
2009年にタイで試合を行なって以降は実戦から遠ざかっている辰吉丈一郎。それでも毎日の走り込みとトレーニングは欠かさない。
誰もが不可能だと思っていたことを可能に変えてしまうヤツ。ヒーローという言葉をそう定義づけるなら、辰吉丈一郎ほどヒーローに相応しい男はいない。“浪速のジョー”ことプロボクサー・辰吉丈一郎には常に驚かせられ続けた。1991年、プロデビューからわずか8戦目でWBC世界バンダム級王座に輝いた。これは当時の国内最短記録だった。『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈さながらのやんちゃキャラで、たちまち人気者になった。ボクサーとして致命傷とされた網膜剥離を患った際には、JBCから引退勧告されながらも特例を認めさせ、引退を賭けて薬師寺保栄との王座統一戦に臨んだ。94年に行なわれたこの試合は視聴率53.4%(関東地区)を記録。現WBC王者の山中慎介はこの試合をテレビで観戦し、ボクシングを始めている。その後、JBCは網膜剥離を完治した上での復帰を認めることになった。さらに世間を驚かせたのが、97年のシリモンコンとの一戦だ。タイの新鋭王者を相手に、27歳になった辰吉は7回TKO勝利を挙げて3度目の王座に返り咲いた。だが、まだ辰吉丈一郎伝説は終わりを迎えてはいない。40歳を過ぎた今も、辰吉は現役であることにこだわり、ハードなトレーニングを続けているのだ。
天才と狂気との紙一重の存在である辰吉を、20年間にわたってフィルム撮影し続けているのは阪本順治監督だ。ボクシング映画『どついたるねん』(89)で衝撃的デビューを果たした阪本監督は、辰吉を主人公にした『BOXER JOE』(95)というドキュメンタリードラマも残している。『BOXER JOE』の完成後も阪本監督と辰吉との交流は続いていた。辰吉がリングを降りる瞬間まで見つめていきたいと、笠松則通カメラマンら最低限のスタッフで海外遠征も含めて追い続けた。それがドキュメンタリー映画『ジョーのあした 辰吉丈一郎との20年』である。
薬師寺との一戦に敗れた翌95年から撮影は始まった。1Rで左の拳を骨折しながらも最後まで薬師寺と戦い続けた熱戦は日本中を感動の渦に巻き込んだが、判定負けを喫したために国内でのリング復帰は叶わず、海外でのカムバックを模索していた時期だった。阪本監督は辰吉がキラキラと輝いていた時期よりも、王座を追われてしんどいときにカメラをより回している。男手ひとつで辰吉を育てた父・粂二さんが亡くなったとき、長年世話になった大阪帝拳を出て個人でトレーニングを積むようになったとき。リング上でスポットライトを浴びる辰吉とは異なる素顔を、阪本監督はフィルムに焼き付けていく。

「ベルトよりも子どもが生まれたときのほうがうれしかった」という丈一郎の愛情を浴びて、2人の息子はすくすくと成長していく。
辰吉はボクシングセンスだけでなく、言語センスにも優れている。「生まれ変わりたいと一度も思わない。面白いもん。辰吉丈一郎を一度やったらやめられない。父ちゃんの子どもでいたい」「(父と2人での生活は)ビンボーじゃなかった。世間的にはそうかもしれないけど、辰吉家は楽しかった」。辰吉の口からしばし語られるのは、自分を育て、ボクシングを教えてくれた父・粂二さんへの感謝の想い、そして愛妻・辰吉るみとの間に生まれた2人の息子・寿希也と寿以輝への愛情だ。辰吉は単なる天才アスリートではない。人間力がハンパなく高い男なのだ。そんな男だから、観客はみんな辰吉を応援し、辰吉はその声援を活力に変えて闘い続けてきた。
辰吉に対する阪本監督のインタビューを中心にして本作は構成されている。20年間にもわたる付き合いとなると取材はなぁなぁになりがちだが、16ミリフィルムを介した2人のやりとりにはそれがない。プロ中のプロと認め合っている2人は、お互いの心を開いて、パンチの代わりに言葉を交わし合う。辰吉の口からどんな台詞が飛び出すのか、スリリングな時間が流れる。20代の頃の辰吉の鋭い言葉の返しも見事だが、30代、40代になってからはひと言ひと言に重みが増していく。辰吉から率直な言葉を引き出す阪本監督はインタビュアーというよりも、心理カウンセラーのように映る。辰吉は阪本監督を相手にしゃべることで、今の自分が置かれている状況を冷静に客観視しているかのようだ。ベルトを失い、愛する父を失い、そして若さも失っていく辰吉だが、カメラに向かってしゃべり続けることで、自分自身のアイデンティティーを確かめているのではないだろうか。
現役ボクサーであることにこだわり、リングに上がることを渇望する辰吉の健康面を心配する声もある。でも、辰吉は「試合がしたい。引退しなかったことでいろいろと分かることがある」と突っぱねる。引退は他人から強要されるものではないというのが辰吉の持論である。阪本監督もまた辰吉とのインタビューによって大いに触発されているはずだ。『どついたるねん』で映画界に熱狂的に迎え入れられた阪本監督だが、その後は楽ではない道を歩んでいる。藤山直美主演の実録犯罪サスペンス『顔』(00)は高い評価を得たが、興収結果がすべてというシネコン全盛期に作家性をキープしながら作品を撮り続けるのは容易ではない。40歳を過ぎても実戦に向けてトレーニングを重ねる辰吉の一途さは、阪本監督はもちろん、観る者の心を今なお激しく揺さぶり続ける。

るみ夫人の実家の前で家族そろっての近影。丈一郎がどんな状況にあっても、辰吉一家から明るさが消えることはない。
この20年間で、世界はがらりと変わってしまった。日本は二度も大きな震災を経験し、物事の価値基準も人間関係も以前とはまるで異なるものになった。そもそも辰吉が引退するまで追い続けるはずだった本作だが、16ミリフィルムでの撮影ゆえに、これ以上フィルムでの対応が難しくなることもあり、20年という区切りで一本にまとめることを阪本監督は決断した。映画界はすっかりフィルムではなく、デジタルの世界に変わってしまった。辰吉の2人の息子も撮影の度にぐんぐんと大きくなり、次男・寿以輝はプロデビューを果たすまでになった。辰吉自身の風貌も20代の頃に比べて、ずいぶんと変わった。
でも、どんなに時間が流れても、社会が変わっても、変わらないものがある。それは辰吉丈一郎が家族に注ぐ愛情であり、そして飽くことなき闘争心だ。阪本監督は20年という歳月を費やして、生きていく上でとても大切なものをスクリーン上に浮かび上がらせている。『ジョーのあした』は間違いなく、ひとりのヒーローの素顔を記録したドキュメンタリー映画である。
(文=長野辰次)

『ジョーのあした 辰吉丈一郎との20年』
企画・監督/阪本順治 プロデューサー/椎井友紀子 撮影/笠松則通 録音/志満順一 ナレーション/豊川悦司
出演/辰吉丈一郎、辰吉るみ、辰吉寿希也、辰吉寿以輝
配給/マジックアワー 2月20日(土)よりシネ・リーブル梅田ほか大阪先行公開 2月27日(土)よりテアトル新宿、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次ロードショー
(c)日本映画投資合同会社
http://www.joe-tomorrow.com

『パンドラ映画館』電子書籍発売中!
日刊サイゾーの人気連載『パンドラ映画館』が電子書籍になりました。
詳細はこちらから!