あびる優が告発、才賀紀左衛門の「子ども連れ去り」はレアケースではない――元夫を罪に問えず「わが子から引き離された母たち」

 あびる優が、ニュースサイト「文春オンライン」の7月20日付け記事で、前夫で格闘家の才賀紀左衛門による娘の連れ去りを告発した。現在7歳になる娘は、才賀とその交際女性の3人で生活しているが、21年4月に東京高等裁判所により、親権者があびるになることが決定したという。

 あびると才賀は2014年に結婚。翌15年5月に娘が誕生したが、19年に離婚。このとき、親権は才賀が持つと公表された。その後、あびるは親権者変更を求める調停を起こし、昨年、正式に親権者があびるに決定。娘の引き渡しが確定したものの、現在に至るまで才賀は行動に移していないという。

 あびるは、こうした状況について「文春オンライン」の取材で、「違法な“連れ去り”状態にあるのです」と才賀を糾弾している。

 このニュースが報じられると、ネット上は騒然。「裁判で決まったのなら素直に子どもを優さんに引き渡すべき! これ略取・誘拐罪になるんじゃないのかな?」「親権が法的に正式に認められた。強制的に執行のようなことはできないんだろうか」と、法律について疑問を抱く声や、「才賀の親権が棄却された、というのは、生育環境に問題があると見なされた。なかなかないことだと思う」「法的にはあびるに戻すように結論が出たが、娘に毎日あびるの悪口を言って、刷り込みを頑張ってるかもしれない」などと、才賀に否定的なコメントも多い。

 今回の告発で注目を集めた子どもの「連れ去り」だが、実はこうしたケースは少なくない。サイゾーウーマンでは、離婚前に夫が子どもを連れ去り、親権を争うもそのまま会えなくなった女性や、〜〜〜の女性などにインタビューを行っていた。全十回の連載「わが子から引き離された母たち」のうち、元夫の連れ去りを罪に問えなかったという女性を、この機会に再掲したい。


(初掲:2021年9月20日)

 『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。

 おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第5回 キャサリン・ヘンダーソンさんの話(後編)

▼前編はこちら

「『あなた犯罪者じゃないのに、なぜ2年間も子どもたちに会えないの?』と、私の国の友人たちから言われます」

 そう嘆くのは、高校生の娘と中学生の息子、2人の子どもを持つ、キャサリン・ヘンダーソンさん。彼女の祖国、オーストラリアでは共同親権、共同養育が当たり前、別れた後に子どもに会えなくなる母親は約1%にすぎないという。

 彼女はなぜ、遠い日本の地で、わが子と生き別れになってしまったのか――。後編では、生き別れになってしまうまでのことを聞く。

子どもに会えなくなるなんて、思ってもみなかった

――日本には戻ったんですか?

 もちろん。私は学校で働いていて、生徒たちに対する責任がありますから。そのまま子どもとオーストラリアに住むことは考えませんでした。もしオーストラリアでそれをやると、アブダクション(誘拐)と見なされて罰せられます。でも今思えば、弁護士事務所に行くことを彼に予告してしまったのは、失敗でした。

――なぜ予告したんですか?

 離婚する気はなかったし、嘘はつきたくなかった。それに「隠すべきではないな」って思ったんです。そもそも私、離婚しない方法を考えるために、弁護士事務所に行くつもりでしたし。でも彼は、私の予告を宣戦布告と捉えたんでしょう。このままだと、キャサリンに子どもを連れていかれてしまうと。

――彼は、どんな手を打ってきたんですか?

 私が弁護士事務所を訪れる前日の18年1月17日、「明日、弁護士事務所に持っていってください」と敬語で言われて、記入済みの離婚届を渡されました。その届の親権者は私になっていました。

――とすると、その離婚届は使わなかったんですね。使っていたら、子どもたちの親権は、あなたのものだったのでは?

 そうなんです。でも私、そのとき、離婚する気がなかったし、日本の単独親権制度の怖さがよくわかっていなかった。まさかその後、会えなくなるなんて思ってもみなかった。だから、区役所に提出しなかった。

――では、彼が子どもたちを連れ去ったのはいつですか?

 その前に彼は離婚協議書の草案を作成して、私に渡しました。そこには、養育費の金額とかの条件がいろいろ書いてあった。彼が作った草案に私が目を通して修正した後、2月21日に承認しました。そして、その後すぐ、私が仕事から帰ってきたら、彼が家からいなくなっていました。何も言わずに。彼の荷物もない。数日前に「これが新住所」と記されたメールが届いただけ。

――そのとき、子どもたちは連れ去られたのですか?

 いえ、子どもはまだ家にいました。だから、次の日から、私ひとりで子どもの世話をしなければならなかった。それで、私の母が子育てを手伝うために、オーストラリアから来てくれました。

――それから彼とは、どんな関係だったんですか?

 次の週は息子の誕生日だったので、「家族4人でレストランに出かけましょう」と提案しました。すると、彼は来ました。でも、その食事は本当につらかった。私たちを捨てた彼とは会いたくなかった。彼が許せなかった。

――それでも、子どもたちのために頑張ったんですね。その後は? レストランでお別れしたんですか?

 私たち3人の車に無理やり、彼が乗り込んできて一緒に家に帰ろうとした。「俺の家に帰るだけなのに何が悪いんだ。キャサリンが俺に指図することはできない」って言って。でも、私、我慢した。息子の誕生日なのに、ケンカするところを見せたくなかったから。

――迷惑に感じたでしょう?

 そう思った。だって彼、その日、午後10時半を過ぎても帰らなかったんですよ。私は翌日学校があるから早く寝たかったし、鍵をかけたかった。だけど、帰ってくれなかったので、寝られなかった。

――で、その後の彼は?

 子どもたちに会いに、週3回のペースで来るようになりました。

――それは意外な展開です。

 子どもたちと一緒に出かけたり、なぜか息子と2人でシャワーに入ったり。その上、使用済みの自分のタオルを、「これ俺のタオル」だと言って置いていったり。

――帰るのも遅いのですか?

 そうなの。私は朝が早いから、早く帰ってほしかった。だけど、彼は「これは俺の家だ」と言って、別居先の家になかなか帰っていかない。だから、子どもが宿題できなかったりしたこともしばしばあった。

――彼が何をしたいのか、わからなくなってきました。

 4月、彼は行動を起こしました。別居をやめて戻ってきて、私と子どもたちの仲を引き裂く工作を始めたんです。まだ母がいるときに。そして私がいないときに、いろいろと私の悪口を言って、子どもたちが私を嫌いになるようにしていたんです。

――片親疎外(PAS)ですね。でも、子どもたちと一緒に住んでいるなら、効果が薄いのでは?

 そうでもなかった。毎日毎日、私の悪口を言われ続けると、子どもたち、信じるようになった。親子関係は良好だと思っていたので、気がついたときはショックだった。

――いつ気がついたんですか?

 毎年8月、子どもたちを連れてオーストラリアに行っていたんですが、その年、出発の1カ月ほど前に息子にこう言われました。「マミーに連れ去られるから行けない。パパが裁判を起こしたら2年かかる。そうすると私たちはパパに2年間会えなくなる」って。

――それはショックですね。

 そのとき、私は「連れ去り」とは何かを知りませんでした。まだ8歳の息子がなぜそんな言葉を知っているのかなと思い、「連れ去りって何?」と聞いたんです。すると息子は「わからない」って。そばにいた娘は、やりとりを見て、「まずい」という表情をしました。2人に彼が「連れ去り」の話をしたのだと思います。

――ひどいですね。

 当時、父がアルツハイマーにかかっていて心配だった。だから、子どもたちをオーストラリアに連れていって、顔を見せたかった。でも、子どもたちは彼の言葉を信じてしまって、一緒に帰ってくれなかった。悲しかった。でもどうしようもない。だから、私ひとりで、2週間ほどオーストラリアに帰りました。

――引き離すことに彼は必死ですね。

 そうなの。もしオーストラリアで同じようなことをすれば、彼が親権を失います。別れても、共同で責任をもって養育するのが当然だから。もし相手の合意を得ずに子どもを連れていったら、実子誘拐として罰せられます。

――オーストラリアでは、離婚はどのように進められるのですか?

 例外を除いて1年間、離婚する前に別居しなければならない。それが法律で決まっている。その間に、しっかりとした話し合いが行われるんです。その間に、考え直したり、お金のことを決めたり、養育計画を作り上げたりする。そうした決まり事を経たあと、弁護士とかに見せにいってOKが出たら、やっと離婚できる。オーストラリアは親権のことを何年か前に「ぺアレント・レスポンシビリティ(親責任)」とした。親が子どもに対して責任を持つ。だから、子どもから逃げることはできない。

 日本では紙一枚だけで離婚できるから、責任を取らなくても離婚ができる。親権のことも紙一枚で決められてしまう。オーストラリアでは、親権のない親が子どもに会えなくなっても知らんぷり、という日本の離婚制度とは全然違う。

――彼が子どもたちを実際に連れ去ったのはいつですか?

 私がオーストラリアから戻って約8カ月後の19年4月16日、彼に子どもたちを連れ去られました。

――その日の経緯を教えてください。

 私が朝起きて職場に行って、夕方自宅に帰ってきたら、全部なくなっていました。テレビ、電子レンジ、炊飯器、車、ソファ。全部なくなりました。お皿、コップ、鍋、ポット。全部なくなっていた。それに子どもたちもいなくなっていた。

――1日でそういうことができるのは、あらかじめ計画してないと無理ですね。

 でも裁判では、子どもは14歳と10歳で、まだ未成年だから連れ去りじゃない、それに物を持ち出すのは犯罪ではないと判断された。私の許可なしに盗んだのに。

――日本人として申し訳ない。

 彼だけじゃなくて、裁判所や日本の法律が、私を悪い目に遭わせている。

――そもそもビジネスで忙しくなったんだったら、彼には子どもを育てる時間もないじゃないですか? 行動が矛盾しているように思います。

 そうなの。彼が本当にやりたかったのは、自由な時間を持つこと、ビジネスをすることでしょ? でも子どもを連れ去って、子どもの世話をしなくちゃならなくなった。だから、今はそれができなくなった。それに家族を壊してしまって、子どもたちや私を傷つけた。男として父親として、完全な失敗。子どもに自分のお母さんを嫌いにさせるのってすごい。本当に恥ずかしい。全然尊敬できない。

――彼は、なぜ子どもたちをあなたに会わせることを、そんなに拒否するのでしょうか? 会わせたほうが楽なのではないかと思いますが。

 「キャサリンが家庭を壊した犯人だから、キャサリンが悪い。だから、子どもと会う資格がない」というストーリーを彼は裁判で言い、子どもにも家で言い続けました。だから、私に会わせるとストーリーが壊れる。それが嫌。

 もし私に会わせたら、「お母さんはあなたたちを愛してるよ」っていうことを、子どもたちが思い出すでしょう。そうすると、2人は母親と一緒に住みたがる。それを恐れて、完全に私と会わせないようにしている。私が本当はいい母親だから、こういう状態になったんだと思います。

――その後、どうなりましたか?

 20年11月に判決が出て、親権者は彼になりました。連れ去りしたこと、片親疎外をしたことを罪に問うことはできなかった。それとは別に、面会交流の調停で、後日、ビデオレターを見せることが決まっていました。

――そのビデオレターは、どんな内容だったのですか?

 私から子どもたちに向けたメッセージで、長さは20分間です。そのビデオレターを、私の弁護士が子どもたちにオンライン(Zoom)で見せる予定でした。

――子どもたち、喜んだでしょう?

 いいえ。Zoomにつながった子どもたちの反応は、そうではありません。娘が私の弁護士に「私たちには見る義務があるのですか?」と言ったんです。弁護士が「別に」と答えると、娘は「私たちは見るのを拒否します。私たちはビデオを見たくない。お母さんの顔を見ると、気持ち悪くなるから」と言って、ビデオレターの視聴を拒否されてしまいました。Zoomにつないでいたのは、たったの10分間でした。

――言わされてるようですね。

 20年12月の調停で、調停委員にこう言われました。「子どもが嫌がっているなら、面会は無理です。子どもたちは、あなたに会わなくても大丈夫。子どもの将来を考えて、会いにいくのを遠慮してください」と。そうして、「今後、面会交流はなし」という判断が出た。私はすごくショックを受けて、足がゼリーみたいにグニャグニャになって、立って歩くことすらできなくなった。そのとき、待合室で2時間ぐらい泣きました。

 21年1月、追い打ちをかけるように、彼のほうから通知が来た。そこには、次のように書いてあった。婚姻費用(離婚前に配偶者と子どもたちに払う生活費)を払え。4人で住んでいた家から1週間以内に立ち退けと。1月にその手紙が来て、その後、ショックのあまり体調を崩し、約7週間、家から出られなくなった。

 3月になってようやく、家を出られるようになった。だけど、通勤中にパニック状態になって、たどり着けなかったり。学校に着けたとしても、その途端にすごくストレスを感じて、保健室で休んでいたりしました。「生きているのは嫌。子どもがいない人生はいらない」って、そういうことばかり考えてしまう。

 オーストラリアにある自殺防止の公共電話サービスに電話したり、カナダのカウンセラーにオンラインで相談に乗ってもらったり、漢方薬で症状を抑えたりしていて、今はこうしてやっとインタビューに答えられるようになった。

――子どもたちとは、まったく会っていないのですか?

 3月に、息子の小学校の卒業式に参加しました。私と校長先生といい関係をつくっていたので、それができた。でも、息子の入学した中学校がどこかは知らない。今はどこにいるのかすらわからない。

――今後、どうやって生きていきますか?

 今は、私が何をやっても、子どもに会うことができない。連絡先がわかっても、会うのを拒否されるでしょう。となると、子どもの気持ちの変化を待つしかない。でも、このようなインタビューを、たまたま子どもたちが見つけて読めば、私が何を考えていたかを知ることができるでしょ? そうすれば私の気持ちをわかってくれるし、きっと会いに来てくれる。私はそれを信じている。
(西牟田靖)

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13年ぶりに息子と再会、手を握ると「やめてください」と拒絶され……子どもと生き別れた女性が今願うこと

 『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第7回 檀恵美子さん(62歳・仮名)の話(後編)

「元夫の家に泊まりに行っていた息子を迎えに行くと、玄関のドアに貼り紙がしてあったんです。そこにはこう書いてありました。『当分の間、旅に出ます。この家には二度と近づくな!!』」

 檀恵美子さん(62歳、仮名)は25年前に起こったことを淡々と語った。以来、彼女は息子と生き別れだ。

「まだ幼かった頃の、愛くるしかった息子に会いたいです……」

 後半では、子どもを奪われてしまった経緯について記す。

前編はこちら

面会交流の後、連絡を絶たれる

――Bさんはわざわざ、檀さんの実家まで追いかけてきたんですね。

 追い詰められた気がして怖くなりました。そこで、子どもを連れて乗用車で実家を出ました。ホテルを2〜3日転々としたんですけど落ち着かなくて。それでそのあと、喫茶店を兼ねている民宿に10日ほど泊まりました。その民宿は一般の道から見えないところに車が止められたんですよ。

――逃避行をされていたんですね。車が見えないとBも追いかけようがないと踏んだのですね。

 そうです。でも10日目ぐらいに、連れ去り前から相談に乗ってもらっていた弁護士から宿に電話がかかってきたんですよ。「ある男性が市の法律相談でやってきて、あなたが言ってる話とそっくりなんですよ」って。私が相談していた弁護士の元を、Bが偶然訪れたようです。

――檀さんは、自分のことだと認めたんですか?

 はい。すると担当弁護士、「Bさんが『戻ってこないか』と言ってます」って言ったんです。それには条件があって、育てるのは私が育てていい。だけど同じ市内に住むことと調停で話し合うことというものでした。それで結局、話がまとまって、Bの実家からかなり離れた団地に息子と2人で暮らすことになりました。

――実際、Bさんに子どもとの面会はさせていたのですか?

 はい。その後、調停をしながら、月に1回会わせていました。スーパーの駐車場で引き合わせて、帰りは私がBの実家まで迎えにいくというものです。私は息子をBにたくさん会わせるつもりでした。

 97年5月に最初の宿泊交流をしたあと、日帰りの面会交流を1回、そして7月に2回目の宿泊交流となりました。それで2度目の宿泊面会の終わりの時間に迎えに行くと家の入り口に貼り紙がしてあったんです。

「当分の間、旅に出ます。この家には二度と近づくな!!」

 それ以降は連絡を絶たれてしまいました。

――相手が子どもを連れ戻すのって「誘拐」じゃないですか? 未成年者略取にならないのでしょうか?

 今だったらそうなりますが、97年当時は親による連れ戻しも罪に問われなかったんです。裁判所に行って「子どもを返せー」と廊下で泣き叫びましたよ。でも取り合ってはもらえませんでした。

 それ以降、「会いたい」と書いた紙を紙飛行機にして家の中へ投げ込む毎日でした。当時はフェンスが低かったので十分に入りました。するとそのうち、紙飛行機が投げ込めないよう、フェンスが3mくらいに高くなっていました。

――民事訴訟は起こしましたか?

 調停から民事裁判になっていきました。そのかいあって、息子がまだ5歳のとき、面会交流が実現して弁護士が相手の家に連れていってくれたんです。最初は机を挟んで息子の喜びそうな話をして、どんどん調子が乗ってきてから、「絵本を読もうか」と声をかけました。息子に選んでもらって、さあ読もうとすると、息子がちょこんと膝の上に乗ってきたんです。

 読み終わって「おしまい」と言って絵本を閉じた後、息子をぎゅっと抱きしめようとしたところ、Bに抱きかかえられて、引き離されてしまいました。そのときの息子の「まずいことをした」というような表情が忘れられないです。私に甘えてしまったことで、父との約束を守らなかった。それで、まずいと思ったんでしょう。息子は片親疎外(別居親を拒絶する状態)にさせられていたんです。

――それからは?

 私は精神の調子がもう本当におかしくなってしまって、両親が争うことで息子が悲しい思いをすると思い、月1回の面会の合意書を作って裁判を諦めました。

 合意を交わしたあとに、もちろん何度か電話しましたよ。するとBが冷たい事務的な様子で、「どちら様ですか」と言うんです。私が泣きそうになりながら「子どもに会いたい」とお願いすると、「あなたとは、もう関係ありません」と冷たく言われて、電話を切られました。

 その後ずいぶん時間はかかりましたが、ある意味、吹っ切れたのか、自由になりたくて、東京に出ました。もちろん息子のことは忘れません。会いたくて仕方がなかった。でも、会いたいと思い続けることに、しんどくなってしまったんです。その代わり、「私のような人を出したくない」「人のために頑張ろう」と思うようになって。離婚して子どもに会えなくなった親の相談に乗るようになりました。

――それからは一度も?

 いえ。相談に乗っているうちに、アドバイスしている私が会わないのはヘンな話だと思うようになって。息子が高校2年のときに、会いに行きました。

 高校の修学旅行先である沖縄で、遠くから見つめました。5歳のときから顔は見ていなかったですけど、わかりました。美ら海水族館に行ったんです。2006年のことです。ずいぶん成長したなと思って感慨深かった。でも、声はかけられなかった。

 息子を見て、印象に残ったのは制服の着こなしのダサさ。ズボンをおへそぐらいまで極端に上げていて。そのダサい感じがなぜかショックでした。

――その後、息子さんとは会っていないんですか?

 会いました。そのきっかけとなったのは、翌年の高3のとき。私から調停を起こしました。20歳になって親権そのものがなくなる前に、きちんと会っておきたいと思ったんです。すると、最初の調停の日に、面会交流の代わりに、息子からの手紙を渡されました。生まれて初めてもらった手紙です。

 「大学に行きたいから、そのお金を出してほしい」というものでした。それに加えて養育費。「何年ももらってないからまとめて数百万円分くれ」と。Bは絵が売れなくて生活ができなくなった。なので、息子を大学に通わせるお金を払えなかったんです。

――再会して、言葉を交わせました?

 その後、審判の最後になってやっと息子に30分会えることになりました。裁判所の別室で。11年3月のことです。

 すると開口一番「お金は用意しましたか?」と言うのです。それで、息子にいろいろ質問しました。「どうしてお金が欲しいの? 大学に行きたいなら奨学金もあるでしょう?」などと聞くと、質問にひとつひとつきちんと答えてくれました。そのうちに息子が「連れ去りはいかんよ」と言ったんです。驚いて私はあのときのことを話しました。

「あのとき一緒についてくるか聞いたのよ。そうしたらあなたは『お母さんと一緒に行く』と答えたんだよ」

 息子は驚いてました。少しして気分が落ち着いた頃に、「今までのことは水に流してやる」と言いました。

――5歳以来の再会ですよね。触れ合ったり、抱き合ったりはしなかったんですか?

 できたらいいなって思いましたよ。それで実際、私が手を握って「大きくなったね」と頭をなでようとしたら「やめてください」と真顔で嫌がられました。

――それはつらい。

 5歳のときのかわいさはまったくなくて。背が高くなり、だらしない調子で太ってて。しかもファッションもダサい感じ。正直さえないなーって思いつつも、そこは実の息子だから、会ったときはうるうるしてたわけですよ。でも「お金は用意しましたか」と言ったり、「やめてください」と拒絶されて悲しくなりました。

 「一緒に写真撮ろうか」と言って「裁判所がいいならOK」と言われたのですが、裁判所の調査官に「ダメだ」と言われました。最後には「今まで父さんとおばあちゃんに育ててもらったんだから、これからは恩返ししないとね」と伝えました。

 それで再会が終わったんですけど、お互いの控室が隣同士で、壁越しにBの怒鳴り声とか何かを殴っている音が聞こえてきたんです。Bが感情に任せて暴れてるんだということは直感しました。30分以上ずっとその音が聞こえていました。息子が私からお金を取れなかったことに、怒り狂っていたんでしょうね。昔のことを思い出して恐怖で体が震えました。息子がそんな父親の元で暮らしてきたのかと思うと、かわいそうで仕方がなかった。でも、もう時間がたちすぎてしまいました……。

――とすると、その後、息子さんとは?

 一切会っていません。大学も結局行かなかったようです。連絡先を渡しているので、もし何か望むことがあれば連絡してくるでしょうけど、何もありません。私のほうから望むことも特にないです。

 18歳の息子に会ってわかったんです。私がそれまでずっと会いたかったのは、5歳のときの、あのかわいい子どもだったんだと。5歳から18歳までの成長が見られなかったこと、一緒の時間を過ごせなかったことは本当に残念です。死ぬまでずっと、その気持ちは残ったままでしょう。

 私は別れたときに思ったんですよ。「Bら父子よりも、私はずっと幸せに生きてやる」って。だから、お互い楽しく生きればいいと思います。息子には好きに生きてほしい。私は私で楽しく生きてやるからって。

****
 そんな彼女は、同じような境遇の別居親に会って相談にのったり、結婚する前のようにフェスを見に行ったりして人生を謳歌している。コロナ禍になって活動を少しセーブしているようだが、コロナ禍が終わればまた、精いっぱい人生を楽しむつもりなのだという。

(西牟田靖)

出産した息子と25年前に生き別れに……10歳年上の芸術家と結婚、62歳女性の悲劇

『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第7回 檀恵美子さん(62歳・仮名)の話(前編)

「元夫の家に泊まりに行っていた息子を迎えに行くと、玄関のドアに貼り紙がしてあったんです。『当分の間、旅に出ます。この家には二度と近づくな!!』って」

 檀恵美子さんは25年前に起こったことを淡々と語った。以来、彼女は息子と生き別れだ。

「まだ幼かった頃の、愛くるしかった息子に会いたいです……」

 彼女は一方的に息子を奪われたのか? それを防ぐ手段は取れなかったのか――?

10歳年上の芸術家と結婚し、男の子を出産

――生い立ちを教えてください。

 関西南部の出身です。前の東京五輪よりも前の、高度成長期に生まれました。両親だけじゃなく親戚のほとんどが学校の先生という、そんな家柄でしたので将来の進路は教師以外考えられませんでした。

 1977年に東海地方の教育大学に通い始めて、私の人生、変わってしまいました。地元を離れてはじけたんです。当時、人気のあったフォークやロックにはまって、ライブハウス通いをしたり、自分で弾き語りをしたり。仲間とお酒を飲んだり。親元にいて守られていた頃にはなかった自由を手に入れました。

――なるほど。片田舎にいた真面目な少女が、カウンターカルチャーとかヒッピー文化とかにどっぷりハマったんですね。それで卒業後はどうしたんですか?

 実家に戻って、教師になりました。小学校の先生を志望していたんですけど、採用されたのは中学校。教師は11年間続けましたが、私にとって大変な生活でした。というのも、音楽の先生なのにピアノがうまく弾けなくて。しかも音楽のほかに家庭科や体育を教えたり、毎日それはもう必死でした。部活の顧問もやっていました。中高と自分もやっていたバスケ部で生徒たちをしごいていたんです。

――ヒッピーとしごき、なんだか結びつかないですね。その後、どのようにして結婚されたんですか?

 遊び仲間の男性Aと結婚しました。ところが一緒に暮らしてみると、AはひどいDV男で顔が腫れて大きさが変わるぐらいまで殴られました。音楽の趣味は私と一致したんですけどね。

 結局、Aとは1年で離婚して、その後、Bと再婚しました。会えなくなったのは、そのBとの間にできた子どもです。

――Bさんとは、どんなふうに知り合ったのですか?

 90年に開催された某野外フェス。そこで私の隣にテントを張ったのが大学時代の友人で、そこに一緒に来ていたのがBでした。Bは10歳ほど年上の芸術家で、本当に素晴らしい絵を描くんですよ。でも、いい絵を描くからといって良い人とは限らないのに、会った直後はそれがわからなくて。Bの作品の素晴らしさと自由さに惚れ込んでしまったんです。

――結婚を決断したのはなぜですか?

 翌91年に妊娠がわかったからです。出産直前まで教師を続けてから退職、その時点で婚姻届を提出。東海地方にあるBの実家に同居し始めて、92年8月に男の子を出産しました。

――なるほど、関西を離れて、Bさんの実家に同居し、そののちに出産したのですね。

 そうです。出産後、助産院で1週間過ごした後、Bの義母にもいろいろ世話になりながら新生児時期の子育てをしました。

 暮らしてみてわかったんですけど、Bは強烈なマザコンでした。母子が密着したまま、大人になったような人だったんです。しかも、子どものことは全部私に責任を押し付けてくる。例えば子どもが寝汗をかいて肌が荒れたら「お前のせいだ」と怒鳴られる。

――お義母さんはどんな人ですか? お互いの関係は?

 Bの住んでいた県はアパレルが盛ん。義母は朝テキパキと家事をこなしてから、アパレル関係の仕事場に向かっていました。すごく働き者。義母が家事を一切やってくれるので、すごく楽でした。「あんたは子どもだけ育てておけばいい」と言って実際、楽をさせてくれました。

――お義母さんが働き者でよかったですね。

 でも、生後3カ月で症状が出てきた息子のアトピーのことで、義母やBともめるようになったんです。医師が処方してくれたステロイドが劇的に効きすぎて、びっくりしちゃった。これだけ効き目があるのは、むしろ体に危ないんじゃないかって思ってしまって。だったら、私の体質を改善して、質のいい母乳を飲ませて、息子のアトピーを治してみようと。そのころBは一緒にアトピー専門の病院にも行ってくれました。

――食事療法にこだわったんですね。そうすると檀さんの日々の食事を変えていかなきゃならないのでは?

 そうなんです。でも、Bや義母と一緒に食べていたものが食べられなくなる。それで、彼がどんどん不機嫌になっていったんです。「なんだその宗教みたいな治療法は」と怒鳴られるようになりました。

 でもそうして、価値観が合わないからといって怒鳴られ続けることに嫌気が差してしまって、夜の営みを拒否するようになった。すると彼はますます攻撃的になってしまって。その果てに、「お前はキ〇〇イだ」と罵倒され、精神科に行くことを強要されました。

――Bさん自身は子育てに関わらなかったんですか?

 好きなとき、気が向いたときだけ抱っこしたり、面倒を見たり、その程度です。しかも彼は自由な人。急にどこに行くかわからない。

 親子3人でフェスに行ったときがそうでした。私たちを放置して、パーッと好きなバンドを見に行きましたし、帰りは帰りで、「あの電車に乗るぞ」と言って、ひとりだけパーッと走って飛び乗ったりするんです。幼い子どもとお世話用のカバンを両方抱えてゆっくりしか歩けない私にはついていけなかった。

――生活費に関してはどうでしたか? 芸術家と言えば、収入的に不安定なイメージがありますが。

 息子が赤ん坊のときは彼がすべて持ちました。私は教師を辞めて、子育てに専念していましたからね。その当時は作品が売れに売れていた時期だったので、羽振りはかなり良かったです。タンスの中にお札が数十枚も積み上げてあって、「勝手に使ってもいいよ」と言っていたほどですから。その割には、日々のやりくりについて、「俺の稼ぎを勝手に使いすぎだ」と強く言ってケチをつけてきましたけどね。

――それはつらいですね。

 そうやって、アトピーのこととか、生活費のこととか、彼の考えに合わないと、急に機嫌が悪くなって、ガミガミ強く言われたり、加えて暴力を振るわれました。Bは怒り方がヒステリックで急なんですよ。

 例えば、いきなりかみついてきたり。あとちゃぶ台返しもありましたね。子どもと食事していたら、いきなりちゃぶ台をバーンとひっくり返して、その後、頭をげんこつで殴ってくるんです。それで何か自分だけでは手に負えないというふうに判断すると、電話で義母を呼ぶんですよ。

――強烈なマザコンって言ってましたよね。

 最初の頃は、義母も私に「がまんしてね」と言ってくれました。でも、やっぱりそこは親子、しかも母子密着してずっと生きてきた親子ですからね。私が暴力を振るわれていることがわかっていても、Bが間違ったことを言っているってわかっていても、結局、最後はBの味方をするんですよ。その挙げ句、私が悪いと言って2人して責めるようになりました。

――何か解決法はありましたか?

 子どもが成長して赤ん坊から幼児になると、Bに「自分の小遣いぐらい自分で稼げ」と言われて、私、パートに出たんです。すると今度は別の問題が出てきました。

――というのは?

 Bは芸術家気質なので、昼夜が逆転しています。私は朝からパートへ行くわけです。Bは日中の寝ている間は義母に息子の世話を任せっきりの一方で、夜はかわいがりたいからと、子どもが寝ていても離さないので、私は全然子どもに会えない状態でした。そんな家庭内の子どもの引き離しがきつかった。

 それで私は弁護士に相談するようになったんです。すると「親権を取りたかったら、子どもを連れて、先に出ていったほうがいい」とアドバイスされました。息子が4歳のときです。

――夫婦ゲンカは続いていたんですか?

 エスカレートするようになってしまって。「連れて出ていく」「いや置いて出ていけ」そんなやりとりです。もみ合いになったり殴られたり。ほんとにBは言葉の暴力がひどかった。怒鳴ることは日常茶飯時。あと、壁に穴を開けたり、庭で大きな音を立てて物を壊したり。とても恐ろしかった。

――実際、出ていったんですか?

 はい、息子がやはり4歳のとき、一度、家を出てます。夜、義母のいるところで言い合いになって「出ていく」「出ていけ」となった時に義母が息子を抱っこして離さなくて、「ひとりで出ていけ」と言われてもみ合いになり、そのまま追い出されました。

 身を寄せたのはパート先の事務所です。泊まれる場所があったので、そこに泊まりました。何日かしてBが事務所に息子と来て「戻ってきてほしい」と言われました。そのときは一回戻ったんですけども、そのうち家を出るつもりではいました。それで、4歳のクリスマスの時期、子どもを連れて家を出たんです。いわゆる連れ去りです。

――どのようにして連れていったんですか?

 「アイスクリームを買ってきます」と告げて、息子と車に乗りました。その前にBや義母が知らないところで、息子に聞いていたんです。「お母さん、家を出るけど、お母さんとお父さん、どっちについていく?」って。すると息子、「お母さんと行く」って言ったんです。

 私は息子と一緒に関西の実家に戻りました。すると翌々日、Bが義母と一緒に私の実家にやって来たんです。

(後編へつづく)

 

夫がママ友と浮気! 3人の子どもたちは義母の家に行って以来、4年も会えていないまま

 『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第6回 山川ひかるさん(38歳・仮名)の話(後編)

「4年前の春、夫やその家族に子どもたち3人を連れ去られました。今ではまったく会うことすらできません。夫はマイホームに別の女性とその連れ子と住んでいて、養育を放棄しています。子どもたちは、夫の母の家で暮らしているんです」

 そう話すのは、山川ひかるさん。

「彼の素性がわかっていたら、結婚なんかしませんでした」

 肩を落とすひかるさん。夫はどうやってここまで彼女を追い込んだのか? 浮気をやめない夫に対し、行動を起こしたところ……。

前編はこちら

夫がママ友と浮気!

――浮気現場を突き止め、駐車しているワンボックスの車内から、「ラブホテルにいるようだけど?」と言ってLINEをしたと。その後は?

 夫は「後輩に車を貸したんだよ」と、そのときもまた、口から出まかせの嘘ではぐらかされました。

 ラブホに休憩で入っているはずだと予想して、出てきそうな時間よりも少し前から、ラブホの入り口で待機しました。すると、夫がひとりで出てきましたが、車には戻らず、ホテルの敷地外に出ていきました。その後、デリヘル業者の送迎ではない、普通のタクシーが入り口外で待機しにきたんです。

 「このタクシー、もしかして、山川という男が呼んだんですか?」と聞いたら、運転手さん、ちょっと慌てた表情を浮かべた後で、「プライバシーがあるから」と言って遮ったんです。

――それは、ほぼクロですね。

 そのうち女性がやってきて、そのタクシーに乗ろうとしたんです。顔も見ず、その女性に駆け寄って「あなた、私の主人と浮気していたでしょう」と迫りました。

 そして、駐車場のワンボックスまで連れていって、鍵を開けて乗せ、私が彼女の家まで送りました。私は浮気相手の住所を把握していたので、何の疑いも持たず、その住所へと車を走らせたんです。

 すると彼女は、「この家じゃない」って言うんですよ。「えっ」と思って顔を見ると、小学校のママ友だったんです!

――え、ということは、夫はママ友まで毒牙に! でも、一体どうやって?

 子どものお迎えの際に連絡先を交換したらしく、夫が彼女に「相談に乗ってほしい」といって車に乗せて、そのままラブホまで連れてきたそうなんです。それで彼女、「怖くなって、もう、言われるがままだった。言うことを聞くしかなかった」って言うじゃないですか。彼女は夫に食われてしまったんです。

 それからさらに10日ぐらいして、また、ラブホテルに夫の車がまっている形跡がありました。恐らく別の相手だと思いました。

――そうしてコツコツと証拠を集めていった後、どういう手段に出たのですか?

 約1年、調査した後の2016年10月、離婚調停を申し立てました。調停には、双方の話をまとめる調停委員という人たちがいるんですが、そのひとりにこんなことを言われました。

「同居しながら離婚調停に臨んでいますけど、本当に離婚する気あるんですか?」

 そして翌17年1月末、離婚調停が不調に終わりました。もしかすると、「同居しながら」という一点が一番の要因だったのかもしれません。

――せっかくラブホまで行って証拠を押さえたのに。それよりは、調停委員の印象が決め手になるんですね。で、不調に終わった後は?

 夫は「離婚したくない」と言った調停の10日後には、ラブホテルに行っていました。離婚調停での発言「女性との関係は切る」「良い夫になる」は噓だったんです。裁判所で言った言葉も嘘なのかと、絶望しました。

 そんな状況に私、耐えられなくなって、行動を起こすことにしました。夫に告げずに子どもたちを連れて引っ越そうと。いわゆる連れ去りをしてしまおうって思ったんです。17年3月のことです。逃げ込む先として、マイホームから車で5分ほどの距離にある2DKのアパートを用意していました。たまたまですけど、私の実家からは徒歩1分の距離でした。

子どもたちの連れ去りに失敗

――連れ去りは成功したんですか?

 しませんでした。というのも、荷造りしているときに夫が帰ってきてしまったんです。

 当日、子どもたちは学校と保育園に行っていたので、急いで次女を保育園に迎えに行ったんですが、夫が追いかけてきたので、怖くて110番しました。警察官が来てくれたものの、「殴られてないのに、なんで警察呼んだの?」と高齢の警察官に怒られてしまい……。その後、夫が呼んだ義母が現れ、警察官に「おばあちゃんが迎えに来てくれたんだから、次女を渡せばいい」と言うのです。私の意思は無視され、次女は義祖母に引き渡された後、私だけ警察官に事情聴取を受けました。

 その間に、義母は次女を、自宅へ連れて帰ったんです。長女と長男はまだ学校にいましたが、夫も義母も長女と長男は迎えに行かなかったんです。その後、2人は無事に帰宅しました。長女は父の住んでいる私の実家で待ちましたが、長男は、「私と次女を迎えに行く」と言ったので連れて行きました。

――結局、次女はどうなったんですか?

 長男を連れて夫の実家へ向かいました。私は義母にお願いして、次女を返してもらうつもりだったんですが、逆にネチネチと説教されてしまったんです。

「あんたが駄目だから、こんなことになった。なのに子どもを連れて勝手に引っ越そうなんて。なんだ、あんた! 子どもたちはここに泊まらせるから。長男も置いて行きなさい。2人ともここに泊まらせるから」

 義母に強く威圧されて、私はそれに従ってしまいました。

――それから会えなくなったんですか?

 それがたまたま、翌日病院(耳鼻科)の予約を取っていたんです。次女の分を。なので翌日、次女だけ返してもらうことができました。

 義母には、次女を夫の実家に戻すよう言われていたんですが、そのときは次女自身が強く拒みました。「パパのところに行くのは嫌だ」と言っていました。それに対して夫は、そう言われたことがショックで、電話口で泣きだしてしまいました。「もういいよ」と。

――それで次女の件は一件落着?

 いいえ。通わせていた保育園から、夫が次女を勝手に義実家に連れて帰って、保育園に行かせないようにしたんです。少なくとも3カ月以上。そして、しまいには転園させられました。

――ひ、ひどい!

 私は夫に言いました。「生後4カ月のときからずっと一緒のお友達もいて、なじんでるの。急に通えなくなるのはかわいそう。だから引き続き通わせてあげてよ」って。でも、話は聞き入れてもらえず、義実家のそばの保育園に転園させられました。

子どもたち3人と、4年近く会っていない

――一緒に住んでいた長女は、その後どうなったんですか?

 17年7月、夏休みに入った初日、私が学童保育へ長女を送っていった後、事件は起こりました。

 学童の入り口まで送り届けて私が立ち去った後、長女は学童の中に入らず、家族で住んでいた一軒家に、私に内緒で行ってしまったんです。大好きな下のきょうだい2人に会いに。長男と次女はこのころ、義実家に住んでいたのですが、長女はもしかして2人に会えるかもと思ったんですね。しかし家には夫しかいませんでした。そして夫はそのまま長女を義実家まで連れて行ってしまったんです。

 その年の12月までは、義母が車で送って元の学校に通っていました。学校の先生が自分の味方をしないのが気に入らなかったのでしょう。先生にも転校のことを伝えず、義実家近くの学校に転校させられました。それ以降、子どもたち3人と4年近く会っていません。そして今では、私とは会いたがらなくなってしまいました。

――ひかるさんのことが大好きだった子どもたちなのに、なぜ?

 子どもからすると、パパに捨てられてママにも捨てられて、しかも義母に、私の悪口をいろいろ吹き込まれるわけです。頼るのが義母しかいませんから、私のことを愛してたとしても、それを口に出して義母には言えない。もし、義母にすら捨てられれば、もう生きていけないじゃないですか。

――ちょっと待ってください。「パパに捨てられた」ってどういうことですか?

 夫は私たち一家が住んでいた、元のマイホーム(一軒家)で保育士とダブル不倫をしているんですよ。子どもたちを預けていた保育園の保育士です。子どもたち3人の養育はせずに義母のところに預けっぱなしで、女性と住んでいて。そのうち、その女性が、自分の産んだ連れ子を一緒に住まわせ始めました。

――絶句します。義母は子どもたちを会わせてくれないんですか? 

 絶対会わせようとしません。

――失礼ですけど、それは義母がひかるさんを憎んでいるからですか? もしくは孫がかわいいから独占したい、手放したくないとか?

 孫がかわいいというよりは、「育てている自分がすごい」という自己顕示欲だけです。いわば孫を自分の所有物として思っているわけです。

――義母自身、1人暮らしだったんですか?

 違います。義母は夫が生まれてすぐ離婚した後、実家に出戻り、夫が小学生の時に再婚しました。再婚後も旦那さんとは同居せず、義妹と義母の実家に住んでいます。

 義母の両親はまだ存命で、義祖母、つまり義母の母親ですけど、彼女だけが、「ひかるさんに子どもを会わせないでかわいそう」「子どもたち3人に会いにおいで」と言ってくれたりもしてました。

――義祖母の手引きで子どもに会いに行ったりしたんですか?

 コロナがはやり出していた頃、会いに行きました。そんな時期だったので、マスクをたくさん用意して。ところが、子どもたちはいなかったんです。というのも、義祖母は娘、つまり義母に私が来るということを伝えていて、義母が私に会わせないよう、子どもを連れて出ていったんですよ。

――正直さがアダになったんですね。

 私と子どもを会わせようとしたーーということで、義祖母は、それ以後、ほかの家族全員から、いじめられているそうです。

――思い込みと偏見と身内かわいさ。どうしようもないですね。子どもの幸せを考えている気がしません。司法に頼るしかないんじゃないですか?

 実際に、子の引き渡しや保全・監護者指定といった「3点セット」を申し立てました。しかし、これに関しても数カ月後、却下され、監護者は夫に指定されました。一方で夫は子どもに対して、「お母さんに相談したらだめだと裁判で決まっている」と吹き込んでいるようです。

――ご自身のお父さんに相談するのは最終手段とおっしゃってましたけど、その最終手段は使われたんですか?

 離婚しようと思って、浮気の証拠を集め始めた2016年に相談しました。そのとき父は「これからどうするんだ?」と夫に言ってくれたんですが、連絡を絶たれたそうです。

――お父さんもお孫さんに会えず、寂しいでしょうね。

 そうでもないようです。私の兄夫婦と子どもたちと同居しているので。そんな父からは最近、「まだ若いんだから、また新しく家庭を作ったらどうか?」と言われるようになりました。

――おつらいですね。

 こうなったら、夫が子どもたちと生活をしていないという生活実態の証拠を集めて監護者変更を申し立てる――ぐらいしか考えられません。まだ離婚はしてませんが。

――いい解決法があればいいのですけど、思いつかず、心苦しいです。

 「せめて週に2日でも預けてくれたら、喜んで預かります」と義母に言いたいです。働きながら365日ずっと、子どもたちの面倒を見てくれていることには、感謝しているんです。

(西牟田靖)

できたちゃった結婚後、夫の浮気グセが発覚! 子どもから「何々くんママとご飯食べてきたよー」と聞くように……

 『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第6回 山川ひかるさん(38歳・仮名)の話(前編)

「4年前の春、夫やその家族に、子どもたち3人を連れ去られました。今ではまったく会うことすらできません。夫はマイホームに別の女性とその連れ子と住んでいて、自分の子の養育を放棄しています。子どもたちは、夫の母の家で暮らしているんです」

 そう話すのは、山川ひかるさん。

「彼の素性がわかっていたら、結婚なんかしませんでした」

 肩を落とすひかるさん。夫は、どうやってここまで彼女を追い込んだのか? 修羅場の中、双方の家族はどうしていたのか? 前半では家庭が壊れるまでを描く。

地元の先輩の後輩と結婚

――生い立ちから教えてください。

 会社員の父と専業主婦の母のもとに、千葉で生まれました。4人きょうだいの3番目で、ほかは男。父は仕事に一生懸命な人で、遊んでもらった記憶がほとんどありません。一方で、母は子育てを一手に担っていました。私たちきょうだいの手がかからなくなってくると、食堂などでパートの仕事をするようになりました。

――役割分担がはっきりした、典型的な昭和の家庭だったんですね。

 当時は、それが当たり前でした。だから、父が子育てにしっかり関わってくれないことに違和感はありませんでした。私も大人になって子どもができたら、父と母のような生き方をするんだなと思っていました。

――進学して、結婚に至るまでの経緯について教えてください。

 高校を卒業すると、そのまま地元で就職しました。内装関係の小さな会社。そこでかなり理不尽な扱いを受けて、3カ月で辞めました。その後は東京ディズニーシーのレストランで働いたり、住宅設備メーカーで働いたり。26歳で結婚するまでは、ずっと実家住まいでした。

――結婚相手とは、どうやって知り合ったんですか?

 地元の先輩の後輩が、後の夫でした。先輩と一緒に7人ぐらいで飲みに行ったとき、彼がいて、「連絡先を教えて」って言われたんです。彼は私よりも1つ下。ガソリンスタンドでバイト中でした。

 その後、2年ぐらいは疎遠になったんですけど、あるとき突然、携帯に「久しぶりです」と連絡が入って、なんとなく会ってみることにしたんです。そのとき、彼、「携帯ショップで店長をやってる」と言っていました。

 それで実際に再会してみると、彼、マニュアル車を運転できるんですよ。私はけっこう車好きで、当時乗ってたのはマニュアル車だったんです。マニュアル車つながりで、距離がぐっと縮まって、それ以降、お付き合いするようになりました。そして、しばらくたった頃、母に言われたんです。

 「そろそろ結婚しないの? 年取ってから産んでも、子育て手伝えないからね」と。

――結婚は勢いという、まさにそういう流れだったんですね。

 ほんとそうです。そして双方の両親にいよいよ挨拶という段になったとき、彼が言ったんです。「挨拶するための既成事実が欲しい」って。それを聞いて、何か目標とか、すでに成し遂げたことでも発表するのかと思うじゃないですか? でも違っていました。

 「子どもができれば、結婚の挨拶に行ける」って言うんです。それで実際、彼の子どもを身ごもりました。

――できちゃったことを既成事実としたわけですね。子どもができて、さらに親密になっていったんですか?

 いえ、それどころか険悪になりました。彼がとっかえひっかえ浮気をしていることがわかったんです。

 証拠を隠すような機転が利かない人なので、証拠はすぐにつかめました。それを彼に突きつけたところ、泣きながら土下座をしたんですよ。「悪かった。もうやらない」って。「ここまで本気で謝るんだったら、もう二度とやらないだろう」って思って許し、子どもは堕ろさず、そのまま結婚しました。

――謝って改心したんですか?

 私と付き合う前に付き合っていた女性と縁が切れてなかったり、mixiでシングルマザー狙いのナンパをしていたり……夫となった彼の浮気グセは直りませんでした。

 証拠はたくさんありました。例えば、長女を出産する時がそうでした。立ち会わずに別の女と過ごす約束をしていたことが、出産後に判明したんです。それでまた問い詰めたら、今度は逆切れされました。

 「だったら、家を出て行け!」そう言われて、荷物を車の中に詰め込まれました。

――新生児期なのに。ひどいですね。その後の生活は?

 出産に備えて退社していましたが、「出産後は仕事をせず、子育てに専念してほしい」と言われ、従っていました。

 その間、夫はトラック運転手として働いていて、子育ては、おしっこのときのオムツ替えぐらい、それ以外は、私がやって当たり前という感じ。でも、それに関してストレスは特になかったです。育児が、やりがいもあり楽しかったからです。

 夫の月給は約35万円。それを現金でもらってきて、そのまま全部くれました。それだけあれば安泰かといえば、むしろ大変でした。夫の毎月のカードの支払いがすさまじく、さらに夫の車のローンがあったので。私が独身時代に貯金した200万円は、気がつけば、夫に使い込まれてしまいました。

 でも夫にそのことを指摘すると、「これだけ稼いで家を支えているのに、なんだよ、おまえは!」と怒鳴り散らされました。

――どうやって金策したんですか? ご両親に援助してもらったのですか?

 私に早く子どもを産んでほしいと言った母は、すでに亡くなってしまっていました。冬場に風呂場で倒れたんです。ヒートショックが原因で。父には話をするのがどうも気が引けてしまって。父に相談するのは最後の手段だと思って、結局、話しませんでした。

 相談したのは、夫の母、つまり義母と夫の義祖母でした。義母は夫が生まれてすぐに離婚していて、実家の両親と一緒に住み、会社勤めをしていました。義祖母も若い頃にたくさん働いていたようで、年金をたくさんもらっていました。義祖母に相談すると、月5万円ほど援助してくれたんです。

 頼る先があってよかったか? どうでしょうね。というのも、義母と義祖母は、私たちの子育てについて頻繁に介入してきたんです。子育てを手伝ってくれるのはありがたかったんですけど、自分のやり方を強く押し付けてくるので、閉口しました。

 例えば、子どもが危ないことをして注意しても「怒るな」「褒めて育てろ」と言うんです。私が「危ないことだから」と言っても、「こっちの言う通りにしなさい」と言って、私の言うことを一切聞いてくれません。お金を貸していたことから、息子の妻である私を従わせて当たり前だと思っていたようです。

――それで何か行動を起こしたんですか?

 結婚当初住んでいた賃貸から、一軒家を購入引っ越ししました。賃貸の家は夫の実家のすぐ近くでしたが、引っ越し先は車で約30分離れたところ。支払いはすべて夫のローンでした。一方、その家は、私の実家から車で5分の距離でした。

――一軒家に引っ越して、落ち着いたんですか?

 いいえ。夫が、浮気相手に性病をうつされてしまって。さすがに、「もう一緒にはやっていけない。これからは、子どものために働いて生きよう」と思いました。そうして、長女を保育園に預け、保険外交員として働き始めました。

 最近では、保育園の送り迎えをしてくれるパパさんたちが増えていますが、夫は一切関わろうとしませんでした。それどころか「お前が絶対迎えに行け、1分でも遅れるな、絶対だ」と強く言っていました。でも、仕事で遅れるときだってあるじゃないですか? そんなときは、「ふざけるな、お前のやりくりがヘタだからだ」と罵倒されました。

――夫婦の仲はどんどん悪くなっていったのでしょうか ?

 ところが、また妊娠して、次の年に次女が生まれました。背に腹は代えられないので、祖母に月5万円を借りて、家計を回していました。そのころ、経済的な心配から、「3人目はやめておきたい」と私は夫に言ったのですが、彼は全然避妊をしてくれませんでした。なので3人目も産むことになりました。

 切迫早産となって、予定日の2カ月くらい前に入院して、退院後も夫は、家事や長女長男の育児を手伝ってはくれませんでした。

――子どもが増えて、ますます大変じゃないですか!

 いいえ、子どもたちの存在が生きがいだったので、つらいと思ったことはありませんでした。ほぼ年子だったということもあって、千葉市の子育てサポートがあって助かりました。1人目はフルで保育料を払いましたけども、2人目は半額で、3人目になると無料でしたから。同じ公立の保育園に、3人とも入れることができましたしね。

――夫の収入事情は?

 夫の勤務する会社が、代替わりして合理化。そのあおりで、給料は18万円にまで目減りしました。私、家庭にいること自体、なんだかストレスになってきてしまってて。それに夫の親にお金を借り続けるのも嫌。だったらお金を借りないで住めるようにしようと思って、その頃から私、時給2,000円の夜の仕事を始めました。いわゆる水商売です。

――夫に甲斐性があれば、そんなことしなくて済むのに。

 そう。だから、私が「夜の仕事に出る」と言ったとき、期待したんです。「そこまでしなくていいよ。俺がバイトするから」と言って、副業して頑張ってくれるのかと思ったら、「いいじゃん。それ」と言って送り出されました。

――夜の間、お子さんはどうされていたんですか?

 義母に預けていました。それで2〜3年忙しく過ごしたんです。そのうち子どもから夫の浮気について話を聞くようになりました。しかもそれ、義家族が同伴なんです。

 例えば「何々くんママとご飯食べてきたよー」とか。「何々くんママとばあちゃんと遊びに行ってたよ」とか。

――え、それはもしかすると、義母らが夫の浮気相手と一緒に遊びに行ってたってことですか?

 そうです。でも、子どもにそう報告されても、子どもは別に悪くないので叱れないですよね。一方、義母に対しては、絶望的な気分になりました。散々悩んで今まで相談してきたのに、浮気相手を容認するんだ~と思って。

 なので、私、現実逃避したくて、さらに仕事に打ち込むようになりました。昼は不動産屋で、夜は水商売。その2つ掛け持ちして、家にあまり帰らないようになったんです。すると、夫はさらに浮気に走りました。

――夫の浮気、ひどいですね。何か対策はとったのですか?

 証拠を集めて、なるべく良い条件で離婚するしかない。そう思って、探偵さんに浮気調査をお願いし、一つひとつ証拠を集めていったんです。2016年のことです。夫は、なぜか「バレるはずがない」と決め込んでいて、「浮気の証拠を見せろ。離婚届を持ってこい」と開き直っていました。

――浮気の現場を押さえて、夫に詰め寄ったりしたことは?

 ありました。家族で使っているワンボックスの3列目のシート。そのシートの後ろのポケットにGPS機能付の携帯電話を忍ばせておいて、探知したんです。すると、行き先はラブホテルだったんです。

 以前から週2回ほどのペースで、遠方のコンビニや人けのない工場地帯に駐車している形跡があって、何度か問い詰めていました。「ラブホテルに行ってたんじゃないの?」って。だけど、その都度、「仕事の関係でコンビニに立ち寄った」とか「夜勤で忙しい」とか言って、はぐらかされていたんです。

――決定的な証拠に、なかなか至らなかったんですね。

 私、まずラブホテルの駐車場まで出かけてワンボックスに合鍵で入り、車内からLINEをしてみました。

「ラブホテルにいるようだけど?」
(後編へつづく)

「お母さんの顔を見ると気持ち悪くなる」と言われたオーストラリア女性、子どもたちが今どこにいるのかわからない

『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。

 おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第5回 キャサリン・ヘンダーソンさんの話(後編)

前編はこちら

「『あなた犯罪者じゃないのに、なぜ2年間も子どもたちに会えないの?』と、私の国の友人たちから言われます」

 そう嘆くのは、高校生の娘と中学生の息子、2人の子どもを持つ、キャサリン・ヘンダーソンさん。彼女の祖国、オーストラリアでは共同親権、共同養育が当たり前、別れた後に子どもに会えなくなる母親は約1%にすぎないという。

 彼女はなぜ、遠い日本の地で、わが子と生き別れになってしまったのか――。後編では、生き別れになってしまうまでのことを聞く。

子どもに会えなくなるなんて、思ってもみなかった

――日本には戻ったんですか?

 もちろん。私は学校で働いていて、生徒たちに対する責任がありますから。そのまま子どもとオーストラリアに住むことは考えませんでした。もしオーストラリアでそれをやると、アブダクション(誘拐)と見なされて罰せられます。でも今思えば、弁護士事務所に行くことを彼に予告してしまったのは、失敗でした。

――なぜ予告したんですか?

 離婚する気はなかったし、嘘はつきたくなかった。それに「隠すべきではないな」って思ったんです。そもそも私、離婚しない方法を考えるために、弁護士事務所に行くつもりでしたし。でも彼は、私の予告を宣戦布告と捉えたんでしょう。このままだと、キャサリンに子どもを連れていかれてしまうと。

――彼は、どんな手を打ってきたんですか?

 私が弁護士事務所を訪れる前日の18年1月17日、「明日、弁護士事務所に持っていってください」と敬語で言われて、記入済みの離婚届を渡されました。その届の親権者は私になっていました。

――とすると、その離婚届は使わなかったんですね。使っていたら、子どもたちの親権は、あなたのものだったのでは?

 そうなんです。でも私、そのとき、離婚する気がなかったし、日本の単独親権制度の怖さがよくわかっていなかった。まさかその後、会えなくなるなんて思ってもみなかった。だから、区役所に提出しなかった。

――では、彼が子どもたちを連れ去ったのはいつですか?

 その前に彼は離婚協議書の草案を作成して、私に渡しました。そこには、養育費の金額とかの条件がいろいろ書いてあった。彼が作った草案に私が目を通して修正した後、2月21日に承認しました。そして、その後すぐ、私が仕事から帰ってきたら、彼が家からいなくなっていました。何も言わずに。彼の荷物もない。数日前に「これが新住所」と記されたメールが届いただけ。

――そのとき、子どもたちは連れ去られたのですか?

 いえ、子どもはまだ家にいました。だから、次の日から、私ひとりで子どもの世話をしなければならなかった。それで、私の母が子育てを手伝うために、オーストラリアから来てくれました。

――それから彼とは、どんな関係だったんですか?

 次の週は息子の誕生日だったので、「家族4人でレストランに出かけましょう」と提案しました。すると、彼は来ました。でも、その食事は本当につらかった。私たちを捨てた彼とは会いたくなかった。彼が許せなかった。

――それでも、子どもたちのために頑張ったんですね。その後は? レストランでお別れしたんですか?

 私たち3人の車に無理やり、彼が乗り込んできて一緒に家に帰ろうとした。「俺の家に帰るだけなのに何が悪いんだ。キャサリンが俺に指図することはできない」って言って。でも、私、我慢した。息子の誕生日なのに、ケンカするところを見せたくなかったから。

――迷惑に感じたでしょう?

 そう思った。だって彼、その日、午後10時半を過ぎても帰らなかったんですよ。私は翌日学校があるから早く寝たかったし、鍵をかけたかった。だけど、帰ってくれなかったので、寝られなかった。

――で、その後の彼は?

 子どもたちに会いに、週3回のペースで来るようになりました。

――それは意外な展開です。

 子どもたちと一緒に出かけたり、なぜか息子と2人でシャワーに入ったり。その上、使用済みの自分のタオルを、「これ俺のタオル」だと言って置いていったり。

――帰るのも遅いのですか?

 そうなの。私は朝が早いから、早く帰ってほしかった。だけど、彼は「これは俺の家だ」と言って、別居先の家になかなか帰っていかない。だから、子どもが宿題できなかったりしたこともしばしばあった。

――彼が何をしたいのか、わからなくなってきました。

 4月、彼は行動を起こしました。別居をやめて戻ってきて、私と子どもたちの仲を引き裂く工作を始めたんです。まだ母がいるときに。そして私がいないときに、いろいろと私の悪口を言って、子どもたちが私を嫌いになるようにしていたんです。

――片親疎外(PAS)ですね。でも、子どもたちと一緒に住んでいるなら、効果が薄いのでは?

 そうでもなかった。毎日毎日、私の悪口を言われ続けると、子どもたち、信じるようになった。親子関係は良好だと思っていたので、気がついたときはショックだった。

――いつ気がついたんですか?

 毎年8月、子どもたちを連れてオーストラリアに行っていたんですが、その年、出発の1カ月ほど前に息子にこう言われました。「マミーに連れ去られるから行けない。パパが裁判を起こしたら2年かかる。そうすると私たちはパパに2年間会えなくなる」って。

――それはショックですね。

 そのとき、私は「連れ去り」とは何かを知りませんでした。まだ8歳の息子がなぜそんな言葉を知っているのかなと思い、「連れ去りって何?」と聞いたんです。すると息子は「わからない」って。そばにいた娘は、やりとりを見て、「まずい」という表情をしました。2人に彼が「連れ去り」の話をしたのだと思います。

――ひどいですね。

 当時、父がアルツハイマーにかかっていて心配だった。だから、子どもたちをオーストラリアに連れていって、顔を見せたかった。でも、子どもたちは彼の言葉を信じてしまって、一緒に帰ってくれなかった。悲しかった。でもどうしようもない。だから、私ひとりで、2週間ほどオーストラリアに帰りました。

――引き離すことに彼は必死ですね。

 そうなの。もしオーストラリアで同じようなことをすれば、彼が親権を失います。別れても、共同で責任をもって養育するのが当然だから。もし相手の合意を得ずに子どもを連れていったら、実子誘拐として罰せられます。

――オーストラリアでは、離婚はどのように進められるのですか?

 例外を除いて1年間、離婚する前に別居しなければならない。それが法律で決まっている。その間に、しっかりとした話し合いが行われるんです。その間に、考え直したり、お金のことを決めたり、養育計画を作り上げたりする。そうした決まり事を経たあと、弁護士とかに見せにいってOKが出たら、やっと離婚できる。オーストラリアは親権のことを何年か前に「ぺアレント・レスポンシビリティ(親責任)」とした。親が子どもに対して責任を持つ。だから、子どもから逃げることはできない。

 日本では紙一枚だけで離婚できるから、責任を取らなくても離婚ができる。親権のことも紙一枚で決められてしまう。オーストラリアでは、親権のない親が子どもに会えなくなっても知らんぷり、という日本の離婚制度とは全然違う。

――彼が子どもたちを実際に連れ去ったのはいつですか?

 私がオーストラリアから戻って約8カ月後の19年4月16日、彼に子どもたちを連れ去られました。

――その日の経緯を教えてください。

 私が朝起きて職場に行って、夕方自宅に帰ってきたら、全部なくなっていました。テレビ、電子レンジ、炊飯器、車、ソファ。全部なくなりました。お皿、コップ、鍋、ポット。全部なくなっていた。それに子どもたちもいなくなっていた。

――1日でそういうことができるのは、あらかじめ計画してないと無理ですね。

 でも裁判では、子どもは14歳と10歳で、まだ未成年だから連れ去りじゃない、それに物を持ち出すのは犯罪ではないと判断された。私の許可なしに盗んだのに。

――日本人として申し訳ない。

 彼だけじゃなくて、裁判所や日本の法律が、私を悪い目に遭わせている。

――そもそもビジネスで忙しくなったんだったら、彼には子どもを育てる時間もないじゃないですか? 行動が矛盾しているように思います。

 そうなの。彼が本当にやりたかったのは、自由な時間を持つこと、ビジネスをすることでしょ? でも子どもを連れ去って、子どもの世話をしなくちゃならなくなった。だから、今はそれができなくなった。それに家族を壊してしまって、子どもたちや私を傷つけた。男として父親として、完全な失敗。子どもに自分のお母さんを嫌いにさせるのってすごい。本当に恥ずかしい。全然尊敬できない。

――彼は、なぜ子どもたちをあなたに会わせることを、そんなに拒否するのでしょうか? 会わせたほうが楽なのではないかと思いますが。

 「キャサリンが家庭を壊した犯人だから、キャサリンが悪い。だから、子どもと会う資格がない」というストーリーを彼は裁判で言い、子どもにも家で言い続けました。だから、私に会わせるとストーリーが壊れる。それが嫌。もし私に会わせたら、「お母さんはあなたたちを愛してるよ」っていうことを、子どもたちが思い出すでしょう。そうすると、2人は母親と一緒に住みたがる。それを恐れて、完全に私と会わせないようにしている。私が本当はいい母親だから、こういう状態になったんだと思います。

――その後、どうなりましたか?

 20年11月に判決が出て、親権者は彼になりました。連れ去りしたこと、片親疎外をしたことを罪に問うことはできなかった。それとは別に、面会交流の調停で、後日、ビデオレターを見せることが決まっていました。

――そのビデオレターは、どんな内容だったのですか?

 私から子どもたちに向けたメッセージで、長さは20分間です。そのビデオレターを、私の弁護士が子どもたちにオンライン(Zoom)で見せる予定でした。

――子どもたち、喜んだでしょう?

 いいえ。Zoomにつながった子どもたちの反応は、そうではありません。娘が私の弁護士に「私たちには見る義務があるのですか?」と言ったんです。弁護士が「別に」と答えると、娘は「私たちは見るのを拒否します。私たちはビデオを見たくない。お母さんの顔を見ると、気持ち悪くなるから」と言って、ビデオレターの視聴を拒否されてしまいました。Zoomにつないでいたのは、たったの10分間でした。

――言わされてるようですね。

 20年12月の調停で、調停委員にこう言われました。「子どもが嫌がっているなら、面会は無理です。子どもたちは、あなたに会わなくても大丈夫。子どもの将来を考えて、会いにいくのを遠慮してください」と。そうして、「今後、面会交流はなし」という判断が出た。私はすごくショックを受けて、足がゼリーみたいにグニャグニャになって、立って歩くことすらできなくなった。そのとき、待合室で2時間ぐらい泣きました。

 21年1月、追い打ちをかけるように、彼のほうから通知が来た。そこには、次のように書いてあった。婚姻費用(離婚前に配偶者と子どもたちに払う生活費)を払え。4人で住んでいた家から1週間以内に立ち退けと。1月にその手紙が来て、その後、ショックのあまり体調を崩し、約7週間、家から出られなくなった。

 3月になってようやく、家を出られるようになった。だけど、通勤中にパニック状態になって、たどり着けなかったり。学校に着けたとしても、その途端にすごくストレスを感じて、保健室で休んでいたりしました。「生きているのは嫌。子どもがいない人生はいらない」って、そういうことばかり考えてしまう。

 オーストラリアにある自殺防止の公共電話サービスに電話したり、カナダのカウンセラーにオンラインで相談に乗ってもらったり、漢方薬で症状を抑えたりしていて、今はこうしてやっとインタビューに答えられるようになった。

――子どもたちとは、まったく会っていないのですか?

 3月に、息子の小学校の卒業式に参加しました。私と校長先生といい関係をつくっていたので、それができた。でも、息子の入学した中学校がどこかは知らない。今はどこにいるのかすらわからない。

――今後、どうやって生きていきますか?

 今は、私が何をやっても、子どもに会うことができない。連絡先がわかっても、会うのを拒否されるでしょう。となると、子どもの気持ちの変化を待つしかない。でも、このようなインタビューを、たまたま子どもたちが見つけて読めば、私が何を考えていたかを知ることができるでしょ? そうすれば私の気持ちをわかってくれるし、きっと会いに来てくれる。私はそれを信じている。

(西牟田靖)

結婚15周年の記念日に離婚を切り出されたオーストラリア女性、日本人の夫とは家事の分担や仕事のことで行き違い、家庭内別居に

『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。

 おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第5回 キャサリン・ヘンダーソンさんの話(前編)

「『あなた犯罪者じゃないのに、なぜ2年間も子どもたちに会えないの?』と、私の国の友人たちから言われます」

 そう嘆くのは、高校生の娘と中学生の息子、2人の子どもを持つ、キャサリン・ヘンダーソンさん。彼女の祖国、オーストラリアでは共同親権、共同養育が当たり前、別れた後に子どもに会えなくなる母親は約1%にすぎないという。
https://aifs.gov.au/publications/parenting-arrangements-after-separation

 彼女はなぜ、遠い日本の地で、わが子と生き別れになってしまったのか――。前編では、夫との仲に亀裂が入るまでを聞く。

10代の頃から日本人や日本のカルチャーに親しんでいた

――もともと生まれたのは、どちらですか?

 1970年、オーストラリアのメルボルン生まれ。結婚して移住するまでの間、基本的にずっとそこに住んでいました。私がティーンエイジャーだった80年代、日本人はすでに珍しい存在ではありませんでした。日本から転校してきたヒロコと友達になったり、弟の交換留学で、和歌山から来た男の子が、うちに数週間ホームステイしたり。また、祖母が日本人に生け花を習っていたりもしました。日本のカルチャーもいろいろ入ってきていて、漫画の『AKIRA』を弟がよく読んでいました。

――その後、日本との付き合いは何かありましたか?

 メルボルンで大学に進学して、生理学や生化学を専攻しました。大学では日本語も勉強していて、21歳のとき、ワーキング・ホリデーで日本に7カ月住みました。働いたのは群馬の温泉ホテル。当時は日本語がカタコトでした。

 帰国後、大学院に入り、教師になるために教育学や日本の文化について学びました。大学院を出る頃には、日本語をある程度マスターしていて、その頃、駐在員の家族に英会話をレッスンしていました。

――夫となる男性とは、いつ知り合ったんですか?

 大学院を卒業した後、公立学校で日本語と理科の教師になりました。97年のことです。彼とは、その年に会いました。友人から、「友達に日本人がいるけどどう?」って言われて、紹介されました。そのとき、私、思ったんです。「日本語の勉強になるし、会ってみようか」って。それで実際に会って話してみたら、すぐに仲良くなり、デートをするようになりました。

――どんな人なんですか?

 私より年は2つ下で大阪出身。大学で機械工学を勉強して、いったんは就職しました。しかし、その会社は転勤が1年に3回あり、低いレベルの仕事しかさせてもらえない。そんなひどい会社だったので、辞めたそうです。私と会ったときは、英会話の学校に通って、英語の勉強をしていました。彼が格好いいなって思ったのは、英語が話せなくても自信を持っていたこと。英語が話せないのに、一緒に行ったレストランで、支払い時の店員とのやりとりを私にお任せしなかった。

――彼と結婚するまでは、どのように過ごしていましたか?

 知り合った翌年の98年、一緒に住み始めました。彼はオーストラリアに家族がいないので、お付き合いしていた5年間、私の家族が彼のサポートをしていました。

――5年一緒に住んだ後、なぜ結婚したのですか?

 1年間、彼はシドニー、私はメルボルンで暮らしました。というのも、彼、シドニーで仕事が決まったんです。そこは日本人の人材を探している会社。面接に行ったら採用になりました。一方、私は国際交流基金の奨学金をもらうことが決まっていて、「2カ月休んで日本に行ってもいい」と職場も言ってくれていた。そんな状況なのに、「奨学金はいらないので辞めます。シドニーで彼と一緒に住みます」って言いにくいじゃないですか?

――それで1年、仕事の都合で別居した後、結婚したんですね?

 そうです。彼がシドニーに住み始めた後、「結婚しよう」という話になりました。結婚式は両方の国でしました。2002年7月にオーストラリアのワイナリーで、友達数人とお互いの両親を呼んで、式を挙げました。そして10月には大阪のお寺で結婚式を挙げて、結婚届を出しました。その後、日本で暮らし始めました。彼の会社は東京にも支社があるから、「日本に住みましょう」と私が提案した。すると彼がOKした。

――当然、一緒に日本に移住したんですよね?

 そうです。でも、タイミングがバラバラでした。仕事の関係で私だけ一足先に、03年1月に東京へ引っ越しました。仕事はALT(アシスタント・ランゲージ・ティーチャー)。都内の学校に派遣されて英語を教えていました。彼は4月にシドニーから東京へ転勤してきて、一緒に住み始めた。

家事や子育ての分担意識の違い

――お子さんが生まれたのはいつですか?

 03年12月のクリスマスに2人でオーストラリアへ行ったときに妊娠したみたい。だから娘は、MADE IN オーストラリア(笑)。娘を産んだのは04年9月で、私は34歳でした。小学3~4年生までは日本で、その後、オーストラリアに戻るというプランを当時は考えていた。そうすれば言葉も文化も両方の国のことを学べるから。でも、その考えは実現しなかった。

――彼は、子育てにどのぐらい関わったんですか?

 彼自身、「自分の父親をはじめとする、ほかの日本の男性よりも、ずっと自分はやっていた」と思っていたことでしょう。しかし、私の基準からすると、ずいぶん水準が低い。もちろんイーブンイーブンではなくて、私のほうがたくさんやっていた。

――なぜ、そんなに意識が違うのでしょうか?

 彼の母は専業主婦で、父は週に6日働いていた。彼の父と比較したら、確かに彼はやっている。一方、私の母は小学校の教師として働いていて、両親共働き。だから、イーブンでやるのが当たり前だった。

――具体的には、どんな割り振りだったのですか?

 保育園の送り迎えは日によって違っていた。彼がやっていたのは食べものの買い物、料理、朝に洗濯物を干す。帰宅後は、自分のシャツにアイロンをかけていた。でも、トイレットペーパー、ハンドソープ、シャンプー、歯磨き粉、洗剤がなくなっても補充はしなかった。子どもの予防接種も、私に任せっぱなしだった。

――2人の関係がギクシャクし始めたのは、いつ頃ですか?

 09年に生まれた息子が15年、小学校に入学した。そのぐらいの年齢になれば、いったん子育てが落ち着いて、2人で過ごせる時間が取れると思っていた。でも彼の考え方は違っていて、「会社員を続けながら、自分の会社を作りたい」という考えだった。

 2人とも働いているし、東京には誰も親戚がいない。 それに子どもが2人もいる。だから、彼が新しくビジネスを始める余裕はないと思っていた。だから私は彼に条件を出した。「受け持っている生徒たちの試験が毎年11月にある。始めるなら、せめて試験が終わってからにしてください。会社を作るための準備で人に会いに行ったりして夜遅くなるのなら、あらかじめ説明してください」と。

――彼は条件を守りましたか?

 いいえ。私の生徒たちの試験が行われる11月より2カ月も早い9月に、彼は会社を始めてしまいました。

――彼は約束を破ったんですね。

 しかも、年明けの1月には、夜中の2時になっても帰ってこないのが通常になった。そうしたことが続いて、私は不安で寝られなくなった。

――2人の子どもは、まだ小さいですものね。

 そうなんです。それに私、日本人じゃないから、地震に慣れていない。11年の東日本大震災の揺れは、本当に怖かった。そのとき、あの地震から4年がたっていたけど、「また揺れたらどうしよう」って、ずっと思ってた。だから余計に不安が大きくなった。

――彼に注意はしたんですか?

 1月になって言いました。「出かけるときに、どこに行っているか教えてください」と。すると彼、従ってくれたり、聞き入れてくれるんじゃなくて、むしろ怒って言いました。「キャサリンは、オレのことをコントロールしようとしている」と。そして、その後、彼は私のOKがないまま、ずっと帰ってこなくなった。だから私、不安で寝られなくなってしまったし、仕事にも出られなくなった。なのに、彼は私を無視した。

――彼が経営していたのは、何の会社なんですか?

 ワインの輸入販売、コンピューター関係の相談とか。業務内容はバラバラ。収益は上がっていなかった。確定申告は毎年行っていましたけどね。

――なぜそんなに、彼は新しいビジネスにこだわったんでしょうね?

 彼はそのときミッドライフクライシス(中年の危機)だったのかも。今までの人生は「自分の思い通りにいかなかった」と思い込んでしまった。だから、突然、新しいことを始めた。それが新しいビジネスだった――。私はそう解釈した。だとすれば、しばらく静かに待ってあげたら落ち着いていくと思った。

――彼は落ち着いた?

 いいえ。ますますひどくなった。例えば、一家で車でお出かけしたとき、靴を履かずに靴下のまま運転をしたり、それまで吸っていなかったタバコを41歳になってから吸い始めたりもした。ヘンでしょ?

――確かにヘンですね。それで、その後、関係はどうなったんですか?

 2年間、ずっと関係はよくなかった。彼は毎月、1週間大阪に出張していて、私や子どもたちに秘密で、若い女性と交際しているようでした。LINEのメッセージに証拠が残っていた。

――キャサリンさんの体調はどうでしたか?

 どんどん悪くなっていった。不眠症になってしまって、学校に働きに行っても保健室で寝かされることが普通になった。

――お子さんとの関係はどうだったんですか?

 私たちの親子関係は良いほうだったと思います。だからもし、平等に離婚の調停をしていたら、私が親権者となる可能性が高かった。日本人ではないけども日本語が話せる、学校の教師。日本に長く住んでいる。悪くない母親。すると、彼が子どもたちの親権を得るためには、連れ去りという選択しかなかった。

――彼が離婚したいと言いだした経緯を話してもらえますか?

 15年、16年と2人の関係はよくなかったけど、17年になると少し関係が落ち着いてきていた。ミッドライフクライシスを乗り越えたんじゃないか、という手応えが、そのとき私にはありました。だから私、彼に提案しました。「出張から帰ってきたら、10月の結婚記念日を一緒にお祝いしましょう」と。彼が承諾したので、レストランのコース料理を予約しました。彼の出張の都合で数日遅れの日に。

――それは、どんなお店ですか?

 荻窪のスペイン料理店です。当日、子どもを残して2人きりで、バスで行きました。そのとき、私、結婚15周年を記念した贈り物を用意していたんですよ。

――それは素敵ですね。贈り物は何だったんですか?

 ギフトセットの箱に入った、クリスタルのワイングラスです。ペアで1万円もする高級なグラス。

――2人でごちそうを食べて、記念日を祝ったのですね。それでプレゼントは渡したんですか?

 いいえ。それどころではなくなりました。というのも食事の途中、突然、「離婚したい」と切り出されたんです。私はショックを受けて、固まりました。私が黙っていると、彼は「帰ろう」って言って、席を立ちました。

――コース料理なら、まだ出てきていない料理もあるでしょう?

 そうなんです。私たちの修羅場を見て、レストランのスタッフがパニックになりました。すごく困っていて、「メインディッシュのプレートがこれからです。どうしましょう?」と相談されました。すると、彼はさっさと会計を済ませて、店を出ていきました。

――ひどすぎますね。無理やり、関係を壊そうとしているフシすら感じます。それで、その後の家庭生活はどうなりましたか?

 家庭内別居です。それまでは、2人でダブルベッドに寝ていたけど、レストランで「離婚したい」と言われてから、彼は子ども部屋で布団で寝ていた。その後の11月と12月、本当につらかった。

――その後は?

 年が明けた後、子どもたちを連れて、オーストラリアへ戻りました。

    ***

 これは国をまたいだ別居なのか、それとも一時的な帰国なのか……。

(後編へつづく)

車に監禁されて離婚届にサイン! それでも、元夫との共同養育がうまくいっているワケとは?

『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

【連載】第4回 平川美月さん(仮名・42)の話(後編)

 ほぼ1週間ごとに、元夫と自分の家を行き来させて娘を育てている平川美月さん。日本でこうした育て方をする人は、まだまれだ。なぜこうした育て方をするに至ったのか? 今回はその後編。共同養育に至るまでの経緯を聞いた。

前編はこちら

車に監禁されて離婚届にサイン

――ひとりで家を出たことで、お子さんと会えなくなったんですか?

 引き離されることは、全然頭になかったです。長野県駒ヶ根市にある元夫・Bの実家を出るときに、「1週間以内にアパートを決めるから、それまで娘を見ててほしい」と言ったら、「いいよ」って約束してもらえたので。

――具体的に、その1週間は、どのように娘さんと関わっていたんですか

 午後4時ごろ、保育園にお迎えに行って、Bと義母の家に立ち寄っていました。2人が外出しているその時間に、着替えとか荷物とか、連絡帳の書き込みとか。翌日の保育園の準備をしたり、娘と夕飯を一緒に食べたりした後、家を出ていました。

――プレハブを出てアパートに移り住んでからは?

 保育園が終わると娘をアパートに連れてきて、一緒に過ごした後、Bの実家に返していました。週の半分は、夕食後に、あとの半分は夜になる前に返していました。私が夜の仕事をする間はBの実家に預けるという、共同養育をやっていたんです。

――そのまま、そのやり方を維持することにはならなかったのですか?

 ならなかったですね。というのも、アパートを借りて1週間後、Bから連絡があったんです。「書いてほしいものがあるから、印鑑持ってきて」って言われて、指定のコンビニの駐車場に行ったら、車の中に閉じ込められて、「離婚届に署名・捺印するまでは絶対帰さない」とBに言われたんです。

――それ、完全にトラップですね。

 書類を確認すると、親権者の欄にはBの名前がすでに記してありました。それで、「せめて1日考えさせて」って答えました。すると、「絶対にダメだ」って。

――それで結局、離婚届に署名・捺印はしたんですか?

 最後は私が折れて、サインしました。ただ、その前から「一緒に育てていく」という方針をお互い確認していたので、「親権が向こうでも影響はないかな」って思ってましたし、そのとき、一刻も早く監禁状態から脱したかったんです。

――離婚が成立したんですね。で、その後はどうなりましたか?

 別居して2カ月ぐらいたったころから、Bから「戻ってこいよ」と、しばしば連絡がありました。その都度、「いや戻らない」「いや戻ってこい」というやりとりを繰り返しました。しまいに、彼の連絡は脅迫めいたものになっていきました。

――離婚が成立しているのに、未練がましいですね。

 それで私、弁護士に相談したんです。「元夫がストーカーみたいになっています。どうすればいいでしょうか?」って。そのとき弁護士が提案してきたのが、親権者変更の申し立てでした。

――その後は、弁護士経由での連絡ですか?

 そうです。だからその前に、Bへメールで通告したんです。「月曜に調停を申し立てるので、今後は、弁護士に連絡してもらえますか?」と。

――Bさんの反応はどうでしたか?

 メールをした金曜日、私は娘と一緒にいたんです。もちろん私はBの元に娘を送り届けるつもりでした。でもBは、娘をそのまま奪われると思って、かなり焦ったのでしょう。Bから警察に通報されました。

――調停が始まる前に、娘さんを取り返そうと思ったんですね。

 調停の3日前ですから、間違いないです。それで、メールした金曜日の午後のうちに、突然、警察が来たんです。「誘拐だということで、お父さんが娘さんを探されていますけど、娘さんはいらっしゃいますか?」って、玄関先で言われました。突然だったのでびっくりしましたし、怖かった。それでも何とか「います」とドア越しに答えました。すると、警察に、「今日、娘さんを返さないと、お母さんが逮捕されます。そうなると本当に会えなくなってしまうから、いったん返してください」と通告されました。

――従わざるを得ないですよね。

 そうなんです……。それで、弁護士と一緒に警察署に出向いて、話し合いをすることになりました。3歳(当時)の娘は、そのときの状況の深刻さがわからない。「明日からママにしばらく会えないよ。バイバイなんだよ」と伝えたとき、娘はずっと不思議そうな顔をしてました。いつもなら「また明日ね!」とパパに引き渡した娘に笑ってバイバイをするのに、私はボロ泣き。それでも娘は、これからもずっと私のアパートに来られると信じていたはず。別れるとき、「ママまたね」って手を振ってくれましたから。

――その後、調停で戦うんですよね。

 ところが私、いったん取り下げてしまったんですよ。警察署で、弁護士に「無理やりにでも娘さんを大泣きさせてでも『パパのとこに行かない』と言わせて」と言われて。でも、そんなことできなかった。娘と引き離された後、弁護士はなんて言ったと思います? 「あんな人と結婚するからですよ」って投げやりに言うんです。その後、すぐに解任しました。正直、心が折れてしまったんです。

――法の知識はあっても、気持ちのわからない人だったんですね。残念。

 その後、弁護士.comというサイトで見つけたのが、E弁護士でした。彼女は、DVという言葉が社会に知られる前から、DV被害に遭ったお母さんをしっかり守ってきた先生。E先生とは、結局、5年にわたる長き戦いを繰り広げることになりました。娘が連れていかれて2カ月後から始まった、親権者変更と面会交流の調停でした。

――その間、会えずに苦しかったでしょう?

 それがですね、実は保育園でこっそり会っていたんです。引き離されて3週間後かな。電話相談を受けてくれた弁護士に、「面会交流が決まる前? ならば会ってはいけないという規則はないです。どんどん会いに行ってください」って言われて。

――保育園の反応はどうでしたか?

 「お母さんたちの送り迎えが落ち着いた後の10分間なら」という条件で、黙認してくれることになりました。引き離されたことを伝えると、一緒に泣いてくれた園長先生と担任の先生だったので、気持ちをわかってくださいました。

――毎朝10分間の面会ですか?

 そうです。再会したときは、引き離されてまだ3週間しかたってなかったのに「なんでママ、ここにいるの?」って、すごく不思議そうな顔をされました。10分して、「ママこれからお仕事だから行くね。また明日も来るよ」って約束して、去ろうとすると、泣かれてしまいました。

――聞いていてつらいです。

 娘に泣かれるのがつらくて、もう行かないほうがいいかなと一瞬思ったんですけど、泣けるだけ(自分のことを思ってくれるなら)いいのかなとか、いろいろ自分に言い聞かせて保育園に通ってましたね。それで、だんだん慣れてくると笑顔で「バイバイ」って言うようになってきたんです。

――調停には影響しましたか?

 保育園に会いに行ってることを、調停委員や裁判官に言ったところ、好意的に捉えてくれました。「そうした実績があるから、多めの面会交流が必要でしょう」って。一方、E先生は、Bに対して「共同養育の約束を破って連れていったのは権利の乱用。少しは譲歩しなさい」と話を持っていってくれました。

――そうやって実績を作って、回数を増やしていったんですね。

 そうです。それで、その次の調停のときに、週末月2回(午前10時~午後5時、2週間後に宿泊)となりました。その代わり、「保育園への登園を控えるように」という裁判官からの条件をのみました。ちなみに、養育費の金額も決まりました。いまも同額の〇万円(数万円、と表記する?)払い続けていますが。

――その後の調停は?

「親権変更を取り下げるから、面会を月3回に拡充してください」と押しました。するとB側の弁護士が「3回だと予定が決めづらいから、月4回にしましょう」と言ってくれて、毎週の面会交流が実現。そのうち泊まりは月に1回と決まりました。

――Bさんは邪魔してこなかったですか?

 夏休みなど長期休暇の面会不履行が続いたり、理不尽な断られ方をしたりしました。でもグッとこらえて、それらを証拠として、こつこつと積み上げていきました。それが重なって履行勧告を2回やって、さらに損害賠償請求へと発展しました。

――証拠を積み上げていくうちに、局面が変わっていったりしましたか?

 そうですね。娘が小学1年生、7歳だったときの調査官調査の実施に結びつきました。それは、私と一緒にいるときとBと一緒にいるときの2日間4時間ずつ、実施されました。

――その結果はどうでしたか?

 「お母さんと一緒にいるときのほうが、ちゃんと自分の意見も話すし、楽しそう」と書かれました。一方、「父親といるときは、娘さんが父親(B)に『これさあ』とか言って、一生懸命共有しようとするけども、父親はそのことに気がつけていない。このままだと、将来、父親は娘に見放されてしまう」と記されてしまった。

――ずいぶん態度が違っていたんですね。

 しかも娘は調査官調査の中で、カレンダーを指さしながら「この日からこの日まではパパの家、ここからここまではママの家にいたい」という具合に意思表示をしたんですよ。それが1週間交代の共同養育につながっていくわけです。

――それは娘さんの意思なのですか?

 「外国では、2つのおうちで子どもたちが過ごしているんだよ」と私が娘に話していたのが影響したのかもしれません。「パパとママはケンカをした。今はあなたが誰と暮らすかをパパが決めているけど、本当だったら決めるのはあなただよね。あなたが決めるのを、パパとママがお手伝いしたいの」って話していました。

――子どもの意思を尊重していますね。裁判所でも、そうしたんですか?

 はい。裁判所のおじさんたちと話をするということも、調停の2カ月ぐらい前から娘に話しました。「裁判所は、自分の気持ちをちゃんと言っていい場所なんだよ。ママがあなたを守ってあげたいから、ママと一緒に、そういう話をおじさんたちにしてみよう」って。

――なぜ、そこまでしたのでしょうか?

 この子は一生、自分の気持ちを我慢する子になっちゃうのではないかと心配だった。同居親の機嫌をうかがうような子どもには、なってほしくなかったからです。

――裁判所での結果はどうでしたか?

 損害賠償は私が勝ってBが負けました。再調停はなかった。「これ以上、面会交流を減らせと言っても、受け付けてもらえない。主張が全部通らない」ということがわかって、Bが折れたんです。

――裁判所が、そこまでの判断をしてくれるんですね。驚きました。

 担当してくれたE先生いわく、「最初の時点で月4回の面会交流というのを債権債務にしたこと、それが何より大きかったと。さらに証拠や実績を積み重ねてきた。だからこそ、ここまで来られたんだよ」と。

――では、1週置き交代の完全な共同養育は、どのように実現したんですか?

 娘が小学2年生だった2018年10月に裁判が結審、その翌月の11月から始まりました。というのも、娘をBの実家の玄関前まで連れていったとき、「やだやだ」と言って、娘は入りたがらなかったんです。なのでインターフォン越しに伝えました。「娘の気が乗らないみたいだから、もう一日様子を見させてくれませんか?」と。

――Bさんは、かなり怒ったのでは?

 それどころか、「じゃあ、わかりました。明日まで待っています」と、すんなり応じたんです。しかも、そういったことが3回続いたんですよ。

――野球でいえば、まさにスリーアウトですね。

 その日の夜、E先生と相手方の弁護士さんが協議をして、「娘さんの希望通り、1カ月間試験的に1週間交代という形で行ってみましょう。ただし、この期間のことを親権変更に持ち出さないことが条件」という内容で急きょ、合意書を作成しました。

――こうして、完全な形の共同養育になったんですね。ちなみに、それはいつからですか?

 2018年の11月に裁判が終わって、翌12月から共同養育が始まっています。そのとき私のアパートは小学校から1キロの地点、Bの実家は学校から北2.5キロでした。

――夫婦同士が話し合って1週間ごとに決めたと思っていたので、すごく意外でした。

 Bが自分から率先して進めていたら、こういう形にはならないです。一方で、彼は長いものに巻かれやすい体質の人だから、裁判所や弁護士という絶対権力には従うんです。でも、もしかしたら、娘のことを考えられるようにはなってくれたのかな。

――週替わりでそれぞれの家に行って、娘さんは混乱したりしませんか?

 子どもは柔軟なので、持ち物を個々の家にそろえておけば、何の問題もなしです。忘れ物したとき、「取りに行かなきゃいけない」って不満を言うぐらいかな。

(西牟田靖)

義母との関係や夫のDVに耐えられず、子どもを置いてプレハブ小屋へ避難! 28歳で再婚した女性の告白 

『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第4回 平川美月さん(仮名・42)の話(前編)

「『2つの家を行き来してて、子どもが混乱しませんか?』ってよく聞かれます。だけど、むしろ楽しんでます。子どもは柔軟ですから」

 1週間ごとに、元夫と自分の家を行き来させて娘を育てている平川美月さん。日本でこうした育て方をする人は、まだまれだ。なぜこうした育て方をするに至ったのか? 今回はその前編。別居に至るまでを記す。

祖母から母、母から娘へストレスの連鎖

――生い立ちから教えてください。

 両親のほかに兄がいます。父は光ケーブルの敷設や無線通信のアンテナ設置を担当するエンジニアでした。転勤続きで、私が生まれたとき、家族は都内近郊に住んでいました。4歳のときに長野県佐久市へ、そして小学5年生のとき、父の実家がある県内の駒ヶ根市に引っ越しました。

――父親の実家に住むことで、家族の関係性は変わりましたか?

 実家にひとりで住んでいた祖母と同居することになったため、関係性は変わりました。そのころ、祖母は祖父の看病に追われていて、病院通いの毎日。看病のストレスから、祖母は同居後、母につらく当たるようになっていきました。

――嫁姑問題によくある話だと聞きますね。

 母は母で、それまで都会の社宅でマイペースで生きてきたのに、祖母との同居で、息苦しくなってしまった。ストレスを抱えた母が、今度は、私につらく当たるようになりました。

――お母さんがおばあさんの、美月さんがお母さんのそれぞれストレスのはけ口にされちゃったんですね。それはつらい。それで、お母さんからは、どんなふうに当たられたんですか?

 高校の野球部のマネジャーを「大変だから辞めたい」って言ったとき、「(同野球部で活躍していた)お兄ちゃんの顔に泥を塗って!」と罵倒されました。私の生活態度が気に入らないと、大切にしていた友達やその親に電話して、無理やり関係を切られたこともありました。

――それはひどい。だったら反発したくなりますね。

 2〜3日家に帰らないこともしばしばでした。働くのが好きだったので、居酒屋の厨房やコンビニ、マクドナルドでバイトに励んだりもしていました。

――就職から結婚するまでの間はどうだったのですか?

 高校を卒業した後、コンピューターの専門学校に2年通い、CADでの図面作りなどを習ったんです。就職はCADの技術を生かして、電気工事会社。その後はレンズメーカーに転職しました。一度目の結婚はレンズ会社にいるとき。お相手は、専門学校時代から付き合っていた先輩のAです。

――現在、共同養育しているのは、その彼との間にできたお子さんですか?

 違います。Aはお金遣いが荒かったので、妊娠する前に25歳のとき、2年ほどで離婚しました。そのタイミングで会社も辞めました。というのも、レンズメーカーはAに紹介された会社だったので、いづらくなってしまって……。

――今のお子さんが生まれるまでのことを教えてもらえますか?

 Aと離婚した後、水商売をしていました。再婚相手は、その店のお客さんだったBです。解体業のグループのひとりで、いつもふざけている、いじられキャラ。面白い人だなって思いました。

 女の子たちとアフターで一緒にカラオケに行ったり飲みに行ったりするうちに、Bと個人的に仲良くなっていきました。ちゃんとした交際のプロセスがあったわけじゃなくて、気がついたら「じゃあアパートを借りるから」ってBに言われていました。

――美月さんへの相談もなしに、Bさんが同棲を決めたんですね!

 黙って自主的に動くようなところが職人ぽくて格好いい、包容力がある人だって、Bのこと思っちゃった。いま思えばほれていて何も見えなくなっていたんでしょうね。

――そうして同棲が始まったんですね。

 同棲するタイミングで、Bは引っ越し会社に転職しています。それだけじゃないですよ。同棲して1年ぐらいたったとき、突然、同棲の解消を突きつけられたんです。「俺、長男だから実家に戻らなきゃいけない。だから、このアパートは解約する」って。Bのお父さんががんになって余命いくばくもない状態だったんです。

――同棲に転職、そして実家での同居。彼はいろいろ勝手に進めるんですね。

 最後の時間を父親となるべく長くいたいというのは理解できました。でも、解約するほどのことなのかなとも思ったんですよ。アパートがあった場所からBの実家までは車で15分ぐらいですから「通えばいいんじゃない?」って言いました。聞き入れてくれませんでしたけど。

――Bさんの実家での同居を承諾したのは、いつですか?

 ほどなく義父が亡くなってしまって、お葬式に参列したんです。そのときですよ。Bにプロポーズらしい言葉をかけられたのは。「お母さんがひとりになっちゃうから、ここの家で暮らしていこう」って。28歳のときでした。

――お葬式でのプロポーズ! 強引ですね。

 当時、むしろ「頼もしい」って思いました。「実家のことを、それだけ真剣に考えてるんだ。だったらそれに付き合ってもいいかな」って。

――何も条件は出さなかったんですか?

 出しました。「30歳までは水商売は続けたい。そのことをあなたのお母さんが理解してくれるなら、一緒に住んでもいい」って。するとBは、「そのことは、もうお母さんに言ってあるから大丈夫」と言うんです。

――実際、Bさんはお義母さんに話していたんですか?

 それが、言ってなかったんです。同居してしばらくたったとき、義母に言われました。「あんた、いつまで夜の仕事なんかやってるの?」って。それでBに問いただしたら、「何の話?」って。

――約束を破ったんですか!

 それだけではありません。もうひとつ嫌だったのは、日曜に妹さん一家が来ることでした。夫婦は子ども2人を実家に預けて、日中出かけるんです。

 私が義母の立場だったら、面倒を見てあげたいし、ご飯を食べさせたり、お風呂に入らせてあげたいって思うのかもしれない。でも、そうなると私が耐えられない。毎週、私が子どもの世話をしたり、みんなが帰った後にドロドロの風呂なんて入れないって思ったんです。

――Bさんだけでなく、家族ぐるみで、利用されているじゃないですか。

 そうなんです。だから私、我慢できなくて。Bに言ったんです。「実家から出てアパートで暮らさない? あなたひとりでお母さんに会いに行ってあげればいいじゃない?」と。すると「アパートには引っ越さない。消防団をやってるし」とか言って渋るんです。

――関係性がズレていきそうですね。

 「付き合いきれない」って思いました。それで私、ひとりで家を出てアパートを借りたんですよ。車で15分ほどの距離のところに。同居したのは、結局4カ月だけでした。

――別居したんですね。Bさんは謝ってきたりしたんですか?

 それが半年の間、何の連絡もしてきませんでした。半年たって、久々に連絡が来たんですが、それは「お父さんの一周忌をやるけど来る? 来たくなかったら来なくてもいいよ」というメールでした。文面を目にして、私、完全に気持ちが冷めてしまいました。

――なんのねぎらいもないんですね。

 だけど、お義父さんが別に悪いわけではないし、行かないのも申し訳ないので、一周忌には行ったんですよ。それでそのとき、今後についてBと話して、「次、ダメだったら離婚する」という条件で、アパートでBと同居することにしたんです。

――同居してからは?

 ちょうど私が30歳になったとき、妊娠がわかりました。するとBは、それを機に引っ越し会社を辞めて独立しました。

――妊娠を機に仕事を替えたのは、Bさんなりの決意表明ですか? 出産後はお義母さんとの関係はどうなったんですか?

 週末に、お義母さんの家に子どもを見せに行くじゃないですか。すると「もういいじゃん。帰るのめんどくさいから、泊まっていこう」ってBに言われて、ずるずると水曜までいたりするようになったんです。Bは子育てを全然手伝ってくれないけど、義母が子育てを手伝ってくれるから、少し楽ができる――というのもあって。

――そういうのが習慣化して、結局また、Bさんの実家でお義母さんとの同居が始まったわけですね。でも、美月さんの実家で暮らしてもよかったのでは?

 母との関係がね……。それに義母は、もうすでに孫を何人も育てて慣れているし、元気で体力もあったので。

――そこから、なぜ、子どもと別れることになってしまったんですか?

 Bの資金繰り、要は仕事がうまく回ってなかったんです。彼の実家で同居を始めた後、家賃が浮いているはずなのに、督促状が来る。しかも国保が未払いになっていて、保険証が切れてることがわかった。なのに彼は「自営業だから収入は流動的。だから、決まった額を家には入れられない」って開き直るんです。

――筋を通さないんですね。

 義母が息子のお金のなさに気がついて、支払い用のお金を補填するようになりました。なのに、Bはそのお金を全部使っちゃって、義母とケンカするようになったんです。すると義母に言われました。「日中、子どもを預けて、美月さんが働きに行きなさい」と。

――Bさんの意見はどうでしたか?

「おまえが子どもを保育園に預けて、昼間働きに出たりなんかしたら、まるで俺が稼いでないみたいに思われるじゃん」って。

――えっ! 理解できません。

 Bには田舎の見栄があって、周りの知り合いのように、独立して商売をやれるようになったことが、すごくうれしかったみたいなんです。だから、稼いでいるように、周りからは思われたかった。

――もっと正直になればいいのに。

 その間、Bと義母はお金のことでずっとケンカしてるわけですね。私は私でBのお金にだらしない部分に対しての不信感が拭えなかったし、自分で稼いでいないと不安で仕方なかった。そうしたことからズレが生じて、ケンカが増えていきました。

――ケンカがエスカレートしたのですか?

 はい。それでそのうち、Bに殴られるようになりました。また、娘を抱っこしているときに後ろから蹴りを入れられたり、ペットボトルを投げつけられたり、ガラスを割られたり、暴れられたりしました。

――完全にアウトだ。DVですよ、それ。

 だけど、暴力を振るった直後、世の中で一番自分がかわいそうな人っていうぐらい、毎回、Bは反省するんですよ。その気持ちに偽りはない。だから、つい情が惑わされるんですよね。ひとりにさせたらいけないのかな、とか。その都度、ためらってしまって。

――よく耐えましたね。でも、それも限界が来たということですか?

 そうです。何回か繰り返した後、娘が3歳のときのことでした。保育園に入園した直後の日中に、Bとかなり激しいケンカをしたんです。義母は私たち2人がもめたことを知っていました。

――ケンカの後、夜、一緒に食卓を囲みますよね?

 だから私、気持ちが全然落ち着かなくて。「今日もまた、一緒に食卓を囲むなんて、もう耐えられない」と思って、「今日、家を出るから」ってBに言ったんです。

――娘さんを連れていこうとは思わなかった?

 それは無理でした。とりあえずの仮住まいが、建設現場にあるプレハブだったので。

(後編へつづく)

「これは連れ去りだ!!」不倫夫が警察官を連れて「息子を返せ」と激高! 子連れ別居した妻が「子どもと離れ離れ」になった理由

 『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。

 おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第3回 久保田美樹さん(仮名・37)の話(後編)

前編はこちら

「息子と名古屋の実家に帰って、1年間暮らしました。ところが、調停の結果、息子は夫の元へ行くことが決まり、離ればなれ。今は、息子に毎日弁当を届けられるよう、近くに引っ越そうと思っています」

 久保田美樹さん(仮名・37)は、つらい話なのに、気丈な様子で、明るく言った。彼女はなぜ、息子と離ればなれになったのか? そもそもなぜ、実家へ連れ去ったのか? 後編は、子連れ別居を経て、一転、息子と別れ、ひとりきりになった経緯、そして、ひとりの女性として立ち直るまでを記す。明るく話す彼女の夢とは何なのか?

実家に帰ったものの、夫が警察官を伴って現れる

――14年の2月、小学4年生の息子さんを連れて、名古屋の実家に帰ってからのことを聞かせてください。

 母と下の妹が住んでいる実家に身を寄せました。母は喜んでくれたんですが、下の妹と息子がぶつかってしまいました。妹は息子に対して、「なんで私が我慢しなきゃならないのよ!」って不満をぶつけてしまって。そんなわけで、家の中でもあまり安心できなかった。

――いきなり2人引っ越してきたら、狭くなるので、親族といってももめるでしょうね。美樹さんは、どうだったんですか?

 名古屋に帰ってきたとき、私はかなり精神的に参っていました。働くことができず、ずっと家で過ごしていました。病院に行って診てもらえばよかったんですが、そんな気にならなくて、ずっと実家で休んでいました。

――自宅には、どのぐらいいたんですか?

 半年です。すぐに息子の転校手続きをして、新学期から名古屋の小学校に通わせていました。

――ということは、東京に戻ってよりを戻すつもりは、もはやなかったということですね。

 はい。私自身が子どもと離れるつもりがまったくなかったし、私ひとりだけで実家に帰るということは絶対にしたくなかったんです。それに尽きます。私ひとりだけで家を出たら、もう二度と子どもと会えなくなるって思っていたんです。周りの人たちからも「今、手を離したら、一生会えないよ」って言われていましたし。

――なるほど。では、子どもと会えなくなった夫は、どうしたんですか?

 春休みが終わって1カ月ほどがたったゴールデンウィークの時期に、警察官を伴ってやってきて、「これは連れ去りだ!! いつ息子を返してくれるんだ!!」と言って、すごく怒っていました。

――子どもを連れていかれた男性のつらさ、僕自身は共感します。

女のことがバレて、両家で話し合いになったんです。なのに、私の人格がどうとか、話をすり替えて正当化して、私だけ家を追い出して、子どもと引き離そうとしたんですよ。

――なるほど……。それで、その後は?

 扉越しに警察官の方と、「これからどうするのか」という話をしました。私からは夫に、「ランドセルを送ってください」と伝えましたね。まあ警察の人がいたので、私も冷静に話してたんですけど。それからしばらくして、調停を起こされました。

――夫は、何の調停を起こしたのでしょうか?

 そのときは離婚を争っていなくて、どちらが育てるかという監護権と面会交流をどうするかという話し合いをしました。その間に私と息子は実家を離れ、2人でアパートに住むようになりました。息子と妹が不仲だったし、私も働けるぐらいの元気さを取り戻したんです。実家に来て半年後のことです。物件は、パート勤めのシングルマザーでも入れるアパートで、息子の小学校の近くでした。接骨院の受付と、引越センターの梱包作業と、ハンバーガーチェーン店の3つの仕事を掛け持ちして育てました。

――子どもを夫に会わせていた? または、会いに行ったりしたのですか?

 そのうち、月1回のペースで夫に面会交流をさせるようになりました。子どもを新幹線に乗せて東京に送り出したり、逆に向こうが来たりもしました。そのときのやりとりは、お互い事務的でした。感情を込めずに、敬語でやっていましたから。彼は金銭的にきつかったと思いますよ。私は法テラスだったのでそんなにかかっていませんが、夫は弁護士を立てていました。おそらく100万円ぐらいはかかったんじゃないでしょうか。調停が行われる日は、仕事を休まなきゃいけないですし。

――調停は、どのように進んだのですか?

 親として自分がいかにふさわしいかを主張し合いました。夫の主張は理路整然としていました。「両親のサポートはあるし、家も近い。正社員として働いているので、収入的には問題ない。子どもが戻ってきたら、残業しなくても帰れるような部署に、会社に移してもらう」といった感じです。

 その点、私は主張が弱かった。実家で一緒に同居していればよかったのに、子どもと2人暮らしということがマイナスにとられました。パートを掛け持ちしてもカツカツだということ。息子は家で留守番できる子ではありましたけど、ずっとゲームばかりしていた。そのこともマイナスだと判断されました。なので、掛け持ちをやめ、息子が小学校に行っている間に働ける昼間の事務に転職しましたが、タイミングが遅くて反映されず、そのまま、結審してしまいました。

――夫は調停においても理詰めだったんでしょう。とすると、美樹さんが、わーっと激高してつかみかかったときや、類似の出来事の詳細を、それぞれ証拠として提出したんでしょうね。

 そうだと思います。

――調停が結審したのはいつですか?

 15年5月です。育てる親として夫がふさわしいという判断が下され、息子の引き渡しが命じられてしまい、私は突然ひとりになってしまいました。監護権の調停で、母親としてやってきたことを全然主張できなくて、家裁の判断に母親としての頑張りが加味されなかったと思うと、いまだにちょっと涙目です。

――その後は、どうされたんですか?

 息子がいないのに、名古屋に住み続けるのは意味がないですからね。すぐに戻りたかった。だけど、仕事とかアパートの契約とか。東京での住む場所とか。いろいろと問題があったので、元いたS区に移るまでに4カ月かかりました。それまでは、私が東京に通って息子に会いに行きました。新幹線だとお金がかかるので、その間はリースした車で往復していました。

――その後、東京に戻ったんですね。

 そうです。もともと住んでいたS区にシングルマザーが入れるシェアハウスがありまして、そこの運営者が「一部屋空いてるから、住んでみない?」と誘ってくれたんです。本来はシングルマザーのみの物件だったんですが、ありがたいことに、運営者に優遇していただきました。名古屋で働いていた引越センターとハンバーガーチェーン店も、都内への引っ越しを認めてくれて、引き続き働けるという話が通ったところで、東京に戻りました。子どもがいなくなってから4カ月後のことでした。

――ひとりきりの生活、つらかったんじゃないですか?

 確かに意気消沈はしました。どん底でした。でも、シェアハウスの仲間や、子どもが幼児だった頃に仲良くしてくれた友人たちに支えられたんです。落ち込んでいる私を見かねたのか、皇居ランに誘ってくれた友人がいて、走り始めたことで、心も体も不思議と安定していったんです。

 こうして、自分ひとりで立って生きていけるようになったのは、別居してひとりになって、再び上京してからです。私にとって第二の人生のスタートでした。

――そこまで達観されたんですね。素晴らしい。

 あの時期のことをいま振り返ると、自分にとって必要だったって思うんです。たくさんの人たちに支えられたり、自分自身のことをひとりきりで見つめ直したりしました。だからこそ、今、人や社会、そして自然が自分の命の根っことつながっているんだという実感を持てているんです。昔のように、私は必要がない人間だと、卑下したりしません。

――なるほど。では当時のことに話を戻しますね。その後、法的には、いろいろ確定したんですか?

 離婚は調停ではないですが、決まりました。面会の条件や養育費について、取り決めをしたわけではないです。といいますか、気持ち的には、こちらが慰謝料をもらいたいくらい。実際に取れないのはわかっているのですが……。

――夫側は美樹さんに対して養育費の支払いを免除した上に、息子と会わせる機会を作ってくれているんですね。

 元夫は私に会わせる機会を作ってくれているというんじゃなくて、邪魔しないだけ。なので、「会わせてくれてありがとう」という感謝ではなくて、邪魔しないでくれてありがたいなぁという感じです(笑)。

――息子さんとの関係は?

 上京した直後は、毎週水曜に息子とデートしていました。小さい頃から連れて行っていた、なじみの喫茶店で、お茶して近況を聞いたり、「ブレスレットが欲しい」と言われて、ビーズを買ってきて作ってプレゼントしたりしました。あとは、たくさん書き込めるスケジュール帳をプレゼントしたりもしていましたね。息子は、そのスケジュール帳を使ってくれました。家族の誕生日とか予定とかをせっせと書き込んだり、月や季節に合ったイラストを描いたりしてくれました。

――それ以降、息子さんとはどのぐらいの頻度で会っていますか?

 しばらくは、月1回のペースで会っていました。中学に入って以降、息子は部活とかでいろいろ忙しくなってしまって。今は3カ月に1回ほどですかね。LINEでつながっていて、日常的にやりとりしていますけどね。息子はもう高校生。ママとは呼んでくれているけど、今や友達のような関係になりつつあります。21歳で産んで、年齢差がそんなにないので。

――高校生になった息子さんに、これだけはしてあげたいといったことはありますか?

 もう少し近くの、キッチンがもう少し立派な物件に引っ越して、息子のお弁当を毎日作って届けたいです。家が近ければ、便利だからってことで私のところにも息子が寄ってくれるだろうし、そうやって行き来してくれたらいいなって思ってます。

――今後やっていきたいことや目標ってありますか?

 将来的にですね、シングルマザーのシェアハウスを作りたいなと思ってます。お母さんをひとりにさせない、孤独にさせないっていうことが大事だと思っていて。もちろんひとりになる時間も大事なんですけど、いろんなサポートとつながるように。シングルマザーのほかにも、貧困女性とか児童養護施設出身の人とか、女性限定でもいろんな人の拠り所のようなところになればいいなと。

――それは、ご自身のつらい経験があったからですよね?

 そうです。特に調停後の、ひとりきりになった時期があったからこそ、孤独な母親に手を差し伸べたいんです。孤独な母親や困っている女性たちにとって、安心安全な居場所を提供してあげたい。「誰がなんと言おうと、私はあなたの味方だよ」というスタンスの居場所づくりをしていけたらいいなぁ。愛の波動で、プラスな輪を広げていきたいなぁって思っています。

(西牟田靖)