メリー&ジュリー母娘が潰した、幻の“TBSジャニーズ番組”――ファン一切無視の鬼畜采配

(前編はこちら)

 バーニングの「スポニチ」贔屓に批判の声

B 圧力といえば、やっぱりなんだかんだ言っても、バーニング(プロダクション)はすごいよね。小泉今日子の独立と不倫告白騒動、結局ほぼ全メディアが、バーニングに配慮した記事を出してきた。

C 僕らWeb媒体は、バーニングから相手にもされていないので、正直どういう論調の記事を書いていいのかまったくわかりませんでしたが。今は小泉を批判しておけば、バーニングの意向に沿う感じですか?

A そうですね。最初、周防(郁雄、バーニング社長)さんは小泉を擁護する方針だったようですが、現在は「ちょっと痛い目を見て、またウチに戻ってきてくれたら」という考えになっているそう。

C 周防さんの考えひとつで、各社の報道が、ほぼ右に倣えとなるんだから、大したものですね。

B でも、最近一部スポーツ紙の記者やデスク連中が、バーニングに対して文句を言ってるそうじゃない。「スポニチ贔屓がひどすぎる」って。

C どういうことですか?

B バーニングは、掴んだ情報全てを、最優先で「スポーツニッポン」に流してるって話。ここ最近の訃報ニュースって、まず「スポニチ」が単独で報じるものが多いんだけど、ネタ元は大体バーニングなんだって。元フジテレビの有賀さつき、元中日監督の星野仙一、あと真屋順子、夏木陽介もそうかな。

A …………。

C Aさんとしては、不甲斐ないというところでしょうか。

A ……ノーコメントで(笑)。

B 結局は「スポニチ」の企業努力だよね。他社のB担(バーニング担当記者)は、揃っていい評判が聞こえてこない。「サンスポ」はそもそもスクープ志向じゃないし、「スポーツ報知」のB担はあんまりパッとしない。「日刊スポーツ」の前B担は、バーニングからもらったチケットをこっそり転売して、大問題になったらしいじゃん。

C だから冷遇されてるんですか。

A もう、それくらいにしてあげてください……。

C 井ノ原快彦の『あさイチ』(NHK)卒業は、NHKの有働由美子アナに足並みを揃えたってことになっていますが。

A 諸説あるものの、ジャニーズ事務所に通達しないうちに、有働アナの降板報道が出てしまったことが、問題視されているようです。NHKとしては、有働アナ降板に関して、ジャニーズサイドがなんと言い出しても対処できるよう調整を行っている段階で記事が出てしまい、担当者は大慌てでしたよ。

B ジャニーズは上層部、というかメリー(喜多川)さんと(藤島)ジュリー(景子)さんに話を通さずに事を進めると、後々大問題になっちゃうからね。

A 実は過去にも、井ノ原の番組をめぐって、同じようなことがあったんです。タカアンドトシがMCをやっていた『世にも不思議なランキング なんで?なんで?なんで?』(TBS系、2015年)という番組、ご存知ですか?

B 聞いたことない(笑)。

A 短命に終わりましたからね。実はこの番組、元々は井ノ原のMC番組になる予定だったんです。というのも、『世にも不思議な~』の前進番組であった単発SP『あの町はなんで1位なの?』(同)のMCを井ノ原が務めていたんです。制作の手応え、視聴率もかなりよく、放送後にTBSやジャニーズは、すぐに「レギュラー化しよう!」という話になったとか。

B それを、メリーさんとジュリーさんに伝えるのが後回しになったってこと?

A おっしゃる通りです。事後報告のレギュラー内定に雷を落とされて、TBS側に「タイトルの変更」「スタッフの大半も変更」極めつきは「MCの変更」という条件を突きつけたという(笑)。

B 井ノ原を出さないなら、ほかの部分は据え置きでいいじゃん(笑)。

A それさえも、メリーさんとジュリーさん的には許されなかったようですね。

C ファンや視聴者も完全無視。ジャニーズのメンツだけで番組編成を決めてしまったと。

A 現在でもジャニーズは、その姿勢を崩していないと思いますけどね……というわけで、今回はこの辺で。

次々期朝ドラ『まんぷく』、安藤サクラと長谷川博己のコンビに決定! “フレッシュ感ゼロ”のキャスティングに潜む裏事情

 10月1日に放送開始する次々期NHK連続ドラマ小説『まんぷく』のメインキャストが、安藤サクラと長谷川博己に決定し、朝ドラファンを驚かせている。

 というのは、朝ドラのヒロインには若手が抜擢されるのが通例で、すでに30歳を過ぎ、昨年6月には第1子となる女児を出産した安藤が起用されるのは、異例だからだ。NHKによると、“ママさんヒロイン”は史上初だという。

『まんぷく』はインスタントラーメンを生み出した日清食品創業者の安藤百福さん、仁子さん夫婦の半生をモデルにした作品。戦前から高度経済成長時代にかけて、大阪で懸命に生き抜いた夫婦の成功物語だ。安藤は立花福子役、長谷川は萬平役を演じる。

 安藤の代表作は、映画『かぞくのくに』(2012年)、『0.5ミリ』(14年)、『百円の恋』(14年)などで、「第55回ブルーリボン賞」(12年度)、「第57回ブルーリボン賞」(14年度)で主演女優賞、「第38回日本アカデミー賞」(同)で優秀主演女優賞、「第39回日本アカデミー賞」(15年度)で最優秀主演女優賞を受賞するなど、その演技力は折り紙付き。

 出産後、当面は仕事をセーブして、育児に専念する意向だったというが、家族の後押しで、オファーを受ける決断に至った。安藤は、過去に何度も朝ドラのヒロインオーディションに応募しながら、落選した経験があり、朝ドラには特別な思い入れがあったようだ。

 安藤の相手役を務める長谷川は40歳。朝ドラではヒロインのみならず、パートナーも若手俳優が起用されることが多い。近年では、福士蒼汰、東出昌大、鈴木亮平、山崎賢人らが朝ドラをステップにブレークを果たした。『あさが来た』(15年後期)での波瑠と玉木宏の“年齢差”が大きいコンビはあるが、メインキャストが二人とも、すでに相応のキャリアを積んだ成熟した役者が起用されるのは異例のケースとなる。

 安藤と長谷川のコンビでは、正直フレッシュ感がまるでなく、従来の朝ドラのイメージとはかけ離れてしまう。それがわかっていながら、なぜこういったキャスティングになったのだろうか?

「『まんぷく』は朝ドラ99作目。区切りとなる100作目の『夏空-なつぞら-』(広瀬すず主演)に、いい形でつなげたいのでしょう。そのためには、高視聴率で終える必要があります。演技力のある安藤と長谷川なら、『おもしろい作品になるだろう』という期待感は高まります。脚本も、NHK大河ドラマ『龍馬伝』、『HERO』『ガリレオ』(いずれもフジテレビ系)、『DOCTORS~最強の名医~』(テレビ朝日系)などを手掛けたヒットメーカー・福田靖氏が担当し、万全の体勢を取っています。現在放送中の『わろてんか』(葵わかな主演)は、この先大崩れしなければ、なんとか平均視聴率20%を超えられそうです。次作『半分、青い。』は、葵同様、ほとんど無名の永野芽郁がヒロインで、視聴率が不安視されますが、そこは相手役に佐藤健を起用してカバーしようとしています。『あまちゃん』(13年前期)以降、高視聴率が続いている朝ドラだけに、“視聴率至上主義”に走っているのでしょうね」(テレビ誌関係者)

 朝ドラといえば、フレッシュな若手ヒロインが奮闘する姿を見るのが定番となっていたが、そのイメージを脱却した作品となる『まんぷく』は、果たしてヒットするのか? 高い評価を得られるようだと、その後の広瀬がやりづらくなりそうだ。
(文=田中七男)

草なぎ剛の舞台会見に民放キー局のカメラはなし? テレビ界から完全に消されそうな「新しい地図」

 元SMAPの草なぎ剛が2月7日、主演舞台『バリーターク』の製作発表記者会見に出席した。草なぎにとっては約3年ぶり、SMAP解散後は初となる今回の舞台出演。多くのマスコミが集まったこの会見だったが、やはりジャニーズ事務所退所の影響は少なくなかったようだ。

「多くのネットメディアやスポーツ紙、週刊誌などの記者・カメラマンが取材に来ていたんですが、民放キー局のカメラは見当たらなかったですね」(会見に参加したマスコミ関係者)

 ネットニュースでは多く扱われていたこの会見だが、たしかにテレビのワイドショーでは触れられておらず、ほぼ黙殺状態だった。

「“草なぎを取材するな”という圧力があったかどうかはわかりませんが、民放キー局がジャニーズ事務所に配慮しているのは間違いない。まあ、取材したところで放送はしないでしょうしね」(テレビ局関係者)

 たしかに、稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾の3人は、テレビのワイドショーでは“なき者”にされることも多い。

「昨年11月の『GQ MEN OF THE YEAR 2017』の受賞会見では、新しい地図の3人が登場したんですが、他の受賞者だけがワイドショーで取り上げられ、元SMAPの3人はほぼ黙殺。ただ、3人がこの会見に出ることは事前に知らされていなかったんですよ。もし、3人が出るとわかっていたら、ワイドショーはカメラを取材に出さなかったでしょうね」(同)

 3人がジャニーズ事務所を退所してから約5カ月。テレビ界では、新しい地図の締め出しがどんどん強まっている。

「香取慎吾の『おじゃMAP!!』(フジテレビ系)に加え、草なぎ剛の『「ぷっ」スマ』(テレビ朝日系)も3月で終了することが内定しています。となると、地上波レギュラーは稲垣吾郎の『ゴロウ・デラックス』(TBS系)のみ。『ゴロウ・デラックス』はTBSの上層部の意向で続いているだけという話もあって、元SMAPの3人は事実上、テレビ界から締め出しを食らっているという状態です。そもそも3人がジャニーズを辞めた時、業界内では『退所してすぐに番組を終わらせるとあまりにも露骨なので、半年待ってから番組を終了させる』という流れが出来上がっていた。つまり、そのシナリオ通りに事が進んでいるというわけです」(同)

 どうやらジャニーズ事務所の思惑通りにテレビ界から姿を消そうとしている、新しい地図の3人。

「『AbemaTV』で3人のレギュラー番組が始まるなど、ネットの世界に活路を見いだそうとしていますが、このタイミングでジャニーズもネットでの写真掲載を解禁。明らかに新しい地図に対するけん制の動きですよね。今後ジャニーズは、ネット方面でも影響力を発揮しようと画策しているのではないでしょうか」(同)

 彼らが自由に活動できる日は来るのだろうか……。

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山下智久の熱愛スクープ、ネットでも写真掲載 ジャニーズの「完全ネット解禁」の日も近い?

 2月8日発売の「女性セブン」2月22日号(小学館)が、山下智久とモデルのNikiとのハワイ密会の様子を写真つきで報じた。記事によると、2人は1月下旬から1週間ほどハワイで過ごしていたという。

 同誌の発売に先駆けて、小学館のニュースサイト『NEWS ポストセブン』では2月7日にこのニュースを報じているが、あるマスコミ関係者はその記事に対する驚きを隠さない。

「サイトの記事には、山下がキャリーケースを押しながら歩いている空港での写真が載っていました。ジャニーズ事務所と仲がいい『女性セブン』が、ネットにこういう写真を載せるのか……と一瞬目を疑いましたね」

 つい最近、ネットでの写真掲載を解禁したジャニーズ事務所。しかし、掲載OKなのは記者会見などで撮影された写真のみで、“張り込み写真”となると話は別だ。

「ジャニーズのスクープ写真をネットに載せるメディアは、今までもありました。ジャニーズと敵対している『週刊女性』(主婦と生活社)はよく載せているし、『NEWSポストセブン』でもHey! Say! JUMP中島裕翔と吉田羊の熱愛2ショットを載せたことがあります。でも、中島の記事は『週刊ポスト』に載っていたもので、『女性セブン』ではない。今回は、ジャニーズと仲がいい『女性セブン』が張り込み写真をネットに載せたということが驚きなんです」(同)

 ジャニーズ事務所所属タレントのスクープ写真の扱いについて、ある出版関係者はこう話す。

「芸能人は“準公人”というような扱いで、社会的な興味の対象とされている。つまり、芸能人の行動を報じることは正当な行為となるわけです。ジャニーズ事務所は肖像権を盾にネットでの写真掲載を禁止していましたが、スクープ写真については報道の自由の範囲内になるので、本来は載せても問題ないのです。『女性セブン』など、ジャニーズと仲がいいメディアがスクープ写真をネットに載せなかったのは、単純に事務所とうまく付き合うためということでしょうね」

 しかし、今回「女性セブン」は、山下の写真をネットに掲載した。前出の出版関係者は続ける。

「2ショットのような強いスクープ写真であれば、ジャニーズから文句を言われるのも承知でネットに出すということもあると思うのですが、今回の写真は山下が1人で歩いているだけのもの。そこまで強い写真ではないので、わざわざネットに出す必要もなかったと思います。むしろ、相手のNikiの写真でもよかったはず。にもかかわらず、ネットに出たということは、それなりに意味があるということでしょう」

 では、一体どんなメッセージが隠されているのか?

「『女性セブン』とジャニーズの関係性を考えると、『女性セブン』が黙って写真を出したとは思えないので、ジャニーズ側が納得してこの写真が出ているということでしょう。そういう意味では、ジャニーズとしては会見写真だけでなく、スクープ写真もネットOKという方針になりつつあるのかもしれません。いろいろな週刊誌が、特に気を使うことなく、ジャニーズの写真をどんどんネットに出していくようになりそうですね」(同)

 現時点では、「記者会見、囲み取材、舞台挨拶などのタレント登壇時の写真のwebニュースサイトでの使用」という条件つきのネット解禁ではあるが、条件なしでの完全解禁となる日も、そう遠くはないのかもしれない。

A.B.C-Z戸塚祥太、“声帯結節”を発症……ステロイド治療効かず「イメージした音程を出すのが難しい」

 A.B.C-Z戸塚祥太がジャニーズ公式携帯サイト「Johnny’s web」内の個人連載「伝田伝助」を2月8日に更新。その内容が、ファンの間で話題になっている。

 戸塚は「喉の状態が芳しくない」との書き出しから、自身が“声帯結節”になったことを明かしている。声帯結節は別名“歌手結節”などといわれるように、声を過度に使う職業によく見られる。習慣的に大声を出したり、無理な発声をしたりすることが原因とされており、かれた声になるのが主な症状である。

 「伝田伝助」を更新する1週間前、戸塚は喉の治療のために、これまで避けていたというステロイドを初めて服用したそう。一般的には、炎症を鎮める効果があると言われているが、戸塚の場合は「状態は好転しなかった」とのこと。しかし治療は続けているようで、自分でもマヌカハニーやハーブキャンディーなど、喉によいとされているアイテムを集め「朝、昼、晩に、出来る限りやっている」と報告している。

 また、現在の症状については「自分のイメージした音程を出すのが難しい」としており、歌手活動に支障が出ているよう。そう簡単に治る段階ではなさそうだが、戸塚は前向きに捉えているようで、「私はすごくポジティブで前向き! 今を生きることしか知らない。時間をかけてしっかり治療するさ☆」とファンにメッセージを送っている。

 突然の告白にファンからは、「心配だなぁ……でもとっつーなら絶対大丈夫! 今はとにかくゆっくり喉を休ませてほしいな」「どうしても喉を酷使する職業だからね。舞台に立つ人って本当、日々のケアが大事だと思う。少しでも早く良くなりますように」「戸塚くんのことがとても心配だけど、前向きな文章だったからホッとした。しっかり治療してよくなってね!」と、心配や応援の声が多数上がっている。

 2013年から毎年、戸塚主演の舞台が上演されているが、特に13~16年に主演した『熱海殺人事件』『寝盗られ宗介』などの「つかこうへい作品」はセリフの量が膨大で、観客を大いに驚かせていた。しかし、公演期間後半に差し掛かると「戸塚くんの声が枯れている」といったレポートがチラホラと上がるようになり、不安になるファンは多かった。また舞台出演だけでなく、A.B.C-Zとしての歌手活動もあるため、人一倍喉を酷使していたと言えるだろう。日々の負担がついに“声帯結節”となって現れてしまったようだ。

 最近体の不調を訴えたジャニーズアイドルといえば、KinKi Kids堂本剛が思い出される。剛は昨年6月に突発性難聴を発症し入院。その後、大型音楽番組への出演をキャンセルしたり、KinKi Kidsデビュー20周年イベント『KinKi Kids Party! ~ありがとう20年~』は屋内スタジオからの出演になったりと、耳の回復のために活動を制限していた。しかし、現在も完治には至っていないようだ。

 剛は自身がパーソナリティを務めるラジオ『堂本剛とFashion &Music Book』(17年7月15日放送、bayfm)にて、発症後すぐに入院し治療を受けることが望ましいと医師に勧められたものの、スケジュールの都合で入院できず、仕事の合間に点滴をしながら内服薬を飲んでいたことを明かしている。結局、その状態が1週間ほど続き、医師から“ドクターストップ”がかかり入院。剛はこの放送の中で「周りの方が、なんかいろいろ緊張してはるから、うん。『それをもうちょっと早くしてもらえたら良かったんですけどね』みたいな感じもあるけど」と周囲のスタッフに向けて発言していたため、仕事の予定を優先し、早期入院をさせなかったジャニーズ事務所に批判が集まっていた。

 戸塚は今年も3月9日~4月1日に公演が行われるミュージカル『恋する・ヴァンパイア』(・はハートマーク)にて、主演を務めることが決定している。舞台に立つ戸塚の姿が見られることはうれしいが、まずは自身の体調を最優先してほしいと願わずにはいられない。

のぶみの絵本は賛否両論! ほかにもある「子どもに読ませたくない」と物議醸した人気絵本

 絵本作家・のぶみが作詞した楽曲「あたし おかあさんだから」が大炎上している。『おかあさんといっしょ』(NHK Eテレ)の元“うたのお兄さん”横山だいすけが、Huluで配信中の『だい!だい!だいすけおにいさん!!』で同曲を披露したところ、「母親に自己犠牲を強いる歌詞内容」などと、実際に子育てをするお母さんたちを中心に批判の渦となったのだ。

 のぶみは「これは、元々ママおつかれさまの応援歌なんだ」とSNSで釈明したものの、炎上騒ぎは鎮火せず、ついには歌唱を担当した横山まで、ブログで「理由はどうあっても結果的に応援してくれているみなさんを傷つけてしまったり辛い思いをさせてしまいました」と謝罪する事態になった。

 のぶみは本業の絵本作家としても、これまでに賛否両論を巻き起こしている。例えば『ママがおばけになっちゃった!』(講談社)は、「ママは くるまに ぶつかって、おばけに なりました。」という、交通事故死しておばけになった母親とその息子を描いた異色の作品。のぶみは同作の狙いについて、「ママがいなくなることを子どもに疑似体験させることで、母親を大切にしなきゃいけないと気づく」といった旨を語っており、読者からは「涙が出ました」「死別というテーマだが明るくて笑いもある」といった好意的な声が上がる一方、「実際に親を亡くした子どもにはつらすぎる内容」「母の死を軽く捉えている」「子どものトラウマになる」と反発の声が噴出していたのだ。

 また『ママのスマホになりたい』(WAVE出版)も賛否両論だ。スマホに夢中になって、自分のことを見てくれないママに、息子がモヤモヤを抱くという内容で、「目が覚めた」「もっと子どものことを気にかけようと思った」などの好意的な感想が多い中、「この絵本に、パパが出てこないことが気になった。育児は全部ママの仕事?」「まったく子ども向きではない」「言いたいことはわかる。が、ちょっとスマホを見て息抜きするくらいはさせてほしいというのが本音」といった苦言も少なくなかった。

■「あまりにも救いようがない」と批判の嵐に

 「わが子にいい影響を与えたい」という思いから、絵本の吟味には厳しくなる親も多いだけに、内容に思わず疑問を呈してしまうのは当然なのかもしれない。のぶみ作品以外にも、これまでネット上で賛否両論を巻き起こした絵本はいくつかある。

 「こんなにも物議を醸した絵本はいまだかつてなかったのでは?」といわれているのが、マーカス・フィスターの『にじいろのさかな』(講談社)。主人公は、美しいうろこを持つ「にじうお」と呼ばれる魚で、ほかの魚から「1枚うろこを分けてほしい」とせがまれている。しかし、にじうおが天狗になってそれを拒否していると、どんどん仲間はずれにされ、ついにはひとりぼっちに。物知りのたこに相談をしたところ、「ほかの魚にうろこを分けてあげなさい」といわれ、その通りにすると、美しいうろこはなくしてしまったものの、離れていった魚たちとは仲良しになれた……といった内容である。

 「子どもに分け合う大切さを伝える」といったテーマが読み取れるが、一部読者からは「もらえないから仲間はずれにする、もらえたから仲良くするってどうなの?」「自己犠牲を払わなければ、仲間になれないっていう内容にしか思えない」「本当に大事なものはしっかり守ってほしいと思うし、納得できない」など、厳しい意見も多いのだ。

 また、みゆきりかとなかやみわの『ばすくん』(小学館)は、「あまりにも救いようがない」として、一部読者から反発を食らっている。同作は、長い間、町中で働き続けてきた「ばすくん」が主人公。しかし、次々と新しいバスが登場し、一番の古株になると、ある日山奥のバス会社に売られてしまう。さらに故障した後は、森の中に捨てられるのだが、最終的には動物たちの住処になる……という内容だ。

 “人の老い”について考えさせられるテーマで、感動したという人がいる半面、ばすくんが周囲のバスや人々から辛らつな態度を取られる点が「しんどい」と感じる人も多く、「動物の住処になることが幸せなのか? バスの本懐を遂げさせてあげた方がいい」と懐疑する人も。はたまた「これは不法投棄ですよね?」との指摘も出ている。親心としては、やはり犯罪行為につながるような内容の絵本を、子どもに読ませるのは心苦しいのかもしれない。

 古くからある定番の絵本の内容が近年“改変”されたことにより、ネット上で議論が勃発した例も。『三匹のこぶた』は、『グリム童話』に収録された『狼と七匹の子山羊』に端を発した作品とされ、絵本としても広く子どもたちに親しまれている作品だが、かつて「3兄弟のうち長男と次男は狼に食べられてしまい、三男はその狼を釜茹でして食べる」だったオチが、近年「子豚は全員生き残って狼だけが死ぬ」または「子豚も狼も生き残る」と、改変されているのだ。

 子ども向けに、残虐性を排除した内容に進化していったと推測でき、より多くの子どもに読まれるようになった面もあるだろうが、「この物語にこめられた教訓まで変わってしまうのでは?」「結末をマイルドにしたらインパクトが薄れる」などと異議を唱える人もいる。このような“改変”は、ほかの作品でも行われており、今後も議論は続いていきそうだ。

 くだんののぶみは、2月8日にTwitterを更新し、「本当にご迷惑おかけしました 歌詞に不快な気持ちを感じた人 改めて深くお詫びします もっと見る人の気持ちを考えて制作するべきでした 本当にもう一度書き直したい気持ちでいっぱいです」と心情を吐露した。さまざまな考えを持つ親に対し、今後のぶみは、どういった作品を世に出していくのだろうか。

マドンナは本当にセクシーなのか~おっと、セックスの話はダメだなんて知らなかった

 常々、女性ミュージシャンを「姐さん」と呼ぶのはちょっとダサいことも多いと思っているのですが、世の中にはどうしても姐さんと呼びたくなる方もおられます。私の場合、それはマドンナです。たぶん、マドンナだけはどうしても姐さんと呼ばざるを得ないという方はけっこうおられると思います。

 姐さんというのは、時代劇などでヤクザが女親分を呼んだり、芸者衆が先輩を呼んだりする時によく使われるような言葉です。「姉さん」はきょうだいのうち年上の女性を指す言葉ですが、「姐さん」は実際に血がつながっていない擬似家族的な集団でリーダーになる女性を指すようです。つまり、人望や才能があって、メンバーから慕われつつグループににらみを利かせ、世間的にはちょっと堅気でないような稼業もこなす女性というニュアンスでしょう。

 マドンナを姐さんと呼ぶ時、私たちは無意識に妹分とか弟分のような気になっているのかもしれません。80年代からこのかた、マドンナのファッションや音楽を真似るファンやアーティストのことを「マドンナ・ワナビー」(マドンナになりたいちゃん)と言うことがありますが、たぶん円錐ブラや筋トレを真似なくても、マドンナを姐さんと呼んでしまう人はみんなマドンナ・ワナビーなのです。姐さんの才能とか押しの強さ、堅気でない感じに憧れているのです。

 マドンナ姐さんのこの「堅気でない」感じはいったいどこから来るのでしょうか? 一言で言うと、セックスに関する自分の考えを型破りかつ主体的に語っているからだと思います。今回の記事では、マドンナがアーティストとしてセクシュアリティを探求していた時期について考えてみたいと思います。

自分を表現すること

 常に自分のイメージを刷新し続けてきたマドンナですが、ひとつ変わらない核があるとすると、それは自分の気持ちを正直に表現すべきだという理念です。上に貼ったのは1989年の「エクスプレス・ユアセルフ」のビデオです。この曲はタイトルが示しているように、女性に「自分を表現しなさい」と呼びかける励ましの歌です。さらには恋する女性に対して「感じてることをカレに言わせるように」(“Make him express how he feels”)しなさいとも言っており、女性が主体となって男性にも自分の気持ちをはっきり言わせるよう促しています。つまり、恋愛において男性側に「察してほしい」というような甘えや、「女と話しても埒が明かない」というようなバカにした気持ちがあっては実りのある関係は築けないから、対等かつ正直にお互いを大事にする気持ちを表現することが重要だということを訴えています。

 もとから大胆な表現を好んでいたマドンナですが、この曲を発表した後、90年代になると、セックスに関してよりあからさまな表現を探求しはじめます。1990年には同性間のセックスやBDSM(緊縛といった嗜虐的あるいは被虐的な性的嗜好)などを描いた「ジャスティファイ・マイ・ラヴ」のビデオがMTVから放送を拒まれます。1992年には、BDSMや同性愛、グループセックスなどを主題とする写真集『セックス』と、同様のテーマをシャープなダンスサウンドで彩ったアルバム『エロティカ』を発表しました。どちらも女性としての自らの性的ファンタジーを追究した作品です。

 既に「女の子がムラムラしてはいけないの? イギリス文学における女と性欲」でも解説したことですが、女性が自らの意志で主体的に性欲を表現することは歴史的にタブーとされてきました。今からすると、『セックス』はおしゃれでアートなモノクロ写真集、『エロティカ』はキレッキレの90年代ポップで、とくに過激とは思えないでしょう。しかしながら90年代はじめにおいて、メインストリームの女性アーティストが主体的にセクシュアリティを探求した作品を作り、自分の性欲とファンタジーを男性に媚びない形で芸術に昇華させるというのは革命的なことでした。

 どちらの作品も大きな議論を呼び、ネガティヴな反応を示す人もたくさんいました。誰もこういうものを見聞きしたことがなかったので、反応しづらかったというのもあるでしょう。今では評価も好意的になり、ロックの殿堂は『エロティカ』を女性による性表現の幅を広げた画期的なアルバムだと評しています。このアルバムが作られていなければ、クリスティーナ・アギレラもレディ・ガガもリアーナも今ああいうふうには活躍出来ていないでしょう。みんな姐さんの妹分なのです。

マドンナはセクシーなのか?
 この時代のマドンナの作品、とくに『セックス』はポルノグラフィ的だと評されることがありました。マドンナといえばセックスシンボルですし、ライヴやミュージックビデオでオナニーやグループセックスなどを思わせる表現も用いています。しかしながら、私がいつも疑問に思っているのは、マドンナは本当にセクシーなのか、ということです。

 ポルノグラフィとは通常、人を性的に興奮させることを目的として作られたコンテンツを指します。何がポルノで何がポルノでないかの境界は非常に曖昧で、またどういうものに性的興奮を感じるかは人によって大きく異なるので一概に言うことはできません。『セックス』を見たり、『エロティカ』を聞いたりすると物凄い性的興奮を覚えるという人がいてもおかしくはありません。しかしながら『セックス』や『エロティカ』には、妙にポルノ的でないところがあります。セックスがふんだんに登場するのに、人を興奮させるよりはむしろ考えさせるほうに導くようなところがあるのです。

 『セックス』の序文には、こんなことが書かれています。

頭も体もリラックスしているとき、私はいちいちコンドームのことを考えたりしない。人間なら誰だってそうだろう。私の想像の世界は、私のつごうのいいようにできている。だから、エイズの心配もない。残念なことに、現実の世界はそうはいかない。コンドームは必要だし、ひとりひとりに課せられた義務でもある。あなたがこれから見たり、読んだりすることは、すべて想像の世界であり、夢であり、一種の「ごっこ」だ。でも、もし、夢の世界を実際にためすことになったら、私は間違いなくコンドームを使う。安全なセックスをするということは命を守ること。覚えていて欲しい。

 この本は、夢や空想は完全に現実とは切り離されたものだという一種の諦めから始まっています。この本には悪夢のようなシュールなものからユーモアのある笑えるものまで、性的幻想を描いたいろんな文章と写真が収録され、基本的にセックスを楽しいものとして描いているとは思います。しかしながら一方で、楽しいはずのセックスによって現実世界では妊娠やHIV感染などの危険にさらされる面倒な体を抱えているということが最初に述べられているのです。

 あらかじめ読者を性的興奮に誘うことを拒んでいるような序文のトーンが、『セックス』全体を支配しています。途中には、ポルノ映画はくだらないし、「人が本当に傷つけられているような映画はみる気がしない」が、美しいヌード写真は大好きだ、という文章もあり、語り手はつまらないものと美しく楽しいもの、どこに線を引けば良いのか自分でも混乱しているらしいことがわかります。

 セックスについて楽しさだけではなく、困惑や割り切れない気持ちも正直に出そうというこのスタンスは、『エロティカ』にも見られます。恋人を失って楽しくないセックスや飲酒喫煙に溺れる女性を歌う「バッド・ガール」や、ゲイの友人たちをエイズで亡くした悲しみを歌う「イン・ジス・ライフ」などはそうしたスタンスがよく表れています。自信を持ってセクシュアリティを表現する精神と、混乱や苦痛をそのままさらけ出す内省が共存していることが、『エロティカ』や『セックス』が90年代の視聴者を面食らわせた一因かもしれません。型にはまらない表現だったのです。

 私は実は一度もマドンナをセクシーだと思ったことはありません。マドンナがセックスを扱った作品を見聞きするといつも、わくわくウキウキするというよりは、セックスについて何か凄く真面目に考えなければならないような気分になるからです。また、マドンナが露出度の高い衣装を身につける時は別に男性の気を惹きたいのではなく、周りがドン引きしてもいいから自分が綺麗と思えるものを身につけたいのだろうなという気もしています。

 いつもセックスの話をしているのに、全然セクシーじゃないかもしれないし、それでもいいんだよということを教えてくれるのがマドンナです。男性中心的な社会は、セックスについて自己表現する女性にエロ、色物、性的対象というレッテルを貼りたがりますが、マドンナはそうした型から逸脱しています。マドンナは本当にセクシーなのかはよくわからないけど、セックスを表現する第一人者であり、紛れもなくセックスシンボルです。

「私が作ったわけじゃないルールは全部破ってる」

 『セックス』や『エロティカ』を作った時代のマドンナはずいぶんメディアから叩かれていました。おそらく、男性に媚びずに主体的に自らの性欲や性的幻想を表現し、セックスの楽しいところと楽しくないところ両方を探求するという型破りなスタイルが受け入れられにくかったのでしょう。ストレートにエロエロでポルノっぽかったら、もっとわかりやすいと思われていたかもしれないと思います。

 そんなマドンナが1994年のアルバム『ベッドタイム・ストーリーズ』のため録音したのが「ヒューマン・ネイチュア」です。上にビデオを貼りましたが、全体的に『セックス』や『エロティカ』のBDSMモチーフを引き継ぎつつ、時々マドンナが顔芸みたいな表情をするなど、もう少しユーモアをまじえた表現になっています。歌詞もこのビデオにぴったりの自虐ギャグのような内容で、「エクスプレス・ユアセルフ」という前の作品そのままのささやきで呼びかけをする一方、「おっと、セックスの話はダメだなんて知らなかった」とか「おっと、自分が思ってることを言っちゃダメだなんて知らなかった」とか、礼儀に外れたことをして罰される自分を面白おかしく歌っています。途中で「私が作ったわけじゃないルールは全部破ってる」という歌詞がありますが、90年代初めのアメリカ合衆国では、女性がセックスについて男性に媚びない主体的な表現をするのは堅気ではないルール違反な行為だったわけです。

 「ヒューマン・ネイチュア」の面白さは、語り手がとくにタブーを破ってやろうと意識せずに正直な表現をしているだけなのに、どういうわけだか知らないうちにルール違反にされているという状況を歌っているところです。語り手は「ヒューマン・ネイチュア」、つまり人間の本質だから自分はセックスその他について話さずにはいられないのだと言っており、おそらくは生きてるだけで過激な発言をしてしまうみたいな状況が想像できます。天然の反逆者であるマドンナらしい歌です。

 マドンナはいつも完璧な芸術家であるわけではありません。ファンが心配になるくらいトンチンカンな言動や駄作もずいぶんあります。正直、忠実な妹分である私も、たまに「姐さん、何やってんだろ」と思うこともあります。それでも、姐さんは私たちに、自信を持って自己表現していいんだということ、その自己表現には混乱や戸惑いがあってもいいんだということ、自分の性欲について自由に表現してもいいんだということを教えてくれたと思います。

参考文献

マドンナ、スティーブン・マイゼル、『SEX by MADONNA―マドンナ写真集』中谷ハルナ訳、同朋社、1992。

マドンナは本当にセクシーなのか~おっと、セックスの話はダメだなんて知らなかった

 常々、女性ミュージシャンを「姐さん」と呼ぶのはちょっとダサいことも多いと思っているのですが、世の中にはどうしても姐さんと呼びたくなる方もおられます。私の場合、それはマドンナです。たぶん、マドンナだけはどうしても姐さんと呼ばざるを得ないという方はけっこうおられると思います。

 姐さんというのは、時代劇などでヤクザが女親分を呼んだり、芸者衆が先輩を呼んだりする時によく使われるような言葉です。「姉さん」はきょうだいのうち年上の女性を指す言葉ですが、「姐さん」は実際に血がつながっていない擬似家族的な集団でリーダーになる女性を指すようです。つまり、人望や才能があって、メンバーから慕われつつグループににらみを利かせ、世間的にはちょっと堅気でないような稼業もこなす女性というニュアンスでしょう。

 マドンナを姐さんと呼ぶ時、私たちは無意識に妹分とか弟分のような気になっているのかもしれません。80年代からこのかた、マドンナのファッションや音楽を真似るファンやアーティストのことを「マドンナ・ワナビー」(マドンナになりたいちゃん)と言うことがありますが、たぶん円錐ブラや筋トレを真似なくても、マドンナを姐さんと呼んでしまう人はみんなマドンナ・ワナビーなのです。姐さんの才能とか押しの強さ、堅気でない感じに憧れているのです。

 マドンナ姐さんのこの「堅気でない」感じはいったいどこから来るのでしょうか? 一言で言うと、セックスに関する自分の考えを型破りかつ主体的に語っているからだと思います。今回の記事では、マドンナがアーティストとしてセクシュアリティを探求していた時期について考えてみたいと思います。

自分を表現すること

 常に自分のイメージを刷新し続けてきたマドンナですが、ひとつ変わらない核があるとすると、それは自分の気持ちを正直に表現すべきだという理念です。上に貼ったのは1989年の「エクスプレス・ユアセルフ」のビデオです。この曲はタイトルが示しているように、女性に「自分を表現しなさい」と呼びかける励ましの歌です。さらには恋する女性に対して「感じてることをカレに言わせるように」(“Make him express how he feels”)しなさいとも言っており、女性が主体となって男性にも自分の気持ちをはっきり言わせるよう促しています。つまり、恋愛において男性側に「察してほしい」というような甘えや、「女と話しても埒が明かない」というようなバカにした気持ちがあっては実りのある関係は築けないから、対等かつ正直にお互いを大事にする気持ちを表現することが重要だということを訴えています。

 もとから大胆な表現を好んでいたマドンナですが、この曲を発表した後、90年代になると、セックスに関してよりあからさまな表現を探求しはじめます。1990年には同性間のセックスやBDSM(緊縛といった嗜虐的あるいは被虐的な性的嗜好)などを描いた「ジャスティファイ・マイ・ラヴ」のビデオがMTVから放送を拒まれます。1992年には、BDSMや同性愛、グループセックスなどを主題とする写真集『セックス』と、同様のテーマをシャープなダンスサウンドで彩ったアルバム『エロティカ』を発表しました。どちらも女性としての自らの性的ファンタジーを追究した作品です。

 既に「女の子がムラムラしてはいけないの? イギリス文学における女と性欲」でも解説したことですが、女性が自らの意志で主体的に性欲を表現することは歴史的にタブーとされてきました。今からすると、『セックス』はおしゃれでアートなモノクロ写真集、『エロティカ』はキレッキレの90年代ポップで、とくに過激とは思えないでしょう。しかしながら90年代はじめにおいて、メインストリームの女性アーティストが主体的にセクシュアリティを探求した作品を作り、自分の性欲とファンタジーを男性に媚びない形で芸術に昇華させるというのは革命的なことでした。

 どちらの作品も大きな議論を呼び、ネガティヴな反応を示す人もたくさんいました。誰もこういうものを見聞きしたことがなかったので、反応しづらかったというのもあるでしょう。今では評価も好意的になり、ロックの殿堂は『エロティカ』を女性による性表現の幅を広げた画期的なアルバムだと評しています。このアルバムが作られていなければ、クリスティーナ・アギレラもレディ・ガガもリアーナも今ああいうふうには活躍出来ていないでしょう。みんな姐さんの妹分なのです。

マドンナはセクシーなのか?
 この時代のマドンナの作品、とくに『セックス』はポルノグラフィ的だと評されることがありました。マドンナといえばセックスシンボルですし、ライヴやミュージックビデオでオナニーやグループセックスなどを思わせる表現も用いています。しかしながら、私がいつも疑問に思っているのは、マドンナは本当にセクシーなのか、ということです。

 ポルノグラフィとは通常、人を性的に興奮させることを目的として作られたコンテンツを指します。何がポルノで何がポルノでないかの境界は非常に曖昧で、またどういうものに性的興奮を感じるかは人によって大きく異なるので一概に言うことはできません。『セックス』を見たり、『エロティカ』を聞いたりすると物凄い性的興奮を覚えるという人がいてもおかしくはありません。しかしながら『セックス』や『エロティカ』には、妙にポルノ的でないところがあります。セックスがふんだんに登場するのに、人を興奮させるよりはむしろ考えさせるほうに導くようなところがあるのです。

 『セックス』の序文には、こんなことが書かれています。

頭も体もリラックスしているとき、私はいちいちコンドームのことを考えたりしない。人間なら誰だってそうだろう。私の想像の世界は、私のつごうのいいようにできている。だから、エイズの心配もない。残念なことに、現実の世界はそうはいかない。コンドームは必要だし、ひとりひとりに課せられた義務でもある。あなたがこれから見たり、読んだりすることは、すべて想像の世界であり、夢であり、一種の「ごっこ」だ。でも、もし、夢の世界を実際にためすことになったら、私は間違いなくコンドームを使う。安全なセックスをするということは命を守ること。覚えていて欲しい。

 この本は、夢や空想は完全に現実とは切り離されたものだという一種の諦めから始まっています。この本には悪夢のようなシュールなものからユーモアのある笑えるものまで、性的幻想を描いたいろんな文章と写真が収録され、基本的にセックスを楽しいものとして描いているとは思います。しかしながら一方で、楽しいはずのセックスによって現実世界では妊娠やHIV感染などの危険にさらされる面倒な体を抱えているということが最初に述べられているのです。

 あらかじめ読者を性的興奮に誘うことを拒んでいるような序文のトーンが、『セックス』全体を支配しています。途中には、ポルノ映画はくだらないし、「人が本当に傷つけられているような映画はみる気がしない」が、美しいヌード写真は大好きだ、という文章もあり、語り手はつまらないものと美しく楽しいもの、どこに線を引けば良いのか自分でも混乱しているらしいことがわかります。

 セックスについて楽しさだけではなく、困惑や割り切れない気持ちも正直に出そうというこのスタンスは、『エロティカ』にも見られます。恋人を失って楽しくないセックスや飲酒喫煙に溺れる女性を歌う「バッド・ガール」や、ゲイの友人たちをエイズで亡くした悲しみを歌う「イン・ジス・ライフ」などはそうしたスタンスがよく表れています。自信を持ってセクシュアリティを表現する精神と、混乱や苦痛をそのままさらけ出す内省が共存していることが、『エロティカ』や『セックス』が90年代の視聴者を面食らわせた一因かもしれません。型にはまらない表現だったのです。

 私は実は一度もマドンナをセクシーだと思ったことはありません。マドンナがセックスを扱った作品を見聞きするといつも、わくわくウキウキするというよりは、セックスについて何か凄く真面目に考えなければならないような気分になるからです。また、マドンナが露出度の高い衣装を身につける時は別に男性の気を惹きたいのではなく、周りがドン引きしてもいいから自分が綺麗と思えるものを身につけたいのだろうなという気もしています。

 いつもセックスの話をしているのに、全然セクシーじゃないかもしれないし、それでもいいんだよということを教えてくれるのがマドンナです。男性中心的な社会は、セックスについて自己表現する女性にエロ、色物、性的対象というレッテルを貼りたがりますが、マドンナはそうした型から逸脱しています。マドンナは本当にセクシーなのかはよくわからないけど、セックスを表現する第一人者であり、紛れもなくセックスシンボルです。

「私が作ったわけじゃないルールは全部破ってる」

 『セックス』や『エロティカ』を作った時代のマドンナはずいぶんメディアから叩かれていました。おそらく、男性に媚びずに主体的に自らの性欲や性的幻想を表現し、セックスの楽しいところと楽しくないところ両方を探求するという型破りなスタイルが受け入れられにくかったのでしょう。ストレートにエロエロでポルノっぽかったら、もっとわかりやすいと思われていたかもしれないと思います。

 そんなマドンナが1994年のアルバム『ベッドタイム・ストーリーズ』のため録音したのが「ヒューマン・ネイチュア」です。上にビデオを貼りましたが、全体的に『セックス』や『エロティカ』のBDSMモチーフを引き継ぎつつ、時々マドンナが顔芸みたいな表情をするなど、もう少しユーモアをまじえた表現になっています。歌詞もこのビデオにぴったりの自虐ギャグのような内容で、「エクスプレス・ユアセルフ」という前の作品そのままのささやきで呼びかけをする一方、「おっと、セックスの話はダメだなんて知らなかった」とか「おっと、自分が思ってることを言っちゃダメだなんて知らなかった」とか、礼儀に外れたことをして罰される自分を面白おかしく歌っています。途中で「私が作ったわけじゃないルールは全部破ってる」という歌詞がありますが、90年代初めのアメリカ合衆国では、女性がセックスについて男性に媚びない主体的な表現をするのは堅気ではないルール違反な行為だったわけです。

 「ヒューマン・ネイチュア」の面白さは、語り手がとくにタブーを破ってやろうと意識せずに正直な表現をしているだけなのに、どういうわけだか知らないうちにルール違反にされているという状況を歌っているところです。語り手は「ヒューマン・ネイチュア」、つまり人間の本質だから自分はセックスその他について話さずにはいられないのだと言っており、おそらくは生きてるだけで過激な発言をしてしまうみたいな状況が想像できます。天然の反逆者であるマドンナらしい歌です。

 マドンナはいつも完璧な芸術家であるわけではありません。ファンが心配になるくらいトンチンカンな言動や駄作もずいぶんあります。正直、忠実な妹分である私も、たまに「姐さん、何やってんだろ」と思うこともあります。それでも、姐さんは私たちに、自信を持って自己表現していいんだということ、その自己表現には混乱や戸惑いがあってもいいんだということ、自分の性欲について自由に表現してもいいんだということを教えてくれたと思います。

参考文献

マドンナ、スティーブン・マイゼル、『SEX by MADONNA―マドンナ写真集』中谷ハルナ訳、同朋社、1992。