深田恭子さん主演『ダメな私に恋してください』(TBS系)はいよいよ5話と、中盤戦に突入~。今回はとにかく胸キュンシーンがこれでもかこれでもかと出てきました。いわゆる「キュン死」した女性はいたんでしょうかね。 4話で「結婚を前提としたお付き合い」をすることになったミチコ(深田)と最上(三浦翔平)。この日も夕食を共にした2人は、帰り道を歩いたんですが、最上が「ウチに来ませんか」と発言。この時点でイケメンにそんなこと言われて……なんて妄想した女性もいるのでは。ですがミチコは「がっついている30歳」とかなんとかどうでもいいことを考えて、一度断ります。しかし、最上のガックリな表情を見て「やっぱりいきます」と発言、したのに、突然最上のスマホに着信が(お約束ですね)。何か用があるのか「今日は喫茶店行きましょう」と“お泊り”はなしに。あーあ。 失意のまま、居候する「喫茶ひまわり」に帰ってきたミチコに、黒沢(ディーン・フジオカ)は「1日で老けたなあ」と発言。その後、黒沢が花の咲かないクリスマスローズに毎日水をやっている話を聞きます。死んだ黒沢の兄は、枯れた花でも水をやってそのうち咲かせてしまう「花咲じいさん」だったそう。切ない話であります。 数日後、ランチに出たミチコは、黒沢の兄の妻だった花屋の春子(ミムラ)と遭遇。一緒に定職屋に行ったミチコは、春子が話しやすくて気さくなことを知り、一瞬で仲良くなります。春子の話を聞く限り、黒沢が春子を好きである(らしい)ことにはまったく気づいていない模様。その中で、ミチコは黒沢に居候の「恩返し」をしようと思うように。 家に帰ってきた後、黒沢を誘ってミチコは焼肉へ。黒沢がお酒を飲んで眠そうになったところで、ミチコは「春子さんが好きなのでは」と質問。「そんなことねえよ、別に」とうつろに答える黒沢でした。強がるディーン・フジオカがかわいすぎて「キュンっ」てとこでしょうか。私は深キョンに「キュンっ」ですが(どうでもいいですね)。ミチコも、そんな黒沢を魅力に感じているようでした。 後日、改めて最上に「バレンタインデー、家に行かせてほしい」と伝えたミチコ。最上クンも大喜び。というわけで、ミチコは黒沢に無理やり「元気が出るオムライス」の作り方を伝授してもらいます。 最上の家に行った当日、ミチコのオムライスは形は最悪ですが、味は最高だったようで、最上も喜んでおりました。そう、今ミチコは「男の家」にいます。ベッドを見て「あれが試合会場か……」というあたりもう病気です(笑)。 最上は、ミチコが黒沢と付き合っているのではと疑っておりました。ミチコはそれを否定した上で、黒沢と一緒に暮らしていることを認めたのです。「これはフラれる」と思ったミチコでしたが、最上はそんなこと微塵も思わず「これからもよろしく」「柴田さんがいいんです」と笑顔。あーイケメンにそんなこと言われた日にゃ……。 えー、ここから「キスシーン」があるのですが、その描写は赤面ものすぎて文面に起こせません! ぜひ本編で確認してくだされ……。 ムードも最高潮! いよいよ「試合開始か!?」というところで、最上のスマホに着信が……。それを見た最上は「今日は保護者(黒沢)のもとに返します」と、お泊まりを否定する発言(はぁ!?)。しかしミチコは、キスできた達成感に浸って帰ります。最上、やはりちょっと怪しいな……。着信の相手は誰なのか。 「喫茶ひまわり」では、黒沢と春子が楽しそうに談笑しておりました。それを見て、なんともいえない切ない気持ちになるミチコ……あれ、黒沢のことも気になってる? 今後、ミチコの気持ちがドンドンと揺れていく予感の5話。登場キャラクターの9割が幸せになりそうな物語で、非常に安心して見ていられます。結末が気になるところですが、まだ折り返し地点。のんびり楽しみましょう。 ちなみに、深キョンがディーンさんにホレちゃってアプローチしてるなんてニュースが出てましたが、本当なんだろうか。ディーンさんは既婚ですよ。 (文=どらまっ子KYOちゃん)『ダメな私に恋してください』公式サイト(TBS)
日別アーカイブ: 2016年2月10日
ほしのあきも困惑? 「黒船来襲」でベテラン日本人騎手の収入が激減! 日本競馬に未来は?
どんなスポーツ選手も年齢による衰えは否定できない。そして、その衰えは時に残酷でもある。かつて三冠王に輝き年俸5億円の輝きを誇った元福岡ソフトバンクホークスの松中信彦選手(41歳)は、自由契約となって現役続行を模索するも、どこの球団からも声がかからず引退は目前。 あるいは、かつて日本代表のゴールキーパーとしてワールドカップでも活躍した川口能活選手(40歳)は、いまやJ3相模原に所属し、現役を続行するも名前を聞く機会すら少ない。 それでも、一流選手ともなれば引退後にコーチや解説者、評論家といった仕事を得ることができるだけ、やはりメジャーな野球やサッカーは有利である。しかし、同じアスリートでも引退後の展望がまったく不透明な競技がある。それが騎手だ。 野球やサッカー、バレーボールやバスケットボールなどの一般的なスポーツと異なり、騎手や乗馬といった「馬」に関わる競技は非日常的だ。それだけに引退後の騎手が活躍できる場面は少ない。先日引退を表明した花田大昂騎手のように、馬に乗る機会に恵まれず勝てなくなった若手騎手が、調教助手となって再出発することはよくみられるが、雑用も多いこの仕事は若手騎手からの転職が多く、ベテランはあまり見かけない。 加えてテレビに出るような予想家や評論家といった「枠」もほぼ埋め尽くされており、よほど知識や実績、そしてトークに長けていないと割って入ることは難しいのが現実だ。 ベテランになればなるほど厳しい現実が待っている競馬だが、さらに追い打ちをかける制度が昨年始まった。2015年からJRA(日本中央競馬会)の新たな方針として、試験に合格すれば外国人騎手でもJRAに所属できるようになったのだ。 その結果、ミルコ・デムーロ、クリストフ・ルメールといったJRA所属の外国人騎手が誕生し、初年度から2人で230勝を超えるなど日本人騎手を圧倒する大活躍。今年もリーディング1~2位を分け合っている状況だ。そのあおりを受けたのは、いわゆる日本人の中堅ベテラン騎手である。 現在の日本競馬は、2人の外国人騎手と短期免許で来日する外国人騎手、さらにごく一部の東西のトップジョッキーと将来性豊かな若手騎手が中心となっており、ベテラン騎手の騎乗回数、そして騎乗馬の質は低下する一方。 通算2,221勝をあげたベテラン・柴田善臣騎手は、2004年に年間146勝を記録したが、昨年は45勝、今年に至っては2月7日現在でまだ未勝利である。 また、カッチーの愛称で人気を集めた田中勝春騎手も2007年の109勝をピークに昨年は34勝まで下落、そして今年は騎乗停止もあってか、まだ未勝利なのである。 さらに、武豊騎手の弟である武幸四郎騎手は2004年に61勝、通算G1レース6勝をあげながら昨年はわずか13勝、今年もまだ1勝にとどまっている。 他にも怪我で休養中の騎手を除いて今年未勝利という騎手は多くおり、その数はなんと40名というから驚きだ。JRA所属騎手は120名ほどだから、実に3分の1が1カ月を経過して未勝利なのである。 彼らに共通していることは、明らかに体力的にも技術的にも衰えが感じられることだろう。2015年の1番人気馬での騎乗結果は柴田善臣騎手が勝率26.7%、田中勝春騎手は勝率16.7%。二人とも2016年は1番人気で未勝利とまるで勝てていない。前述した外国人騎手デムーロの勝率37.1%、ルメールの勝率35.1%と比較しても実力差は明白。 この数字を見せられては、馬主も調教師もベテラン騎手から外国人騎手にシフトしていくのは自然な流れだろう。 しかし悲惨なのは当の本人達。2015年推定収入6,500万円強だった柴田善臣騎手は、このまま未勝利では終わらないだろうが、仮に騎乗回数も減少して10勝程度に終わった場合、推定収入は3,000~3,500万円程度に半減する。それは他の騎手も同様である。 他にも、ほしのあきの夫としてお馴染みの三浦皇成騎手も大きく成績を落としており、このペースでいけば昨年の半分程度に収入が落ちる計算になる。この現実にはほしのあきも気が気でないだろう。 騎手は基本的に個人事業主。税金の支払い等を考えれば生活に与える影響は大きく、スチュワーデスと再婚して幼い子供を抱える田中勝春騎手とすれば、衰えは即死活問題につながる。 しかしプロ野球やJリーグで夢を与えるのが日本人選手であるように、日本競馬の将来を考えれば、日本人騎手が外国人騎手に劣っている姿は見たくないもの。彼らの生活のためにも、周囲の低評価を覆すベテラン騎手達の活躍に期待したい。
ホームレスに洋服をあげたら病院送りに!? 善人が損をする、中国“人心荒廃のスパイラル”
道に倒れている老人を助けた人が、逆に賠償請求されてしまうという例が相次いでいる中国で、再び「人助けリスク」を痛感させる事件が起きた。 広東省珠海市でホームレスに洋服を差し出した男性が、感謝されるどころか逆に暴行を受けて意識不明の重体となっているのだ。 台湾「中時電子報」によると、被害者は台湾出身の映像監督の林伯勛(リン・ボーシュン)氏。子どもに安全を呼びかける教育映画『宝貝、別害怕(ベイビー、怖がらないで)』製作のため、同地に滞在していたという。 林氏は1月16日、寒空の下で半袖で凍えているホームレスの男を見て心が痛み、自分の着ていたコートを差し出した。ところが、この行為を侮辱と受け取ったのか、男は持っていた鋭利な刃物で林氏を襲撃。さらに、林氏の所持品を奪い取った。 林氏は当初、意識がはっきりしており、自分で病院に駆け込み、4日後に退院したが、翌日に容体が急変。再び病院へ運ばれたときには意識不明となり、現在は植物状態で危険な状態が続いているという。 また、高額な医療費も台湾のネット民を驚かせている。林氏の家族の話では、一日の医療費が1万8,000元(約33万円弱)に及んでいる。治療を始めてすでに数日が経過していることから、林氏の家計は困窮状態に陥っているという。 中国のネット上では、林氏の回復を願うコメントが相次いだが、中には「中国でホームレスをしているやつは、趣味だったり仕事だったりする。本当のホームレスなんて、どこにもいない。仕事が終われば、普通の服に着替えるんだ」「善良な心を行動に移す必要はない」と、被害の発端となった林氏の行動を批判するような声もある。 中国社会にはびこる人心荒廃のスパイラルは、まだまだ続きそうだ。 (文=牧野源)意識不明の重体状態が続く、被害者の林伯勛氏
セカオワのピエロ「熱愛で顔バレ危機」高橋みなみ「西川貴教と恋の予感?」芸能人たちの春
愛の理想世界における、ブス~夢見るためのバズ・ラーマン論
非常につらい話だった先月の『サンドラの週末』からうってかわって、今日は『ロミオ+ジュリエット』や『ムーラン・ルージュ』など、キラキラした華麗なスタイルで有名なオーストラリアの映画監督、バズ・ラーマンの作品群をとりあげてみようと思います。クィア批評(これが何かは後で説明します)などに触れつつ、最後は少し個人的な思い入れの話になってしまうかもしれません。
◎バズ・ラーマン監督の来歴
バズ・ラーマン監督は1962年9月17日にシドニーでマーク・アンソニー・ラーマンとして生まれました。「バズ」はあだ名だそうです。オーストラリア国立演劇学院(NIDA)で学び、在学中に作成した短い芝居をもとに発展させたStrictly Ballroomが舞台であたります。1988年にヒット作となったこの芝居は1992年に映画化されました。これがラーマンの初監督作であり、ダンス映画として大成功をおさめた『ダンシング・ヒーロー』(Strictly Ballroom)です。これと並行してラーマン監督は舞台の演出にも取り組んでおり、同じくNIDAの学生で、のちにラーマンの公私両面にわたるパートナーとなるプロダクションデザイナーのキャサリン・マーティンと組むようになります。
ラーマンが1990年にシドニー・オペラ・ハウスで上演したプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』は非常に高い評価を受け、DVD化されています。この後、ラーマンはマーティンと組んでさまざまな映画を撮るようになり、1996年に『ロミオ+ジュリエット』(Romeo + Juliet)、2001年に『ムーラン・ルージュ』(Moulin Rouge!)を製作しました。ここまでに撮った3本の映画は舞台芸術を重要なモチーフとしているため、「赤いカーテン三部作」(Red Curtain Trilogy)と呼ばれています。この後、2008年に『オーストラリア』(Australia)、2013年に『華麗なるギャツビー 』(The Great Gatsby)を撮り、今までに5本の映画を製作しています。
この他、2004年にニコール・キッドマンを使って撮ったシャネルNo.5香水のCMである‘No. 5 the Film’と、10年後に作られたその続編CMである‘The One That I Want’も有名です。現在、ラーマンはネットフリックスのために、黎明期のヒップホップを中心とする1970年代ニューヨークの音楽シーンを描いたドラマ『ザ・ゲット・ダウン』(The Get Down)を準備しているところで、アメリカでは今年の夏に放送開始予定ということです。予告はこちらで見ることができます。
◎キラキラの世界とキャンプの美学
まばゆい色彩が溢れる豪華絢爛なセットに燦然と輝く衣装の役者たちが踊り狂い、スターが登場したりカップルが恋に落ちたりする場面では音楽が鳴ってバックに花火が炸裂するラーマンの映画は、極めて人工的な世界です。もともと舞台出身のラーマンは、音楽で物語を進めるオペラを得意としていました。ラーマン作品には舞台の慣習をそのまま持ち込み、映画では不自然とも思われるような演出を平気で実行する大胆さがあります。作品のほとんどは情熱的な愛を主題にしていて、ラーマンの世界では何よりも重要なものとされているのですが、おそらくラーマンのクリエイティヴチームにとって、激しすぎる愛の歓びや苦痛を表現するには役者がただ台詞を話したり、動いたりするだけでは不足なのでしょう。愛というキラキラした爆発的な感情を観客にも感じてもらうため、ドラマティックな音楽とまばゆい色彩がこれでもかとばかりにつぎ込まれます。最初は笑ってしまうほどクサい演出に戸惑っていた観客も、いつの間にかこのペースに巻き込まれ、ロミオとジュリエットや、サティーンとクリスチャンの現世では結ばれぬ恋に心を奪われてしまうことになります。ラーマンは自分の作品を現実に似せる努力をほとんどしません。リアリズム的演出を採用しなくとも、物語や登場人物の心を観客に効果的に伝えることは可能なのです。
こうした人工的で過剰なスタイルゆえに、ラーマン作品はしばしば「キャンプ」の美学という側面から語られることが多くなってします。ここでまずキャンプの美学、そしてそれと関連するところも多い「クィア」という概念について少しだけ説明することにしましょう。
キャンプというのは美意識の一種で、なかなか定義が難しいのですが、多くの場合はナチュラルさやリアルさを拒否する過剰でわざとらしい演劇性を評価する感覚としてとらえられています。批評家のスーザン・ソンタグは1964年の有名なエッセイ「<キャンプ>についてのノート」(『反解釈』高橋康也他訳、ちくま学芸文庫、1996年に収録)で、「キャンプの見方の基準は、美ではなく、人工ないし様式化の度合い」(p. 434)だと定義し、さらにこう述べています。
キャンプはあらゆるものをカッコつきで見る。たんなるランプではなくて「ランプ」なのであり、女ではなくて「女」なのだ。ものやひとのなかにキャンプを見てとることは、役割を演ずることとして存在を理解することである。人生を芝居にたとえるやり方を感覚の次元でつきつめていくと、こういうことになるのだ。(p. 439)
これだけではわかりにくいので例をあげるとすると、派手なパフォーマンスで過剰かつ演劇的な「女らしさ」を演出しつつ、どうもそれだけにおさまらないというか、セクシーなのに実はそこまで「男ウケ」も「白人ウケ」もしないような一筋縄ではいかないスタイルを作り上げているニッキー・ミナージュはたいへんキャンプなアーティストだと言われています。意識的に女のフリをしている女、女の役割を過剰に演じている女、とでも言うべきでしょうか。
こうしたキャンプの美意識というのは、ドラァグクイーンなど同性愛者のカルチャーに根ざしている部分が大きいと言われています。そこでこのキャンプを分析するにあたり、多大な貢献をしているのがクィア批評という分野です。クィアというのはこれまたとても定義しづらい概念で、もともとは「変態の」「奇妙な」というような意味の侮蔑的表現です。現在ではこうした侮蔑を逆手にとって、世間的に「正常」とされるセクシャリティにおさまらないことを「クィア」と呼称しています。同性愛やトランスジェンダーなどだけをクィアを呼ぶと思っている人もいるようですが、これは若干不正確で、いわゆる「ふつう」と違う、何か逸脱があるようなセクシュアリティに関わるものは全て包含しうる概念です。こうしたセクシャリティにおける逸脱や「何かが違う」ものをテーマに文学や芸術などを読み解く批評をクィア批評と呼びます。
バズ・ラーマンは、ふつうなら語り尽くされた古くさい物語と思われそうなものに、人工的な様式化、人生は芝居で人は皆役者であるという感覚を持ち込み、そうすることで古い物語に「何か違うな」という雰囲気を与えて脱臼させるテクニックに長けています。映画研究者のパム・クックはラーマンについて「ノーマルだとか、自然だと思われるものを攪乱したり、転覆させたりする」点でラーマンはクィアなクリエイターであり、またキャンプなスタイルを持っていると述べています(Pam Cook, Baz Luhrmann, Palgrave Macmillan, 2010, p. 97, 拙訳)。ラーマンはキャンプの美学をとてもよく体現したクリエイターと言えるでしょう。ラーマンはある時代やある物語類型が持っている輝きを極端に抽象化してワンフレーズで言えるくらいまで切りつめた後、そこにひとことだけ残ったエッセンスを現代の観客に感じさせるためには何を用いるべきか、ということを常に考えている作家だと思います。そこで観客にエッセンスを感じさせるために用いられる強調やデフォルメが、なんともいえないキャンプな雰囲気を醸し出すのです。
◎愛と悲惨な現実
キャンプの美学を念頭に置きながらラーマン作品を見ていくと、華麗な愛の礼賛に隠れた意外な悲観主義が見えてきます。デビュー作の『ダンシング・ヒーロー』はダンスという愛の芸術に取り組むスコットとフランという若いカップルを主人公にしています。この映画では、熱く踊る若いふたりとすっかり創造性を失ったスコットの両親を対比することで、芸術を通して、いくぶん過剰な形で愛を演じることがいかに愛の魔法を創り出すか、そしてそれがなくなった人生はいかに虚しいものになりうるかということを描き出しています。
『ロミオ+ジュリエット』ではラーマンは設定を完全に現代化し、ビーチの街で若者たちが血で血を洗う抗争を繰り広げつつ古典的で大仰な台詞を話すというミスマッチを生かして、独特の過剰な様式美を創りあげました。実は演劇の世界では、こうした台詞や展開はそのままで古典の設定を現代化するような演出はよくあるのですが、それをそのまま映画で行いました。結果的に、極めて人工的な世界観にもかかわらず、突っ走る若者たちの愛の悲劇が浮かび上がります。『ムーラン・ルージュ』は、貧乏詩人と病を抱えた高級娼婦の恋という『椿姫』や『ラ・ボエーム』などからそっくりいただいてきたような手垢のついた物語を、人は皆役者であり、役を演じている間こそが華なのだ、という感覚をもって語り直すことで独創的な世界を現出させています。『華麗なるギャツビー』では、ジャズエイジの輝きを現代人に感じさせるためにヒップホップなどを用い、タイトルどおり華麗ですがどこか悲しいパーティとその終わりを見せます。
こうした作品群の特徴として、愛が幸福であるのはキャンプで過剰で演劇的な魔法が効いている間だけで、現実世界との接点があらわれると愛には必ず、不幸な結末が訪れるという展開があげられると思います。とくに『ムーラン・ルージュ』で顕著ですが、この作品では最初と最後に、ユアン・マクレガー演じるクリスチャンが、死んでしまった恋人で女優のサティーンを思いながらタイプライターを打って物語を書くという場面があります。この枠により、ふたりでショーを創りあげるという現実から離れた舞台の世界においては愛が実り多く素晴らしいものであったことが示される一方、それがなくなった現在、現実においては愛が消滅し、つらい人生が続くことが暗示されます。肉体を用いる舞台芸術が理想化される一方、文字メディアは夢の燃えかすを記録するだけで、灰色の現実を象徴するものとして消極的な意味付けがなされています。こうした作品群において、愛はいくぶん理想化され、芸術的に作られた世界でのみ幸福に存在するもので、現実に寄り添いすぎた世界ではひどく脆く、失われやすいものになってしまいます。ラーマンの作品世界において、愛が不自然なほど華麗に描かれるのは、それが現実世界ではなく、かぎりなく夢の次元に近いからでしょう。
◎ブスの夢
ここで私がとくに注目したいのは、ラーマンの映画の世界において、ニコール・キッドマンが主演している『ムーラン・ルージュ』と『オーストラリア』以外はヒロインが――これは絶対に言ってはいけない言葉なので、使うのがはばかられるのですが、勇気を出して一度だけ言います――男優に比べるとちょっとばかりブスである、ということです。
ラーマンのヒロインが美しくないことは既にデビュー作『ダンシング・ヒーロー』の時から注目されていました。クィア批評の研究者であるジョン・シャンペインは、タラ・モーリス演じるフランが明らかにポール・マーキュリオ演じるスコットよりも見映えのしない女性として描かれていることはゲイの男性客にはアピールするであろうが、全体的には女性恐怖が見て取れると論じています(John Champagne, ‘Dancing Queen? Feminist and Gay Male Spectatorship in Three Recent Films from Australia’, Film Criticism 21.3 (1997): 66-88, p. 81)。ラーマンの作品については、このようなクィア批評の文脈でゲイの男性客へのアピールやクィアな感性を論じるものが比較的多いかと思います。しかしながら、私はラーマンがこれ以降も美しくない女優を作品に出し続けたことは、上にあげたようなクィア批評の文脈とは違った視点から、ヒロインを中心にもう少し考える必要があるのではないかと思っています。
しばしば指摘されていますが、『ダンシング・ヒーロー』は「醜いアヒルの子」の物語です。ヒロインのフランは、初登場の場面では本当にぱっとしない女性で、見るからにハンサムなスコットに釣り合うとは全く思えません。しかしながらフランは心のこもった情熱的なダンスでスコットの心を動かし、ダンス技術にも良い影響を与え、似合いのダンスカップルとなります。最後のフランは最初よりもだいぶ素敵な女性になっていますが、これは容姿がキレイになったからというよりは自己表現の技術を身につけ、自信に満ちた女性になったからという側面が強いだろうと思います。次作『ロミオ+ジュリエット』では、ロミオ役のレオナルド・ディカプリオが輝くばかりの美しさを誇っているのに対して、ジュリエット役のクレア・デインズはどちらかというと地に足の着いた地味な女優です。実は私がはじめて見たシェイクスピア映画はこの『ロミオ+ジュリエット』で、おそらく中学生の時にこの映画を見ていなければ今シェイクスピア研究者になっていなかっただろうと思うのですが、ジュリエットがあまり可愛くなく、自分や自分の友達とたいして変わらないかもしれないふつうの女の子なのに、うっとりするほどキレイなロミオと恋に落ち、とてもしっかりした決断をするのに衝撃を受けた覚えがあります。この二作は、現実にいそうなぱっとしない女の子を中心に現実とはかけ離れた華麗な世界がぐるぐる回る、まるで乙女の夢と妄想を描いたような作品と言えると思います。世界じたいは極めて人工的なのに、ヒロインたちはどういうわけだかそのあたりにいそうな、ひょっとすると(私たち同様)ブスとか不細工とか言ってバカにされたこともあるのかもしれないようなふつうの女の子で、現実世界に釘付けにされているように見えるのです。
「赤いカーテン三部作」と語られることの多い『ムーラン・ルージュ』ですが、私はこの作品はクリスチャンを演じるユアン・マクレガーがハンサムなだけではなく、ヒロインであるサティーンを演じるニコール・キッドマンも誰もが認める麗人で、夢の人工世界ムーラン・ルージュの華であるという点で少々、前二作と異なっているかと思います。上で論じたように、この作品の構成じたいは芸術的な夢の世界における愛の幸福と寒々しい現実の暴力的な訪れという、前二作に見られる主題をさらに突き詰めたものと言えるでしょうが、登場人物の雰囲気は違っています。続く『オーストラリア』は、ヒロインにニコール・キッドマンを再び配し、ヒュー・ジャックマンがヒーローをつとめましたが、基本的に男女の和解で終わる物語で、前三作にあった愛の理想と現実を対比する悲観的視点がなくなっています。この作品は、ある程度の時代考証、つまりは正確性を要求する歴史ドラマとしての側面と、いつもの人工的なキャンプの美学があまりきちんとかみ合わず、うまくいっていないところも多いように見受けられました。私はここまでラーマンの作品を見てきて、この後、ラーマンはいったいどうなってしまうのだろう、もうラーマンの映画に不細工なふつうの女の子は出ないのだろうか……と不安になりました。
◎ブスの夢再び
ところが『華麗なるギャツビー』では、また美人でないヒロインが戻ってきました。デイジーを演じるキャリー・マリガンは実力のある女優ですが、おそらくフィッツジェラルドの原作を読んで想像するデイジーに比べると華が無く、地に足が着きすぎていると感じた人もいるかと思います。一方でギャツビーを演じるのは『ロミオ+ジュリエット』で世界の女性を魅了したレオナルド・ディカプリオで、今でも計り知れないスター性を持っています(私は若い頃のディカプリオに夢中だった世代なので感覚が偏っているかもしれないと思い、念のために自分のクラスの女子学生にきいてみましたが、今の学生の感覚でもやはりギャツビー役のレオはとてもハンサムだそうです)。
ギャツビーが、作品の語り手であるニックに初めて自己紹介し、グラスを傾けて微笑むと花火があがってジョージ・ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」が流れる場面は、さながら鳴り物入りで千両役者が登場するといった風情で、ニックが言うところの「極上の笑顔」にお客もやられてしまうでしょう。こうしたカリスマ的なギャツビーが、ジャズエイジの華にしては地味な感じのデイジーに執着するという展開は、ラーマンが最初に二作で行った、ヒロインだけが現実世界にいるようなふつうの女の子で、その少女がめくるめく夢の世界を体験する、という構成によく似ています。古典の映画化としてはいくぶん反則かもしれませんが、『華麗なるギャツビー』は、ラーマンのかつての作家性が戻ってきた作品だと思います。
現実にいそうなぱっとしない女の子を中心に過剰で華麗な作られた夢の世界が展開し、そこでのみ愛が花開くというバズ・ラーマン監督の作風は、女性客の乙女心をそそり、大きな夢を見せる一方、現実をも忘れさせないという複雑な作りを持っていると思います。一見、単純な恋物語のように見えるラーマン監督の独創性は、この悲観的な現実との接点にあるのかもしれません。バズ・ラーマン監督には、これからも乙女の夢を刺激する、はじめは楽しく、やがて悲しい世界を作り続けて欲しいと思っています。
■北村紗衣/北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科専任講師。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。
学級崩壊、それは世界崩壊の序曲にすぎなかった!? モンスター化する生徒たち『ゾンビスクール!』
チキンナゲットを食べたら、ゾンビになっちゃった!? 中国の食品メーカーが消費期限切れの鶏肉を混入していたことから日本マクドナルドがチキンナゲットの販売を一時中止し、ケンタッキーフライドチキンが国産鶏肉に切り替えたのが2014年。その後も異物混入騒ぎや廃棄ビーフカツの横流し事件など加工食品への不信感が高まるニュースが後を絶たない。そんな中、ファストフード関係者が卒倒しかねない米国産のホラーコメディが公開される。『ロード・オブ・ザ・リング』(01)のフロド役で人気者になったイライジャ・ウッド主演&プロデュース作『ゾンビスクール!』がそれだ。学校給食のチキンナゲットを食べた子どもたちが次々とゾンビ化し、教師たちを喰いちぎるという過激な内容となっている。 本作の原題は“cooties”。日本語に直訳すると「シラミ」だが、子どもたちが「このバイ菌野郎、あっちいけ!」と“えんがちょ”するみたいな意味合いもあるらしい。脚本を担当したのは、不条理な殺人ゲームもの『ソウ』シリーズの生みの親リー・ワネルと人気学園ドラマ『glee/グリー』のイアン・ブレナン。この2人が初タッグを組み、悪ノリしてシナリオを書き上げた。ゾンビ化した子どもたちがキライな教師を校庭で八つ裂きにして、内臓を引っ張り出し、小腸で仲良く縄跳びをし、くり抜いた眼球でビー玉遊びに興じる。明るく平和だったはずの小学校が昼休みには瞬く間に地獄絵図へと変貌していく。一方、生き残るために教師たちも必死だ。獲物を求めて校舎内へと乱入してくるゾンビ化した教え子たちに対し、封印されていた体罰で応酬する。手足スポ~ン、脳みそグシャッ状態である。 ファストフード店やコンビニで手軽に売られている加工食品や清涼飲料水が健康を害しているのではないかという不安感が背景となっている本作だが、より大きなテーマとして横たわっているのは大人が感じる子どもへの恐怖心だ。日本でも学校にクレームをつけまくるモンスターペアレントの存在が問題となったが、そんなモンスターペアレントに育てられた子どもたちも、今やすっかりモンスターチャイルドとなってしまった。ひとりのモンスターチャイルドが続々と増殖していく不気味さを、本作ではゾンビに置き換えて描いている。子どもたちがゾンビ化してしまう『ゾンビスクール!』。教師たちは八つ裂きにされ、キッズゾンビたちは引っぱり出した小腸で無邪気に縄跳びに励む。
本作の主人公・クリント(イラジャ・ウッド)は小学校の教師をしながら小説家デビューを目指しているが、いまどきの学校は片手間で務まるような呑気な職場ではなかった。臨時教員として母校に帰ってきたクリントは、着任初日から生意気な男子生徒ペイトリオットから授業を妨害される。注意しようと近づくと「体に触られたと親にチクるぞ」と威嚇される有り様。新米教師のクリントはもうお手上げだった。ペイトリオットの隣の席に座っている内気な少女シェリーもイジメの被害者だった。給食後から具合が悪そうなシェリーはちょっかいを出すペイトリオットに噛み付く。ゾンビウィルスを保菌していたシェリーからペイトリオットへと感染し、いっきに学校中、そして町中にウィルスが広まっていく。クリントの担当クラスの学級崩壊が発端となり、世界中が崩壊の危機に瀕することになる。 これまでにもプロデューサーとして『ブラック・ハッカー』(14)や『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』(14)など個性的なミステリー&ホラー映画を製作してきたイライジャ・ウッドが電話インタビューでコメントを寄せてくれた。 イライジャ「俳優として作品選びを考える際は、これまで自分が演じたことがないようなキャラクターかどうかが大きな決め手となるけど、プロデューサーとして参加する場合は才能ある人たちと一緒に仕事をしたいという要素が大きいよね。今回はホラーの鬼才リー・ワネルとコメディの天才イアン・ブレナンが共同で脚本を書くというので、ワクワクしたよ。決して政治色の強い作品にしようと狙ったわけじゃないんだ。子どもたちにファストフードを無造作に与えることの危険性はもちろんあるけど、米国では子どもたちへの過剰な薬物療法がより問題視されているんだ。多動性障害と判断された子どもの多くは薬物療法を受けさせられている。ただ元気すぎるだけなのかもしれないのにね。そういう現実的な問題は作品の中に盛り込んでいるよ。今回は特にブレナンのお母さんとお姉さんが学校の先生だったことから、教師の仕事ってすごく大変だってことが大きなモチーフになっているんだ。教師は子どもたちを教育する大切な立場にあるのに、米国の教師たちはあまりにも不当な扱いを受けているんじゃないかってね。教師の立場になって、彼らの願いをきっちり描くことが、今回の僕らにとって重 大なことだったんだ。もちろん、シリアスなものではなく、ユーモアとして描いたわけだけどね」 イノセントな存在であるはずの子どもたちだが、他人の痛みを理解できないまま育った子どもは恐怖の対象となる。映画の世界では、そんな恐ろしい子どもたちが度々描かれてきた。SF映画『未知空間の恐怖 光る眼』(60)は高度な知能を持つ銀髪の子どもたちが小さな町を支配しようとした。スペイン映画『ザ・チャイルド』(76)では島で暮らす無邪気な子どもたちが集団となって大人をひとりずつ処刑していった。『オーメン』(76)では悪魔の子ダミアンがかわいらしい仮面の裏で、着々と人類滅亡計画を押し進めた。臨時教員として母校の小学校に帰ってきたクリント(イラジャ・ウッド)。彼にとって学校はまさに生徒たちとの格闘の場だった。
イライジャ「ホラー映画が大好きなんだ。好きなホラー映画を尋ねられると、知っているだけに選ぶのに困るよ(笑)。『エクソシスト』(73)や『ハロウィン』(78)は基本だし、それにニコラス・ローグ監督の『赤い影』(73)も好きだな。最近のものだと『僕のエリ 200歳の少女』(08)もいいね。とりわけ『ザ・チャイルド』は大好きな作品。今回の映画製作でも『ザ・チャイルド』はすごく影響を受けている。『ザ・チャイルド』の子どもたちが大人を吊るし上げて処刑する場面をオマージュシーンとして再現したかったんだけど、時間の都合でできなかったのがちょっと残念(苦笑)。『ザ・チャイルド』の面白さは、出てくる子どもたちは特別なモンスターに変身するわけではなく、子どもらしさを残したまま、子どもの本能で行動し、それが殺戮へと向かうところ。その部分は、今回とても参考にしているよ」 かつては大人たちの無理解さに悩んでいた子どもだったはずの自分が、いつの間にか大人になっており、子どもたちの存在に怯えるようになっていた。本作にはそんなブラックな笑いと恐怖も込められている。童顔のイライジャ・ウッド(現在35歳)が大人に成りきれずにいる新米教師を演じているだけに、そのことがよりいっそう強く感じられる。教育の現場が崩壊してしまった世界で、これから人類はどう再生していくのか。ゾンビ映画に付き物の残酷描写もありますが、まぁホラーコメディですので、ファストフード関係者のみなさんも目くじらを立てずに、大人の対応で見守ってください。 (文=長野辰次)追い詰められた教師たちの反撃が始まる。問題児に対して教師たちが溜め込んでいた怒りのパワーはハンパなかった!
『ゾンビスクール!』 監督/ジョナサン・ミロ、カリー・マーニオン 脚本&出演/リー・ワネル、イアン・ブレナン 出演/イライジャ・ウッド、アリソン・ピル 配給/プレシディオ R15+ 2月13日(土)よりシネマサンシャイン池袋にて先行上映、2月20日(土)より全国公開 (c)2014 Cooties,LLC All Rights Reserved http://www.zombieschool.jp
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加藤紗里はマジで「犯罪者」だった!? 趣味悪すぎ狩野英孝の“余命宣告”はすでに始まっている……
9日の『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)に、お笑い芸人の狩野英孝が出演。番組には狩野の「2股交際報道」の渦中にあるモデル・加藤紗里もそろって登場した。狩野は加藤について「僕の彼女。去年12月から交際しています」と宣言。歌手である川本真琴との2股交際に、一応決着をつけたようにも思われたのだが……。 ネット上では、終始偉そうな態度で狩野の隣にいる加藤への怒りが爆発。「なんでこんな女と」「なぜか狩野がかわいそうになってきた」「始祖鳥?」「やっぱり魔女」と、加藤への印象は極めて悪い様子。しかも、交際発覚時に加藤が取材で答えた「ネックレスをもらった」などは嘘であると狩野が暴露。「ウソが多すぎる」「この上詐欺師かよ」という意見も……もう踏んだり蹴ったりである。 同番組終了後、加藤は自身のブログを更新。「正直、英孝って本当、全く悪い人じゃないもんね~」と語り、最後には「裏切られるかもしれないし裏切るかもしれないけど、それってまた別の話じゃない~~まぁその他の女については全員、蹴散らせばいいってことでしょ? 大丈夫、そういうの小学校の時から慣れてるから」と強気な発言。完全なる“炎上商法”なのかもしれないが、ここまであからさまな行動に移せるあたり、なかなかのタマだ。 ここまでなら、「まあ、英孝ちゃんて、ああいう変わった女性がスキなんだね」という話で終わらせることもギリギリできるかもしれない。しかし、そうも言ってられない「情報」が次々と寄せられているのが現状である。 「10日発売の『週刊文春』(文藝春秋)によれば、加藤はモデルというより六本木のホステスで、昨年末には同僚のカバンから20万円を盗んだと疑われ、防犯カメラにも彼女の姿が映っていたという話もあります。“性悪キャラ”じゃなく完全な“性悪”の可能性もあります。そもそも犯罪ですからね。ネット上では『史上初の売名犯罪者』とか書かれてますよ」(芸能記者) 見た目と同様、キナ臭すぎる疑惑だらけの加藤。狩野としてもそんな女性が相手でいいのだろうか。 さらに、事態は2人の間だけでは済まない。この騒動の引き金となった「彼氏とらないで」ツイートを発信した川本の親族が、10日の『ノンストップ!』(フジテレビ系)に電話出演。川本のツイートは1月25日に発信されており「真琴も、狩野さんも忙しくてあまり会えていなかったようですが、このツイッターを投稿した時点では、真琴は付き合っているという認識でした」と発言。やはり狩野は2股を“継続中”なのか……。 「ネット上に出ているように、この騒動は『日本一どうでもいいニュース』であることに間違いないんですが、とにかく狩野の女性に関する情報が底なしに溢れ出てくるので、マスコミとしても取り上げやすいのが現状です。『ロンハー』あたりは今後も面白がって狩野を出演させるかもしれませんが、旬が過ぎれば干されるのは間違いないでしょう。加藤も今だけ。ニュース誌面を埋めるためだけの“人形”に過ぎません。少したてば誰もこの話をしなくなりますよ」(同) もはやどうすれば“解決”といえるのかも謎だが、マスコミとしては、もっと話がややこしくなっていったほうが「楽」な部分はあるようだ。加藤紗里公式インスタグラム
人種差別糾弾モードのビヨンセ、クリス・マーティンが作ったコラボ曲を「最悪」と一蹴していた!
<p> 2月7日に開催された、アメリカ最大のスポーツイベント『スーパーボウル』のハーフタイムショーでメインパフォーマーを務めた英ロックバンド「コールドプレイ」のボーカル、クリス・マーティンが、コラボパフォーマーとして出演したビヨンセに、コラボ曲を「最悪」だと却下されていたことを激白。ビヨンセは、物議を醸している新曲「Formation」を発売したばかりで、さらなるバッシングが巻き起こっている。</p>
Hey!Say!JUMP人気で雑誌が完売! 出版社が「増刷を望むなら申し込みを」と異例の呼びかけ
Hey!Say!JUMPが表紙を飾る女性向けカルチャー誌「ROLA」2016年3月号(新潮社)が完売状態となり、出版社側が在庫の直接販売や増刷希望のリクエストを募っている。
同号は2月1日に発売され、「永遠に女子会する方法。」という特集を組んだもの。Hey!Say!JUMPが表紙を務めていることが売り上げに貢献したようで、発売日当日にはTwitterの同誌公式アカウントが「本日発売の女子会特集3月号は、Hey! Say! JUMPの表紙効果か、アマゾンランキング女性誌部門1位になってしまいました 店頭は品薄でご迷惑をおかけしております」とツイート。翌2日には、「ROLA3月号が、品薄のためご迷惑をおかけしております。ネット販売の補充は現在調整中ですが、確実に確保したい方には、弊社営業係への直接のご注文をお早目にお願い申し上げます」とアナウンスしていた。
視聴者が主体として考える作品とは──開始3分で面白さを伝える方法『いつ恋』第4話
ドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の第4話、今回も怒濤の展開と丁寧な描写によって視聴者を涙にくれさせたわけだが、視聴率は8.9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と振るわなかった。この連載では視聴率に対してどうこう言ったりくさしたりということではなく、あくまでも作品について書いているが、しかしなぜこれほどの作品が、この程度の視聴率しかないのかについては考えておきたい。作品の質と視聴率が、あまりにもかけ離れている。 結論から言えば、この作品は面白すぎるのではないか。言葉を換えれば、作品としての密度が高すぎるのではないか、と言えるかもしれない。 好き嫌いは感性の問題だが、面白いかそうでないかは、多くの部分を理屈が占めている。特にフィクションの脚本という観点からいえば、好き嫌いを別にして、面白いかそうでないかを理詰めで判定することは可能だ。第4話では、開始わずか2分でそれがわかる。このドラマは、明らかに面白いということが。 前回の最後で、交際相手に殴られて入院した木穂子(高畑充希)を練(高良健吾)が見舞っている、そのシーンだ。木穂子は練の後ろから「あんな長いメール送られて、正直引いた人」と尋ね、練の右手をつかんで「はい」と言って手を挙げさせる。さらに「この女ウソばっかりついてって思った人」と尋ね、再び「はい」。そして3度目、「ちょっと重いから別れたいって思ってる人」と尋ねて手を挙げさせようとするが、練は力を入れて拒否する。練、向き直り、「木穂ちゃんは木穂ちゃんです」と言って、自分で手を挙げる。そして2人はお互いを抱き寄せ、木穂子はか細い声で「もう駄目かと思ってた。普通の恋人同士になろうね。なれるよね」と練に言うのだった。ここまでで、ドラマの第4話が開始してからおよそ3分だ。 ドラマとはこういった脚本の上に、役者が演技でニュアンスを表現し、監督が演出を加えることにより、情報量が足されていく。基本的には情報量と面白さは比例関係にあり、情報量が多く含まれた映像作品は面白い、あるいは見応えがあるといった表現で評される。だがそこでは、見る側の意識も試される。ただ漫然と流れてくる映像を目にするのではなく、作品の情報を深く知ろうとする姿勢が、情報量の多い映像作品では必要になる。 たとえば先ほどのシーンでいえば、会話という情報のほかに、特に木穂子のパーソナリティが情報として隠れている。彼女はそのまま本音を言うのが苦手な人で、それは練の後ろに立って顔を見られないようにしていることからわかる。言葉と仕草が本心とずれていることから、言葉で気持ちを伝えるのが得意だとは思っていないということも。そして、思っていることと逆のことを言うという木穂子のパーソナリティは、その後の「普通の恋人同士になろうね。なれるよね」という言葉を不安なものにする。口ではそう言いながらも、実は彼女はそうできると信じていないのではないか、という暗い予兆までもが、この3分間に情報として潜んでいる。それは決して偶然にそうなっているのではなく、そうやって作られているのだ。 テレビドラマを、というかテレビに限らずフィクションの映像作品を観るという行為は、そういった意味で知的遊戯だ。それは単体の映像物としてそこにあるのではなく、観る存在であり考える存在である主体を必要とする。フィクションの映像作品を観るということは、ドラマであれ映画であれ、無料であれ有料であれ、受動的な行為ではなく、あくまでも主体的な行動なのだ。 テレビドラマがつまらなくなった、あるいは薄っぺらいものとなった、と言われて久しいが、それはもしかしたら、情報量の多い作品、それはつまり主体として考えるという行為が要求されるような作品を避けて通るようになった我々視聴者の視聴行動にも原因があるのではないか。少なくとも、この作品ほど深く語れる、考えることのできるテレビドラマは、近年では稀である。それを例えば、視聴率が低いからどうせつまらないに違いないなどといって観ないというのは、あまりにももったいない。 テレビとは、ただだらだらと流れるものではなく、作り手と受け手の共同作業だ。ドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』を面白くするのは、我々視聴者の仕事でもあるのだろう。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaaフジテレビ系『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』









