ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺は行なわれなかった。強制収容所にガス室は存在しなかった──。今なお一部でささやかれているホロコースト否定説。日本では1995年に起きた「マルコポーロ事件」が有名だ。文藝春秋社が発行していた月刊誌「マルコポーロ」95年2月号に、「ガス室は捏造されたもの」という内容の記事が掲載された。米国のユダヤ人団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」からの抗議と広告出稿ボイコット運動により、文藝春秋社は「マルコポーロ」の自主廃刊と社長交替を余儀なくされた。記事内容が検証されることなく文藝春秋社が早々に白旗を揚げたため、多くの日本人にはユダヤ人団体の圧力の凄まじさだけが強烈に印象づけられることになった。映画『否定と肯定』は「マルコポーロ事件」とほぼ同時期に起きていたユダヤ人歴史学者とホロコースト否定論者との闘いを描くことで、タブー視されがちなホロコーストをめぐる問題点を浮き彫りにしている。
レイチェル・ワイズ主演の実録法廷映画『否定と肯定』は、ユダヤ人歴史学者デボラ・E・リップシュッタットが主人公だ。1994年、リップシュッタット(レイチェル・ワイズ)が米国の大学で講演会を開いているところから物語は始まる。『ホロコーストの真実』を出版したばかりのリップシュッタットはテレビ局から討論番組への出演をオファーされていたが、すべて断っていた。学生から「なんでホロコースト否定論者との討論を避けているんですか?」と質問されるが、「ホロコーストは実際に起きた事実。頭ごなしに否定する人たちと話し合っても時間の無駄」というのがリップシュッタットの考えだった。ところが彼女の講演会に「学生たちに嘘を教えるな」とひとりの男が怒鳴り込んできた。ホロコースト否定論者の英国人作家デヴィッド・アーヴィング(ティモシー・スポール)だった。学生たちの前で挑発しまくるアーヴィング。まるでプロレスの仕込みのようだが、実際に起きたリップシュッタット vs. アーヴィングの第1ラウンドだった。
大胆に宣戦布告してきたアーヴィングは、96年になってから英国の裁判所へ名誉毀損の罪でリップシュッタットを訴える。彼女の著書で中傷され、作家活動に支障をきたしているというのがアーヴィングの告訴内容だった。ホロコーストがあったポーランドでもドイツでもなく、英国の法廷で闘うというのがアーヴィングの狙いだった。英国の裁判では訴えた側ではなく、訴えられた側が無罪であることを立証しなくてはならない。売られたケンカは買ってやろうじゃないかと意気込むリップシュッタットだったが、英国在住の事務弁護士アンソニー(アンドリュー・スコット)から「あなたは裁判で発言しないように」と釘を刺される。また、リップシュッタットはホロコーストからの生還者を証言台に立たせて、収容所で起きた悲劇を彼らの肉声で語らせることがこの裁判では重要だと考えていたが、これも却下されてしまう。裁判に不慣れなホロコーストサバイバーが証言台に立てば、記憶の曖昧さを揚げ足取りされる可能性があるからだった。
アウェーである英国での裁判を前に、自分を守ってくれるはずの弁護団とうまく意志の疎通ができずにイラ立つリップシュッタット。もし万が一、この裁判に負けるようなことがあれば、自分のせいで歴史上からホロコーストが存在しなかったことになりかねない。ホロコーストで亡くなった人々や遺族すら貶めることになる。英国のユダヤ人グループの長老たちからも、裁判はやめて示談にしたほうがいいと諭される。訴訟を起こしたことでマスコミからの注目度が急上昇したアーヴィングに比べ、リップシュッタットにとっては不利な要素が付きまとう裁判だった。
リップシュッタットの法廷弁護を引き受けた老弁護士のリチャード(トム・ウィルキンソン)と共に、アウシュビッツへ現地調査に向かう一行。アウシュビッツへのロケ撮影シーンは本作の大きな見どころとなっている。どんよりとしたアウシュビッツの空模様。終戦間際にドイツ軍が爆破したために収容所は破壊されており、跡地には寒々しい荒涼とした風景が広がるばかり。ガス室の痕跡が残る場所に立つリップシュッタットたち。ここで数十万もの罪なきユダヤ人たちが処刑されたのだ。レイチェル・ワイズの視線を通して、強制収容所跡地の禍々しさがひしひしと伝わってくる。アウシュビッツの風景を体感したことで、この後の裁判シーンに1カットだけガス室での処刑場面が挿入されるが、とても生々しいものとして目に焼き付くことになる。
2000年、ロンドンの王立裁判所での口頭弁論が始まり、アーヴィングは自分自身が弁護人となって証言台で滔々と自説を述べる。ところが、アーヴィングの語る内容とは「アウシュビッツにはガス室はなかった。収容所で伝染病が広まるのを防ぐために、死体をガス消毒していたのである。あれはガス室ではなく、霊安室だった」というトンデモ系のものだった。死体はすぐに焼却されたのに、なぜガス消毒するのか意味不明だった。さらに「なぜ霊安室の扉に覗き穴を付ける必要があったのか?」とツッコミが入ると、「地下にあるガス室をドイツ兵が防空壕代わりに使っていたから」というこれまた珍説が返ってくる。ここに至って、リップシュッタットの弁護団は彼女やホロコーストサバイバーたちをトンデモ学説を振りかざすホロコースト否定論者と同じ土俵には立たせないという戦略をとっていたことが明らかになる。テレビの討論番組や新聞では両論並記という形がよく用いられるが、それは根拠のない自説を唱える歴史修正主義者にとっては史実と同列に並ぶことができる絶好の機会だったのだ。
裁判が進み、アーヴィングは歴史資料の中から自分に都合のいい部分だけを抜粋し、内容を歪める形で自分の書物に引用していたことが判明する。そして判決、当然ながらリップシュッタットは勝利を収める。ではアーヴィングは歴史修正主義者の立場を改めたかというと、もちろんそんなしおらしい人間ではない。「公判結果をよく読むと、自分に有利なように読むことができる」とお得意の独自解釈をマスコミ相手に繰り広げる。裁判に負けても、彼はホロコースト否定論者であることをやめようとしない。なぜなら、「それでもホロコーストは存在しなかった」と主張したほうが、反ユダヤ主義者たちを中心に自分の出版物が売れるからだ。アーヴィングにとっては歴史的に正しいかどうかよりも、自分の本が売れることが重要だった。
月刊誌「マルコポーロ」の場合は、アーヴィングたちが支持したホロコースト否定説という反ユダヤ主義者たちのプロパガンダ文書を鵜呑みにした寄稿記事を掲載したために、廃刊へと追い込まれた。歴史修正主義者たちを支える民族差別や偏見が消えない限り、アーヴィングのようなトンデモ学説は今後もささやかれ続けるに違いない。
(文=長野辰次)

『否定と肯定』
監督/ミック・ジャクソン 脚本/デヴィッド・ヘア
出演/レイチェル・ワイズ、トム・ウィルキンソン、ティモシー・スポール、アンドリュー・スコット、ジャック・ロウデン、カレン・ピストリアス、アレックス・ジェニングス
配給/ツイン 12月8日(金)よりTOHOシャンテほか全国ロードショー公開中
C)DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016
http://hitei-koutei.com

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