韓国で私生活切り売りしまくりのSHIHOと『元ハロプロ』タレント

 韓国でもそろそろ飽きられてきた秋山成勲と娘サラン。それに代わって今度は嫁SHIHOが韓国で必死だ。プライベート大放出、自宅大開放、旦那とのなれ初めをしゃべりまくって、流産の過去まで明かし、しまいにはカメラの前で「二人目ほし~♡」なんて甘えちゃったりも。  ちょっとー、日本でこれまであんたが必死に守ってきたイメージどこ行ったのさ。  昔からよく「しゃべるとがっかり」といわれたSHIHO。韓国のテレビで彼女を見るたびにがっかりを通り越して、「もうそこらへんで止めといたら」といってあげたくなるほど、いろいろ残念だ。彼女は12月11日の公式ブログで、サランの虫歯が8本もあることを明かしていたが、これを見た韓国のアンチファンからはさっそく、「だらしない」「ちゃんと娘を見てあげて」の猛ツッコミが。  とにかく韓国で必死のSHIHO。しかし韓国には彼女よりももっと必死な日本人妻タレントがいる。それが谷ルミコだ。 ◎韓国での肩書は「元ハロプロ」  谷ルミコ? それって誰? という人も多いだろう。ちなみに韓国では彼女のことを紹介するとき、必ず頭に〈元ハロプロ〉とつける。元ハロプロの谷ルミコ? 「ハロプロにそんな人いたっけ?」となるかもしれないが、彼女は1999年に「モー娘。&平家みちよの妹分オーディション」で優勝し、三佳千夏という名前でデビューしている。しかしその活動期間は短い。  その後、韓国人タレントのキム・ジョンミンと結婚し芸能活動を再開。谷ルミコとして韓国でちょくちょくテレビに出演中。3人の子どものママになった現在は旦那ともども、秋山ファミリー以上のプライベート切り売り商法で荒稼ぎしている。  結婚当初はトーク番組に出演しても、「愛されてます自慢」や「日韓夫婦あるある」など、微笑ましいネタを披露していただけの谷ルミコ。しかしそのネタが尽きると今度は、「夫が家事にも育児にも非協力的すぎる!」と、いまにも泣き出しそうな切なさいっぱいの表情であれこれ暴露。「10年間の結婚生活で、旦那が私の実家を訪ねたのはたったの2,3回」と話したときは、家族親子のつながりを何よりも重視する韓国で、「奥さんの親にそれはひどすぎる」と話題になった。  芸能人夫婦がお互いの不満をぶつけ合う番組では、自宅にカメラをセットし、普段の夫婦の様子を大公開したが、気の利かない言動連発の旦那キム・ジョンミンのことよりも、谷ルミコのイケてなさに目が釘付けになってしまった。 ◎リアルな私生活を視聴者が支持  朝から旦那と3人の子どものために品数多めのご飯を作り、同時に弁当も作り、短時間で食べさせ、着替えさせ、幼稚園に送り出す……という日常が紹介されたが、谷ルミコの姿には芸能人オーラはゼロ。あれではそこらへんの素人に混ざっても、中の下あたりのビジュアル。  もともと地味めなうえに、その日はほぼすっぴん? くすんだ肌に、起きて簡単にまとめただけのヘアスタイルはどんどんと崩れ、ゆるっとした家着のワンピから出たふくらはぎはなかなか強そうで、リビングをがに股気味に歩く姿は、立派な韓国アジュンマ(おばちゃん)だった。  しかし、SHIHOほどの嫌悪感を抱かせないのが谷ルミコ。やつれた姿で夫への不満を話す彼女は韓国人視聴者からのウケは抜群のよう。ネットには好意的な書き込みが目立つ。しばらくはこのキャラのままやっていけそうだ。でも、韓国人は飽きが早いからな~。  どちらも韓国で必死なSHIHOと谷ルミコ。来年以降のキャラ展開、いったいどうなる? 今週の当番=韓美姫(かん・みき) MERSで大騒ぎの韓国だが、マスクをしてる率が少なすぎて驚き! 「マスクに飽きた」なんて声も聞くが、それで本当に大丈夫なのか!?

まじか! 実はまだ解明されていなかった麻酔のメカニズム! 驚愕の実態とは?

【不思議サイトトカナより】 【ヘルドクター・クラレのググっても出ない毒薬の手帳 第3回、クロロホルム/後編】 
ThinkstockPhotos-499237996.jpg
画像は、Thinkstockより
■100年間解明されていないクロロホルムの謎  そもそもどうしてクロロホルムで気絶するのでしょうか? もとい、こうした分子をうまく吸わせると意識を失わせる(全身麻酔)原理はいったいなんなのでしょう?
続きは【トカナ】で読む

      
   
					

まじか! 実はまだ解明されていなかった麻酔のメカニズム! 驚愕の実態とは?

【不思議サイトトカナより】 【ヘルドクター・クラレのググっても出ない毒薬の手帳 第3回、クロロホルム/後編】 
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■100年間解明されていないクロロホルムの謎  そもそもどうしてクロロホルムで気絶するのでしょうか? もとい、こうした分子をうまく吸わせると意識を失わせる(全身麻酔)原理はいったいなんなのでしょう?
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熱狂的『PEANUTS』ファン田中宗一郎は、映画『I LOVE スヌーピー』をこう観た

【リアルサウンドより】  リアルサウンド映画部オープンのタイミングでマーベル映画とアメコミについてその深い見識を披露してくれた田中宗一郎氏が再び登場、今回は現在公開中の『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』について語ってくれた。(参考:田中宗一郎が語る、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』とアメコミ映画の現在)  元『SNOOZER』編集長、現在は『the sign magazine』クリエイティブ・ディレクター、CLUB SNOOZERの主宰者である田中宗一郎氏。彼は知る人ぞ知る筋金入りの『ピーナッツ』ファンで、それが高じてファッションブランドDIGAWELとコラボレーションしてTシャツの制作にもかかわっている(これが、世のあらゆるスヌーピーTシャツの中で圧倒的に最高のかわいさとクオリティなのだ)。ディープなファンからライトなファンまで世界中に数億人いる『ピーナッツ』ファンの間で、概ね好意的な支持を取り付けている映画『I LOVE スヌーピー』だが、そんな本作を田中宗一郎氏どのように観たのか? また、彼はどうしてそこまで強く『ピーナッツ』の原作の世界に長年惹かれてきたのか? 誰もが知ってるようで実はあまり知らない『ピーナッツ』の世界へのヤング・パーソンズ・ガイドとしても打ってつけの記事となったので、是非じっくり読んでみてください。(宇野維正)

本音を言うと、ウェス・アンダーソンに監督してほしかった

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——まずは、長年の『ピーナッツ』ファンとして、今回の『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』はいかがでした? 田中宗一郎(以下、田中):『ピーナッツ』を動画にすること、ましてや3DのCGで表現するというのはそもそもハードルがとても高いことで。日曜版(見開き版)もあるけど、基本は4コマ漫画なわけじゃない? コマ割りも限られているし、演劇の書き割りみたいに、ほぼ真正面からだけでとらえたショットで描かれた絵が原作なわけだから。60年代から断続的に作られてきたアニメーション版も、そこに関してはずっと苦労してきたところなんだけど、今回の映画はちゃんとその先を見せてくれた。本音の本音を言うと、例えば、ウェス・アンダーソンのアニメーション映画『ファンタスティック Mr.FOX』みたいな、真正面からとらえたカメラの制約を逆手に取るような映画的なダイナミズムというか、工夫も欲しかった気もしないでもないんだけど。でも、技術的には満足のいく仕上がりになっていたと思う。 ——今回の作品のキャラクターの絵柄はどう思いました? 『ピーナッツ』は時代ごとに絵柄が変わってきているわけですが、タナソウさんは『ピーナッツ』のTシャツの制作にもかかわるなど、その変化にはかなりのこだわりを持ってますよね? 田中:どの時期の絵柄をモチーフにすることで、すべてのファンを納得させるのか?っていうのは、今作を作る上での大きな課題だったはずで。作者のチャールズ・M・シュルツの筆に一番脂がのっていたのは60年代から70年代なんだけど、彼は途中からペンを持つ右手が震えるようになって、80年代になると線がガタガタになっていって、90年代にはデッサンも狂っていく。その描線が完全に崩れ出す直前、80年代冒頭のもっとも円熟していた時期の絵柄が今作のベースになってるんだよね。過去に作られてきたアニメーション版は、アニメーション用に新たな作画を起こしているような感じだったんだけど、今回の場合は、原作の絵柄のタッチをすごく大事にしていて、その点はすごく成功していたんじゃないかな。 ——時代ごとの変化について、もうちょっと詳しく教えてもらえますか? 田中:『ピーナッツ』って1950年から50年の歴史があるんだけど、おおまかに言うとディケイドごとに変わってきてるんだよね。50年代の時点で、主要キャラクターと有名なストーリーラインは一通り出揃っていて。60年代以降になると、ペパーミント・パティとか、マーシーみたいに新たな主要キャラクターが出てきて、ストーリーに当時の時代性が反映されるようになってくる。シュルツという人は、基本的にはリベラルなんだけど、保守的なところもある人で、彼が60年代、70年代と劇的に変化していくアメリカ社会をどんな風に見ているのかっていう視点が作品に入ってきた。80年代はそれまでのストーリーやキャラクターのヴァリエーションが増えていきつつも、ある種の円熟期。で、90年代に入ると、またガラッと変わる。それまで4コマだったのが、3コマになったり、2コマになったり、1コマになったりして、これまでは描いてこなかった、D-デイ(戦争の記念日)をモチーフにした作品があったり。スヌーピーが兵士の格好をして、そこにコメントが添えてあるだけの1コマの作品とか。個人的には90年代の作品にはそんなに惹かれないんだけど。例えば、チャーリーとスヌーピーの関係性とかね。もともとスヌーピーは世界で自分が世界で一番偉いと思っているから、チャーリーのことを飼い主だとも思ってないし、彼のことをRound Head Boy(頭の丸い少年)って呼んでて、飼い主の名前さえ覚えていなかった。でも、90年代には、スヌーピーがチャーリーの膝にのって寝てるとか、そういう描写が出てくる。これってファンからすると、かなりの驚きだったんですよ。でも、いつの時代の『ピーナッツ』が一番いいかっていうのは一概には言えなくて、それぞれの魅力がある。ただ、シュルツの筆のタッチだけで言うなら、60年代から70年代半ば過ぎまでが絶妙だったと思う。まあ、でも、やっぱり内容的にも、その15年くらいがベストかもしれない。今はその時期の日本語対訳版がまったく手に入らないのがすごく残念なんだけど。

「恋愛感情とは身勝手なもの」という一貫したテーマ

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——でも、今回の『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』は80年代の頭のあたりの絵柄がベースになっているわけですよね? そこに不満はなかったんですか? 田中:いや、そこは最適なチョイスだったと思う。フォルム的には一番完成度の高い時期だし。この時期のキャラクターが一番かわいい。70年代に入るとシュルツはキャタクターをいろんな角度から描き出すようになってきて、そこではいろんな変わった表情やフォルムが出てくるんだけど、それをアニメーションで表現しようとするのは至難の業だったと思うしね。それと、今回の映画には、これまで作られてきたアニメーション作品への直接的なオマージュもあって、過去のピーナツ作品全般に対して全方位的に敬意を払っている。これは本当に偉い。ダンスのシーンがあるでしょ? あそこに使われてる音楽は以前のアニメーション・シリーズのサウンドトラックを手掛けていたジャズ・ピアニストのヴィンス・ガラルディの音楽がそのまま使われていて、サリーやバイオレットの踊りの動きもそのままなんですよ。このヴィンス・ガラルディの作品はリイシューされた時もPitchforkで8点台取ってたりして、かなりの名盤なんだけど。だから、こういう俺みたいなハードコア・ファンからすると、不満だの、文句を言い出せばキリがないんだけど、そもそも、いろんな時代の、いろんなファンが何億人もいるわけだから、その期待をすべて満たさなきゃいけない。そんな不可能に近いことを目指したわけだから、それはそれは大変だったと思うよ。 ——原作の解釈という点からは、どう思いましたか? 田中:『ピーナッツ』の原作に対しては、いろんな視点があって。日本では、それこそ自己啓発系の本みたいな角度からキャラクターの発言をまとめたような本も出てたりするし。50〜60年代には海外でフロイト的な精神分析の題材にされることも多かった。あと有名なのは、シェークスピアの作品と同じように、それぞれのキャラクターにはシュルツの性格の多面性が反映されているっていう話で。いずれにせよ、アーカイヴは膨大だし、どんな切り取り方も出来る。でも、一つの長編作品にまとめるとなると、どうしても最大公約数的なものにならざるをえない。これも致し方なかったんじゃないかな。今回のメイン・プロットになっている「赤毛の女の子」の話も、60年代、70年代、90年代と断続的に描かれてきたもっとも有名なストーリーラインの一つだしね。 ——あの「赤毛の女の子」は、原作でも映画のように教室に転校生として現れるんですか? 田中:どうだったかな? いや、確かそうじゃなかったはず。チャーリーは床屋さんの息子で。おそらく移民二世だよね。で、はっきりとは言明されてないんだけど、父子家庭なんだよ。だから、いつも学校のランチタイムではピーナツバターを塗っただけのサンドイッチを一人でベンチで食べてる。で、その時に校内で彼女のことを発見する。だけど、「赤毛の女の子」の存在は原作では決して絵で描かれることがないんだよね。 ——そうなんだ! 田中:90年代に入ってから、チャーリーが彼女をプロム・ダンスに誘おうと切磋琢磨する話があって。でも、最終的には彼女とダンスを踊っていたのはスヌーピーだった、って話があるんだけど、そこでもシルエットでしか描かれていない。何故かというと、そもそも赤毛の女の子というのは、チャーリーの理想の投影であって、決してかなうことのない夢の象徴だから、具体的なフォルムを持っちゃいけないんですよ。「恋愛感情というものは常に身勝手なもの」というテーマは、『ピーナッツ』ではずっと描かれていて、ペパーミント・パティとマーシーの二人はチャーリーのことが好きなんだけど、それぞれ彼のことをチャック、チャールズって呼ぶんだ。名前を間違えていたり、自分だけの呼び名で呼んでる。つまり、自分の身勝手なイメージを彼に投影してるだけ。だからこそ、チャーリーはそれをわかっていて、彼女たち二人を相手にしないんだけど、自分もまた赤毛の女の子には都合のいい理想を投影していることには気付かないんだよね。それはさておき、そうした映画向けの改変は、スヌーピーの撃墜王のエピソードだとか、他にもたくさんあって。今回の映画ではチャーリーの妹のサリーを除いて、主要キャラクターのほぼ全員がクラスメイトという設定なんだけど、原作ではチャーリー、シャーミー、バイオレット、パティよりもルーシーは年下で、それよりもライナスは年下。パティとフランクリンとマーシーは隣町の学校の子に通ってる。でも、主要なキャラクターをおおかた登場させるためには、それも苦肉の策だったんだと思う。 ——なるほど。あと、観ていて一番違和感があったのはスヌーピーの恋人役のフィフィ。突然出てきた印象があるし、全然かわいくない(笑)。 田中:あれは映画用のキャラクターだから仕方がない(笑)。原作には出てこ ないキャラクターで、1980年に作られたアニメーション『Life Is a Circus, Charlie Brown』にチラッと出てきたんだけど、その時はスヌーピーの恋人役でもなかったし、絵柄もまったく違う。それにそもそもスヌーピーって完全なプレイボーイ属性で、撃墜王の時もフランスの酒場でルート・ビールを飲みながらウェイトレスをナンパするのがお約束の描写だから、一途に恋人を追いかけてるっていう時点で、原作原理主義的からすると、う〜んって感じ(笑)。

世界で最も有名なアンチ・ヒーロー、チャーリー・ブラウン

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——そもそも、タナソウさんはどうしてそこまで『ピーナッツ』を愛して止まないのか、その理由を教えてもらえますか? 田中:チャーリー・ブラウンっていうのは、多分、世界で最初に現れた、そして、間違いなく世界で一番有名なアンチ・ヒーローなんだよね。 ——おぉ。 田中:で、スヌーピーっていうのは、チャーリーとの対比として存在する、『ピーナッツ』世界の中で唯一完全無欠のスーパーマンなの。ただ、スヌーピーには一つだけ決定的な欠点があって、それは彼が犬だということ。で、彼自身はそれをずっと受け入れることが出来ない。だからこそ、彼は撃墜王だの、世界一有能な弁護士だの、いろんな妄想に浸るヴィジョナリーなんだけど。ほら、映画の中でもスヌーピーがルーシーにキスをすると、ルーシーが「犬のバイキンが伝染る!」って騒ぐシーンがあるじゃない? ——普通に見ると「ルーシー、ヒドい」って思います(笑)。 田中:でも、スヌーピーからすると、「犬? このボクが?」って感じで、まったく理解できないわけ。でも、ビーグル犬であることを除けば、スヌーピーは万能でさ。どんなスポーツも得意だし、彼得意の妄想の世界では、第一次世界大戦の撃墜王であり、ディケンズの『二都物語』を引用する小説家であり、“ジョー・クール”って名前の、ビートニクから影響を受けて白いタートルネックを着て『市民ケーン』を20数回観たのが自慢のシネフィルでもある。 ——原作では、チャーリーとスヌーピーは、共依存関係にはまったくないんですよね。 田中:そう。個々のキャラクターが共依存関係にないというのは、『ピーナッツ』を語る上での一番のポイントだと思う。『ピーナッツ』のキャラクターっていうのは、全員が欠点だらけで。まあ、絵柄がかわいらしいから、わかりずらいんだけど、実はリンチの『ツイン・ピークス』とか、コーエン兄弟の『ファーゴ』みたいな世界観なんですよ。アメリカの田舎町にありがちな、閉ざされた世界特有の変人だらけ。で、主要キャラクターが10人いるとしたら、それぞれのキャラクターの1対9の関係がきっちりと描かれていて、その関係性から、それぞれの短所と長所が見えてくる。でも、だからといって誰もそこで具体的に支え合うことはなくて、常にキャラクター同士が相手の欠点を口汚く罵りあってる。ホント容赦ない関係なの(笑)。でも、そうやって、それぞれのキャラクターが抱えている欠点や問題を相対化することで、笑い飛ばそうとしてる。そうすることで、ある意味、問題を無化させているんだよね。つまり、共依存関係のまったく真逆にある。 ——あぁ、もっとも心に響くのは、そこの部分なんですね。もっとわかりやすく、カウンターカルチャー的なスタンスから『ピーナッツ』を支持しているのかと思ってました。 田中:60年代後半に、アメリカの大学生たちが『指輪物語』のガンダルフ、『スター・トレック』のミスター・スポック、『ピーナッツ』のスヌーピーを大統領にしようって面白半分に運動したって有名なエピソードがあって、その話は大好きなんだけど、『ピーナツ』の中でカウンターカルチャーを表象しているのは、さっきも言ったようにビートニクに心酔していたりするスヌーピーであり、それこそウッドストック・フェスティバルからそのまま名前をとったウッドストックくらいなんだよね。50年代初期からのキャラクター、パティやバイオレットなんて、旧態然としたヴィクトリア王朝的っていうか、ピューリタン的価値観の持ち主だったりするし。 ——え? ウッドストックって、あのウッドストックだったんだ!? だって、原作ではウッドストック・フェスティバルが開催されるよりもずっと前から出てきましたよね。 田中:うん。でも、69年以前は名前がなくて、日本語版の谷川俊太郎の翻訳では「ヌケサク鳥」って呼ばれてたの。 ——あぁ、そうだった! 田中:もともとウッドストックは「ヌケサク鳥」であり、間抜けなキャラクターという位置付けだった。だから、そのキャラクターに後からウッドストックという名前を付けたシュルツは、決してカウンターカルチャーに対して無条件に肯定的だったわけじゃない。スヌーピーの“ジョー・クール”のキャラクターにしても、むしろ当時のアメリカの若者たちの風俗をからかっている部分の方が強かった。ルーシーの「ガミガミ屋」っていう属性は、おそらく当時のウーマンリブ運動に対する保守的な視点からの観察が元になってるはずだし。だから、『ピーナッツ』という作品を楽しむ上でもっとも重要なのは、シュルツの極めて相対的な視点だと思う。それぞれ欠点を持った変人奇人たちが、互いを傷つけ合いながら、なんとか共存しているところ。それって『モンティ・パイソン』とか、イーストウッド映画『グラン・トリノ』の中で、長年の親友同士であるポーランド系移民の主人公とイタリア系移民の床屋が互いに差別用語を使って罵りあうシーンを思い出すんだけど。でも、あれって最高に幸福なシーンでしょ? 『ピーナッツ』のキャラクターには、サリーのような反抗者もいれば、ライナスみたいなアンチ・クライストもいるし、黒人のフランクリンのような順応主義者もいるし、チボーみたいな女性蔑視者もいる。世の中のほとんどの作品って、どこかに作者の思想性が投影されているものだと思うんだけど、『ピーナッツ』には何かに寄ったところがないんだよね。だから、どんな立場の受け手もアクセスできる。で、自分にとってそれは、ある種、「理想のアメリカ合衆国」のコンセプトそのものなんだよね。

キンクスや村上春樹の世界に通じる、厭世観と諦念とシニシズム

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——なるほど。「みんながみんな違ってて、それでいい」「むしろ、その方がいい」っていうことに対する共感ということですね。 田中:うん、まあ。ただ実際は、誰もが愚かで、誰もが罪深くて、誰もが残酷だっていう事実を笑い飛ばしながら、それを受け入れる知恵と寛容さ、みたいなニュアンスかもしれないけど。あと、もう一つ大きいのは、これは手塚治虫作品に惹かれる理由にも近いんだけど、根っこの部分で厭世的で、シニシズムがベースにあるところ。 ——あぁ。 田中:それを象徴するエピソードとして、ルーシーがまだ赤ん坊の、ライナスの下の弟リランを初めて屋外に連れて行って、「これが世界よ!」って言う話があるんだけど。最後のコマでリランがこう言うんですよ。「これが?」って(笑)。あと、これは今回の映画のネタバレになっちゃうけど、最後にチャーリーが報われるじゃない? 原作原理主義者としては、あそこにはやっぱり「う〜ん」と唸らずにはいられなかった。さっきも話したけど原作ではチャーリーは彼女に話しかけることさえ出来ないままだったから。赤毛の女の子をずっと家の外からストーキングしていて、雪の中で足が凍って動けなくなったり。でも、そういう「報われなさ」を笑い飛ばしてあげるのが『ピーナッツ』なんだよね。チャーリーというのは、所謂アメリカン・ドリームの影にいた人たちへの慈愛の眼差しから生まれたはずなの。報われないまま、それでも精一杯生きた人たちっていうか。あと多いのは、キャラクターの非道さを描いて、そのキャラクターがヒドい目に合うっていう類いの話。特にスヌーピーがそういう役割なんだけど。だから、全体的な世界観としては、常にシニカルだし、厭世的だし、それぞれのキャラクターは欠点だらけの変人だし、世の中のあらゆる価値観に対して、どこまでも容赦なく批判的なんだよね。ただ、ちゃんと最後には笑い飛ばしてあげるっていう慈愛と寛容さがある。 ——なるほど。 田中:だから、実のところ、日本人に好まれる「努力が報われる話」だったり、「欠点も含めて自分を肯定してくれる話」だったりとは真逆の世界観なんですよ。今回の映画の字幕だと、チャーリーの「僕はダメ人間で、赤毛の女の子は特別なんだ」ってセリフがあるんだけど、でも、英語では「I‘m Nothing,She’s Something」って言ってるのね。日本語の字幕だと、なんだかチャーリーはただのダメな人なんだけど、実際はもっと枯れたキャラクターでさ。ロックの世界でもキンクスのレイ・デイヴィスみたいに、若い頃から老人みたいな諦念を抱えた人っているでしょ? 村上春樹の初期三部作の「僕」みたいなさ。 ——「やれやれ」ってやつですね。 田中:そうそう。チャーリーの決め台詞の一つに「Good Grief…」ってのがあるんだけど、それを谷川俊太郎は「やれやれ」と訳していた。 ——おぉ。そこが村上春樹の「やれやれ」のルーツなのではないかという説、どこかで読んだことがある! 田中:例えば、今回の映画にも出てくる「凧食いの木」っていうのは、チャーリーが凧を上げようとしても必ず失敗するっていう自分自身の能力のなさ、才能のなさを受け入れられないことを擬人化したキャラクターなんだけど、基本的には、彼は「絶対に報われない」、「絶対に勝てない」という自分自身と世界の関係を受け入れて、なんとか折り合いをつけようとしている。だから、実は凄まじくタフなキャラクターなんですよ。誰にも真似できない。それに対し、スヌーピーは、どんなことでも簡単にこなせてしまう究極のスーパーマンなんだけど、自分自身が犬であるという現実だけは受け入れられない。その一点において、彼はチャーリーにだけは100%敵わない。つまり、『ピーナッツ』という作品はチャーリー・ブラウンという特異なキャラクターによって、20世紀後半の50年間を費やして、アメリカの光と影の両方をきちんと描き続け、ヒーローという概念を再定義し続けた。それこそが『ピーナッツ』の独自性であり、先見性なんだと思う。 (取材・文=宇野維正) ■公開情報 『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』 公開中 監督:スティーブ・マーティノ   配給:20世紀フォックス映画 吹替声優:鈴木福、芦田愛菜、小林星蘭、谷花音 (c)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation.All Rights Reserved. PEANUTS(c)Peanuts Worldwide LLC 公式サイト公式facebook公式Twitter公式Instagram

熱狂的『PEANUTS』ファン田中宗一郎は、映画『I LOVE スヌーピー』をこう観た

【リアルサウンドより】  リアルサウンド映画部オープンのタイミングでマーベル映画とアメコミについてその深い見識を披露してくれた田中宗一郎氏が再び登場、今回は現在公開中の『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』について語ってくれた。(参考:田中宗一郎が語る、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』とアメコミ映画の現在)  元『SNOOZER』編集長、現在は『the sign magazine』クリエイティブ・ディレクター、CLUB SNOOZERの主宰者である田中宗一郎氏。彼は知る人ぞ知る筋金入りの『ピーナッツ』ファンで、それが高じてファッションブランドDIGAWELとコラボレーションしてTシャツの制作にもかかわっている(これが、世のあらゆるスヌーピーTシャツの中で圧倒的に最高のかわいさとクオリティなのだ)。ディープなファンからライトなファンまで世界中に数億人いる『ピーナッツ』ファンの間で、概ね好意的な支持を取り付けている映画『I LOVE スヌーピー』だが、そんな本作を田中宗一郎氏どのように観たのか? また、彼はどうしてそこまで強く『ピーナッツ』の原作の世界に長年惹かれてきたのか? 誰もが知ってるようで実はあまり知らない『ピーナッツ』の世界へのヤング・パーソンズ・ガイドとしても打ってつけの記事となったので、是非じっくり読んでみてください。(宇野維正)

本音を言うと、ウェス・アンダーソンに監督してほしかった

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——まずは、長年の『ピーナッツ』ファンとして、今回の『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』はいかがでした? 田中宗一郎(以下、田中):『ピーナッツ』を動画にすること、ましてや3DのCGで表現するというのはそもそもハードルがとても高いことで。日曜版(見開き版)もあるけど、基本は4コマ漫画なわけじゃない? コマ割りも限られているし、演劇の書き割りみたいに、ほぼ真正面からだけでとらえたショットで描かれた絵が原作なわけだから。60年代から断続的に作られてきたアニメーション版も、そこに関してはずっと苦労してきたところなんだけど、今回の映画はちゃんとその先を見せてくれた。本音の本音を言うと、例えば、ウェス・アンダーソンのアニメーション映画『ファンタスティック Mr.FOX』みたいな、真正面からとらえたカメラの制約を逆手に取るような映画的なダイナミズムというか、工夫も欲しかった気もしないでもないんだけど。でも、技術的には満足のいく仕上がりになっていたと思う。 ——今回の作品のキャラクターの絵柄はどう思いました? 『ピーナッツ』は時代ごとに絵柄が変わってきているわけですが、タナソウさんは『ピーナッツ』のTシャツの制作にもかかわるなど、その変化にはかなりのこだわりを持ってますよね? 田中:どの時期の絵柄をモチーフにすることで、すべてのファンを納得させるのか?っていうのは、今作を作る上での大きな課題だったはずで。作者のチャールズ・M・シュルツの筆に一番脂がのっていたのは60年代から70年代なんだけど、彼は途中からペンを持つ右手が震えるようになって、80年代になると線がガタガタになっていって、90年代にはデッサンも狂っていく。その描線が完全に崩れ出す直前、80年代冒頭のもっとも円熟していた時期の絵柄が今作のベースになってるんだよね。過去に作られてきたアニメーション版は、アニメーション用に新たな作画を起こしているような感じだったんだけど、今回の場合は、原作の絵柄のタッチをすごく大事にしていて、その点はすごく成功していたんじゃないかな。 ——時代ごとの変化について、もうちょっと詳しく教えてもらえますか? 田中:『ピーナッツ』って1950年から50年の歴史があるんだけど、おおまかに言うとディケイドごとに変わってきてるんだよね。50年代の時点で、主要キャラクターと有名なストーリーラインは一通り出揃っていて。60年代以降になると、ペパーミント・パティとか、マーシーみたいに新たな主要キャラクターが出てきて、ストーリーに当時の時代性が反映されるようになってくる。シュルツという人は、基本的にはリベラルなんだけど、保守的なところもある人で、彼が60年代、70年代と劇的に変化していくアメリカ社会をどんな風に見ているのかっていう視点が作品に入ってきた。80年代はそれまでのストーリーやキャラクターのヴァリエーションが増えていきつつも、ある種の円熟期。で、90年代に入ると、またガラッと変わる。それまで4コマだったのが、3コマになったり、2コマになったり、1コマになったりして、これまでは描いてこなかった、D-デイ(戦争の記念日)をモチーフにした作品があったり。スヌーピーが兵士の格好をして、そこにコメントが添えてあるだけの1コマの作品とか。個人的には90年代の作品にはそんなに惹かれないんだけど。例えば、チャーリーとスヌーピーの関係性とかね。もともとスヌーピーは世界で自分が世界で一番偉いと思っているから、チャーリーのことを飼い主だとも思ってないし、彼のことをRound Head Boy(頭の丸い少年)って呼んでて、飼い主の名前さえ覚えていなかった。でも、90年代には、スヌーピーがチャーリーの膝にのって寝てるとか、そういう描写が出てくる。これってファンからすると、かなりの驚きだったんですよ。でも、いつの時代の『ピーナッツ』が一番いいかっていうのは一概には言えなくて、それぞれの魅力がある。ただ、シュルツの筆のタッチだけで言うなら、60年代から70年代半ば過ぎまでが絶妙だったと思う。まあ、でも、やっぱり内容的にも、その15年くらいがベストかもしれない。今はその時期の日本語対訳版がまったく手に入らないのがすごく残念なんだけど。

「恋愛感情とは身勝手なもの」という一貫したテーマ

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——でも、今回の『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』は80年代の頭のあたりの絵柄がベースになっているわけですよね? そこに不満はなかったんですか? 田中:いや、そこは最適なチョイスだったと思う。フォルム的には一番完成度の高い時期だし。この時期のキャラクターが一番かわいい。70年代に入るとシュルツはキャタクターをいろんな角度から描き出すようになってきて、そこではいろんな変わった表情やフォルムが出てくるんだけど、それをアニメーションで表現しようとするのは至難の業だったと思うしね。それと、今回の映画には、これまで作られてきたアニメーション作品への直接的なオマージュもあって、過去のピーナツ作品全般に対して全方位的に敬意を払っている。これは本当に偉い。ダンスのシーンがあるでしょ? あそこに使われてる音楽は以前のアニメーション・シリーズのサウンドトラックを手掛けていたジャズ・ピアニストのヴィンス・ガラルディの音楽がそのまま使われていて、サリーやバイオレットの踊りの動きもそのままなんですよ。このヴィンス・ガラルディの作品はリイシューされた時もPitchforkで8点台取ってたりして、かなりの名盤なんだけど。だから、こういう俺みたいなハードコア・ファンからすると、不満だの、文句を言い出せばキリがないんだけど、そもそも、いろんな時代の、いろんなファンが何億人もいるわけだから、その期待をすべて満たさなきゃいけない。そんな不可能に近いことを目指したわけだから、それはそれは大変だったと思うよ。 ——原作の解釈という点からは、どう思いましたか? 田中:『ピーナッツ』の原作に対しては、いろんな視点があって。日本では、それこそ自己啓発系の本みたいな角度からキャラクターの発言をまとめたような本も出てたりするし。50〜60年代には海外でフロイト的な精神分析の題材にされることも多かった。あと有名なのは、シェークスピアの作品と同じように、それぞれのキャラクターにはシュルツの性格の多面性が反映されているっていう話で。いずれにせよ、アーカイヴは膨大だし、どんな切り取り方も出来る。でも、一つの長編作品にまとめるとなると、どうしても最大公約数的なものにならざるをえない。これも致し方なかったんじゃないかな。今回のメイン・プロットになっている「赤毛の女の子」の話も、60年代、70年代、90年代と断続的に描かれてきたもっとも有名なストーリーラインの一つだしね。 ——あの「赤毛の女の子」は、原作でも映画のように教室に転校生として現れるんですか? 田中:どうだったかな? いや、確かそうじゃなかったはず。チャーリーは床屋さんの息子で。おそらく移民二世だよね。で、はっきりとは言明されてないんだけど、父子家庭なんだよ。だから、いつも学校のランチタイムではピーナツバターを塗っただけのサンドイッチを一人でベンチで食べてる。で、その時に校内で彼女のことを発見する。だけど、「赤毛の女の子」の存在は原作では決して絵で描かれることがないんだよね。 ——そうなんだ! 田中:90年代に入ってから、チャーリーが彼女をプロム・ダンスに誘おうと切磋琢磨する話があって。でも、最終的には彼女とダンスを踊っていたのはスヌーピーだった、って話があるんだけど、そこでもシルエットでしか描かれていない。何故かというと、そもそも赤毛の女の子というのは、チャーリーの理想の投影であって、決してかなうことのない夢の象徴だから、具体的なフォルムを持っちゃいけないんですよ。「恋愛感情というものは常に身勝手なもの」というテーマは、『ピーナッツ』ではずっと描かれていて、ペパーミント・パティとマーシーの二人はチャーリーのことが好きなんだけど、それぞれ彼のことをチャック、チャールズって呼ぶんだ。名前を間違えていたり、自分だけの呼び名で呼んでる。つまり、自分の身勝手なイメージを彼に投影してるだけ。だからこそ、チャーリーはそれをわかっていて、彼女たち二人を相手にしないんだけど、自分もまた赤毛の女の子には都合のいい理想を投影していることには気付かないんだよね。それはさておき、そうした映画向けの改変は、スヌーピーの撃墜王のエピソードだとか、他にもたくさんあって。今回の映画ではチャーリーの妹のサリーを除いて、主要キャラクターのほぼ全員がクラスメイトという設定なんだけど、原作ではチャーリー、シャーミー、バイオレット、パティよりもルーシーは年下で、それよりもライナスは年下。パティとフランクリンとマーシーは隣町の学校の子に通ってる。でも、主要なキャラクターをおおかた登場させるためには、それも苦肉の策だったんだと思う。 ——なるほど。あと、観ていて一番違和感があったのはスヌーピーの恋人役のフィフィ。突然出てきた印象があるし、全然かわいくない(笑)。 田中:あれは映画用のキャラクターだから仕方がない(笑)。原作には出てこ ないキャラクターで、1980年に作られたアニメーション『Life Is a Circus, Charlie Brown』にチラッと出てきたんだけど、その時はスヌーピーの恋人役でもなかったし、絵柄もまったく違う。それにそもそもスヌーピーって完全なプレイボーイ属性で、撃墜王の時もフランスの酒場でルート・ビールを飲みながらウェイトレスをナンパするのがお約束の描写だから、一途に恋人を追いかけてるっていう時点で、原作原理主義的からすると、う〜んって感じ(笑)。

世界で最も有名なアンチ・ヒーロー、チャーリー・ブラウン

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——そもそも、タナソウさんはどうしてそこまで『ピーナッツ』を愛して止まないのか、その理由を教えてもらえますか? 田中:チャーリー・ブラウンっていうのは、多分、世界で最初に現れた、そして、間違いなく世界で一番有名なアンチ・ヒーローなんだよね。 ——おぉ。 田中:で、スヌーピーっていうのは、チャーリーとの対比として存在する、『ピーナッツ』世界の中で唯一完全無欠のスーパーマンなの。ただ、スヌーピーには一つだけ決定的な欠点があって、それは彼が犬だということ。で、彼自身はそれをずっと受け入れることが出来ない。だからこそ、彼は撃墜王だの、世界一有能な弁護士だの、いろんな妄想に浸るヴィジョナリーなんだけど。ほら、映画の中でもスヌーピーがルーシーにキスをすると、ルーシーが「犬のバイキンが伝染る!」って騒ぐシーンがあるじゃない? ——普通に見ると「ルーシー、ヒドい」って思います(笑)。 田中:でも、スヌーピーからすると、「犬? このボクが?」って感じで、まったく理解できないわけ。でも、ビーグル犬であることを除けば、スヌーピーは万能でさ。どんなスポーツも得意だし、彼得意の妄想の世界では、第一次世界大戦の撃墜王であり、ディケンズの『二都物語』を引用する小説家であり、“ジョー・クール”って名前の、ビートニクから影響を受けて白いタートルネックを着て『市民ケーン』を20数回観たのが自慢のシネフィルでもある。 ——原作では、チャーリーとスヌーピーは、共依存関係にはまったくないんですよね。 田中:そう。個々のキャラクターが共依存関係にないというのは、『ピーナッツ』を語る上での一番のポイントだと思う。『ピーナッツ』のキャラクターっていうのは、全員が欠点だらけで。まあ、絵柄がかわいらしいから、わかりずらいんだけど、実はリンチの『ツイン・ピークス』とか、コーエン兄弟の『ファーゴ』みたいな世界観なんですよ。アメリカの田舎町にありがちな、閉ざされた世界特有の変人だらけ。で、主要キャラクターが10人いるとしたら、それぞれのキャラクターの1対9の関係がきっちりと描かれていて、その関係性から、それぞれの短所と長所が見えてくる。でも、だからといって誰もそこで具体的に支え合うことはなくて、常にキャラクター同士が相手の欠点を口汚く罵りあってる。ホント容赦ない関係なの(笑)。でも、そうやって、それぞれのキャラクターが抱えている欠点や問題を相対化することで、笑い飛ばそうとしてる。そうすることで、ある意味、問題を無化させているんだよね。つまり、共依存関係のまったく真逆にある。 ——あぁ、もっとも心に響くのは、そこの部分なんですね。もっとわかりやすく、カウンターカルチャー的なスタンスから『ピーナッツ』を支持しているのかと思ってました。 田中:60年代後半に、アメリカの大学生たちが『指輪物語』のガンダルフ、『スター・トレック』のミスター・スポック、『ピーナッツ』のスヌーピーを大統領にしようって面白半分に運動したって有名なエピソードがあって、その話は大好きなんだけど、『ピーナツ』の中でカウンターカルチャーを表象しているのは、さっきも言ったようにビートニクに心酔していたりするスヌーピーであり、それこそウッドストック・フェスティバルからそのまま名前をとったウッドストックくらいなんだよね。50年代初期からのキャラクター、パティやバイオレットなんて、旧態然としたヴィクトリア王朝的っていうか、ピューリタン的価値観の持ち主だったりするし。 ——え? ウッドストックって、あのウッドストックだったんだ!? だって、原作ではウッドストック・フェスティバルが開催されるよりもずっと前から出てきましたよね。 田中:うん。でも、69年以前は名前がなくて、日本語版の谷川俊太郎の翻訳では「ヌケサク鳥」って呼ばれてたの。 ——あぁ、そうだった! 田中:もともとウッドストックは「ヌケサク鳥」であり、間抜けなキャラクターという位置付けだった。だから、そのキャラクターに後からウッドストックという名前を付けたシュルツは、決してカウンターカルチャーに対して無条件に肯定的だったわけじゃない。スヌーピーの“ジョー・クール”のキャラクターにしても、むしろ当時のアメリカの若者たちの風俗をからかっている部分の方が強かった。ルーシーの「ガミガミ屋」っていう属性は、おそらく当時のウーマンリブ運動に対する保守的な視点からの観察が元になってるはずだし。だから、『ピーナッツ』という作品を楽しむ上でもっとも重要なのは、シュルツの極めて相対的な視点だと思う。それぞれ欠点を持った変人奇人たちが、互いを傷つけ合いながら、なんとか共存しているところ。それって『モンティ・パイソン』とか、イーストウッド映画『グラン・トリノ』の中で、長年の親友同士であるポーランド系移民の主人公とイタリア系移民の床屋が互いに差別用語を使って罵りあうシーンを思い出すんだけど。でも、あれって最高に幸福なシーンでしょ? 『ピーナッツ』のキャラクターには、サリーのような反抗者もいれば、ライナスみたいなアンチ・クライストもいるし、黒人のフランクリンのような順応主義者もいるし、チボーみたいな女性蔑視者もいる。世の中のほとんどの作品って、どこかに作者の思想性が投影されているものだと思うんだけど、『ピーナッツ』には何かに寄ったところがないんだよね。だから、どんな立場の受け手もアクセスできる。で、自分にとってそれは、ある種、「理想のアメリカ合衆国」のコンセプトそのものなんだよね。

キンクスや村上春樹の世界に通じる、厭世観と諦念とシニシズム

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——なるほど。「みんながみんな違ってて、それでいい」「むしろ、その方がいい」っていうことに対する共感ということですね。 田中:うん、まあ。ただ実際は、誰もが愚かで、誰もが罪深くて、誰もが残酷だっていう事実を笑い飛ばしながら、それを受け入れる知恵と寛容さ、みたいなニュアンスかもしれないけど。あと、もう一つ大きいのは、これは手塚治虫作品に惹かれる理由にも近いんだけど、根っこの部分で厭世的で、シニシズムがベースにあるところ。 ——あぁ。 田中:それを象徴するエピソードとして、ルーシーがまだ赤ん坊の、ライナスの下の弟リランを初めて屋外に連れて行って、「これが世界よ!」って言う話があるんだけど。最後のコマでリランがこう言うんですよ。「これが?」って(笑)。あと、これは今回の映画のネタバレになっちゃうけど、最後にチャーリーが報われるじゃない? 原作原理主義者としては、あそこにはやっぱり「う〜ん」と唸らずにはいられなかった。さっきも話したけど原作ではチャーリーは彼女に話しかけることさえ出来ないままだったから。赤毛の女の子をずっと家の外からストーキングしていて、雪の中で足が凍って動けなくなったり。でも、そういう「報われなさ」を笑い飛ばしてあげるのが『ピーナッツ』なんだよね。チャーリーというのは、所謂アメリカン・ドリームの影にいた人たちへの慈愛の眼差しから生まれたはずなの。報われないまま、それでも精一杯生きた人たちっていうか。あと多いのは、キャラクターの非道さを描いて、そのキャラクターがヒドい目に合うっていう類いの話。特にスヌーピーがそういう役割なんだけど。だから、全体的な世界観としては、常にシニカルだし、厭世的だし、それぞれのキャラクターは欠点だらけの変人だし、世の中のあらゆる価値観に対して、どこまでも容赦なく批判的なんだよね。ただ、ちゃんと最後には笑い飛ばしてあげるっていう慈愛と寛容さがある。 ——なるほど。 田中:だから、実のところ、日本人に好まれる「努力が報われる話」だったり、「欠点も含めて自分を肯定してくれる話」だったりとは真逆の世界観なんですよ。今回の映画の字幕だと、チャーリーの「僕はダメ人間で、赤毛の女の子は特別なんだ」ってセリフがあるんだけど、でも、英語では「I‘m Nothing,She’s Something」って言ってるのね。日本語の字幕だと、なんだかチャーリーはただのダメな人なんだけど、実際はもっと枯れたキャラクターでさ。ロックの世界でもキンクスのレイ・デイヴィスみたいに、若い頃から老人みたいな諦念を抱えた人っているでしょ? 村上春樹の初期三部作の「僕」みたいなさ。 ——「やれやれ」ってやつですね。 田中:そうそう。チャーリーの決め台詞の一つに「Good Grief…」ってのがあるんだけど、それを谷川俊太郎は「やれやれ」と訳していた。 ——おぉ。そこが村上春樹の「やれやれ」のルーツなのではないかという説、どこかで読んだことがある! 田中:例えば、今回の映画にも出てくる「凧食いの木」っていうのは、チャーリーが凧を上げようとしても必ず失敗するっていう自分自身の能力のなさ、才能のなさを受け入れられないことを擬人化したキャラクターなんだけど、基本的には、彼は「絶対に報われない」、「絶対に勝てない」という自分自身と世界の関係を受け入れて、なんとか折り合いをつけようとしている。だから、実は凄まじくタフなキャラクターなんですよ。誰にも真似できない。それに対し、スヌーピーは、どんなことでも簡単にこなせてしまう究極のスーパーマンなんだけど、自分自身が犬であるという現実だけは受け入れられない。その一点において、彼はチャーリーにだけは100%敵わない。つまり、『ピーナッツ』という作品はチャーリー・ブラウンという特異なキャラクターによって、20世紀後半の50年間を費やして、アメリカの光と影の両方をきちんと描き続け、ヒーローという概念を再定義し続けた。それこそが『ピーナッツ』の独自性であり、先見性なんだと思う。 (取材・文=宇野維正) ■公開情報 『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』 公開中 監督:スティーブ・マーティノ   配給:20世紀フォックス映画 吹替声優:鈴木福、芦田愛菜、小林星蘭、谷花音 (c)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation.All Rights Reserved. PEANUTS(c)Peanuts Worldwide LLC 公式サイト公式facebook公式Twitter公式Instagram

菊地亜美、「AV進出は禁止」発言で不安視される「テレビ露出減」「こじるりに完敗」の現況

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菊地亜美オフィシャルブログより

 15日、都内で行われた「ネスカフェ フォトラテ」体験・発表会に登場したタレントの菊地亜美が、かつて所属していたアイドルグループ・アイドリング!!!が解散し、10月末をもって全員卒業したことを受け、「去年の今頃卒業したんですけど、私の卒業のタイミングはベストだった」と語った。また、卒業メンバーのほとんどが進路に悩んでいること、さらに今後の活動について相談を受けることが多くなったと明かしたが、ネット上では、菊地の発言が「上から目線」だと大バッシングが巻き起こっている。

「菊地は、記者から『AV進出するメンバーも現れるのでは?』といういじわるな質問をされると『解散後、AVに行くのは禁止されているみたい』とフォロー。しかし『1年以内は』と付け足すなど、少し毒のある言い方をしていました。確かに、菊地は同グループ随一の売れっ子ですが、最近ではテレビ露出が落ち着いてきたことから、『菊地も最近テレビで見ないけど大丈夫なの?』『人の人生相談乗る前に、自分の将来気にした方がいいよ』と、ネットユーザーから総ツッコミにあっています」(芸能記者)

“アンチ紅白派”がチョイスするのは、どの番組? 大みそか『紅白』裏の全容が決定

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『第66回NHK紅白歌合戦』公式サイトより
 NHKは12月31日、『第66回NHK紅白歌合戦』(午後7時15分~11時45分)を放送する。  昨年の『紅白』の視聴率は、第1部(午後7時15分~8時55分)が35.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)、第2部(9時~11時45分)が42.2%で、いずれも2013年より微減となった。今年もそれなりの高視聴率を獲得するだろうが、あえて『紅白』は見ない“アンチ紅白派”も少なくない。  ここにきて、唯一未確定だったフジテレビが大みそかの夜の番組詳細をようやく発表し、民放5局の“紅白裏番組”の全容が決定した。そこで、各局のラインナップを整理してみたい。  日本テレビは昨年まで5年連続で、“紅白裏番組”の民放トップを制している『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』をオンエアする。今年で10年目となる番組タイトルは『大晦日年越しスペシャル 絶対に笑ってはいけない名探偵24時!』(午後6時30分~深夜0時30分)。昨年は第1部(6時30分~9時)が18.7%、第2部(9時~深夜0時30分)が16.0%をマークしており、20%の大台超えを狙う。これまでの実績があるだけに、日テレの優勢は揺るがないだろう。  昨年、民放2位だったTBSは、5年目となった『史上最大の限界バトル KYOKUGEN2015』(午後6時~11時35分予定)を放送する。昨年は第1部(6時~6時30分)が9.9%.第2部(6時30分~8時30分)が8.3%、第3部(8時30分~10時10分)が9.0%、第4部(10時10分~11時35分)が3.4%と番組通して1ケタ台に終わった。  今年は恒例となったボクシング・井岡一翔の試合に加え、6年ぶりに一夜限定復帰する魔裟斗と山本“KID”徳郁との対戦が“売り”。今が旬の五郎丸歩(ラグビー)の出演も決まり、遠藤保仁(サッカー)と異種キック対決を行う。13年には井岡の試合で14.5%まで上げたことがあるだけに、『ガキ使』にどこまで肉薄できるか?  テレビ朝日は2年連続で、『くりぃむVS林修! 年越しクイズサバイバー2015』(午後6時~深夜1時)をオンエア。昨年は『紅白』の放送が始まる前の第1部(6時~7時)こそ8.8%を取ったが、第2部(7時~11時45分)は5.9%、第3部(11時45分~深夜1時30分)は5.4%と惨敗しており、過度な期待はできそうにない。  ここ数年、『紅白』の裏で健闘しているテレビ東京は、『年忘れにっぽんの歌』(昨年は5.8%)とボクシング特番(昨年は5.6%)が定番だった。しかし、今年は『年忘れにっぽんの歌』が午後3時に移動。代わりにその枠では、『仰天パニックシアター~まさかの瞬間ビビる108連発大みそかSP!~』(午後5時55分~9時30分)を放送。同番組はビビる大木と中川翔子の司会で不定期放送されており、世界各国の衝撃的な映像や、思わず吹き出してしまう面白映像を紹介する。こちらは、大みそかの放送は初となるだけに、まったくの未知数。 『プロボクシング THE BEST OF BEST 大晦日2大世界戦SP』(9時30分~11時30分)は、内山高志と田口良一のW世界戦を中継する。同局の大みそかのボクシング特番は5年目となり、ボクシングファンにすっかり定着した。秀でて高い視聴率は取れないだろうが、今年も5%前後は堅いだろう。  フジテレビは昨年、『THE FACE OF 2014 世界が選ぶ今年の顔!アワード』(午後6時~9時)が4.0%、『ワンピース エピソードオブチョッパー+ 冬に咲く、奇跡の桜』(9時~11時)が3.3%、『2014→2015 ツキたい人グランプリ~ゆく年つく年~』(11時~深夜2時)が2.5%と、いずれも5%すら取れず、民放最下位。  なんとか現状打破を図りたいフジは、2005年の『PRIDE 男祭り 2005 頂-ITADAKI』以来、10年ぶりに格闘技中継『RIZIN FIGHTING WORLD GRAND PRIX 2015』(仮)をオンエアする。放送時間は午後7時~11時45分で、『紅白』と丸かぶり。 『RIZIN』は『PRIDE』色の強いイベントで、大みそかの対戦カードで格闘技ファンではない人でも目を引きそうなのは、曙対ボブ・サップの12年ぶりの対決、元大関・把瑠都の総合デビュー戦(対戦相手はジェロム・レ・バンナ)あたり。玄人受けするカードとしては、エメリヤーエンコ・ヒョードルの復帰戦、山本アーセン(山本美憂の息子)対クロン・グレイシー(ヒクソン・グレイシーの息子)の2世対決が組まれている。  2008年北京五輪柔道100キロ超級・金メダリストの石井慧はヘビー級トーナメントに出場し、12月29日の1回戦(対戦相手はイリー・プロハースカ)で勝てば、大みそかの準決勝・決勝に進出できる。  かつて、『PRIDE』が『紅白』の裏で放送されていた頃は視聴率15%超えを記録していたが、当時とは格闘技を取り巻く環境が違い、ブームもとうの昔に去っている。カード的にも弱く、「夢をもう1度」というのは少々虫のいい話。たしかに、大みそかの格闘技中継を待ち望んでいたファンもいるだけに、10%前後は取れそうな雰囲気だが、TBS『KYOKUGEN』と足の引っ張り合いになりそう。だが、ここ数年、大みそかに低迷が続いたフジにとって、“爆死”は避けられそうだ。  果たして、民放5局の大みそか特番がどの程度の視聴率を取るか、注目されるところだ。 (文=森田英雄)