『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。
おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第3回 久保田美樹さん(仮名・37)の話(前編)
「息子と名古屋の実家に帰って、1年間暮らしました。ところが、調停の結果、息子は夫の元へ行くことが決まり、離ればなれ。今は、息子に毎日弁当を届けられるよう、近くに引っ越そうと思っています」
久保田美樹さん(仮名・37)は、つらい話なのに、気丈な様子で明るく言った。彼女はなぜ、息子と離ればなれになったのか? そもそもなぜ、実家へ連れ去ったのか? 前編の今回は、結婚と出産を経て、別居するまでを記す。
中2の頃、父のDVが原因で、母や妹と家を出て母子寮へ
――まずは幼少期の頃について、教えてください。どんな子どもだったんですか?
愛知県で生まれ育ちました。トラック運転手の父は感情表現がへたな人。お酒を飲んでは、カッとなって母や私を殴りつけました。針のむしろみたいな生活。理不尽な理由で殴られたり、家の外に出されたりするんですから。
――DVを受け続けると、肉体的にも精神的にもつらいですよね。
いま思えば、私の性格はADHD※寄りでした。片付けられないし、こだわりが強い。時間に合わせて行動するのが苦手で、小学校のとき、集団登校ができなくて。ひとり遅れて学校に行っていましたし、中学で入った部活の朝練にも遅れたりしていました。
※幼児期から見られる発達障害の一つ。年齢不相応な多動性、注意の持続困難、衝動性などが特徴。家庭や学校でじっと座っていられないなどの状態を呈する。注意欠陥多動性障害(岩波書店「広辞苑第7版」)
――DV家庭という環境が、美樹さんに与えた影響は大きかったですか?
幼少期の家庭環境から学び取ったものが大きかったのかもしれません。実際、私はこれまでずっと生きづらさを抱えて生きてきましたから。
――家では父親に暴力を振るわれる生活が、ずっと続いたんですか?
いいえ。母が市役所にDV相談に行っていて、中2の夏休み、父に内緒で家を出ることになりました。市役所の方のお膳立てのもと、名古屋市内の母子寮に、母と2人の妹と共に入所しました。
――急に引っ越して、いろいろと大変だったのでは?
引っ越した先の学校のレベルが高くて授業についていくのが大変だったり、母子寮に住んでることがバレたくなくて、友達に住所を言わずに隠し続けたり。大変は大変でした。でも、それ以上に、ほっとしていました。父の暴力から逃れることができましたから。
――その後も、ずっと母子寮で?
高2で、今の市営住宅に引っ越しました。通っていた高校は商業高校で、演劇部に所属して、演じたり、裏方をやったりして、チームで制作する面白さを知ったのです。一生懸命取り組んだあの日々は、私の青春でした。
――高校を卒業してからは?
テレビや映像制作を学ぶ専門学校に2年間通うため、上京しました。女手ひとつで娘3人を育てる母に無理をお願いできないので、新聞奨学生になり、配達所の寮に入って、毎朝、新聞を配達しながら、専門学校に通いました。
――専門学校を出た後、テレビ業界に就職したんですか?
テレビや映像の仕事は向いてないかなって思って、卒業後、子ども関係の仕事を始めました。ベビーシッターのアルバイト。というのも、卒業半年前に番組宣伝映像制作のアシスタントをしたんですが、高度なことを求められすぎてしまって、私のレベルではついていけなかったんです。
――テレビから子ども関係? ジャンルが、ずいぶん離れていますね。
子どもが好きだったので、ベビーシッター、楽しそうだなって。それに看護師や保育士は、資格を取るのに時間がかかるので。資格のいらないシッターならできるかなと思って、保育園で保育補助の仕事をしたんです。
――それからしばらくは、アルバイトをされたんですか?
同棲して妊娠したので、辞めざるを得ませんでした。通っていた居酒屋で知り合った友達に紹介してもらったサラリーマンがお相手です。第一印象は真面目そうだなと。実際に真面目な人だったんですが。システムエンジニアをやっている26歳。そんな彼とすぐに、お付き合いするようになって、1年後の結婚を視野に入れた同棲ってことで、2004年に1LDKのマンションをS区に買いました。
――出産までの経緯は?
05年の春、安定期に入ってから結婚式を挙げました。出産したのは9月で、私が21歳のときでした。
――とすると、社会で働く経験があまりないまま、お母さんになられたんですね。
そうなんです。だから社会の矛盾とか人間関係の難しさとか、そういった複雑なことは考えないし、精神年齢も低いままでした。家庭という狭い世界ではそれでもよかったりする。それだけ若くて社会経験がないと、夫に従わざるを得ないので、夫婦間に波風が立ちにくいですから。だけど私の場合、夫に対して、主張ばかりが強くなっていきました。
――少し話を戻して、出産後まもなくのことを教えてください。
出産するときは、双方の家族が見に来てくれました。生まれてきてくれたのは男の子。出産直後、猛烈にうれしかったし、感動もした。と同時に、「自分にも生まれてきた意味があったんだ」と、しみじみ思ったのを覚えています。
――若いお母さんだったんですね。子どもが生まれたら、夫も頑張ったんじゃないですか?
仕事をすごく頑張っていました。クレジットカードのシステム構築を担当していて、毎日のように残業したり、休日出勤をこなしたりしていました。
――しっかり稼ごうと、日々頑張っていたんですね。
買ったばかりのマンションのローン支払いがありましたから。支払いにかなり重圧を感じているようで、「マンションのローンを返さなきゃ。支払いどうしよう」って口癖のように、よく言っていました。
――美樹さんも、家事や育児を頑張ったんじゃないですか?
私は私で苦手な家事を、家族のためにと思って頑張っていました。たとえば、レタスをシャキッとさせるために、氷水に漬けたりしていたんです。
――丁寧な家事をされていたんですね。ところで、家計の管理はどうされていたんですか?
月々決まった額を夫からもらって家計を回していましたが、私、金銭管理が苦手なので、「お前には任せられない。俺が金銭を管理しなゃ」と、夫も言っていました。
――子育てのほうは順調でしたか?
子どもが小さかったので、夜泣きするんです。夫は残業して疲れて帰ってきているからか、「泣き声がうるさいから別室で寝る!」と言われたり、夜泣きで抱っこしていたら「早く泣きやませろ」と怒鳴られたり。泣いている息子を落ち着かせようと、夜中に家の外でなだめたりしたこともありました。
――あまり協力的ではなかったんですね。では、そこからどうやって亀裂が入っていったんでしょうか?
ひとつは私がADHD気質で、片付けられない人だったということが夫をいら立たせました。専門学校時代に映像制作用に買ったパソコンとか、服とか、本とか、さまざまなものを捨てずに持っていたんです。夫は真面目で片付けられる人だから、私が片付けられないことでストレスを感じていたんです。
――それはモラハラ?
だと思います。「お前おかしいんじゃないか」って、常にバカにされていました。なので、私は、元夫のため息ひとつで萎縮していました。それで3回目にドカンと怒られるんです。そのときは決まって、理詰めで私のダメな点を一つひとつ挙げていくんです。
――正論って追い詰められますよね。
そうかもしれません。でも私だって、一生懸命だったんですよ。最初の子だったので、どうやったら、この子をちゃんと育てられるか必死に考えていましたし、いろいろと行動していました。
――具体的にどんなことをしたんですか?
ママ友作りというより、息子のために出かけていた児童館は、近くだけでなく、いろいろな場所に通い、たくさん居場所を見つけることの大切さを知りました。あと、私が頼ったのが、当時はやっていたミクシィでした。子育てコミュに入って、情報収集に努めました。
――子育てコミュのママさん同士で、オフ会をやったりしたのですか?
「区内のママさん集まりませんか」と参加者を募って、集まってくれたママさんたちと一緒に育児サークルを立ち上げましたね。ここでは、たくさんのご縁ができました。
――その頃、夫の様子はどうだったんですか?
子どもが3歳のとき、うつ病になってしまって、1年ほど働けなくなってしまいました。彼が自分で勝手に買ったマンションのローンのプレッシャーと仕事上の悩み、そして過労が原因です。
彼が家にいるようになり、そうなるとずっと一緒に過ごさなければならないのと、家計の心配もあるということで、パートに出ることにしました。レジ打ちとかポスティング。その頃から、息子は幼稚園のプレ保育で外に預けていたので、日中は彼ひとりでした。
――夫がひとりになってよかったのでは?
夫婦の関係はむしろ、どんどんと悪化していきました。夫はその間にオンラインゲーム依存症になってしまいましたし、私は私で、外での活動にのめり込みすぎてしまいました。パートをこなして家計を支えるほかに、親子カフェのボランティアとかオフ会とかの活動も、かなり活発にこなしていましたから。
――夫との関係は、その後、改善したんですか?
年々関係は冷え込んでいき、子どもが小3の頃には、コミュニケーションがとれない感じになっていました。
――何か決定的出来事があったのですか?
夫にまとわりつく、異性の影があったんです。私の知らないところで、外食に行ってて。財布に2人分の食事のレシートがあったんです。これは怪しいなと。それである日、夫が寝てる間に部屋に入って、スマホのLINEを確認したんです。すると、怪しいやりとりの証拠を見つけてしまいました。
――修羅場の予感がします。
それで私、カッとなって叩き起こしました。すると夫は、眠い目をこすりながら、勝手に見たことの非を冷静に非難してくるんです。頭がいいので、理詰めで反論してくるんですよね。それで私、さらにカッとしちゃって。またもパニック状態。よく覚えていないんですが、おそらく、わーっと激高して、つかみかかったんだと思います。
――不倫が判明して、心のバランスが崩れたんでしょうか? 心療内科に通ったりしたんですか?
レディースクリニックに通って、睡眠薬をもらっていました。その頃(不倫が発覚した頃)には、すぐに爆発することが多くて、自分をコントロールできなくなっていました。もう何かに乗っ取られているような状態。ひどいときは半狂乱で壁に頭ぶつけてたり、包丁で自分を切りつけようとしたり……。お酒と睡眠薬を大量に摂取したりもしていました。
――その後、夫婦関係が破綻したんですね。
そうです。14年の2月、息子を連れて、名古屋の実家に帰りました。出るとき、夫は見送ってくれました。というのも、彼はそのとき、いったんクールダウンして、長くても、春休みの終わりまでには家に戻ってくると思ったんでしょう。
(後編へつづく)
職場で出会った3歳上の小柄な男性と1年ほど付き合い、妊娠し、結婚した高橋さんは、出産前後に夫に対して違和感を覚え始める。子どもが生まれてからは、人の話を聞かない、切れやすい、超クレーマーといった本性が、徐々に現れてきた。東日本大震災をきっかけに、別れが決定的になる。
「私のところに息子がいたとしたら、彼(父親)は息子との縁を本当に切ったと思う。今、息子と会えないのはつらいし苦しいけど、彼と息子との縁が切れなかったのはよかったと思う」