編にわたり、これを訴えている。

 もうひとつ監督が訴えたかったことは、日本の刑事裁判がいかに検察寄りで自白偏重主義に陥り続けているかということだろう。本作では警察官、検察官、裁判官、いずれも悪役のごとくに描かれている。警察官は被疑者段階でも人権を無視した扱いを平気でするものだ、検察官は有罪立証のために不利な証拠は隠す、裁判官は検察を忖度し、逮捕直後に自白した調書を何よりも重要視する……。そんな姿が描かれている。当初、鉄平の裁判は、無罪を連発していた裁判官が担当していたが、突如異動となってしまうことで、風向きも変わってしまい、バッドエンディングを迎えるのである。

 監督は作品を観る人たちに、司法について身近な問題として捉えてもらうために電車内の痴漢を題材にしたのかもしれない。だがこれは「無実の男性から見た痴漢裁判」を題材として、そこから見える行政や司法に対する問題を炙り出しているため、被害を訴えた女子中学生は「嘘をついている」立場として描かれる。彼女は公判で証人出廷するが、供述が変遷する。この描写がかなり含みをもたせているため、嘘をついているのか、勘違いなのか、判然としない様子に映る。女子中学生の勘違いなのか、別に真犯人がいるのか、そのどちらかだろうが、不可解に供述を変遷させるさまは、証人出廷に備え、警察や検察と事前に口裏合わせをしたのではないかという疑いを多分に感じさせる。いずれにしてもここに『痴漢といえばでっち上げで冤罪』、『女は怖い』の刷り込みを生んだ元凶を見た。

 一方、これを女子中学生側から見た場合はどうか。「痴漢被害者から見た痴漢裁判」として見れば、「決死の覚悟で捕まえた痴漢が法廷で嘘をついている」であろう。だがそちら側は一切描かれない。これは「無実の男性から見た痴漢裁判」だからだ。「無実の男性から見た痴漢」からの視点で描かれているが、痴漢という犯罪においては「本当に痴漢の被害に遭った女性」も確かに存在するのだが、そのことを忘れさせてしまう構成になってしまっている。

 日本の行政、司法に対する問題提起のみを純粋に観る者に訴えるのであれば、別の罪名でやったほうがよかった……この映画が公開された当時、仲の良い傍聴マニアとそんな話をした。そう、私は本作で「最低の人たち」と鉄平の弁護人に毒づかれている傍聴マニアという人種であるが、本作での傍聴マニアの描写も、警察官や検察官、裁判官たちと同様に悪役然としていた。無罪を争う被告人に向かって「本当はやった?」と不躾に法廷で話しかける不届き者など見たことがない。一方的な決めつけに基づく悪意のある描写は、10年前に観たときと同様、今回改めて観てもやはり腹立たしさを覚えるが、こうした腹立たしさを、真面目にやっている警察官や検察官、裁判官らも抱いているのではないかと思うのである。

 本作では裁判の流れ自体はディテールが細かい。弁護側請求証拠を却下する裁判官のあっさりした様子、次回期日を決める際に法廷で交わされるやり取りなど挙げればきりがない。これまで見てきた法廷モノの映画やドラマとは比べ物にならないほどのリアリティだと感服する。長期化した公判の途中で裁判官が異動になる流れも、あるあるである。だが実際は痴漢裁判の多くでその被告人は罪を認め、初公判で結審してしまう。つまり「真っ向否認を貫く痴漢裁判」自体がそもそもレアなのだ。迷惑防止条例違反で多数の証人が出廷していれば、おそらく3~4回目ぐらいで傍聴マニアに広く知られる話題の裁判となる。映画のように、必死に支援者を集めずともマニアや記者らでおのずと傍聴席は満席となるだろう。痴漢の否認裁判というレアケースを題材にして行政・司法の問題をあぶりだしたが、そのレアケースが観る者に鮮烈な印象を与え、10年という時を経て、痴漢といえば冤罪という恐怖だけが残ってしまった。

ジャニーズ事務所が、『紅白』初出場を潰そうとしている“アイドルグループ”とは?

 早ければ来週にも出場歌手が発表される見込みとなっている、大みそかの『第68回NHK紅白歌合戦』。すでに各メディアでは、出場歌手を予想する報道が盛んとなっているが、今回“初出場の当落スレスレ”といわれていたアイドルグループが、ある行動によって、「落選してしまうのではないか?」などとささやかれだしたようだ。

「東海エリアを中心に活動するボーイズグループ『BOYS AND MEN』(ボイメン)です。デビュー当初から、彼らには芸能界のしがらみから逃れるための“戦略”があり、その甲斐あって着実にファンを増やしてきました。昨年は『日本レコード大賞新人賞』を受賞し、今年も8月リリースのシングル『帆を上げろ!』が累計売上約17万枚(オリコン調べ)と、実績だけでいえば、『紅白』出場基準は完全にクリアしています」(音楽誌ライター)

 ボイメンの“戦略”とは、ジャニーズ事務所への対策なのだという。

「競合グループの存在を許さないジャニーズは、かつてメディアに対して、『あのグループを起用するなら、ジャニーズのタレントは出演させない』などと圧力をかけ、多くの男性アイドルを干してきました。そこでボイメンは、ジャニーズがあまり関与しない地方での活動をメインに据え、文字通り地道な展開。そして、名実ともに人気グループとなった今、ようやく全国規模のグループへとシフトチェンジすることになったんです」(同)

 そんな彼らは、先日も一部ウェブメディアで「紅白出場内定」と報じられていたが、ここへきて雲行きが怪しくなってきたという。

「ボイメンの一部メンバーが、元SMAPの稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾の『72時間ホンネテレビ』(AbemaTV)に出演したんです。ジャニーズは、3人に対してあからさまな圧力こそかけていないものの、目の敵にしているのは明らかで、複数の大手芸能プロは、ジャニーズの手前、自社タレントをゲスト出演させることを拒否していたほどです。そんな状況にあって、ボイメンが出演したことは、当然ジャニーズサイドからすれば面白くなかったはず。そんな中、ここ数日業界関係者の間で、NHKはジャニーズとの関係を考慮して、ボイメンの『紅白』出場を今回は見送る可能性が高いとウワサされるようになったんです」(芸能プロ関係者)

 ジャニーズとボイメンをめぐっては、昨年のKis‐My‐Ft2との売り上げバトルが記憶に新しい。

「初日売り上げでは、ボイメンの『YAMATO☆Dancing』がオリコンシングルランキング1位を獲得していたものの、途中キスマイの『Sha la la☆Summer Time』が急激に売り上げを伸ばし、さらには、ボイメンのCD販売会が突如中止になるなどして、週間ランキングではキスマイが勝利(既報)。ボイメンファンからは不正を疑う声があふれ、両グループの敵対関係が、ネット上でしばらくの間クローズアップされていました」(同)

 ボイメンの『紅白』当落はギリギリまでハッキリしないといわれるが、果たしてNHKは公正な判断を下せるのだろうか。

ジャニーズ事務所が、『紅白』初出場を潰そうとしている“アイドルグループ”とは?

 早ければ来週にも出場歌手が発表される見込みとなっている、大みそかの『第68回NHK紅白歌合戦』。すでに各メディアでは、出場歌手を予想する報道が盛んとなっているが、今回“初出場の当落スレスレ”といわれていたアイドルグループが、ある行動によって、「落選してしまうのではないか?」などとささやかれだしたようだ。

「東海エリアを中心に活動するボーイズグループ『BOYS AND MEN』(ボイメン)です。デビュー当初から、彼らには芸能界のしがらみから逃れるための“戦略”があり、その甲斐あって着実にファンを増やしてきました。昨年は『日本レコード大賞新人賞』を受賞し、今年も8月リリースのシングル『帆を上げろ!』が累計売上約17万枚(オリコン調べ)と、実績だけでいえば、『紅白』出場基準は完全にクリアしています」(音楽誌ライター)

 ボイメンの“戦略”とは、ジャニーズ事務所への対策なのだという。

「競合グループの存在を許さないジャニーズは、かつてメディアに対して、『あのグループを起用するなら、ジャニーズのタレントは出演させない』などと圧力をかけ、多くの男性アイドルを干してきました。そこでボイメンは、ジャニーズがあまり関与しない地方での活動をメインに据え、文字通り地道な展開。そして、名実ともに人気グループとなった今、ようやく全国規模のグループへとシフトチェンジすることになったんです」(同)

 そんな彼らは、先日も一部ウェブメディアで「紅白出場内定」と報じられていたが、ここへきて雲行きが怪しくなってきたという。

「ボイメンの一部メンバーが、元SMAPの稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾の『72時間ホンネテレビ』(AbemaTV)に出演したんです。ジャニーズは、3人に対してあからさまな圧力こそかけていないものの、目の敵にしているのは明らかで、複数の大手芸能プロは、ジャニーズの手前、自社タレントをゲスト出演させることを拒否していたほどです。そんな状況にあって、ボイメンが出演したことは、当然ジャニーズサイドからすれば面白くなかったはず。そんな中、ここ数日業界関係者の間で、NHKはジャニーズとの関係を考慮して、ボイメンの『紅白』出場を今回は見送る可能性が高いとウワサされるようになったんです」(芸能プロ関係者)

 ジャニーズとボイメンをめぐっては、昨年のKis‐My‐Ft2との売り上げバトルが記憶に新しい。

「初日売り上げでは、ボイメンの『YAMATO☆Dancing』がオリコンシングルランキング1位を獲得していたものの、途中キスマイの『Sha la la☆Summer Time』が急激に売り上げを伸ばし、さらには、ボイメンのCD販売会が突如中止になるなどして、週間ランキングではキスマイが勝利(既報)。ボイメンファンからは不正を疑う声があふれ、両グループの敵対関係が、ネット上でしばらくの間クローズアップされていました」(同)

 ボイメンの『紅白』当落はギリギリまでハッキリしないといわれるが、果たしてNHKは公正な判断を下せるのだろうか。