男子フィギュアスケート・羽生結弦選手が、3月に開催された『2019年世界フィギュアスケート選手権』男子シングルで、銀メダルを獲得した。右足首の故障から、4カ月ぶりに公式戦へ復帰した羽生選手は、ショートプログラムで冒頭の4回転サルコウが2回転になる失敗により、3位発進に。しかし、フリーでは、ほぼ完璧な圧巻の演技を見せ206.10点を叩き出し、総合では300.97点となるも、ショート首位のネイサン・チェン(米)は、フリーで216.02点を出し、総合は323.42点で、2位に留まったのだ。
ファンは、羽生選手のケガからの銀メダル獲得に、大きな感動を抱いたようだが、この結果に納得いかなかったのが、羽生選手本人であった。試合後のインタビューでは、「正直、悔しい」「もっと強くならなきゃいけないというのを痛感している」と切実な心境を吐露。さらに、「やっぱり、負けには負けという意味しかない。はっきり言って、自分にとっては、負けは死も同然だと思っている。本当に、本当、勝ちたい」と語ったのだが、この「負けは死も同然」という言葉が、世間に波紋を広げることとなった。
ファンの間では、とことんまで勝つことを追求する姿勢に称賛の声が上がったものの、ネット上では、「下位の選手に失礼ではないか」「死という言葉を軽々しく使うな」といった批判が飛び交ったほか、「かなり追い詰められているのでは」など、羽生選手のメンタルを心配する声も散見される事態に。オリンピック2大会連続金メダルという偉業を達成したアスリートにしかわからない境地であることは想像に難くないが、果たして、羽生選手はどういった精神状況にあるのか。今回、『一億総他責社会』(イースト・プレス)や『高学歴モンスター~一流大学卒の迷惑な人たち~』(小学館)などの著者である精神科医・片田珠美氏に話を聞いた。
実は羽生選手のファンだという片田氏は、「負けは死も同然」について、「非常に彼らしい言葉で感銘を受けました。この言葉に、彼の精神状況や性格そのものがよく表れていると感じます」と話す。
「この言葉から、羽生選手に関する4つのことが読み取れると思います。まず1つ目が、『それだけフィギュアスケートに人生を懸けている』ということです。以前、羽生選手自身も、インタビューで同様のことを言っていましたが、まさにその通りで、彼は高校在学中にコーチをブライアン・オーサー氏に変更し、活動拠点をカナダに移してスケート一筋でやって来ました。一方、ライバルであるネイサン・チェン選手は、アメリカの名門イェール大学に進学し、学業とスケートを両立させているそうです。どちらが良いか悪いかは別として、羽生選手は『なぜ、これほどまでスケートだけに人生を懸けてきた自分が負けてしまったのか』と思い、それが『負けは死も同然』という言葉につながったのではないかと感じました」
2つ目は「負けず嫌い」。羽生選手の言葉には、「負けたことを受け入れられない」面がにじみ出ているという。そして3つ目は「完璧主義」で、一番かそれ以外かという、いわゆる「ゼロヒャク思考」がみられるそうだ。
「4つ目はやはり、羽生選手がものすごいプレッシャーに晒されているということです。今回の世界選手権は自国開催のうえ、マスコミが『絶対王者』と騒ぎ立て、熱狂的なファンも復活劇に期待する中、真面目で責任感が強い彼は、それに応えなければいけないと思っていたのでしょう。期待というのは、裏返せば重圧ですから。これまでも相当なプレッシャーと戦ってきたのだと思いますよ」
ほかにも羽生選手には、自分が一番じゃないと気が済まないという頑固者の一面がみられると片田氏。そういった性格は、「生まれ持ったもの」と「環境によるもの」どちらもあるというが、「コーチであるブライアン・オーサー氏の影響が大きいのではないか」という。
「オーサー氏は、1984年のサラエボオリンピックと、88年のカルガリーオリンピックで銀メダルを獲得した素晴らしい選手ですが、五輪では金メダルに手が届きませんでした。オーサー氏は自らの経験を元に、『なぜ自分は一番になれなかったのか?』を教えているかもしれませんし、その中で羽生選手が『一番でなければダメなんだ』という気持ちを強めている可能性はあるでしょう」
こうした羽生選手の性格やメンタル面は、アスリートや芸術家が一流になるための必須条件だと、片田氏は言う。
「やはり『負けてもいいや』といった気持ちでは、決して一流にはなれません。『負けず嫌い』と『完璧主義』こそが、羽生選手の強さを支えていると言えるでしょう。しかし、それは諸刃の剣とも言えます。勝ち続けていられればいいのですが、そうはいきません。今回のように、負けてしまうこともある。そうすると、負けず嫌いゆえ、敗北を受け入れられず『うつ状態』になってしまう恐れがあります。また考えすぎて、身動きが取れなくなってしまうかもしれません」
「うつ状態」は、本人が自覚しているかどうかは別として、「喪失体験」によって引き起こされるという。羽生選手にとっての喪失体験は、試合での敗北やケガだといい、「しかしこれまでは彼は、 “人より練習すること”でそれを乗り越え、『うつ状態』にならずに済んだ」と考えられるそうだ。
「人は喪失体験に直面すると、最初は『まさかこんなことになるはずがない』と否認するものですが、つらいからといってずっと目を背けてばかりはいられません。逃げてばかりいると、のちのちツケが回ってくる可能性もあり、お酒や薬物に溺れる人もいます。その点、羽生選手は凡人ではないので、しっかりと『なぜ負けたのか』『どうすれば勝てるのか』を考え、人より練習に励むことで、喪失体験を乗り越えてきたのでしょう。ただ、今後は年齢的な問題もあり、練習をすればするほど故障しやすくなりますし、ドクターストップがかかる可能性も否定できません」
人より練習するという喪失体験の乗り越え方が通用しなくなる――そうなれば、羽生選手が抱える葛藤は、想像を絶するものになると予想されるが、片田氏は、彼が尊敬する、一昨年に現役を引退した男子フィギュアスケート選手、エフゲニー・プルシェンコ氏の言葉が、突破口になるのではないかと考えるそうだ。
「プルシェンコ氏がインタビューで、『ほかの選手に勝とう勝とうと思ってしまい、その自分に負けた』と言っていたんです。そして何より印象的だったのが『自分が何のために滑るのかが大事』という言葉。もちろんほかの選手に勝つことは重要ですが、ネイサン・チェン選手という才能あふれる若い選手が出てきたこと、また羽生選手の故障や年齢のことを考えると、今後、彼が勝てなくなる確率は今まで以上に高まるでしょう。そのとき、『何のために滑るのか』『スケートによって何を伝えたいのか』をもう一度考え直してほしいと思います。1位かそれ以外かという『ゼロかヒャクか』の考え方ではなく、別の視点を持つべきです」
また、マスコミや羽生選手を応援する側が、金メダルを期待しすぎるのも問題だという。成績うんぬんではなく、彼のスケーティングから何を感じ取るかが大事と、片田氏は助言する。
羽生選手は、4月開催の『世界フィギュアスケート国別対抗戦2019』を、右足首のケガのため欠場を発表し、「1日も早くケガを完治させ、来シーズンに向け練習に励みます」とコメントしている。羽生選手が、フィギュアスケートを心の底から楽しめる……そんな瞬間が来ることを、ファンならずとも祈りたいところだ。