フィギュア少女の「孤独」に私たちは救われる……『スピン』の描く苦しみ・喜びの福音

 張り詰める冷気。ほのかに漂う汗の香り。誰よりも早くリンクへと降り立った彼女は、確かに孤独ではあったのだが、ブレードが氷を削る音を聞きながら、不思議と心が満たされていくのを感じていたことだろう。何者にも邪魔をされることがない、私だけの清潔な王国。その感覚を、アイススケートになどついぞ縁がない私も、なぜか知っているような気がした。

 『スピン』(河出書房新社)は著者、ティリー・ウォルデンの自伝的作品であり、将来有望なフィギュアスケーターであった少女の視点から、練習に明け暮れる日々、得恋の喜び、悲しい恋の終わり、息苦しい母との関係を描いたグラフィックノベルだ。

 彼女には秘密があった。同性愛者だったのだ。

「5つのときから自分がゲイ※だとわかっていた。わたしはもうすぐ12歳になる」
「スケートは奇妙な敗北感をわたしにつきつけてくる。女らしい要素のすべてに嫌悪を抱きながらなおも惹かれた」
「とっくに気づいていたからといって、楽になるわけじゃない」
「いけないことだとわかっていたから誰にも胸の内を明かさなかった」
「だから密かに恋をした。何度も何度も。報われるなんてただの一度も考えなかった」

 心を削り出すかのような痛切なモノローグが読む者の胸を締め付ける。あきらめることで自らを守ろうとしていた彼女は、しかし恋に落ちた。

「初恋は誰にとっても特別だ。だが年の浅い秘密のゲイ同士となると、話はまったく違ってくる」
「覚えているのはスリルでも自由な感覚でもなく―」
「恐怖だった」

 保守的なテキサスの地で、彼女たちの孤独感はいかばかりのものだったろう。同性愛者に対してヘイトを叫ぶ映像に一抹の不安を覚えながらも、気持ちだけは止められなかった。やがてその関係は親たちの知るところとなり、突然の終局が訪れる。悲しい恋の終わり。だが後に、彼女はこう振り返るのだった。

「誰かがわたしに好意を返してくれるなんて思いもしなかった。でもレイの気持ちは本物だった」

 彼女は懸命に世界と和解しようとしていた。思い出すのは大島弓子の『バナナブレッドのプディング』(白泉社)のこのセリフだ。

「わたし 薔薇の木は大好きだった でも 薔薇の木から 好きだよなんて いってもらえるなんて 夢にも思わなかった 夢にも 思わなかったわ……」

 国や人種を超えてマンガの魂が共鳴する。主人公の在りよう、世界と対峙するスタンスは、どこか大島や岡崎京子の作品に似ている。

 思えばフィギュアスケートは本邦の少女マンガにおいても格好のテーマであった。槇村さとる『愛のアランフェス』『白のファルーカ』、おおやちき『雪割草』(いずれも集英社)、川原泉『銀のロマンティック…わはは』(白泉社)、小川彌生『キス&ネバークライ』(講談社)……。その多くにあってフィギュアスケートは、人生そのもののように描かれていた。

 本作も紙幅の大半はフィギュアスケートの描写に割かれているが、心に響くのは主人公の葛藤や悲しみを綴るモノローグだ。それはフィギュアスケートというスポーツの特異性に因るところが大きい。「このスポーツは生き方とセットだ。そこに選択の余地はない」のだ。滑ること、踊ることは運命のようなものだと、ある種のスケーターは見る者に思い知らしめる。そして華やかさとは裏腹なその残酷さが、人々をまた惹きつけるのだった。

 脆弱な繊細さを抱えた私たちは、あるときは孤独でありたいと思いながら、またあるときはそれを寂しいとも思う、わがままな存在だ。人は1人では生きていけないこともわかっているのだが、他者の無神経や悪意に傷つけられたくはない。消去法として選んだ孤独にとって、恋は福音なのか、猛毒なのか。

 本作は明確な答えを提示する類のものではなく、ただ1人の女性の青春時代を描く。私たちはそこにかつての自分自身を見るだろう。たとえ30歳、40歳になっても消化しきれない、あの頃の苦しみや喜びが、ただそこに表現されているというだけで、今の私も、あの頃の私も救われるのだ。確かに私は孤独だった、でも私は孤独ではなかったのだと。

 12年間続けてきたフィギュアスケートに別れを告げ、二度とスケートはしないと誓った2年後のある日、主人公はふらりとアイスリンクを訪れる。スケートをするためではない。「立ち去れることを自分に証明する必要があった」のだ。鮮やかなアクセルジャンプを着氷した彼女は、そそくさとリンクを出る。フィギュアスケートのジャンプの中で、アクセルは唯一前を向いて踏み切るジャンプだ。跳ぶたびに彼女はこう願ったという。「ターンして踏み切る一瞬、今度こそうまく行きますようにと全身全霊で祈った」。私たちは今日も祈りながら跳んでいる。

※原文ママ。同性愛者全般を意味する。

小田真琴(おだ・まこと)
女子マンガ研究家。1977年生まれ。男。片思いしていた女子と共通の話題がほしかったから……という不純な理由で少女マンガを読み始めるものの、いつの間にやらどっぷりはまって、ついには仕事にしてしまった。自宅の1室に本棚14架を押しこみ、ほぼマンガ専用の書庫にしている。「FRaU」「SPUR」「ダ・ヴィンチ」「婦人画報」などで主に女子マンガに関して執筆。2017年12月12日OA『マツコの知らない世界』(TBS系)出演。

フィギュア少女の「孤独」に私たちは救われる……『スピン』の描く苦しみ・喜びの福音

 張り詰める冷気。ほのかに漂う汗の香り。誰よりも早くリンクへと降り立った彼女は、確かに孤独ではあったのだが、ブレードが氷を削る音を聞きながら、不思議と心が満たされていくのを感じていたことだろう。何者にも邪魔をされることがない、私だけの清潔な王国。その感覚を、アイススケートになどついぞ縁がない私も、なぜか知っているような気がした。

 『スピン』(河出書房新社)は著者、ティリー・ウォルデンの自伝的作品であり、将来有望なフィギュアスケーターであった少女の視点から、練習に明け暮れる日々、得恋の喜び、悲しい恋の終わり、息苦しい母との関係を描いたグラフィックノベルだ。

 彼女には秘密があった。同性愛者だったのだ。

「5つのときから自分がゲイ※だとわかっていた。わたしはもうすぐ12歳になる」
「スケートは奇妙な敗北感をわたしにつきつけてくる。女らしい要素のすべてに嫌悪を抱きながらなおも惹かれた」
「とっくに気づいていたからといって、楽になるわけじゃない」
「いけないことだとわかっていたから誰にも胸の内を明かさなかった」
「だから密かに恋をした。何度も何度も。報われるなんてただの一度も考えなかった」

 心を削り出すかのような痛切なモノローグが読む者の胸を締め付ける。あきらめることで自らを守ろうとしていた彼女は、しかし恋に落ちた。

「初恋は誰にとっても特別だ。だが年の浅い秘密のゲイ同士となると、話はまったく違ってくる」
「覚えているのはスリルでも自由な感覚でもなく―」
「恐怖だった」

 保守的なテキサスの地で、彼女たちの孤独感はいかばかりのものだったろう。同性愛者に対してヘイトを叫ぶ映像に一抹の不安を覚えながらも、気持ちだけは止められなかった。やがてその関係は親たちの知るところとなり、突然の終局が訪れる。悲しい恋の終わり。だが後に、彼女はこう振り返るのだった。

「誰かがわたしに好意を返してくれるなんて思いもしなかった。でもレイの気持ちは本物だった」

 彼女は懸命に世界と和解しようとしていた。思い出すのは大島弓子の『バナナブレッドのプディング』(白泉社)のこのセリフだ。

「わたし 薔薇の木は大好きだった でも 薔薇の木から 好きだよなんて いってもらえるなんて 夢にも思わなかった 夢にも 思わなかったわ……」

 国や人種を超えてマンガの魂が共鳴する。主人公の在りよう、世界と対峙するスタンスは、どこか大島や岡崎京子の作品に似ている。

 思えばフィギュアスケートは本邦の少女マンガにおいても格好のテーマであった。槇村さとる『愛のアランフェス』『白のファルーカ』、おおやちき『雪割草』(いずれも集英社)、川原泉『銀のロマンティック…わはは』(白泉社)、小川彌生『キス&ネバークライ』(講談社)……。その多くにあってフィギュアスケートは、人生そのもののように描かれていた。

 本作も紙幅の大半はフィギュアスケートの描写に割かれているが、心に響くのは主人公の葛藤や悲しみを綴るモノローグだ。それはフィギュアスケートというスポーツの特異性に因るところが大きい。「このスポーツは生き方とセットだ。そこに選択の余地はない」のだ。滑ること、踊ることは運命のようなものだと、ある種のスケーターは見る者に思い知らしめる。そして華やかさとは裏腹なその残酷さが、人々をまた惹きつけるのだった。

 脆弱な繊細さを抱えた私たちは、あるときは孤独でありたいと思いながら、またあるときはそれを寂しいとも思う、わがままな存在だ。人は1人では生きていけないこともわかっているのだが、他者の無神経や悪意に傷つけられたくはない。消去法として選んだ孤独にとって、恋は福音なのか、猛毒なのか。

 本作は明確な答えを提示する類のものではなく、ただ1人の女性の青春時代を描く。私たちはそこにかつての自分自身を見るだろう。たとえ30歳、40歳になっても消化しきれない、あの頃の苦しみや喜びが、ただそこに表現されているというだけで、今の私も、あの頃の私も救われるのだ。確かに私は孤独だった、でも私は孤独ではなかったのだと。

 12年間続けてきたフィギュアスケートに別れを告げ、二度とスケートはしないと誓った2年後のある日、主人公はふらりとアイスリンクを訪れる。スケートをするためではない。「立ち去れることを自分に証明する必要があった」のだ。鮮やかなアクセルジャンプを着氷した彼女は、そそくさとリンクを出る。フィギュアスケートのジャンプの中で、アクセルは唯一前を向いて踏み切るジャンプだ。跳ぶたびに彼女はこう願ったという。「ターンして踏み切る一瞬、今度こそうまく行きますようにと全身全霊で祈った」。私たちは今日も祈りながら跳んでいる。

※原文ママ。同性愛者全般を意味する。

小田真琴(おだ・まこと)
女子マンガ研究家。1977年生まれ。男。片思いしていた女子と共通の話題がほしかったから……という不純な理由で少女マンガを読み始めるものの、いつの間にやらどっぷりはまって、ついには仕事にしてしまった。自宅の1室に本棚14架を押しこみ、ほぼマンガ専用の書庫にしている。「FRaU」「SPUR」「ダ・ヴィンチ」「婦人画報」などで主に女子マンガに関して執筆。2017年12月12日OA『マツコの知らない世界』(TBS系)出演。

シンデレラ願望を打ち砕く傑作『やんごとなき一族』、“王子様”との「その後」を描く

 「どて焼き」「桜の柄の着物」「人数分に足りない和菓子」……なんの三題噺かと思うでしょうが、これらのアイテムを鮮やかに配置して、極上のエンタテインメントを紡ぎ出すのが、こやまゆかりという作家の豪腕。待望の新作『やんごとなき一族』(講談社)は日本屈指の高級住宅街・芦屋を舞台に、身分違いの結婚をしてしまったある女性の奮闘記です。

 主人公は大衆食堂「まんぷく屋」の一人娘・佐都。3日間かけて仕込むという看板メニューのどて焼きには多くのファンが存在し、のちに佐都の夫となる健太もその1人でした。いつしか恋仲となった2人ですが、なにを隠そう健太は名門旧家の次男。ゆくゆくは長男を差し置いて一族の跡取りとなる身です。そんな彼との結婚が一筋縄でいくわけはなく……。

 どて焼きを手みやげに健太の実家へ結婚の挨拶へと向かった佐都でしたが、屋敷に足を踏み入れようとした瞬間、無情にも門扉を閉められます。インターホン越しに響く健太の父親の声。「佐都さんとやら、自分の身の程を知っているのなら、二度とこの場所に足を踏み入れるような恥ずかしいマネはできないはずだ」。大きなショックを受けた佐都はその場から離れようとするのですが、転倒してどて焼きを芦屋の路上にぶちまけてしまいます。「ごめん、ごめん−−どて焼きが…!!」。どて焼きを愛する健太の切ない声が閑静な高級住宅街に虚しく響き渡ります。どて焼きに込められた佐都と家族の想い。上流階級の人間でありながら庶民的な生活を愛する健太。そして、その父の横暴。どて焼きというアイテム1つで、こやま先生はこんなにも起伏のある物語を描き出すことができるのです。

 「桜の柄の着物」は佐都の母親が唯一持っていた着物。ちょうど桜の季節だからと佐都はそれを着て健太の実家へと赴くのですが……。「人数分に足りない和菓子」は、健太の祖母から「みなさんにお出しして」と手渡された上生菓子。ところがそれは今ここにいる人間の数にはまったく足りていないのです。そこで佐都がとった行動とは……。一つひとつのエピソードが実に巧みで厚みがあり、期待を裏切りません。こうしたアイテムはこれ見よがしに登場し、読者はすぐに「フラグ」だとわかるのですが、いかんせん続きが気になって仕方ないのです。圧倒的な物語の力。作者の掌の上で転がされる快感。これぞまさにザ・浪花節。

 王子様と結ばれ“めでたしめでたし”の先は?

 それだけではありません。こやま先生の作品は、いつだって女性が何かを手に入れる物語で、女性をエンパワメントするマンガです。そして冒頭の「シンデレラは王子様に見初められ、玉の輿に乗り、豪華なお城で一生幸せに−−果たして暮らせたのでしょうか?」というネームは、渡辺ペコ先生の『1122』(講談社)の問題意識にも通じます。1巻の最後で『1122』の主人公はこう言いいます。「『王子様はお姫様をお城に連れて帰り、そうして二人は結婚して、幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし』ていうのよくあるじゃないですか? 昔っから。でもさ、彼らあのあとぜったい大変じゃない? 私が見たいのは、生きたいのは、“めでたしめでたし”のその先、そのずっと先なのです」。まったく作風の異なるこの2作ですが、パラレルで読まれるべき女子マンガの傑作だと私は考えています。

 現在、こやま先生が原作を手がけた『ホリデイラブ ~夫婦間恋愛~』(講談社)がテレビ朝日系列の「金曜ナイトドラマ」枠でドラマ化され、好評のを得ながらオンエアされています。同局の深夜枠では以前にもこやま先生の『バラ色の聖戦』(同)をドラマ化していました。これはもう来年あたりやるしかないでしょう。ドラマ化待ったなしの『やんごとなき一族』、ぜひご注目を。

小田真琴(おだ・まこと)
女子マンガ研究家。1977年生まれ。男。片思いしていた女子と共通の話題がほしかったから……という不純な理由で少女マンガを読み始めるものの、いつの間にやらどっぷりはまって、ついには仕事にしてしまった。自宅の1室に本棚14架を押しこみ、ほぼマンガ専用の書庫にしている。「FRaU」「SPUR」「ダ・ヴィンチ」「婦人画報」などで主に女子マンガに関して執筆。2017年12月12日OA『マツコの知らない世界』(TBS系)出演。

『東京タラレバ娘』で“説教芸”に興じる東村アキコは、愚かなお笑い芸人のようだ

3月22日に最終回を迎える『東京タラレバ娘』(日本テレビ系)。ドラマの内容が話題になる中、漫画は発売当初からそのメッセージ性に対する議論が巻き起こってきました。8巻が4月に発売予定で、ドラマが最終回を迎えようとする中、同漫画について少女マンガ研究家の小田真琴が語ります。

◎女性を罰しつつ、言い訳を繰り返す東村
 筆が重いし、気も重い。東村アキコ先生のことは大好きだった。おしゃれすることの喜びに溢れた『きせかえユカちゃん』(集英社)、ウイング関先生という稀代のオタクキャラを創造した『ひまわりっ ~健一レジェンド~』(講談社)、そして最高傑作と言っても過言ではない『かくかくしかじか』(集英社)。どれもマンガ史上に残る傑作であるし、個人的にも思い出深い作品ばかりだ。ところが『東京タラレバ娘』(講談社/以下、タラレバ)と来たらどうだろう。これは女性を罰し、自己責任を押しつけ、主体性を奪うマンガではないのか。私には今の東村先生が、売れた途端にスーツをまとい、万能感を持って偉そうに世相を斬り始める愚かなお笑い芸人のように見える。

 序盤こそ強く、切れ味鋭いメッセージを次々と繰り出して、いかにも瞬発力の作家である東村先生らしい作品だと感じ入ったのだ。ところが物語が続くうちに疑問ばかりが募りゆく。それは主に卑劣なダブルスタンダードによるものだ。

 たとえばあとがき。東村先生の「おまけマンガ」と言えば、バルセロナ五輪男子マラソン銀メダリスト・森下広一選手への一方的な愛を『海月姫』(講談社)1巻から3巻にわたって描いた「クラゲと私とバルセロナ」をはじめとして名作揃いなのだが、タラレバのそれにおいては醜悪な言い訳が冗長に展開される。いわく、「別に私は『女は結婚しなきゃダメ』とか『女の幸せは男で決まる』とか『結婚できない女はかわいそう』なんて全く思ってません」とのこと。

 一方、本編では平気でこんなことを言ってのける。「30過ぎたら女は『愛する』よりも『愛される』幸せを選ぶんタラ!!」「酔って転んで男に抱えて貰うのは25歳までだろ。30代は自分で立ち上がれ。もう女の子じゃないんだよ? おたくら」「才能なんて関係ないんタラレバーッ。そうレバ、この世は金とコネと……そして女は若さと美しさタラ!!!」「女は結婚すればセコンドにまわって、旦那さんや子供をサポートしながら応援して生きていくレバ」。

 縄文人もびっくりの時代錯誤な言動である。主人公・倫子の妄想の中に現れるキャラクター・タラとレバや、ヒーロー役らしきイケメンモデル・KEYのこれらの言葉に、アラサー女性が打ちのめされるというのが本作の基本的な構図だが(一応は「女性蔑視だよ、それ」なんて反論したりもするが、その声はすぐにかき消される)、どうやら作者は「おまけマンガ」で言い訳をすれば何を言ってもいいものと勘違いしている様子だ。たとえば『キングダム』(集英社)の原泰久先生が、あとがきで「でも人殺しはよくないよ!」などと書くだろうか。あるいは、『あなたのことはそれほど』(祥伝社)のいくえみ綾先生が「不倫絶対ダメ!」などと書くだろうか。それは本編で引き受けるべき問題であり、作品のクオリティに直結する問題である。

 タラレバのメッセージらしきものの大半は明らかに女性差別であり、完全にアウトだ。しかしこうした保守反動的な言葉は、一部の読者には熱狂的に受け容れられた。「刺さる~刺さる~」と彼女らは言う。しかし彼女らは「刺さる~」と言いたいだけではないのか。作者との説教プレイに興じたいだけではないのか。それが証拠にテレビドラマの視聴率は、恋愛パートが比重を増した第7話で視聴率が2%近く下降し、1ケタ台が目前となった。

 そもそもからしてこの作品はキャラクターもストーリーも非常に弱い。さんざん引っ張ったKEYのトラウマ話も驚くほど陳腐で、世界的な映画監督とされる堂越はてっきり『メロぽんだし!』(講談社)のトミーさん的なお笑いキャラだと思ってしまったほどである。男性キャラは総じて書き割りのようで、女性キャラの生臭さとのバランスは至極悪い。

◎陳腐な色恋展開、設定間違いの雑さが目につく
 極めつきは本筋となるべき倫子とKEYの色恋沙汰である。1巻でKEYは倫子の脚本を「あまりにもご都合主義でおめでたくて、なんで30越えたおばさんがこの2人の男に一方的に言い寄られるのか、あまりにもリアリティがなさすぎだなって、そう思っちゃったんですけど」と評しているが、これは昨今のタラレバの展開にこそ当てはまる話だ。あまりにも露骨なので、もしかしたらこれが何らかの伏線になっているのかもしれないが、だからと言って展開の陳腐さが許容されるわけではない。ちなみに「ユリイカ」(青土社)平成29年3月臨時増刊号「総特集☆東村アキコ」の本人インタビューによると、KEYが「私自身の化身というか、もし自分がこういう美青年だったら、タラレバ娘たちにこう言ってただろうな、という想像で描いています」とのことである。となると、本作はなかなかに入り組んだメタ構造を抱えているということにはなる。

 細部の詰めも甘く、単行本1巻ACT1では大卒の設定だった倫子が、「KISS」3月号に掲載された「番外編 ビフォータラレバ娘」では専門卒になっていたり、「ビオのシャルドネ」がどうのこうのと言っていた早坂が、7巻ACT23ではカヴァも知らない男に成り下がっていたりと、雑な仕事ぶりが目につく。

 これらの瑕疵が悪目立ちするのは、ひとえに本作においては東村先生の最大の武器であるギャグ要素が希薄であることが原因である。決して恋愛が描けない作家ではない。『ひまわりっ ~健一レジェンド~』や『主に泣いてます』(講談社)で見せた、恋する者の感動的な愚直さは、あのギャグの奔流の中でこそ描き得たものなのだ。ところが恋愛要素だけで勝負しようとすると途端に風景は寒々しくなる。これは同時連載中の『海月姫』にも言えることであり、ラブストーリーではないものの最近作の『雪花の虎』(小学館)や『美食探偵 明智五郎』(集英社)がぱっとしない一因でもある。

 女性差別的なセリフを乱発した不愉快な前半から、陳腐なラブストーリーを物語る退屈な後半へ。現在までのタラレバを要約するならばそういうことになるだろう。どちらがマシかと言えば作者の語り口が活きていたという点において前半ではあるのだが、それすらもまどろっこしいエクスキューズのせいで相殺されている。東村先生は一体何がしたいのだろうか。

◎「刺さる~」と言いたい人だけが読めばいい
 おそらく周囲が、読者が喜んでくれるからそうしているだけなのだ。結婚や恋愛に関して一貫した強いメッセージがあるわけではない。それは「おまけマンガ」で自ら述べているとおりである。では本編のあの言葉たちは何なのかと言えば、求められるからやっただけの(おそらくは『ひまわりっ ~健一レジェンド~』の副主任をルーツとする)説教芸なのだ。その様子もやはり「おまけマンガ」で言い訳されている。1巻では東京オリンピックが決まった直後に「結婚したい」と言い始めたという周囲の女性が、2巻では本作を読んで不安になったという女性芸人たちとの交遊録が(以前はこんなもの描く人じゃなかったのに……)、4巻や7巻では結婚したいと言う女性に道端で突然声を掛けられるエピソードが描かれている。いずれも「求められて仕方なくやった」という体だ。

 余談だが、ある女友達がこんなことを言っていた。「年下の女が年上の女とコミュニケートするときって『結婚したいんです~』とか言っておくのがいちばんラクなんだよ」と。確かにそれは社会的地位も結婚歴もある年上の女性に対して、下手に出つつ、先輩を立てつつ、円滑なコミュニケーションを成立させるためのよい方法であるように思える。特に酒席においては。

 タラレバを読んで腹が立った、傷ついた、ショックを受けたという人は、どうか今すぐ読むのをやめてほしい。これはあなたたちのための物語ではない。「刺さる~」と言いたい人だけが読めば良い。これは単なる酒の席での与太話だ。それは作者が批判する「女子会」にも劣る、人を不快にさせるだけの不毛な交流である。世界にはもっとすてきなマンガがたくさんある。

 タラレバをたまたま読んで我が意を得たりとニヤついている中高年男性は、勘違いをしないでいただきたい。アラサー/アラフォー女性の現実であり総意であるかのように描かれているが、実際はそうではない。あなた方が周囲の女性とうまくコミュニケートできないのだとしたら、それは女性の側の問題ではなく、あなたの雑な現状認識に起因するものだ。

 マンガはマジョリティのエンタテインメントでありコミュニケーションツールであると同時に、はぐれ者たちにとっての自由の王国でもある。かつて『ひまわりっ ~健一レジェンド~』ではぐれ者たちの底抜けに楽しい日々を描いたのは、ほかならぬ東村先生ではなかったか。他者の生を罰し、毀損し、自由に対して制限をかけようとするマンガを、私は心底軽蔑する。今後タラレバが自己肯定と自由のマンガとなるわずかばかりの可能性を願いつつ、筆を置く。

小田真琴
(おだ・まこと)
女子マンガ研究家。1977年生まれ。男。片思いしていた女子と共通の話題が欲しかったから……という不純な理由で少女マンガを読み始めるものの、いつの間にやらどっぷりはまって、ついには仕事にしてしまった。自宅の1室に本棚14竿を押しこみ、ほぼマンガ専用の書庫にしている。「SPUR」(集英社)にて「マンガの中の私たち」、「婦人画報」(ハースト婦人画報社)にて「小田真琴の現代コミック考」連載中。

『東京タラレバ娘』で“説教芸”に興じる東村アキコは、愚かなお笑い芸人のようだ

3月22日に最終回を迎える『東京タラレバ娘』(日本テレビ系)。ドラマの内容が話題になる中、漫画は発売当初からそのメッセージ性に対する議論が巻き起こってきました。8巻が4月に発売予定で、ドラマが最終回を迎えようとする中、同漫画について少女マンガ研究家の小田真琴が語ります。

◎女性を罰しつつ、言い訳を繰り返す東村
 筆が重いし、気も重い。東村アキコ先生のことは大好きだった。おしゃれすることの喜びに溢れた『きせかえユカちゃん』(集英社)、ウイング関先生という稀代のオタクキャラを創造した『ひまわりっ ~健一レジェンド~』(講談社)、そして最高傑作と言っても過言ではない『かくかくしかじか』(集英社)。どれもマンガ史上に残る傑作であるし、個人的にも思い出深い作品ばかりだ。ところが『東京タラレバ娘』(講談社/以下、タラレバ)と来たらどうだろう。これは女性を罰し、自己責任を押しつけ、主体性を奪うマンガではないのか。私には今の東村先生が、売れた途端にスーツをまとい、万能感を持って偉そうに世相を斬り始める愚かなお笑い芸人のように見える。

 序盤こそ強く、切れ味鋭いメッセージを次々と繰り出して、いかにも瞬発力の作家である東村先生らしい作品だと感じ入ったのだ。ところが物語が続くうちに疑問ばかりが募りゆく。それは主に卑劣なダブルスタンダードによるものだ。

 たとえばあとがき。東村先生の「おまけマンガ」と言えば、バルセロナ五輪男子マラソン銀メダリスト・森下広一選手への一方的な愛を『海月姫』(講談社)1巻から3巻にわたって描いた「クラゲと私とバルセロナ」をはじめとして名作揃いなのだが、タラレバのそれにおいては醜悪な言い訳が冗長に展開される。いわく、「別に私は『女は結婚しなきゃダメ』とか『女の幸せは男で決まる』とか『結婚できない女はかわいそう』なんて全く思ってません」とのこと。

 一方、本編では平気でこんなことを言ってのける。「30過ぎたら女は『愛する』よりも『愛される』幸せを選ぶんタラ!!」「酔って転んで男に抱えて貰うのは25歳までだろ。30代は自分で立ち上がれ。もう女の子じゃないんだよ? おたくら」「才能なんて関係ないんタラレバーッ。そうレバ、この世は金とコネと……そして女は若さと美しさタラ!!!」「女は結婚すればセコンドにまわって、旦那さんや子供をサポートしながら応援して生きていくレバ」。

 縄文人もびっくりの時代錯誤な言動である。主人公・倫子の妄想の中に現れるキャラクター・タラとレバや、ヒーロー役らしきイケメンモデル・KEYのこれらの言葉に、アラサー女性が打ちのめされるというのが本作の基本的な構図だが(一応は「女性蔑視だよ、それ」なんて反論したりもするが、その声はすぐにかき消される)、どうやら作者は「おまけマンガ」で言い訳をすれば何を言ってもいいものと勘違いしている様子だ。たとえば『キングダム』(集英社)の原泰久先生が、あとがきで「でも人殺しはよくないよ!」などと書くだろうか。あるいは、『あなたのことはそれほど』(祥伝社)のいくえみ綾先生が「不倫絶対ダメ!」などと書くだろうか。それは本編で引き受けるべき問題であり、作品のクオリティに直結する問題である。

 タラレバのメッセージらしきものの大半は明らかに女性差別であり、完全にアウトだ。しかしこうした保守反動的な言葉は、一部の読者には熱狂的に受け容れられた。「刺さる~刺さる~」と彼女らは言う。しかし彼女らは「刺さる~」と言いたいだけではないのか。作者との説教プレイに興じたいだけではないのか。それが証拠にテレビドラマの視聴率は、恋愛パートが比重を増した第7話で視聴率が2%近く下降し、1ケタ台が目前となった。

 そもそもからしてこの作品はキャラクターもストーリーも非常に弱い。さんざん引っ張ったKEYのトラウマ話も驚くほど陳腐で、世界的な映画監督とされる堂越はてっきり『メロぽんだし!』(講談社)のトミーさん的なお笑いキャラだと思ってしまったほどである。男性キャラは総じて書き割りのようで、女性キャラの生臭さとのバランスは至極悪い。

◎陳腐な色恋展開、設定間違いの雑さが目につく
 極めつきは本筋となるべき倫子とKEYの色恋沙汰である。1巻でKEYは倫子の脚本を「あまりにもご都合主義でおめでたくて、なんで30越えたおばさんがこの2人の男に一方的に言い寄られるのか、あまりにもリアリティがなさすぎだなって、そう思っちゃったんですけど」と評しているが、これは昨今のタラレバの展開にこそ当てはまる話だ。あまりにも露骨なので、もしかしたらこれが何らかの伏線になっているのかもしれないが、だからと言って展開の陳腐さが許容されるわけではない。ちなみに「ユリイカ」(青土社)平成29年3月臨時増刊号「総特集☆東村アキコ」の本人インタビューによると、KEYが「私自身の化身というか、もし自分がこういう美青年だったら、タラレバ娘たちにこう言ってただろうな、という想像で描いています」とのことである。となると、本作はなかなかに入り組んだメタ構造を抱えているということにはなる。

 細部の詰めも甘く、単行本1巻ACT1では大卒の設定だった倫子が、「KISS」3月号に掲載された「番外編 ビフォータラレバ娘」では専門卒になっていたり、「ビオのシャルドネ」がどうのこうのと言っていた早坂が、7巻ACT23ではカヴァも知らない男に成り下がっていたりと、雑な仕事ぶりが目につく。

 これらの瑕疵が悪目立ちするのは、ひとえに本作においては東村先生の最大の武器であるギャグ要素が希薄であることが原因である。決して恋愛が描けない作家ではない。『ひまわりっ ~健一レジェンド~』や『主に泣いてます』(講談社)で見せた、恋する者の感動的な愚直さは、あのギャグの奔流の中でこそ描き得たものなのだ。ところが恋愛要素だけで勝負しようとすると途端に風景は寒々しくなる。これは同時連載中の『海月姫』にも言えることであり、ラブストーリーではないものの最近作の『雪花の虎』(小学館)や『美食探偵 明智五郎』(集英社)がぱっとしない一因でもある。

 女性差別的なセリフを乱発した不愉快な前半から、陳腐なラブストーリーを物語る退屈な後半へ。現在までのタラレバを要約するならばそういうことになるだろう。どちらがマシかと言えば作者の語り口が活きていたという点において前半ではあるのだが、それすらもまどろっこしいエクスキューズのせいで相殺されている。東村先生は一体何がしたいのだろうか。

◎「刺さる~」と言いたい人だけが読めばいい
 おそらく周囲が、読者が喜んでくれるからそうしているだけなのだ。結婚や恋愛に関して一貫した強いメッセージがあるわけではない。それは「おまけマンガ」で自ら述べているとおりである。では本編のあの言葉たちは何なのかと言えば、求められるからやっただけの(おそらくは『ひまわりっ ~健一レジェンド~』の副主任をルーツとする)説教芸なのだ。その様子もやはり「おまけマンガ」で言い訳されている。1巻では東京オリンピックが決まった直後に「結婚したい」と言い始めたという周囲の女性が、2巻では本作を読んで不安になったという女性芸人たちとの交遊録が(以前はこんなもの描く人じゃなかったのに……)、4巻や7巻では結婚したいと言う女性に道端で突然声を掛けられるエピソードが描かれている。いずれも「求められて仕方なくやった」という体だ。

 余談だが、ある女友達がこんなことを言っていた。「年下の女が年上の女とコミュニケートするときって『結婚したいんです~』とか言っておくのがいちばんラクなんだよ」と。確かにそれは社会的地位も結婚歴もある年上の女性に対して、下手に出つつ、先輩を立てつつ、円滑なコミュニケーションを成立させるためのよい方法であるように思える。特に酒席においては。

 タラレバを読んで腹が立った、傷ついた、ショックを受けたという人は、どうか今すぐ読むのをやめてほしい。これはあなたたちのための物語ではない。「刺さる~」と言いたい人だけが読めば良い。これは単なる酒の席での与太話だ。それは作者が批判する「女子会」にも劣る、人を不快にさせるだけの不毛な交流である。世界にはもっとすてきなマンガがたくさんある。

 タラレバをたまたま読んで我が意を得たりとニヤついている中高年男性は、勘違いをしないでいただきたい。アラサー/アラフォー女性の現実であり総意であるかのように描かれているが、実際はそうではない。あなた方が周囲の女性とうまくコミュニケートできないのだとしたら、それは女性の側の問題ではなく、あなたの雑な現状認識に起因するものだ。

 マンガはマジョリティのエンタテインメントでありコミュニケーションツールであると同時に、はぐれ者たちにとっての自由の王国でもある。かつて『ひまわりっ ~健一レジェンド~』ではぐれ者たちの底抜けに楽しい日々を描いたのは、ほかならぬ東村先生ではなかったか。他者の生を罰し、毀損し、自由に対して制限をかけようとするマンガを、私は心底軽蔑する。今後タラレバが自己肯定と自由のマンガとなるわずかばかりの可能性を願いつつ、筆を置く。

小田真琴
(おだ・まこと)
女子マンガ研究家。1977年生まれ。男。片思いしていた女子と共通の話題が欲しかったから……という不純な理由で少女マンガを読み始めるものの、いつの間にやらどっぷりはまって、ついには仕事にしてしまった。自宅の1室に本棚14竿を押しこみ、ほぼマンガ専用の書庫にしている。「SPUR」(集英社)にて「マンガの中の私たち」、「婦人画報」(ハースト婦人画報社)にて「小田真琴の現代コミック考」連載中。

どん底・絶望・依存の果ての「希望」とは? 高浜寛『SAD GiRL』の残酷で美しい世界

女子マンガ研究家の小田真琴です。マンガ大国・日本においては、毎月1000冊前後ものマンガが刊行されています。その中から一般読者が「なんかおもしろいマンガ」を探し当てるのは至難のワザ。この記事があなたの「なんかおもしろいマンガ」探しの一助になれば幸いであります。前編では昨今の話題にからめたマンガをご紹介します。

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『SAD GiRL』(リイド社)

◎高浜寛『SAD GiRL』の美しさ

 今さらあらためて語るまでもなく、薬物依存は恐ろしいものであります。元プロ野球選手の一件はもちろん衝撃的ではありましたが、しかしおそらく彼が薬物に手を出す以前に彼の人生は変調を来していたはずであり、そして依存症は狂い始めた人生をますます狂わせていきます。

 人生がうまく回っていないとき、人はたいてい何かに依存しているものです。それはアルコールかもしれないし、睡眠導入剤かもしれないし、違法な薬物かもしれない。あるいはセックスかもしれないし、宗教かもしれないし、人間関係かもしれない。隙あらば人はあらゆるもの/ことに依存します。高浜寛先生の『SAD GiRL』(リイド社)はそんな依存症の見本市のような作品。閉塞感に満ちたこの物語は読んでいて決して心地の良いものではありませんが、しかし読後のこのカタルシスときたらどうでしょう。

 主婦・村上詩織は睡眠導入剤の過剰摂取により病院に救急搬送され、そして翌日家を出ました。友人やかつての恋人の部屋に転がり込んでは、そのたびにより深い泥沼にはまり込み、やがて逃げ道を失います。ついには忌み嫌っていた実家へと帰るのですが、そこには相も変わらずカルト宗教に熱中する過干渉な母親がいるだけでした。

 この世界では誰もがすることなすことうまく行かずに、何かに依存することでやっとのこと生きています。読むうちに私は自分の人生がうまく回っていなかった頃のことを思い出して、とてもつらい気持ちになりました。なぜに高浜先生はこうまで苛烈な物語を描かねばならなかったのでしょうか?

 それは何よりも「希望」を描きたかったからに他なりません。真に強度のある希望は消去法によってしか得られないからです。真っ白な紙を、ああでもない、こうでもないと塗り潰した果てに、かすかに残った白い点。それこそが希望です。そして絶望をくぐり抜けてきた希望は、薄っぺらで根拠のないポジティブなだけのベッキー的な何かとはまったく性質を異にするものです。

 物語の後半、母親から逃れて思い出の地、阿蘇山へと向かった詩織は、そこで亡き父の幻影と語り合います。「ほらごらん詩織、雄大だねぇ。すごいねぇ。こんな景色があるなんて」「怖い…」「さぁ詩織、一人で立つ練習をしよう」「いや! やだ、怖いよ!!」「パパもできる事ならずぅっと詩織を抱っこしててあげたいんだ。でももうすぐできなくなる」「何で…?」「見て」と父が視線を遣る先には、父の葬式で泣き崩れる母の姿。「ママ…」「一人で立つんだ、自分の足で、人との関係や物に依存せずに。本当は詩織にも分かっているはずだよ。いつかは卒業しなきゃいけないんだ」「いやだパパ、行かないで!! やろうとしてもいつもダメなの。一人でなんて立てないよ!」。依存の泥沼から抜ける道はただ1つしかありません。それは1人で立って歩くことです。

 詩織の冒険は直後に悲劇的かつ喜劇的な結末を迎えるのですが、物語はさらに二転三転します。そこは実際に読んでいただくとして、一度はほっとさせておきながら、最後の最後にもっとも厄介な人の心の闇を垣間見せるストーリーテリングは、残酷ですが巧みです。何も終わってはいませんし、何も解決しません。しかしこの先にあるのは間違いなく希望。「生きていこう。まるで一度も挫折したことがないかのように」――『SAD GiRL』は、絶望のどん底からかすかに仰ぎ見える一筋の光を描いた、世にも美しい作品であるのです。

 表題作ほか4編を収録。国内外で高い評価を受ける短編作家、高浜先生の面目躍如であります。新境地を開拓しつつある同時発売の長編『ニュクスの角灯』|(リイド社)も併せてぜひ。

小田真琴(おだ・まこと)
女子マンガ研究家。1977年生まれ。男。片思いしていた女子と共通の話題が欲しかったから……という不純な理由で少女マンガを読み始めるものの、いつの間にやらどっぷりはまって、ついには仕事にしてしまった。自宅の1室に本棚14竿を押しこみ、ほぼマンガ専用の書庫にしている。「SPUR」(集英社)にて「マンガの中の私たち」、「婦人画報」(ハースト婦人画報社)にて「小田真琴の現代コミック考」連載中

2015年まんが界事件簿――【峰なゆか『アラサーちゃん』騒動】が知らしめたこと

<p> これはまったく愚かしい事件でありました。事の発端は8月、「ハツキス」9月号(講談社)で始まった田所コウ先生の新連載『コトコトくどかれ飯』に、峰なゆか氏がこれは自作『女くどき飯』(ぐるなび「みんなのごはん」連載)のパクリであると、Twitter上で噛みついたのです。ところが『コトコトくどかれ飯』は、実際の作品を読んでみれば小学生にも理解できることですが(当該の「ハツキス」はKindle等で購入できます)、『女くどき飯』にはまったく似ていません。そして実際、峰氏はこの時点で「ナタリー」のニュース記事を読んだだけであって、実際の作品に目を通すことなく、峰氏の言う「コンセプト」(おそらく「コンセプト」の定義がわかっていないまま使っていたご様子ですが)とタイトルの「くど」「飯」の3文字が重複していただけで「パクリだ!」と騒いでいたこと</p>

2015年まんが界事件簿――【東村アキコ『ヒモザイル』騒動】が象徴したヒエラルキー

<p>2015年もマンガ界は大変に豊作でありました。その最大の成果が九井諒子先生の『ダンジョン飯』(KADOKAWA)であり、老若男女、マニアからライトユーザーまで幅広い支持を集める本作は、久々のメガヒットの登場を予感させます。ところで、九井先生はそもそもネットでマンガを発表していた方です。近年、ネット発のマンガ家は急増しつつありますが、その一方でマンガ家がネットでトラブルに巻き込まれる事態も増えています。今年はマンガ家がらみの2つの大きな炎上沙汰がありました。</p>

2015年まんが界事件簿――【東村アキコ『ヒモザイル』騒動】が象徴したヒエラルキー

<p>2015年もマンガ界は大変に豊作でありました。その最大の成果が九井諒子先生の『ダンジョン飯』(KADOKAWA)であり、老若男女、マニアからライトユーザーまで幅広い支持を集める本作は、久々のメガヒットの登場を予感させます。ところで、九井先生はそもそもネットでマンガを発表していた方です。近年、ネット発のマンガ家は急増しつつありますが、その一方でマンガ家がネットでトラブルに巻き込まれる事態も増えています。今年はマンガ家がらみの2つの大きな炎上沙汰がありました。</p>

“柴犬愛”が溢れる少女マンガ界のエース『わたしはあなたの犬になる』で犬欲を満たす!

<p> なぜかマンガ界(特に少女マンガ)では猫派が圧倒的に多く、猫マンガなら即座にいくつもの名作が思いつくのですが、犬マンガとなるときら先生の『まっすぐにいこう。』(集英社)や、犬マンガと言っていいものか微妙なところですが、佐々木倫子先生の『動物のお医者さん』(白泉社)など、数えるほどしかありません。そんな少女マンガ界に颯爽と現れたのが、都陽子先生の犬マンガ『わたしはあなたの犬になる』(祥伝社)です。</p>