
若尾 裕『親のための新しい音楽の教科書』(サボテン書房)
【リアルサウンドより】
タイトルに「教科書」と謳われているものの、いわゆる教科書のような体裁はしていない。むしろ「音楽」というものを考え直すことを目的とした本である。ここで「音楽」と呼ばれているものは「西洋近代音楽」のことだ。
「考え直す」といっても、著者の中には確固とした結論があらかじめ用意されている。いちおう音楽教育を問うた体の本ではあるので、音楽教育に対する見解としてもそれは披露される。著者は要するにこういいたいようである。
「音楽教育なんか全部無駄、むしろ害悪だからやめてしまえ」
もう少しひもといてみよう。結論にあたる第8章は、モーツァルトを例に早期音楽教育を論じた部分だ。
いうまでもなくモーツァルトは至上の天才として音楽史に刻まれており、早期教育の成果は申し分なく発揮されている。だが、親の想定を超えて「モンスター化」し、親と故郷を捨てて、非常に低い収入で暮らすうちに若くして死んでしまった。
そんなエピソードを示して著者は「こどもは親の思ったとおりには育たないようですね」と、音楽教育が思うままにならないものであることを強調する。
まあ、ここまではいい。でもここから導き出されるのはこんな結論なのである。
「音楽教育というのはそれがうまくいけば、後世に残る音楽家になる代償として親を裏切り、一生貧乏のうちに死ぬことになる。うまくいかなければ、音楽からはさっさと足を洗ってサラリーマンになって安定した生活を送る。ということでしょうか」
これ、おかしくない?
どうして「音楽教育を受けたおかげでそこそこ立派な音楽家になりぼちぼち幸せに暮らす」とかそういう可能性がすっかり省かれているのか。そんな人もいっぱいいるでしょうに。
だが、モーツァルトなんていう特殊な例に、こんな極論を一般論であるかのようにくっつけて、それで終わりなのである。
これが著者の音楽教育に対する思想ということなのだろうが、しかしなぜこんな歪な話になるのか。
日本の音楽教育と西洋中心主義批判
実はこの本、前回か前々回かに取り上げる予定で、書評も途中まで書いたのだけれど、読めば読むほど疑念が深まってしまい頓挫、急遽別の本に差し替えたという経緯がある。この欄の原稿料もそう高くない、というよりだいぶ安いので(笑)、「実に刺激的な問題提起であり議論を呼ぶことであろう」とか適当なオチでお茶を濁して済まそうかとも思ったのだが、ちょっと無理だった。
発売前から一部で評判で、わがTwitterのTL上でも、信頼できると思っている人たちがみんな褒めていたもので、まあ、ハズレということはないだろうとパラパラと斜め読みしただけで候補リストに入れてしまった自分のせいではあるのだが、なぜみなさん、こんなきわどい本を諸手を挙げて絶賛しているのか謎だ。
その後、大谷能生とやっている「ニッポンの音楽批評」というイベントで話題に出てdisっていたら(ちなみに大谷は「でもまあいい本ですよ」と褒めていた)、そうとは知らなかったのだが客席に版元であるサボテン書房の浜田淳氏が来ておられて、終了後に話したところ「批判でもいいから書いてほしい」といわれた。リアルサウンド編集部からもやっぱり取り上げてほしいという要望が出たので、うーん、気乗りがしないが、あらためて批判を前面に出して、こうして全面的に書き直している次第である。
さて、この本の主題は、近代化以降の日本における西洋音楽の受容にまつわる問題と、受容があまりに性急だったがために今日まで尾を引いている音楽の土壌の歪みを指摘し、「もうすこし健全な音楽のあり方」の模索を示唆することにある。音楽教育に焦点が当てられているのは、明治期の西洋音楽の導入が教育から始められたためだ。
明治において日本の急務は近代国家の体制を整えることだった。近代化は西洋化とほぼ同義だが、そこでの最重要課題は、それまで日本人には無縁だった「国家と国民」という意識を確立し植え付けることにあった。
日本政府は国民教化に注力することになるのだが、そこでとりわけ重視されたのが音楽教育だった。具体的には西洋音楽を叩き込むための唱歌教育なのだが、当時の音楽教育は、単なる情操教育に留まらない、多面的な目的を備えたものだった。
日本国民として持つべき意識をインストールし、身体の律し方を矯正し(その頃の日本人は行進もできなかった)、発声と発音をコントロールして標準化された言葉をしゃべれるようにすること。
民衆を「国民」という枠に填めて社会を形成するためのツール、それが音楽教育にまず求められたことだったのである。
本書は次々に、音楽教育と音楽にまつわる、当たり前と思われているけれど、よくよく考えるとおかしいような事柄を指摘していく。
音楽は楽しいものと思い込まれているが本当か。幼稚園、保育園ではなぜ子供に怒鳴るような大声で歌わせるのか。子供用の音楽はなぜハ長調ばかりなのか。人前で下手な歌を歌ったり演奏したりするのが恥ずかしいのはなぜか。そもそも音楽がヘタクソであるとは何か。難しい音楽が偉いと思われているのはなぜか。音楽教育が情操によいというときの「情操」とは何か。
こうしたことのことごとくは、明治にそれ以前の日本をリセットするように一気呵成に整えられた音楽教育と、音楽教育を支配してきた西洋近代音楽中心主義によってもたされた弊害なのだと著者は指弾していくのである。
相対主義とソーカル事件
世界にはいろいろな文化があって、それらに優劣はないんだから、西洋中心主義的なものの見方や考え方は改められねばならない。本書を貫いているのはそういう考えだ。この考え方は文化相対主義というもので、それは全体の総括と背景の解説をした終章にも書かれている。文化相対主義はカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムなどへと展開していき、日本でも90年代に盛んになったものの、ソーカル事件(知らない人はググってね)を境に2000年代には下火となっていった印象がある。
カルスタの特徴は何より、たいていの事象や現象を社会的に構築されたものと見なすところにある。むろん音楽もそうだ。これは相対主義とセットである。
ソーカル事件はポストモダン思想を批判したものだというのが一般的な理解だと思われるが、ソーカルがでっち上げ論文を送り付けたのは、権威あるとされるカルチュラル・スタディーズの学術誌であり、ソーカル事件は背景に「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれる論争を含み持っていた。
サイエンス・ウォーズは一言でいうと相対主義批判である。ポストモダン~カルスタ系の相対主義が科学にまで及び「科学的真理は構築物に過ぎない」と言い出していたことに科学者たちがぶち切れたのである。ソーカルのでっち上げ論文は、量子力学の理論は社会的コンテクストによって決定されているのだという出鱈目な主張を、科学用語を適当に使ってポストモダン風に粉飾したものだった。
ソーカル事件でポストモダン~カルスタは葬られたと評価する人もいたが、少なく見積もっても、ひとつのメルクマールになったことは間違いない。
アルテスから『音楽のカルチュラル・スタディーズ』という論文集の翻訳が出たのは2011年のこと。原著の出版は2003年だ。監訳者は本書の著者である若尾裕である。監訳者あとがきで若尾は「筆者の感覚では、この書の新鮮な刺激にとんだ魅力はいまだ衰えていないように思えます」といっているのだが、この本が出たとき、正直「なぜ今頃カルスタ?」と思ったものだ。掲載されている論文も、総花的ではあるが新味があるとは言い難い。
西洋音楽=資本主義!?
『親のための新しい音楽の教科書』の議論も、大体カルスタの成果に依ったものだ。西洋近代音楽中心主義批判、文化帝国主義批判、上位文化による下位文化の抑圧批判、イデオロギー永続装置である学校教育批判、マイノリティ擁護などなどの定型化した感のある議論を、日本の音楽教育と、著者の専門である音楽療法を題材に平易に説き直したものが本書であるといっていいだろう。
カルスタというのは、文化の価値決定に潜む政治性を暴き出し、価値ヒエラルキーの解体を目論むことを中心原理とするといえると思うが、本書の主張もそこにきれいに収まっている。
ひとつ例を見てみよう。
「楽しい音楽」批判の中身は、実は機能和声批判である。和声進行の技法は19世紀のロマン派のあたりで今日に通じるかたちがほぼ出来上がり、同時に感情の表現も担うことができるようになった。機能和声の情動に働きかける効果は産業と結びつき洗練され、「現代ではさらに、あるコード進行が「胸キュン」などと呼ばれ、感情を操作するテクノロジーのようなものにまでなっています」。
社会的ドグマになってしまった「楽しい音楽」はその最たるものだとされている。機能和声により喚起される感情、嬉しいとか楽しいとか悲しいというのは、特定の文化の約束事として受け取り方が決まっているものに過ぎず、約束事を共有しない他文化の人が同じように聴くとは限らない。にもかかわらず「音楽は万国共通」と考えてしまいがちなのは、音楽のグローバリゼーションおよび西洋中心主義によって引き起こされた錯覚なのである。とまあ、そういった趣旨だ。
読んでいて、実は議論そのものよりも、機能和声が感情と結び付いたこと自体を悪玉視しているような論調が気になった。別の本『音楽療法を考える』(音楽之友社、2006年)を読んだら、若尾は機能和声についてこんなことを書いていた。
和声進行の基本運動「期待と解決」について、ドゥルーズの哲学を援用した「欠乏の充足という原理」という見方があることを紹介し、それをマックス・ウェーバーに接続してこういうのである。
「この原理は、よくみるとマックス・ウェーバーが指摘した資本主義におけるプロテスタンティズムの意義を思い起こさせる。音楽の欲動やエネルギーを経済的に管理し、抜け目なく投資しながらクライマックスへと向かう、あの機能和声の音の流れは、資本主義的な欲動のあり方をベースになりたっていると考えられるのだ」
いかにも危うい議論だ。若尾はこれを「西洋音楽に潜んでいたイデオロギー」とまで言い切るのだが、つまり著者の思想においては「西洋音楽と資本主義は同じイデオロギーの上に立つ本質的に同じシステム」なのである。
カルスタはマルクス主義の批判的展開という面を持っており、やってる人は大抵左翼なので、資本主義やグローバリゼーションには否定的である。文化相対主義を掲げながらこの『親のための~』に、西洋音楽を根本的に否定したいという意志が強く滲んでいるのが不思議だったのだが、西洋音楽=資本主義と見なしているらしいことがわかってようやく合点がいった。
カルスタ的相対主義、構築主義に対する批判的潮流として大きいのは、『音楽のカルチュラル・スタディーズ』でも批判的に言及されているが、認知科学だろう。そのイデオローグで進化心理学のスティーヴン・ピンカーは『心の仕組み』(NHKブックス、2003年)で、音楽が喚起する情動について「普遍的ではないが、任意でもない」といっている。音楽イディオムにある程度慣れ親しんでいる必要はあるが、情動と結び付けるために「楽しい気分や憂うつな気分のときに聴いたりして、パブロフ風の条件づけをする必要はない」のだと。
フィリップ・ボール『音楽の科学』(河出書房新社、2011年)では、西洋音楽にまったく触れたことのない民族に西洋音楽を聴かせたところ、偶然より明らかに高い確率で、その音楽が喜びと悲しみのどちらを表しているか言い当てたという実験が紹介されている。
ただし、フィリップの紹介にはたくさんの留保が付いている。音楽と情動というのは社会的に構築された側面を多分に持つ問題であることも含んでいる。それだけ一筋縄ではいかない問題だということだ。対して若尾の議論は、機能和声の喚起する情動はほぼ完全に社会的構築物であるという前提で進んでいる。なぜそう言い切れるのか、単純にそう言い切ってしまっていい問題なのだろうか。
理想的な音楽教育は「何もしないこと」
この本で若尾は、文化相対主義的な立場を取っているはずなのだが、どうにも西洋音楽の否定ないし排除を目指しているようにしか見えないのだ。
若尾のいう「もうすこし健全な音楽のあり方」とは、したがって、西洋音楽の支配から脱した音楽ということになるだろう。12音技法やセリエリズムのような音楽は、支配からの逸脱ではなくて、西洋音楽的イデオロギーである「むずかしい音楽」の内部における尖鋭化だから失格である。
若尾が称揚するのは、「生の芸術」を提唱したデュビュッフェが趣味で自分勝手にやっていたアウトサイダーアートのような音楽であり、パンクやオルタナティヴ・ロックである。特にパンクやオルタナは、ヘタクソでも構わないという価値観の転倒を広め、完全であることを価値とする西洋音楽中心主義を転覆した点で、音楽史に特記されるほど重要であると評価している。
ポピュラー音楽を取り入れるなどだいぶ相対化されたとはいっても、根本的には西洋近代音楽中心主義にいまだ留まっている音楽教育が、こういった基準からいえばまったく無価値としてしりぞけられるのは道理で、事実そう書いている。
バンドなど学校外で自主的に行われる「インフォーマル・ラーニング(非正規の学習)」こそリアルで本質的な学びであると若尾は評価する。親が子に施せる理想的な音楽教育とは、とどのつまり、何もしないこと、子供の勝手にさせておくこととなるわけだ。
若尾はそもそも学校や教育というもの自体、近代の「発明」に過ぎないとして、アリエスの『〈子供〉の誕生』を引き合いに出している。「子供」という概念は近代になって発明されたものであり、それ以前は「子供」はおらず「小さな大人」がいただけだと説き大きな衝撃を走らせた、60年発表の本だ。アリエス説には異論や批判が出ているが(ポロク『忘れられた子どもたち』、森洋子『子供とカップルの美術史』など)、若尾は故意か過失かそういったものをネグレクトして、あたかも確定した史実であるかのように書くのである。
自分が「親」なら……
どうも著者は、批判や異論、対抗言説があることを承知しながらそれらを振り切り、話を単純にして、あえて極論へ極論へと傾けるように本書を構成しているように思えてならないのだ。その動機には、著者の経歴が影響しているように見える。
著者の若尾裕は、芸大で作曲を勉強したバリバリの西洋音楽エリートなのである。大学院を卒業して教育系の大学に就職した後、アメリカの音楽療法士ポール・ノードフに出会い音楽療法に転じるのだが、そこから西洋音楽というものへの懐疑を抱くようになったようだ。
若尾の西洋音楽に対する絶望がいかほどであるかは、「アルテスウェブ」の連載「反ヒューマニズム音楽論」(
http://www.artespublishing.com/serial/archives/wakao/)に縷々述べられている。こちらの文章のほうが若尾の西洋音楽に対する考えがよくわかる。
機能和声についても、「人の情動を社会的に管理するための一種のツール」になった、フーコーのいう「生政治」的な現象として考えるべきものであると、より直截にその危機が述べられている。
「あたかもポピュラー音楽は消費者の意向投票によって決まっているかのように論じられることが多いのだが、じつは消費者が反映させたい情動は、社会という管理のフィルターを通過してできあがったものなのである」
『音楽療法を考える』のあとがきによると、若尾がポストモダン思想やカルスタに開眼したのは2000年を過ぎてからのことらしい。2011年にカルスタを「新鮮」といった理由がうかがえる。
繰り返すが本書は、日本の音楽教育を題材に、カルスタの定番言説を、平易にかつ極論に振り気味に再説したものだ。
たとえばこれが『音楽教育のカルチュラル・スタディーズ』みたいなタイトルであれば「ふーん」とやりすごしただろうが、ところが『親のための新しい音楽の教科書』なのである。自分が「親」だとして、このアナーキーな本を「教科書」にするかといわれれば、しないだろう。
若尾さんは、ポピュラー音楽とリスナーの関係を、入力される刺激とパブロフ反射くらいにしか考えていないみたいだけど、おれがこれまで歌謡曲に流してきた涙は、断じてそれだけのものじゃないのである。
■栗原裕一郎
評論家。文芸、音楽、芸能、経済学あたりで文筆活動を行う。『〈盗作〉の文学史』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『石原慎太郎を読んでみた』(豊崎由美氏との共著)。
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