久石譲、エンタテインメントとクラシックの未来を語る「人に聴いてもらうことは何より大事」

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【リアルサウンドより】  日本を代表する映画音楽の作曲家であり、近年はクラシックの指揮者としても活躍する久石譲。これまで多岐にわたる作品を発表してきた彼が、『WORKS』シリーズとしては約9年ぶりとなる新作『WORKS Ⅳ』を完成させた。映画やドラマなどに提供した楽曲を今一度フルオーケストラ作品へと昇華させるというコンセプトを持つ本作では、宮崎駿監督『風立ちぬ』や高畑勲監督『かぐや姫の物語』、山田洋次監督『小さいおうち』などの音楽がより一層格調高く、ドラマチックに演奏されている。クラシック音楽やミニマル・ミュージックを出発点としつつ、エンタテインメント分野で大きな足跡を残してきた久石は今、どんなビジョンを持って音楽を生み出そうとしているのか。今回リアルサウンドで行ったインタビューでは、収録曲のコンセプトから、現代音楽やクラシックへの問題意識、さらには“ポピュラーミュージックの勘所”といったテーマまで、じっくりと語ってもらった。

「宮崎さんとの仕事を、きちんとした形で残していこうという意図はありました」

――久石さんにとって『WORKS』シリーズの位置づけとは? 久石:映画など他の仕事でつくった音楽を「音楽作品」として完成させる、という意図で制作しています。映画の楽曲であれば、台詞が重なったり、尺の問題があったりとさまざまな制約があるので、そうした制約をすべて外し、場合によってはリ・オーケストレーションして音楽作品として聴けるようにする。『WORKS』シリーズはそうした位置づけの作品です。 ――映画音楽は、音楽作品としての完成形を描いた上でつくられているのでしょうか。 久石:ものによっては音楽作品にするときのアイデアが浮かぶこともありますが、映画をつくっているときは、全体を見通すほどの余裕はありません。曲づくりが終わったあとに、客観的な視点を持って音楽作品になるかならないかを“点検”することが多いですね。 ――『WORKS IV』では、冒頭に宮崎駿監督の『風立ちぬ』の音楽を組曲化した作品が収録されています。 久石:この曲の特徴としては、バラライカなどロシア系の民族楽器を使っていることが挙げられます。その民族楽器と、小編成のオーケストラとの協奏曲スタイルをとれば成立するのではないかと思ってつくりました。 ――映画バージョンとはまた違う作品性があり、これは色々な場所で演奏されそうですね。 久石:そうなってほしいですね。一度こうして作品として形にすれば、きちんとした譜面を出すことになりますので、「もし演奏したい人がいればどうぞ」という思いです(笑)。手にしづらい民族楽器を使ってはいますが、バラライカはマンドリンで、バヤンはアコーディオン系で代用できます。アマチュアのオーケストラでも再現できる可能性はありますね。 ――こうして作品化された背景には、ひとつの芸術作品として長く聴き継がれていくものを、というお考えもあるのでは? 久石:そうですね。たとえば宮崎さんとの担当作は数えて10作、30年間に及びます。それを多くの方が聴き、それぞれに評価してくれました。そして『風立ちぬ』が最後の(長編)作品になるということですから、きちんとした形で残していこうという意図はありました。 ―― 一方、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』の音楽は、アニメーションと連動した躍動的でドラマチックな展開が印象的でした。再構成するにあたっては、どのような点を特に重視されましたか。 久石:これはかなり苦しみました。何度もトライして、うまくいかないからやめたりもして(笑)。でも、しばらく経つと、挫折したような感覚が嫌になり、再びチャレンジするんです。その繰り返しで、最終的にはコンサートの一ヶ月くらい前に完成しました。 ――特に苦労された点とは? 久石:まず、本作の音楽としては「わらべ唄」という高畑さんご自身が作られた本当にシンプルな歌が基本にあるんです。それが重要なシーンに使われているから、僕の書く音楽にも五音音階を取り入れないとバランスが取れない。つまり、「ドミソラドレ」とか「ドレミソラド」というものですね。さらにこれをひとつ間違えると、すごく陳腐になり、不出来な日本昔話のようになってしまう(笑)。それをなんとか高畑さんのイメージに合うように工夫するのですが、高畑さん自身が音楽に詳しい方なので、細かい要求がたくさん出てくるんです。そのひとつひとつに応えていったことで、いろいろなスタイルの音楽が混在してしまうことになり、まとめるのが難しくなりました。  『風立ちぬ』でロシアの民族楽器を使ったように、「『かぐや姫の物語』は日本を題材とした映画だから、和製楽器の琴とオーケストラでやろう」というアイデアも出ました。ところが、そうすると逆にトリッキーになってしまう。一度聴く分には面白いんだけれど、きれいにはまとまらないんです。それで他の楽器を足すなど試行錯誤しましたが、オーケストラだけのシンプルな構成のほうが統一感がある、というところに行き着いて。そこに至るまでにけっこうな時間がかかりました。  また「天人の音楽」(天人が天から降りてくるときの音楽)は、もともとサンプリングのボイスなどを入れていたので、オーケストラとの整合性がうまくとれずに苦戦しましたね。ただ、それが現代的にかっこよく響いてくれれば成功するだろうという狙いが根底にありましたし、高畑さんも実験精神旺盛な方ですから、とがったアプローチをしても快く受け入れてくれました。「五音音階を使っているのに何故こんなに斬新なの?」と思わせるラインまではすごく時間がかかりましたが、結果として納得いくものができました。 ――今作には山田洋次監督の『小さいおうち』をベースにした楽曲もあり、全体を通して昭和モダン的な雰囲気が伝わってきます。 久石:『風立ちぬ』や『小さいおうち』は戦時中、昭和の時代の話なので、その雰囲気は出てくればいいなと思います。ただ、僕は昭和25年生まれなので、戦争のことはもちろん、こうした作品の時代性や雰囲気はまったく知らない。知っているのは、高度成長期以後の昭和の雰囲気や、当時のポップスや歌謡曲なので、その雰囲気を出そうとは意識しました。
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「モーツァルトだってハイドンだって、発注があってしか書いてない」

――今年3月に、今作のジャケットも手がけたデザイナー・吉岡徳仁さんとの対談番組(Eテレ『SWITCH』)があり、「発注がある仕事」の楽しさ、難しさについてのお話がとても印象的でした。 久石:彼はデザイナーだから、基本的には商業ベースでつくることになります。ただ吉岡さんにも自分のやりたいことがあるし、自分のつくりたいものと発注されるものは違うので、ある種の葛藤は持っています。そこの共通項ありましたね。 ――どういった葛藤ですか? 久石:アーティストというのは、モーツァルトだってハイドンだって、発注があってしか書いていないんです。発注なしで作っていたのは、シューベルトとプーランクくらいじゃないかな。「浮かんだら書く」なんてそんな呑気な話はありません(笑)。  依頼は、作品をつくる手がかりにもなります。「お金がない」と言われたらオーケストラではなく小編成にするし、「アクション映画だ」と言われたらラブロマンスみたいな曲を書くわけにはいかない。このように、どんどん限定されていきますよね。そういった制約は決してネガティブなことではなく、「何を書かなければいけないか」ということがより鮮明に見えてくるだけなので、僕は気にしていません。  大事なのは、映画のために書いているふりをして、実は本当に映画のためだけではないこと。つまり、自分がいま書きたいものと発注をすりあわせていくんです。アーティストが書きたいと思っているものでなければ、人は喜んでくれない。いま自分が良いなと思っている音楽の在り方――それは幅広いジャンルにあるので、その中で、いま発注の来ている仕事と自分の良いと思うものとを照らし合わせるんです。 ――それはご自身が30年以上このお仕事される身につけていったマナーですか。それとも、最初からお持ちの考えなのでしょうか。 久石:どうなんでしょう。その都度、一生懸命やっていることは確かで、基本的にはそういう姿勢です。頭で考えてスムーズにいく仕事はひとつもないので、毎回ああだ、こうだとやっていますよ。 ――先の対談でもう一つ印象的だったのは、久石さんの「音楽をつくるには論理的でなければいけない」という趣旨の発言です。 久石:感性に頼って書く人間はダメですね。2~3年は書けるかもしれないけれど、何十年もそれで走っていくわけにはいきません。自分が感覚だと思っているものの95%くらいは、言葉で解明できるものなんです。最後の5%に行き着いたら、はじめて感覚や感性を使っていい。しかし、いまは多くの人が出だしから感覚や感性が大事だという。それだけでやっているのは、僕に言わせると甘い。ムードでつくるのでなく、極力自分が生みだすものを客観視するために、物事を論理的に見る必要があります。 ――面白いですね。ご自身の中では、自らの音楽を解析していくプロセスは常に踏んでいると。 久石:そうですね。とはいえ、言葉で説明できる段階というのは、まだ作曲にならないんです。無意識のところまでいかないと、作品化するのは難しい。ある程度はつくっているけどピンと来ない、ほぼできているけど納得できない…というものが、一音変えただけでこれだ!という曲もあるし、どこまでやっても上手くいかないから、ゼロからもう一度、という場合もある。「残りの5%」のような解明できないところ、つまり無意識の領域にまでいかないと、作品にするのは難しいです。 ――発表されている曲は、すべてそういうプロセスを経ていると。 久石:そういうことになります。 ――久石さんのキャリアを振り返ると、ミニマル・ミュージックや現代音楽分野での創作活動を経て、ポピュラリティのある映画音楽の世界で広く活躍されてきました。二十世紀の実験音楽へのご関心は、今も継続して持っておられるのでしょうか。 久石:ミニマル・ミュージック以降の、ポストミニマルやポストクラシカルなどのジャンルでいうと、自分はポストクラシカルの位置にいると認識しています。そういう作品はいまも書き続けていくべきだと考えているし、力を注いでいる部分でもあります。現在つくっている音楽も、やはりベーシックはすべてミニマルです。それの発展系ですね。

「メロディは意外と古くならないけど、言葉は真っ先にダメになる」

――久石さんからご覧になって、ミニマル・ミュージック以降で、新しいことをやっているなと思うポピュラーミュージックはありますか。 久石:ありますよ。しかし残念ながら、ポップスの構造というのは単純なんです。和音も似たり寄ったりだし、リズムにも凄まじい変化があるわけではなく、どうしてもメロディラインが基準になってしまう。メロディに対してコード進行をつけるけど、皆が歌えることが前提になるので、複雑化させることが良いとは言えません。ポップスの面白みやすごさは、メロディと言葉が一体化したときに独特のものが出てくることです。特に言葉は、時代が反映されるから厳しいですね。多くのポップスミュージシャンやシンガーソングライターがコケてしまうのは、言葉なんですよ。すぐに時代に合わなくなってしまうから。  その点、メロディは意外と古くならないんです。良いメロディに時代に合うリズムを取り入れれば、一応形になるはずなのですが、真っ先にダメになるのが言葉です。言葉の表現は、作り手がある年齢に達したとき、若い人たちに「これは自分の歌じゃないな」と思われてしまう。響く範囲がものすごく狭いから、可哀想だなと思いますね(笑)でも、たまにものすごく衝撃的なことが起こることがあります。昨年ATSUSHIさんとのコラボ曲(「懺悔」)なんかは、商業ベースをすべて無視してつくったから、意外といい作品ができました(笑)。 ――ポピュラーミュージックはつまるところ、言葉であると。 久石:基本は、歌ですよね。言葉とメロディが一体になったときに、理屈じゃないところで世界がずんと重く感じられるときがある。それがポップスの持っている圧倒的な力なんだと思います。 ――他方で、現在ご自身がオーケストラ音楽に注力されているのは、クラシック音楽を多くの人に届けようという意図もあるのでしょうか? 久石:あります。ポップスをやっている人間から見たクラシックの最大の問題は、「古典」になってしまうこと。要するに、過去から繋がってきて現代があって、その先に未来がなければいけないのに、まるで過去しか存在しないような排他的な世界になりやすいことです。「ベートーヴェンは神様」みたいな人たちとやっていると、一般の人が入れない世界に入っていってしまう。  二十世紀の後半は現代音楽が盛んでしたが、いまは多くの音楽家が十分に活動できなくなっています。すると、みんな集客力の高い古いクラシックの曲を演奏するしかなくなって、音楽の流れが途切れてしまう。途切れると、未来はありません。だから僕は、クラシックのプログラムにも必ず現代音楽の要素を入れます。未来に繋がる新しい音楽を提供していかないと、クラシックはただの古典芸能になってしまう。それに対する危機感は、強く持っています。 ――二十世紀後半に盛んだった現代音楽が行き詰まったのは、作曲者や演奏家を支援する体制がなくなったからでしょうか。 久石:それもありますが、もうひとつ「脳化社会」というか、ほとんどみんな頭でつくりあげたような作品ばかりになったことも大きいと思います。十何音の不協和音が飛び交うような音楽では、多くの人の理解を得るのは不可能だろう、ということです。机上で書いた空論ばかり。プロでも違いのわからない、勝手に頭のなかで組み立てた音楽だけになってしまうと、観客はいなくなり、希望に燃えてつくっているものが頭打ちになってしまう。  それに対してアルヴォ・ペルトという作曲家などは、不協和音も書いていたけれど、「原点に戻らないと音楽がダメになる」と先陣を切り、多くの音楽家がその方向に向かいました。その大きい動きの中に自分もいるという気がします。いま日本にいる、いわゆる「現代音楽」の作曲家と同じことをするのではなくて、僕がやりたいのは「現代“の”音楽」。エンタテインメントの世界にいるから、人に聴いてもらうことを何より大事に思っているんです。だから、現代にあるべき音楽というのを一生懸命紹介したり、書いたりしていきたいですね。 ――未来につないでいきたいというのは、どういった場に向けてですか。 久石:基本的にはコンサートとCD、できるだけあらゆるメディアを使って表現していく必要があると考えています。場合によっては文章でもいい。そのために、いろんなスタイルで発信していくつもりでいます。

「ウケなければ正義じゃない、というエンタテインメントの鉄則が好きなんです」

――先ほどもお話に出ましたが、久石さんが刺激を受けるクリエイターを何人か挙げていただけますか。 久石:最近だと、アメリカの32歳のニコ・ミューリー。彼はいいですね、完全にポストクラシカルの人間で、ビョークのプロデュースをしたり、メトロポリタンオペラというアメリカで一番大きな歌劇場でも曲を書いています。技術力もある。こういう新しい世代がガンガン出てきています。セルゲイ・プロコフィエフの孫にあたるガブリエル・プロコフィエフも面白いと思います。 また、最近気になっているのは、スウェーデンの『ブリッジ』というテレビドラマの音楽です。ノルウェーとスウェーデンには橋があり、そのど真ん中に死体が出て、どっちの警察が処理すべきかわからないから特別編成チームができる。しかし、お互いに自分の国の進め方があるから喧嘩しながら捜査していくことになる。そこに猟奇的な連続殺人事件が起きて…という物語で、いまちょっとハマっているんですよ(笑)。そして、エンディングに流れている北欧独特の音楽が非常に良い。シンプルに見せておいて、ふとした切り口がすごいんです。「これは俺たちが20分かけてフルオーケストラでやっても表現できないな」という音楽に出会うことがあります。 ――久石さんは今後、ポピュラーミュージックの分野でもお仕事をされますか。 久石:そうですね。仕事を選んではいますが、決してエンタテインメントなことをやめたわけではないんです。客観的になることは、自分にとっては大事なこと。作品ばかり書いていると自分のことしか考えなくなります。それに、エンタテインメントの鉄則が、僕は好きなんですよ。それは、「ウケなければ正義じゃない」ということ。自分がいいと思うのが正義ではなく、売れたものが正義。ウケなくなったらまずいので、絶えず自分と時代について考えなければならない。それは続けていこうと思っています。 ――日本のエンタテインメント音楽の現状についてはどう思われますか。 久石:そもそもCDが売れていませんからね(苦笑)。音楽という文化的なもので感動する下地を、みんなできちんと考えなければ、先は厳しいなと思う。あとは、情報化の行きすぎが気になりますね。音楽はそれなりの装置やプロセスを経て作品と対峙しないと厳しい。音楽をただの情報として捉えるようになってしまうと、音楽への感動はなくなるのではないかと思うんです。ポップスのアルバムで10曲入れようとすると、コマーシャルの音だけじゃなくて、「今やりたい音」も入れることで、トータルで本人のやりたいことが見える。それを、一曲ごとのダウンロードを主流として考えていたら、単発のコマーシャリズム狙いになってしまいます。すると結果的に自分たちが疲弊していくし、音楽にパワーがなくなっていく。クラシックの話でも同じことを言いましたが、新しいことをやらないと先はないんです。重要なのは、その音楽にオリジナリティがひとつでもあるかないか――CDを買ったら、まずはそれをきっちり聴くという作業をしてほしいですね。 ――作り手も、自分のやりたい領域を確保していく必要があると。 久石:そうです。僕もかつて一生懸命にポップスをやっていましたが、ひとつのベースの音をつくるのにシンセサイザーを組み合わせたりして、5時間かかったりするわけです。でも、いまはプリセットでも簡単に作れてしまう。当然ながら、誰でも作れる音にお金を払う価値はなくなります。日本のJ-POPといわれるものを聴いたら、みんな音が同じだもん。歌もみんなピッチを変えて(笑)、修正ばかりでつまんないですよ。  僕が思うのは、ひとつのものをつくるには手間暇をしっかりかける必要があるということです。「みんな使っている音では嫌だから、自分でつくろう」という気持ちは大切です。たとえばハイハットの音だって、自分でつくれば人に届くんですよ。ポップスの場合は音をわかりやすくするために分厚くできないから、ベースやドラムの音ひとつで世界観をつくる、というレベルまでつくりあげないと、聴く価値には行き着かないと思います。 ――ご自身でも、J-POP的な楽曲にチャレンジしようという気持ちは? 久石:いえ、今のところはありません(笑)。ただ、面白いことだったらもちろんやりたいから、アイデアが出れば挑戦したい。可能性はなくはないですね。 ――精力的に演奏活動をされていますが、じっくりと作曲する時間はどう確保されているのですか? 久石:難しいですね。まずは来年など、ずいぶん先に委嘱されているものをきちんとつくらなければいけないし、それにはやはり手間暇がすごくかかるんです。自分の作品を書くことと、エンタテインメントの仕事と、そのあたりの時間の配分はかなり考えないといえけない。だから、いつも落ち着かないですね。あれもこれもやんないと…と思いながら、深夜にはアメリカのテレビドラマを見ちゃうんですけど。見だすと止まらなくなるから、テレビのない世界に行きたい(笑)。 ――最後に、久石さんが常に休まず、クリエイトし続ける理由とは? 久石:僕は走りながら考えるタイプなんです。立ち止まって考えると、逆になにもできなくなってしまう。だから、つくりながら考え、修正を加えていく、というのが性格的に向いていると思います。ただ、今年は依頼をほとんど断って、よく立ち止まるようにしているんです。来年からはもう一度、しっかりやりたいと思っていますよ。 (取材・文=神谷弘一)
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■リリース情報 『WORKS IV -Dream of W.D.O.-』 発売:10月8日(水) 価格:¥3,240(税込) <CD収録内容> 1.バラライカ、バヤン、ギターと小オーケストラのための「風立ちぬ」第2組曲~旅路(夢中飛行)~菜穂子(出会い) 2.バラライカ、バヤン、ギターと小オーケストラのための「風立ちぬ」第2組曲~カプローニ(設計家の夢) 3.バラライカ、バヤン、ギターと小オーケストラのための「風立ちぬ」第2組曲~隼班~隼 4.バラライカ、バヤン、ギターと小オーケストラのための「風立ちぬ」第2組曲~旅路(結婚) 5.バラライカ、バヤン、ギターと小オーケストラのための「風立ちぬ」第2組曲~避難 6.バラライカ、バヤン、ギターと小オーケストラのための「風立ちぬ」第2組曲~菜穂子(会いたくて)~カストルプ(魔の山) 7.バラライカ、バヤン、ギターと小オーケストラのための「風立ちぬ」第2組曲~菜穂子(めぐりあい) 8.バラライカ、バヤン、ギターと小オーケストラのための「風立ちぬ」第2組曲~旅路(夢の王国) 9.Kiki's Delivery Service for Orchestra (2014) 10.ヴァイオリンとオーケストラのための「私は貝になりたい」 11.交響幻想曲「かぐや姫の物語」~はじまり~月の不思議 12.交響幻想曲「かぐや姫の物語」~生きる喜び~春のめぐり 13.交響幻想曲「かぐや姫の物語」~絶望 14.交響幻想曲「かぐや姫の物語」~飛翔 15.交響幻想曲「かぐや姫の物語」~天人の音楽~別離~月 16.小さいおうち

「若いジャニ—ズでは稀」中山優馬、度重なる“喫煙”目撃談で指摘される脇の甘さ

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ファンは寛容でも外野がとやかく言うから気をつけて!

 ジャニーズタレントに喫煙者が多いことはファンにも知られており、かつてSMAP・木村拓哉が“嫌煙ブーム”に「何なんですかね? あれは」と異論を唱えたりと(既報)、タバコに関しては寛容な姿勢がみえるジャニーズ事務所。

 そんな中、7日発売の「週刊女性」(主婦と生活社)で、中山優馬のショートムービー撮影現場の記事に書かれた、ある情報がファンの間でにわかに話題になっている。

“薬物疑惑”清原和博に「Xデー」迫る!? マスコミの情報収集・素材収集が活発化

kyhr1008.jpg  モデルの妻・木村亜希と離婚した元プロ野球選手・清原和博だが、“薬物疑惑”に対する捜査の動きが注目されている。  今年3月に薬物使用疑惑が報じられた後、逮捕もされていないのに同時期に出演予定だったテレビ番組がキャンセルになり、以降はメディア露出がまったくない状況に陥っている。  逮捕された歌手のASKAでさえ、薬物疑惑の報道から逮捕までの間は、ラジオ出演などメディアからの仕事はあったが、清原の取り扱いは非常に厳しいものがある。実際、記者間でも「●●ごろがXデーとなりそう」というようなウワサが飛び交っており、緊迫した空気は続いたままだ。  薬物疑惑に関しては、一説には肉体改造に使った筋肉増強剤の副作用から、海外プロレスラーなども悩む精神不安定な症状が顕著になったことが原因ともいわれるが、実際のところは定かでない。だが、取材記者がろれつの回らない不自然な姿を何度も目撃しており、疑惑を深めている。  その真偽は横においても、清原を「精神不安定」とする球界関係者や知人は少なくない。“番長”という愛称の豪快なキャラクターとはほど遠いものだが、実のところ、その人物像は逆で「悩みやすく繊細、酒に酔って暴れることはあっても、シラフでは小心者」と評する声が多い。  長く清原を見てきたスポーツ紙記者からも「過去、プレー中に他選手らとトラブルになっても、自分から手を出したことは一度もなく、向かってきた外国人選手に逃げ腰だったこともあった。気が優しくて後輩の面倒見がよかったりする、その気配りが“ヤミ社会”の連中からは評価されて、強引に連れ回されても断れないところがあった」という話も上がっている。 「そもそも“番長”と呼ばれたのも、後輩たちを引き連れて飲みに行き、プロレス技をかけたエピソードなどから、写真誌が連載コーナーを『番長日記』と名付けただけ。でも、本人はそのイメージに縛られるように、次第にコワモテな面を演出するようになっていった」(同)  近年の清原は、格闘家のトレーナーを帯同して過剰なまでの筋肉トレーニングに励んで、肉体は膨張。一時は格闘技の練習もしていたが、試合のオファーを受ける勇気はなく、さらに入れ墨やヒゲ、白いスーツなどを加え、まるでヤクザか用心棒かと思うような、見せかけの威圧感を増していった。そのせいで、清原を敬遠する関係者も増えていったのは事実だ。  そんな中、長年続いているとされる銀座のクラブママとの愛人関係や、自宅マンション差し押さえ、銀行口座に残高が尽きて金銭苦などのゴシップが次々に報道され、ついには浮気報道にも動じないでサポートしてきた妻までもが離れる事態になった。  3月の入院は薬物によるものではなく、糖尿病でのものと弁明していた清原だが、ここまでの話が重なったからか、テレビやラジオがオファーを敬遠するだけでなく、週刊誌やスポーツ紙ともども清原の映像、画像、ウワサを集めて蓄積し、Xデーに備えている。ただ、過去の例でいえば、マスコミの間でここまでの動きが見られるのは、その根拠が単なるウワサだけでなく、捜査当局から情報が漏れていることも多い。  9月中旬に電話で話したという知人によると、清原は「電話に出ない人間ばかり」と愚痴をこぼしていたというが、知人は「今さら泣き言を言うな」と突き放したという。姿も環境も激変しグレーな疑惑にまみれた清原からは、こうして人々が次々に背を向けているが、バットを置いて年月がたつ清原には、一連の疑惑を払拭するような逆転ホームランを放つ力も残っていないのか。 (文=ジャーナリスト・片岡亮)

おっぱいは一日でどのくらいチラ見されてる? ブラに仕込んだ“ブラカム”で実験した結果…

【不思議サイトトカナより】  多くの男性が愛してやまない“おっぱい”。女性は胸に毎日どれほどの視線を集めているのでしょうか? この度ロンドン市街で、胸元を強調した女性が胸に隠しカメラ“ブラカム”を仕込み、どのくらい注目されるのかという面白い実験が行われました。 ■凝視するのは男性ばかりではなかった!  英「Daily Mail」が伝えたところによると、1日で集めた視線の回数は実に36回! 電車やカフェ、道端で、男性も女性もチラっと視線を胸元に向けてはサッとそらしています。  男性のうち何人かは見ていないようでさりげなく視線を送っていたり、また、面白いことに女性の中で凝視する人も意外に多かったという結果が出ました。 続きは【トカナ】で読む