
米国債がデフォルト(債務不履行)に陥る可能性が高まっている。米国債のデフォルトが現実味を…
英国史上最長の70年7カ月にわたって君主を務めた、エリザベス女王が今月9月8日に死去してから、世界各国のメディアが自国の指導者と女王との関わりを報じている。アメリカの場合はトルーマンから始まる女王と面会した歴代の大統領と女王の写真と映像、それにまつわるエピソードの数々を複数のメディアが形を変えて紹介した。
70年以上に及んだ在位期間中、女王はある意味、アメリカの政権交代を目…
人気コメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ(以下『SNL』)』の看板コーナー『ウィークエンド・アップデート』でキャスターに扮し、ニュースを風刺し続けているスタンダップコメディアン、マイケル・チェの自身5年ぶりとなるネットフリックスでのライブ・スペシャル『Shame The Devil(邦題は『ぶっちゃけ話』)』が先日配信された。
HBO制作の『スポーツ国家の不条理』は世界に名だたるスポーツ国家・アメリカのスポーツ業界に渦巻く、さまざまな問題にまつわる全4話のドキュメントだ。
1980年代後半のメリーランド州グレナーデンではクラックコカインの流行により治安が悪化、若者の犯罪率が急上昇した。午後10時以降の犯罪率が高いことから、若者を犯罪から遠ざけるための取り組みを始める。それが「真夜中のバスケットボー…
アメリカ人のドーナツ消費量は年間100億個。すなわちアメリカにおける「コーヒーとドーナツ」は日本における「ご飯と味噌汁」に近い朝食の定番だが、ドーナツの本場・カリフォルニア州にあるドーナツ店の90パーセント以上は「カンボジア系アメリカ人」が経営しているという。1980年代に彼らが個人経営の店を一気に増やしたのだ。
その発祥をたどると、カンボジアから渡ってきたテッド・ノイとい…
中国が2020年6月30に香港の反体制活動を禁じる「中華人民共和国香港特別行政区国家安全維持法(国安法)」を施行してから1年が経った。反政府活動は厳しく取り締まっても、世界有数の金融都市、香港の機能は引き続き維持したいのが中国政府の本音だ。
そんな中国に対し、バイデン米政権は7月16日、香港に進出する米企業などに対し、データ流出など事業運営上のリスクが高まっている等と警告す…
――米軍では今年4月からトランスジェンダーの入隊制限を開始。このトランプ政権の政策には大きな反発が起きている。一方で隣国の韓国では兵士の同性愛が禁止され、こちらも人権団体の非難の対象だ。一方で日本の自衛隊では、LGBTへの対応に関する目立った報道はなし。その存在は緩やかに容認されているように見えるが、本稿における取材でさまざまな問題が見えてきた。
今年4月から始まった、米軍のトランスジェンダー入隊制限。米軍では、第二次大戦の頃から続いていた同性愛者の従軍禁止がクリントン政権下で条件付きで解除。オバマ政権下ではトランスジェンダーの受け入れ方針も決定していた。そうした流れにも逆行するトランプの政策は強い反発を呼んでいる。
一方、自衛隊のLGBTへの対応では、ニュースになるようなトピックは少ない。2017年の一部規則の変更で、性的指向・性自認に関する偏見的な言動がセクハラに認定されるようになった程度だ。そのセクハラの注意喚起は、自衛隊のコンプライアンス・ガイダンスにも明記されており、LGBTの存在は自衛隊内で事実上、容認されているようにも見える。 この日米の状況の違いはどう考えるべきなのか。名古屋市立大学人文社会学部准教授で、ジェンダー論、セクシュアリティ論が専門の菊地夏野氏はこう解説する。
「米軍と比較して自衛隊がLGBTに寛容かというと、決してそうは言えません。そもそも米国においてジェンダーやセクシュアリティの問題は、宗教的な信念・価値観に深くかかわるもの。そのため深い議論が長年続いてきました。一方の日本では、LGBT関連の報道は近年増えたものの、メディアも国民もどこかひとごとの雰囲気があります。性別変更にかかわる性同一性障害特例法も、その厳しい要件(婚姻をしている人や未成年の子どもがいる人は申請が認められない)の違憲性を問う裁判が行われているのに、ほとんど報道がありません」
つまり米国は「ジェンダーやセクシュアリティに関する論争・対立が日本より見えやすいだけ」であり、差別的な実態は日本にも温存されているのだ。
では自衛隊内ではLGBTの隊員にどのような対応がなされているのか。陸上自衛隊在籍中に自身のセクシュアリティを自覚し、退職後に性別適合手術を行った松﨑志麻氏に話を聞いた。
「96人の同期の女性隊員には、私と同じFTMの人が7人ほどいて、バイセクシュアルや同性愛の隊員も数名いました。私は広くカミングアウトをしている珍しいタイプでしたが、周囲から特別扱いされることもなく、ごく自然に接してくれる人も多かったです」
ただ、ホルモン治療や性別適合手術の相談をすると、「上司によって対応が分かれる」とのこと。
「理解のある上司のもとでは、ホルモン治療や胸の手術が認められた隊員もおり、航空自衛隊の幹部には性別適合手術まで終えた方もいるそうです。私の場合も、最初の上司は理解のある方でしたが、その次の上司は治療の相談に対して『それだけお金があるなら俺に原付を買ってくれ』と言うような人でした。その上司は私が女性の隊舎に住むことも問題視し、『監視が必要だから一人部屋も認めない』とも言われました」(松﨑氏)
松﨑氏によると、別の部隊に在籍したFTMの隊員には、事実無根の噂や悪口を周囲やネットに広められた人や、「男なら胸や尻を触っても大丈夫だろ」とセクハラをされた人もいたという。ハラスメントは実態として存在していたのだ。また入隊時は全員が基地内で生活する自衛隊では、共同浴場での入浴もハードルになる。
「FTMの人にとっては共同浴場での入浴は苦痛なのですが、下の階級の隊員は個別のシャワーを利用できない駐屯地(陸上自衛隊の基地)もあります。そのため水しか出ない消灯後のシャワーで、こっそり体を洗っている隊員もいました」(松﨑氏)
GID(性同一性障害)の診断やホルモン治療、性別適合手術を行う自由が丘MCクリニックの大谷伸久氏も次のように話す。
「一般企業ではGIDの診断書を提出すれば、トイレや更衣室の問題も対応してくれるところが増えていますが、共同浴場もある自衛隊では柔軟な対応はまだ難しい。また規則に基づいて行動するのが原則の組織ですから、GIDの隊員への対応も部隊内で目立たない範囲で行わなければいけないでしょう。対応が上司次第になるのはそのためでしょうし、当院を利用した自衛隊の方によると、『手術したらクビにするぞ』と言った上官もいたそうです」(大谷氏)
自衛隊はもともと男女の扱いの違いがハッキリした組織であり、「男らしさを中心原理に動く組織」(菊地氏)でもある。「そのため男性から女性へと性別変更するMTFの人は、FTMの人以上に苦労することが多いのではないでしょうか」と菊地氏。実際に松﨑氏の周囲のトランスジェンダーの隊員はほぼ全員がFTM。MTFの知り合いの隊員は、「『なよなよしている』『女とばかり仲良くしすぎ』などといじめの対象になりやすかった」とのこと。ゲイやレズビアンの隊員については「カミングアウトをせずに働き続けている人が多いのではないか」と松﨑氏は話す。
「FTMの隊員が性別変更まで進むのは今も難しいでしょうし、自分らしく生きることをあきらめて自衛隊に残るか、自衛隊を出て性別を変えるかの選択を迫られることになるはずです。私は手術と性別変更のために退職しましたが、自衛隊の仕事は好きで、男性として戻ることも考えました。ただ、問い合わせをすると、『入隊はできても訓練やお風呂等の対応はどうなるかわからない』との回答でした」(松﨑氏)
現状で自衛隊に求められるのは、トランスジェンダーの隊員の入隊や、在籍時の手術・性別変更等への対応について、一定のルールを設けることだろう。
「自衛隊は何から何まで規則で動き、例外を作りたがらない組織です。上に明確なルールができれば、上官によって対応が異なる問題も解決するのではないでしょうか。また『性別を変えてから入隊する』という選択をする人が出てくれば、女子大がトランスジェンダーの入学について検討を始めているように、自衛隊も何らかの対応を始めると思います」(大谷氏)
将来的に幹部になる自衛官の教育などでは、「LGBTについての授業も行われるようになったと聞いています」と松﨑氏。なお日本政府と自衛隊のかかわりにも注視する必要がある。
「政府は女性活躍推進政策のアピール材料として、自衛官の女性比率増加を掲げています。それと同様に社会的なイメージアップ戦略として、自衛隊にLGBTに関する制度を設けたり、採用した隊員を広報宣伝に活用していくことも考えられます」(菊地氏)
ただ、それがイメージアップにとどまるもので、実態が変わらなければやはり問題だ。
「ゲイフレンドリーを積極的に打ち出し、パレスチナ人への人権侵害の事実を覆い隠すイスラエルの政策が『ピンクウォッシュ』と非難されたのと同様のことが、自衛隊で起こる可能性があります。また自衛隊とLGBTの関係は、『男性がマジョリティを占める組織にLGBTが参入することで本当に差別はなくなるのか』『そもそも戦闘も行う組織に加わるべきなのか』といった観点や、自衛隊の存在をどう捉えるかも含めて議論すべきです」(菊地氏)
男性原理が強く支配する自衛隊と、LGBTの関係を考えること。それは日本社会の問題点や課題と向き合うことにもなるのではないか。(月刊サイゾー9月号『新・戦争論』より)
――巨匠、スティーブン・スピルバーグ監督は、多作であることを差し置いても、多くの戦争をテーマに取り扱ってきた。近年でも『ブリッジ・オブ・スパイ』や『戦火の馬』など精力的に表している。スピルバーグの戦争映画を追いながら、ハリウッドと戦争の一面を見ていこう。
◇ ◇ ◇
ドナルド・トランプが大統領に就任してからというもの、多くの国へ戦闘姿勢を見せているかのようなアメリカ。だが考えてみれば同国は、それ以前からもずっと戦争を続けている。アメリカとは常に、戦争とそれへの批判が渦巻く国でもあるわけだ。
同国では、時にストレートな批判的作品として、そして短絡的なエンタメとしても戦争をテーマにした映画が量産され続けている。そんな中で、ハリウッドで多数の衝撃的な作品を生み出し、かつ数々の称賛や批判を浴びてきたのが、映画監督スティーブン・スピルバーグだ。
映画ファンは別として、その名を聞くといまだ『E.T.』(82年)や『ジュラシック・パーク』(93年)『インディ・ジョーンズ』シリーズ(81~08年)といった作品群が、咄嗟に浮かぶ人も少なくないだろう。だが特に近年は、硬派な戦争関連作品を立て続けに放っている。もちろん、監督として半世紀近く活躍しているだけに、“スピルバーグが撮る戦争”にもアプローチやスタイルの変遷がある。
本稿では『スティーブン・スピルバーグ論』(フィルムアート社)『フィルムメーカーズ スティーヴン・スピルバーグ』(宮帯出版社/ともに編著)、『スピルバーグ、その世界と人生』(大久保清朗氏との共訳/西村書店)と、スピルバーグ関連の書籍を手がけてきた映画評論家の南波克行氏のガイドをもとにして、アメリカと戦争の距離感がスピルバーグにどう作用し、戦争をテーマにした映画を創り続けさせてきたのかを探っていこう。
彼のフィルモグラフィを見ると初期は、太平洋戦争を背景にしたコメディ『1941』(79年)や日中戦争時のイギリス人少年の成長ドラマ『太陽の帝国』(87年)ぐらいで、直接戦争をテーマにした作品はそうは多くない。そこには彼の“1946年”という生年と、それゆえの戦争との距離感が大きく関係していると南波氏は分析する。
「当然ですが、彼が生まれたときには第二次世界大戦は終わっていた。太平洋戦争時に無線士として爆撃機B-25に乗り込んで日本軍と戦っていた父親から戦争の話を聞かされていたが、間近でその脅威にさらされていたわけではないんです。だから大戦の話を肉親から聞いていても一種のファンタジーのようにとらえていただろうし、過去の戦争の数々も後付けの歴史として認識していたと思います」
スピルバーグが4歳の頃に勃発した朝鮮戦争は南北分断という状態で休戦となり、米ソ冷戦の両陣営による応酬が“キューバ危機”という一触即発の事態を生むも結局、第3次世界大戦の幕開けになることはなかった。ただ冷戦に関しては、何かしらの“外敵”に対するアメリカ国内の過剰な反応がスピルバーグ少年にも強烈な記憶として焼き付いているようで、「日本軍が真珠湾に続けてロサンゼルスに乗り込んでくる」という思い込みによって米兵たちが半狂乱になった揚げ句に街が壊滅状態になる『1941』という作品で、それを巧みにコメディへと転化させた。そうしたアプローチが確固たるものとなったのはベトナム戦争の頃だ。
「46年生まれだと、青年期がベトナム戦争まっただ中になる世代。スピルバーグも18歳のときに徴兵対象者であることを通知されています。でも、彼は徴兵を逃れるためにカリフォルニア州立大学の英文科に入る。徴兵という危機こそ体験はしましたが、回避したことで戦争と直接的にかかわることがなかった。同じ46年生まれのオリバー・ストーンは、逆に自ら志願したことでベトナム戦争にこだわるようになって『プラトーン』(86年)や『7月4日に生まれて』(89年)でブレイクしているのが対照的で非常に興味深い。かといって、スピルバーグは映画においてはベトナム戦争から目を背けてはいない。批評家の間では『激突!』【1】の主人公は、実はベトナム帰還兵ではないかといわれています。タンクローリーに追われる彼がドライブインのトイレで気を落ち着かせようとするシーンで『なんてこった。まるでジャングルに戻ったみたいだ』と独白する。このジャングルはベトナムの密林のことで、顔を見せないタンクローリーの運転手は藪に隠れて襲いかかるベトコンの暗喩ととらえることができる。また『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(97年)でも、草原を進む捜索隊がそこに潜んでいたヴェロキラプトルに下から襲われる場面は、ベトコンによるブービー・トラップの暗喩です。『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(17年)の冒頭でベトナム戦争の戦闘を直接的に描くまで同戦争に触れてこなかったといわれてきたスピルバーグですが、作品をつぶさに読み解いていくと実はそんなことはない。つまり、ストーンが現実的に描いた(戦争を含めた)世の問題を、スピルバーグはフィクションでもって問いかけてきたんです」
また、スピルバーグはベトナム戦争の反戦運動に身を投じるわけではなかった。さらに世代的に切っても切り離せない、ドラッグやヒッピーのカルチャーにも接近することもなかったという。
「高校の同級生が『彼は反戦運動には興味を持っていなかった』ことを証言しています。フラワー・ムーヴメントやドラッグ・カルチャーにも目を向けず、映画もデニス・ホッパーが監督した『イージー・ライダー』(69年)をはじめとする同カルチャーと関係深いものには興味を持たなかった。どちらかといえば、デヴィッド・リーンやアルフレッド・ヒッチコックに夢中だった。そんな彼が最も関心を寄せていたのが公民権運動です」
スピルバーグの両親は共にユダヤ人。運動が大の苦手で失語症ということもあったが、ユダヤ人であることを理由にクラスメイトからの罵声を常に浴び続ける少年時代を送っていた。さらに、音楽家で英語教師でもあった母親のもとには、ナチスの強制収容所から生還したユダヤ人が生徒として集っており、アウシュビッツ収容所で彫られた囚人番号の刺青を幼いスピルバーグに見せる者もいた。漠然ながらも鮮烈にホロコーストを筆頭にユダヤ人が歩んできた苦難の歴史を学び、さらに自身が受けるいじめで差別が公然と続いていることを知ったのだ。
「スピルバーグが公民権運動に興味を抱いたのは、ユダヤ人に対する人種差別を身をもって感じていたからでしょう。だから、彼が映画で戦争を題材にする際には人種差別、“人類が抱えている不公平”を課題にしています。その最たるものとしての象徴がホロコーストで、スピルバーグの創作におけるバックボーンになっているのは間違いない。先程、『激突!』『ロスト・ワールド/ジュラシック・ワールド』でベトナム戦争を暗喩していると話しましたが、すでに初期の作品からナチスやホロコーストも違う形で表れていると言っていいと思います。それは『JAWS』(75年)の鮫であり、『ジュラシック・パーク』のティラノサウルス・レックスやヴェロキラプトルといった恐竜たちです。彼らに共通する行動パターンは情け容赦がなくて、問答無用で女だろうが子供だろうが襲いかかっていく。ホロコーストの恐ろしさもそれと同じ。ユダヤ人であれば自動的に虐殺する。そしてシステム化することで、誰も勢いを止めることができなくなってしまう。まさにモンスターとして描いたんです」
このように実は映画監督デビュー以来、暗喩という形で戦争とその元凶となる人種差別を訴えてきたスピルバーグだが、ある時期からストレートにそれらを描破するようになる。その転機となったのがナチス党員でありながらホロコーストから1200人ものユダヤ人を救った実業家オスカー・シンドラーの実話を描いた『シンドラーのリスト』【2】だ。実は企画自体は82年からあったもので、トマス・キニーリーの原作小説の映画化権を獲得したユニバーサル・スタジオの社長シドニー・シャインバーグから「君がつくらなければいけない映画だ」と強く推されていた。シャインバーグは、同スタジオのテレビ部門の責任者だった頃にスピルバーグの短編『Amblin’』(68年)を観て彼の才能を見抜き、スタジオに招いたユダヤ系の恩人である。当時は正面を切ってホロコーストを描くことに抵抗を感じたスピルバーグであったが、それから10年ほどを経て女優ケイト・キャプショーとの再婚に子どもの誕生と、家族を持ったことでユダヤ人という自身のアイデンティティを改めて深く意識するようになっていた。そんな中で同胞がどのような体験をしてきたのか。その問いと想いは映画でのホロコーストの再現へと繋がり、ポーランド出身の撮影監督ヤヌス・カミンスキーを抜擢して実現に臨む。貨車に押し込まれ、ガス室で苦しみ、気まぐれに射殺されるユダヤ人たちの姿をモノクロの手持ちカメラでとらえた画は、スピルバーグに映画であることを忘れさせて精神的に追い詰めるほどだったという。
同作でアカデミー賞作品賞、監督賞ほか全7部門に輝いた彼は、再びカミンスキーと組んで『プライベート・ライアン』【3】で戦場の悲惨さを観客に追体験させる。徹底した人体破損描写、実銃の銃声を用いた効果音、画面をスモーキーなものにする現像法“銀残し”の活用は、その後の戦争映画の表現を完全に変えてしまった。以降、スピルバーグは実話に基づく作品が目立つようになっていく。
「『シンドラーのリスト』がヒットし映画界からも大衆からも受け入れられたことで、世界や人類の負の摂理みたいなものを直球で撮ることに対して、怖いものがなくなった感じが見えました。さらにスピルバーグはユダヤ人としてのアイデンティティを大事にしていますが、イスラエルの暗殺チームがユダヤ人を殺したパレスチナ・ゲリラに報復する『ミュンヘン』【4】では彼ら側に立つことはせず、イスラエルにも問題があるように描いている。結果的にユダヤ人たちからバッシングされましたが、それも承知の上だったのでしょう。ちゃんと映画で戦っているんです。『リンカーン』でも、法案成立と南北戦争終結のためにリンカーンが“ある嘘”をつく場面をクライマックスに持っていく。どの時代、どの世界にも清廉潔白な正義や平和がないことを訴えている。その根底には、人類の不公平を是正したい強い気持ちがあるからです」
すでに70歳を超えた今でも、戦争や人種差別を描き続けるその姿勢が弱まる様子はまったくない。18年に発表され第90回アカデミー賞で作品賞候補となった『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』では、ベトナム戦争をめぐる機密文書をめぐるワシントン・ポスト紙とニクソン政権の戦いを通して、ジャーナリズム・メディアを攻撃するトランプ大統領に対する怒りをぶつけてみせた。いまだトランプによって全世界が翻弄され、彼の人種差別的言動によって銃乱射事件をはじめとするヘイトクライムが引き起こされるなか、彼が次にどのような手を打つのか、注視したい。(月刊サイゾー9月号『新・戦争論』より)
【1】『激突!』(71年)
リチャード・マシスンの短編小説が原作のサスペンス・スリラー。商談のために自動車でカリフォルニアに向かうセールスマンがタンクローリーを追い抜く。するとタンクローリーは執拗に彼の車を追い、命をも奪おうとするが……。もともとはテレビムービーとして制作されたが、完成度の高さからアメリカ以外では劇場公開された。
【2】『シンドラーのリスト』(93年)
ドイツ占領下のポーランドで工場経営に乗り出したナチス党員、オスカー・シンドラー。強制収容所の所長を務めるゲート少尉と懇意になるが、彼の行うユダヤ人虐殺を目の当たりにする。やがて工場で雇うユダヤ人たちにも危険が迫るのを察知し、ある行動に打って出る。本作で悲願であったアカデミー賞監督賞に輝いた。
【3】『プライベート・ライアン』(98年)
ノルマンディー上陸作戦での激戦をくぐり抜けたばかりのミラー大尉の部隊に、ある命令が下される。それはライアンという二等兵を戦場から見つけ出して保護するというものだった。冒頭で繰り広げられるオマハビーチでの死屍累々という言葉だけでは済まぬリアルかつ凄惨な戦闘描写は、戦争映画の表現を一変させることに。
【4】『ミュンヘン』(05年)
1972年ミュンヘンオリンピックの選手村にパレスチナ過激派組織が侵入し、イスラエル人選手団を殺害。イスラエル諜報組織モサドは、暗殺部隊を編成して首謀者抹殺を命じるが……。ラストにワールド・トレード・センターが映し出されるが、同時多発テロに対するアメリカの報復とその泥沼化を訴えているのは明らか。
――巨匠、スティーブン・スピルバーグ監督は、多作であることを差し置いても、多くの戦争をテーマに取り扱ってきた。近年でも『ブリッジ・オブ・スパイ』や『戦火の馬』など精力的に表している。スピルバーグの戦争映画を追いながら、ハリウッドと戦争の一面を見ていこう。
◇ ◇ ◇
ドナルド・トランプが大統領に就任してからというもの、多くの国へ戦闘姿勢を見せているかのようなアメリカ。だが考えてみれば同国は、それ以前からもずっと戦争を続けている。アメリカとは常に、戦争とそれへの批判が渦巻く国でもあるわけだ。
同国では、時にストレートな批判的作品として、そして短絡的なエンタメとしても戦争をテーマにした映画が量産され続けている。そんな中で、ハリウッドで多数の衝撃的な作品を生み出し、かつ数々の称賛や批判を浴びてきたのが、映画監督スティーブン・スピルバーグだ。
映画ファンは別として、その名を聞くといまだ『E.T.』(82年)や『ジュラシック・パーク』(93年)『インディ・ジョーンズ』シリーズ(81~08年)といった作品群が、咄嗟に浮かぶ人も少なくないだろう。だが特に近年は、硬派な戦争関連作品を立て続けに放っている。もちろん、監督として半世紀近く活躍しているだけに、“スピルバーグが撮る戦争”にもアプローチやスタイルの変遷がある。
本稿では『スティーブン・スピルバーグ論』(フィルムアート社)『フィルムメーカーズ スティーヴン・スピルバーグ』(宮帯出版社/ともに編著)、『スピルバーグ、その世界と人生』(大久保清朗氏との共訳/西村書店)と、スピルバーグ関連の書籍を手がけてきた映画評論家の南波克行氏のガイドをもとにして、アメリカと戦争の距離感がスピルバーグにどう作用し、戦争をテーマにした映画を創り続けさせてきたのかを探っていこう。
彼のフィルモグラフィを見ると初期は、太平洋戦争を背景にしたコメディ『1941』(79年)や日中戦争時のイギリス人少年の成長ドラマ『太陽の帝国』(87年)ぐらいで、直接戦争をテーマにした作品はそうは多くない。そこには彼の“1946年”という生年と、それゆえの戦争との距離感が大きく関係していると南波氏は分析する。
「当然ですが、彼が生まれたときには第二次世界大戦は終わっていた。太平洋戦争時に無線士として爆撃機B-25に乗り込んで日本軍と戦っていた父親から戦争の話を聞かされていたが、間近でその脅威にさらされていたわけではないんです。だから大戦の話を肉親から聞いていても一種のファンタジーのようにとらえていただろうし、過去の戦争の数々も後付けの歴史として認識していたと思います」
スピルバーグが4歳の頃に勃発した朝鮮戦争は南北分断という状態で休戦となり、米ソ冷戦の両陣営による応酬が“キューバ危機”という一触即発の事態を生むも結局、第3次世界大戦の幕開けになることはなかった。ただ冷戦に関しては、何かしらの“外敵”に対するアメリカ国内の過剰な反応がスピルバーグ少年にも強烈な記憶として焼き付いているようで、「日本軍が真珠湾に続けてロサンゼルスに乗り込んでくる」という思い込みによって米兵たちが半狂乱になった揚げ句に街が壊滅状態になる『1941』という作品で、それを巧みにコメディへと転化させた。そうしたアプローチが確固たるものとなったのはベトナム戦争の頃だ。
「46年生まれだと、青年期がベトナム戦争まっただ中になる世代。スピルバーグも18歳のときに徴兵対象者であることを通知されています。でも、彼は徴兵を逃れるためにカリフォルニア州立大学の英文科に入る。徴兵という危機こそ体験はしましたが、回避したことで戦争と直接的にかかわることがなかった。同じ46年生まれのオリバー・ストーンは、逆に自ら志願したことでベトナム戦争にこだわるようになって『プラトーン』(86年)や『7月4日に生まれて』(89年)でブレイクしているのが対照的で非常に興味深い。かといって、スピルバーグは映画においてはベトナム戦争から目を背けてはいない。批評家の間では『激突!』【1】の主人公は、実はベトナム帰還兵ではないかといわれています。タンクローリーに追われる彼がドライブインのトイレで気を落ち着かせようとするシーンで『なんてこった。まるでジャングルに戻ったみたいだ』と独白する。このジャングルはベトナムの密林のことで、顔を見せないタンクローリーの運転手は藪に隠れて襲いかかるベトコンの暗喩ととらえることができる。また『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(97年)でも、草原を進む捜索隊がそこに潜んでいたヴェロキラプトルに下から襲われる場面は、ベトコンによるブービー・トラップの暗喩です。『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(17年)の冒頭でベトナム戦争の戦闘を直接的に描くまで同戦争に触れてこなかったといわれてきたスピルバーグですが、作品をつぶさに読み解いていくと実はそんなことはない。つまり、ストーンが現実的に描いた(戦争を含めた)世の問題を、スピルバーグはフィクションでもって問いかけてきたんです」
また、スピルバーグはベトナム戦争の反戦運動に身を投じるわけではなかった。さらに世代的に切っても切り離せない、ドラッグやヒッピーのカルチャーにも接近することもなかったという。
「高校の同級生が『彼は反戦運動には興味を持っていなかった』ことを証言しています。フラワー・ムーヴメントやドラッグ・カルチャーにも目を向けず、映画もデニス・ホッパーが監督した『イージー・ライダー』(69年)をはじめとする同カルチャーと関係深いものには興味を持たなかった。どちらかといえば、デヴィッド・リーンやアルフレッド・ヒッチコックに夢中だった。そんな彼が最も関心を寄せていたのが公民権運動です」
スピルバーグの両親は共にユダヤ人。運動が大の苦手で失語症ということもあったが、ユダヤ人であることを理由にクラスメイトからの罵声を常に浴び続ける少年時代を送っていた。さらに、音楽家で英語教師でもあった母親のもとには、ナチスの強制収容所から生還したユダヤ人が生徒として集っており、アウシュビッツ収容所で彫られた囚人番号の刺青を幼いスピルバーグに見せる者もいた。漠然ながらも鮮烈にホロコーストを筆頭にユダヤ人が歩んできた苦難の歴史を学び、さらに自身が受けるいじめで差別が公然と続いていることを知ったのだ。
「スピルバーグが公民権運動に興味を抱いたのは、ユダヤ人に対する人種差別を身をもって感じていたからでしょう。だから、彼が映画で戦争を題材にする際には人種差別、“人類が抱えている不公平”を課題にしています。その最たるものとしての象徴がホロコーストで、スピルバーグの創作におけるバックボーンになっているのは間違いない。先程、『激突!』『ロスト・ワールド/ジュラシック・ワールド』でベトナム戦争を暗喩していると話しましたが、すでに初期の作品からナチスやホロコーストも違う形で表れていると言っていいと思います。それは『JAWS』(75年)の鮫であり、『ジュラシック・パーク』のティラノサウルス・レックスやヴェロキラプトルといった恐竜たちです。彼らに共通する行動パターンは情け容赦がなくて、問答無用で女だろうが子供だろうが襲いかかっていく。ホロコーストの恐ろしさもそれと同じ。ユダヤ人であれば自動的に虐殺する。そしてシステム化することで、誰も勢いを止めることができなくなってしまう。まさにモンスターとして描いたんです」
このように実は映画監督デビュー以来、暗喩という形で戦争とその元凶となる人種差別を訴えてきたスピルバーグだが、ある時期からストレートにそれらを描破するようになる。その転機となったのがナチス党員でありながらホロコーストから1200人ものユダヤ人を救った実業家オスカー・シンドラーの実話を描いた『シンドラーのリスト』【2】だ。実は企画自体は82年からあったもので、トマス・キニーリーの原作小説の映画化権を獲得したユニバーサル・スタジオの社長シドニー・シャインバーグから「君がつくらなければいけない映画だ」と強く推されていた。シャインバーグは、同スタジオのテレビ部門の責任者だった頃にスピルバーグの短編『Amblin’』(68年)を観て彼の才能を見抜き、スタジオに招いたユダヤ系の恩人である。当時は正面を切ってホロコーストを描くことに抵抗を感じたスピルバーグであったが、それから10年ほどを経て女優ケイト・キャプショーとの再婚に子どもの誕生と、家族を持ったことでユダヤ人という自身のアイデンティティを改めて深く意識するようになっていた。そんな中で同胞がどのような体験をしてきたのか。その問いと想いは映画でのホロコーストの再現へと繋がり、ポーランド出身の撮影監督ヤヌス・カミンスキーを抜擢して実現に臨む。貨車に押し込まれ、ガス室で苦しみ、気まぐれに射殺されるユダヤ人たちの姿をモノクロの手持ちカメラでとらえた画は、スピルバーグに映画であることを忘れさせて精神的に追い詰めるほどだったという。
同作でアカデミー賞作品賞、監督賞ほか全7部門に輝いた彼は、再びカミンスキーと組んで『プライベート・ライアン』【3】で戦場の悲惨さを観客に追体験させる。徹底した人体破損描写、実銃の銃声を用いた効果音、画面をスモーキーなものにする現像法“銀残し”の活用は、その後の戦争映画の表現を完全に変えてしまった。以降、スピルバーグは実話に基づく作品が目立つようになっていく。
「『シンドラーのリスト』がヒットし映画界からも大衆からも受け入れられたことで、世界や人類の負の摂理みたいなものを直球で撮ることに対して、怖いものがなくなった感じが見えました。さらにスピルバーグはユダヤ人としてのアイデンティティを大事にしていますが、イスラエルの暗殺チームがユダヤ人を殺したパレスチナ・ゲリラに報復する『ミュンヘン』【4】では彼ら側に立つことはせず、イスラエルにも問題があるように描いている。結果的にユダヤ人たちからバッシングされましたが、それも承知の上だったのでしょう。ちゃんと映画で戦っているんです。『リンカーン』でも、法案成立と南北戦争終結のためにリンカーンが“ある嘘”をつく場面をクライマックスに持っていく。どの時代、どの世界にも清廉潔白な正義や平和がないことを訴えている。その根底には、人類の不公平を是正したい強い気持ちがあるからです」
すでに70歳を超えた今でも、戦争や人種差別を描き続けるその姿勢が弱まる様子はまったくない。18年に発表され第90回アカデミー賞で作品賞候補となった『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』では、ベトナム戦争をめぐる機密文書をめぐるワシントン・ポスト紙とニクソン政権の戦いを通して、ジャーナリズム・メディアを攻撃するトランプ大統領に対する怒りをぶつけてみせた。いまだトランプによって全世界が翻弄され、彼の人種差別的言動によって銃乱射事件をはじめとするヘイトクライムが引き起こされるなか、彼が次にどのような手を打つのか、注視したい。(月刊サイゾー9月号『新・戦争論』より)
【1】『激突!』(71年)
リチャード・マシスンの短編小説が原作のサスペンス・スリラー。商談のために自動車でカリフォルニアに向かうセールスマンがタンクローリーを追い抜く。するとタンクローリーは執拗に彼の車を追い、命をも奪おうとするが……。もともとはテレビムービーとして制作されたが、完成度の高さからアメリカ以外では劇場公開された。
【2】『シンドラーのリスト』(93年)
ドイツ占領下のポーランドで工場経営に乗り出したナチス党員、オスカー・シンドラー。強制収容所の所長を務めるゲート少尉と懇意になるが、彼の行うユダヤ人虐殺を目の当たりにする。やがて工場で雇うユダヤ人たちにも危険が迫るのを察知し、ある行動に打って出る。本作で悲願であったアカデミー賞監督賞に輝いた。
【3】『プライベート・ライアン』(98年)
ノルマンディー上陸作戦での激戦をくぐり抜けたばかりのミラー大尉の部隊に、ある命令が下される。それはライアンという二等兵を戦場から見つけ出して保護するというものだった。冒頭で繰り広げられるオマハビーチでの死屍累々という言葉だけでは済まぬリアルかつ凄惨な戦闘描写は、戦争映画の表現を一変させることに。
【4】『ミュンヘン』(05年)
1972年ミュンヘンオリンピックの選手村にパレスチナ過激派組織が侵入し、イスラエル人選手団を殺害。イスラエル諜報組織モサドは、暗殺部隊を編成して首謀者抹殺を命じるが……。ラストにワールド・トレード・センターが映し出されるが、同時多発テロに対するアメリカの報復とその泥沼化を訴えているのは明らか。
――ストリートから誕生したヒップホップは、時代と共に成長し、エンタメに特化したパーティチューンから、真っ向から社会を批判するプロテストソングまで、形態は多種多様だ。本稿では、アメリカのひとりのラッパーの死去を軸に、ヒップホップとラップ、ひいては黒人が自国と向き合ってきた闘争史を振り返っていきたい。
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アメリカのラップ/ヒップホップ、あるいはストリート界隈の「戦争」という話になると、どうしてもストリート・ギャング間の抗争を思い浮かべてしまうかもしれない。ストリート・ギャング界隈からデビューしたラッパーも決して少なくないし、有名になってから、彼らとお近づきになった2パックのような事例もある。しかも、その2パックの命を奪った1996年の銃撃事件の背景について語ろうとするなら、ストリート・ギャングの存在を抜きにすることはできない。
2019年3月末日、ニプシー・ハッスルというラッパーが、カリフォルニア州サウス・ロサンゼルスに位置し、自ら経営する「マラソン・クロージング」の店舗駐車場で撃ち殺された、という悲報が駆け巡った。そのわずか2カ月ほど前、候補者としてグラミー授賞式に出席していたとはいえ、ニプシーは――例えば、生前の2パックに比べたら――知名度もセールスも格段に低い。コアなラップリスナーの間でさえ、「ストリート・ギャングあがり」、あるいは「彼らと太い絆で結ばれているラッパー」という認識が大半を占めていたようだった。
ロスには1960年代から「クリップス」と「ブラッズ」というストリートギャングの2大派閥が存在している。ニプシーがつるんでいたのは、クリップス側の〈ローリン60ズ〉というセット(組)だった。76年から活動を始めた彼らは、90年代末から00年代初頭にかけて、ロスでもっとも多くの構成員を擁するまでに成長した。85年生まれのニプシーは、14歳で家を出てローリン60ズに入ったというから、構成員数のピーク時だ。そして、ラッパーとしては05年末から本格的に始動し、その3年後にはメジャーレーベルと契約することになる。
そんなわけで、彼の死に関する一報を耳にした瞬間、「やはりギャング絡みなのか」と勝手に結論づけてしまった者も少なくなかったようだ。ただし、ラッパー以外の彼の姿を知る人たちにとって、その実像は違ったようだ。ロス在住で、9月中旬に発売される『ギャングスター・ラップの歴史』(ソーレン・ベイカー著/DU BOOKS)の翻訳を担当した塚田桂子氏は次のように話す。
「ニプシーは、とにかく地元の人たちに慕われ、愛されていました。ラップだけでなくビジネス面でも卓越した人物で、読書家、行動派、クリップスとの関連を公言しながらも、(ギャングの)派閥の違いを超えて兄弟愛を育んでいた人物といった印象が強いです」
「ある時、ニプシーに読むべき本はあるかと訪ねたら、『Three Magic Words』という本を薦められた」と塚田氏は生前の彼を振り返る。
「彼は売れるようになってから、ショッピングモールの一店舗で自身のアパレルショップ(マラソン・クロージング)を始めたんです。彼はラップで儲けた金を地元に投資し続けたことでも有名で、アパレル以外にも魚屋、床屋、コワーキング・スペース(共同で仕事をする場所)やインナーシティの子どもたちが学ぶためのSTEMセンターなど、とにかく地元のために貢献しました。しかし、ゲットーには彼の成功やポジティブなイメージ、行動を称賛する人もいれば、少なからず妬む人たちもいた。おそらくその後者によって彼の命が奪われてしまったことは、本当に残念です」
事件発生後に伝えられたニプシーに関する報道内容は、ネガティブなギャング絡みではなく、塚田氏が話してくれた通り、地元経済の発展に寄与していた起業家であり、青少年育成に関わる社会活動家としての面に焦点が当てられていた。彼は生前、AP通信社による取材の際、次のように話していた。
「俺が育ったのは、ロサンゼルスのサウスセントラル。要はギャングカルチャー出身。だから刑事司法制度に対処することは多かった。俺たちが直接目にしたのは、司法による懲役期間の引き延ばしや不公平な保護観察などだった。そのうち刑事司法制度の是正に向け、ほんの少しでも公正なものに変えようと尽力している人たちを目にした。それは重要な課題だと思うし、俺たちが全力でサポートすべき重要な活動なんだ」
またニプシーは「ワーズアンケイジド(Words Uncaged)」という活動の諮問委員としても関わっていた。これは、終身刑で服役中の受刑囚本人だけでなく、(凶悪)犯罪者の烙印を押すことですべてを片付けてしまいがちな刑務所の外の人間たちも含め、受刑囚に人間性を取り戻させることを目的としている。そのひとつの手段として、受刑囚自身が話し言葉、あるいは書き言葉を通じて、自分について表現できるように支援しているのだ。自らについて表現することで、当人でさえそれまでよくわかっていなかった犯罪の遠因(虐待された過去や家庭環境の事情など)に気づかせることができる。同時に、そうした表現が犯罪者に対する、ある種、偏見に満ちた見方を改めるきっかけにもなり、塀の中から出られない受刑囚に、人間性を取り戻させる機会を与えることにもなる。それが「檻から解き放たれた言葉=ワーズアンケイジド」と名付けられたゆえんだろう。
ニプシー自身もまた、言葉で表現するラッパーを生業にした時点で、自分が本当に戦わねばならない相手が、自分たちの縄張りに食い込もうとする他のセットの若者たちなどではないことを確信したのではないだろうか。もちろん、刑事司法制度の問題点に気づいたラッパーはニプシーだけではない。塚田氏は次のように説明する。
「刑事司法は警察制度にも深く関わってきますが、刑事司法制度や警察の蛮行に対する不平、不満を綴ったラップはたくさんあります。例えば、2パック『2Pacalypse Now』(91年)をはじめ、デッド・プレズ『Police State』(98年)、プライズ『100 Years』(07年)、ケンドリック・ラマーの『Jason Keaton & Uncle Bobby』(09年)など、『奴隷制度の形を変えたものが刑務所』という解釈も、アフリカン・アメリカンのコミュニティでは広く認識されているのです」
さて、この統計結果を知ったらストリートの事情に疎くとも、異常な事態であることに誰もが気づくはずだ。それは、全世界の収監者数の5分の1がアメリカ合衆国内に収監されている、ということ。なぜなら、非常に軽微な犯罪でも刑務所送りにされてしまう「大量投獄」が行われているからである。そこに大いに疑問を持った女性映画監督のエヴァ・デュヴァネイは、16年にドキュメンタリー映画『13th -憲法修正第13条-』(Netflixで配信)を発表する。タイトルとなったのは、アメリカ合衆国憲法の修正条項のひとつで、公式に奴隷制を廃止し、奴隷制禁止の継続などを謳っている。デュヴァネイは、現実には修正第13条などお構いなしで、「黒人がいまだに奴隷扱いされているから大量投獄が続いているのでは」と考えたのである。
映画では、まずリチャード・ニクソン大統領(第37代アメリカ合衆国大統領)が70年に掲げた「犯罪との戦争」および「ドラッグとの戦争」(日本では「麻薬戦争」なる訳語が与えられている)の欺瞞を暴く。ニクソンは「法と秩序」を守るというのを名目に、少しでも法に抵触したら、すぐに逮捕。そして刑務所送りにする強硬路線を敷く。統計を見ても、70年から刑務所人口は急激に増加する。ところが映画では、彼の大統領顧問官の言葉を引用し、ニクソンが「68年の選挙期間中から、左翼の反戦活動家と黒人を嫌い」、前者に重なる「ヒッピーにはマリファナ、黒人にはヘロインのイメージを定着させ、両者を犯罪に結びつけてコミュニティを破壊しよう」と発言していたと明かすのであった。
表向きは犯罪、あるいはドラッグに宣戦布告としながら、実際には人種差別政策に限りなく近かった。黒人に公民権を与えたことが間違いだとさえ思っていた。それに対して、ニプシーは自分たちにとって真の敵の正体――自分たちに向けて「戦争」が仕掛けられていたことがわかっていたのだ。そして「ドラッグとの戦争」を継続したロナルド・レーガン(第40代アメリカ合衆国大統領)政権下の84年から90年にかけて、全米はおびただしい量のクラックが蔓延する未曾有の問題に直面する。クラックは、それまでの粉末コカインに比べ、純度が高く安価であったことから大量に出回ったとされるが、そもそも大量のコカインが米国内に継続的に密輸入されなければ供給できない。米国家がコカインの国内への密輸入を、国ぐるみで手助けしていた事実が明るみに出たのだった。
さらに米国は85年、イラン・イラク戦争のさなか、イランのアメリカ大使館で人質にとられたアメリカ人を救うため、実行犯のヒズボラ(レバノンのシーア派イスラム主義の政治/武装組織)の後ろ楯だったイランに武器供与を約束。これには裏があり、その売り上げの一部(あるいは武器)を、当時内戦中のニカラグアで米国が支援していた反共組織〈コントラ〉に渡すのが真の目的だった。驚くべきことに、ニカラグアで武器を下ろし、空となった米国の輸送機を隠れ蓑にコカインの密輸が行われ、その大口の窓口をロサンゼルスとし、ストリート・ギャングに卸したのだった。それによって、黒人コミュニティを中心に、まさに飛ぶように売れたクラックの販売網の縄張り争いが一気に激化し、数多くのギャングが命を落としていった。
こうした経緯を踏まえ、「国家が黒人コミュニティを壊滅させるためにクラックを流通させたのではないのか?」という見方さえ出てきた。つまり、レーガン政権が行っていたのは、他国の「戦争」を援助しながら、国が関与する形でドラッグを輸入し、黒人コミュニティで「戦争」を起こさせつつ、「ドラッグとの戦争」を呼びかけるマッチポンプだったのだ。
このイランとコントラをめぐる不正を暴く裁判が進められていた89年4月、ニューヨークのセントラルパークでは「ジョガー強姦致傷事件」が発生する。ほどなくしてニューヨーク市警は、14歳から16歳の5人の少年(4人が黒人、ひとりはヒスパニック)を容疑者として拘束。現アメリカ大統領で、当時不動産王だったドナルド・トランプは、新聞4紙の一面を買い取り、「死刑復活、警察復権」と大見出しを打ち、「彼らに恐怖を与えるしかない」と、事件に関する意見広告を出した。その後、裁判を経て、懲役6年から13年の実刑判決が下され、彼らは刑に服した。当時のニューヨークは、犯罪率がかなり高く疲弊していたとはいえ、20年前の「犯罪との戦争」の時代から変わっていなかった。
ところが02年、事態は急変。別件で服役中だった真犯人がボロを出し、正式に犯人に断定されたのだ。では、冤罪で人生を奪われた5人の少年は、警察に何を取り調べられたのか? そんな不当逮捕や自白の強要に始まり、刑事司法制度の危険性を暴いたのが、『13th -憲法改正第13条 -』に続く作品として、デュヴァネイが監督した『ボクらを見る目』(19年)だ。前作同様Netflixで配信されると、同社の最高記録を塗り替える視聴数を記録。この事件の30年後、まさかトランプが大統領に就任するなど誰も想像していなかっただろう。
全編で約5時間ほどあるドラマが終了すると、画面から聞こえてくるのは、なんとニプシー・ハッスルの「Picture Me Rollin」(16年)だ。デュヴァネイ監督は彼の葬儀で追悼の意を述べたとはいえ、まさかドラマのエンディングで彼の曲を耳にするとは思わなかった。しかも曲名には「この先の俺の活躍を見てろよ」という意味も込められている。ニプシーは夢なかばで逝ってしまったが、デュヴァネイが刑事司法問題の是正推進について、間違いなくその遺志を継いでくれるに違いない。そして来年には、『13th – 憲法改正第13条 -』『ボクらを見る目』とは別の角度から刑事司法制度にメスを入れた作品が発表されることにもなっている。アメリカ合衆国の市民の「平和」を守るため、ラップ/ヒップホップ、ひいては黒人は、ニクソンが仕掛けた「戦争」に負けてはいられないのだ。
(文/小林雅明)
(協力/塚田桂子)
1990年代中期、アメリカのヒップホップ黄金期を語る上で、決して避けて通ることのできない、ラッパーのザ・ノトーリアス・B.I.G.(ビギー・スモールズ)と2パックのビーフ(諍い)を軸とした「東西抗争」(2人ともこの抗争によって銃殺されている)。言わば東西抗争は、ビギーと2パックのみならず、「東海岸 vs 西海岸」のラッパーや関係者をも含めた戦争であり、本誌でも幾度となく紹介してきたが、ここにきてビギーの元妻であるフェイス・エヴァンスが貴重な発言を残しているので紹介したい。
「実際に過去を振り返ってみても、本当はビーフなんてなかったのよ。だって、私たちの仲間内でビーフなんてものを感じたことはなかったもの。ビッグ(ビギー)自身、個人間のビーフを感じていなかったし、私自身としては、東西抗争はメディアがでっち上げたものだと思っているわ。しかも、受け手はそういうふうに煽られてしまったら、その理屈しか知り得ないものなのよ。人は同じ情報を繰り返し与えられると、それに慣れてしまうから。実際にその立場になって、その生活を見た者でない限り、わからないことだと思うわ」(17年に塚田桂子氏が行ったインタビューより引用)
ビギーが死去した97年から早22年。フェイスは再婚し、幸せな家庭を築いているが、なぜ今ごろになって「東西抗争はなかった」と述べたのか。いまだに未解決事件なだけに、その謎はより一層、深まるばかりだ。(月刊サイゾー9月号『新・戦争論』より)
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