9月に入り、急激な失速で優勝戦線から脱落してしまったプロ野球・阪神。今年は和田豊監督の契約最終年であり、当初は「1年の延長が内定」というような報道もあったが、ここへきて完全白紙に。関係者の間では「ダメ虎と呼ばれた時代以来、久々のお家騒動が勃発している」と、にやけ顔で話す者が多いという。 8月末、東京ドームでの巨人戦に負け越し、直後に本拠地・甲子園での東京ヤクルト戦でも同様の成績。 「このあたりから『やっぱり、終盤に失速する流れが出てきたから、万が一に備えたほうがいい』と口にする在阪スポーツメディア関係者が徐々に増えていった」(スポーツ紙野球デスク) だが、首位巨人、2位広島と直接対決する9月9日からのホーム6連戦の前にあったナゴヤドームでの中日戦では、まさかの3連敗。続いて、巨人にも3タテを食らい、完全に勢いが止まってしまった。 「ナゴヤドームでの初戦を落とした次の試合から、球場に姿を見せるトラ番記者の数が一気に激減しました。理由はズバリ、来季の後任人事を各所で探るためです。かつて、暗黒時代と称された1990年代後半は、毎年のようにお家騒動が勃発。7月半ばには、記者の数が半分くらいになり、残りは連日、球団オーナーや社長宅に夜討ち朝駆けするのが恒例でした。近年は、チームが強くなったことや、後任人事が探りやすくなったことから、それほど騒いでいませんでしたが、今回は違う。候補者が乱立しているため、本命馬、対抗馬がなかなか見えていないんです」(同) 現状、新聞紙上では岡田彰布氏、金本知憲氏、矢野燿大氏、掛布雅之DCなどの名前が挙がっている。現状では「チームが3位以下になった場合、即後任人事の話題に移る」というだけに、お家騒動が全面に出てくるのは、時間の問題のようだ。『猛虎復活』宝島社
日別アーカイブ: 2014年9月16日
TOWA TEIが語るソロ活動20年の原点「毎晩DJが作る時間のカーブを自分も描きたいと思った」

「やっぱりプロダクション寄りの人間なんですかね」
――今、テイさんは高橋幸宏さんとYukihiro Takahashi & METAFIVEというバンドをやってらしゃいますが、これ、テイさんにとってはディー・ライト以来のバンドってことになるんですよね。ライブにも積極的に取り組んでおられます。 テイ・トウワ:幸宏さんに頼まれたんですよ。自分のリーダー曲で2曲ほど幸宏さんをフィーチャーさせていただいたので、断る理由がなくて(笑)。コンサートも、自分のでさえ100%やらないですから。嫌いなんで。ライブの仕込みとか練習とか大嫌いなんですよ。 ――そういえばソロになってからライブは一回もやられてないですよね。 テイ・トウワ:やってないですよ。ディー・ライトも、みんなが全盛期と思ってる時に辞めちゃったんで。その時は事故ったので、それを理由に辞められたんですけど。なんというかな…筋肉というかトレーニングというか再現性とか、そういうものにまったく興味がない。だからシーケンサー使ってるし(笑)。やっぱりプロダクション寄りの人間なんですかね。作ったあとリミックスしたりジャケ考えたりするのが好きというか。 ――ライブをやる人は、ライブはライブならではの醍醐味があると言いますけど。 テイ・トウワ:こないだワールド・ハピネスのライブが大雨で大変だったんですよ。幸宏さんがすごい晴れ男で、僕らの時は止んだんですけど、風が凄くて、Macの蓋が閉まっちゃうぐらい。ビニールを機材の上にかぶせて、手をビニールの中に入れて操作して。なんとかなったね、という話を二次会でしていたら、まりん(砂原良徳)がポツンと“バンドだとさあ、みんなで共有できるじゃん、大変だったことも良かったことも”って言ったんですよ。ああ、ずいぶん忘れてた感覚だなあ、と思って。DJは良かったにせよ悪かったにせよ、分かち合えないですからね。呼んでくれたイベンターさんと”盛り上がったねー”みたいなのはあるかもしれないけど、ひとりでやるピン芸人なんで。みんな(META FIVEのメンバー)濃いバンドにいたじゃないですか(笑)。だからバンドの良さはわかるんだろうけど、僕はほんとに(バンドでは)やることないですし。幸宏さんに最初に声をかけてもらって”いやいやいや、やったことないですし”って断ろうと思ったんですけど、一回だけでも、という話だったので、じゃあVJをやろうかと3曲だけやって、あとはやることをリハ中に見つけていくって感じだったんですけど…もちろん練習すれば弾けますけどね、自分の関わった曲とかYMOの曲とかのなにかしらは。でも別にそれはシーケンサーでもいいし、とか思っちゃうし。みんなキーボード弾けるし、自分の立ち位置がよくわからないなと思ってたんですけど、結果的には居場所ができたというか。ツマミ係というかね(笑)。スイッチとかフィルターとかの担当をやってますね(笑)。 ――お客さんの反応とかどうなんですか。 テイ・トウワ:うん、それはそれなりに。DJとはまた違うものがありますよね。 ――じゃあ今度ご自分の… テイ・トウワ:(遮って)やらないです(笑)。 ――あ、やらないですか(笑)。 テイ・トウワ:あははは(笑)。細野(晴臣)さんに去年言われたんですよ。”そうか、来年は20周年か。もうテイ君も50歳か。コンサートやろうよ。なんでもやるから。ベース弾くよ”って言ってくださって。”ええーっ!”って。ちょうどそこに小山田(圭吾)君もいて、”僕ギター弾きますよ”ってくれて。すげえバンドになるなあ、と思ったんですけど、その言葉だけで有難く…。 ――いやいや、それはもったいなさすぎです(笑)。そんな豪華なメンツが自分から言ってくるなんて… テイ・トウワ:社交辞令じゃないですか?(笑) ――いやいやいや…じゃあご自分としてはスタジオの中で音をいじっている方がいい、と。 テイ・トウワ:そうですねえ…ちまちまコラージュやってるとかね。そもそも団体行動があまり好きじゃないし…やはりディー・ライトの時のトラウマがね…。それこそ自分たちの作った曲を世界中の人たちが大合唱してくれて、イントロかけただけでわーっとなるっていう感覚…あの時初めて味わって、あれは中毒になるだろうなとは思いましたけど…。 ――でもディー・ライトも、ある時期までは楽しいと思ってたんですよね? テイ・トウワ:いやあ…一番最初のころ、地元のバンドとしてパーティーをやったりとか、それぐらいの時はよかったですけど、そこからワーナー(エレクトラ)と契約して、いきなりアメリカ・ツアーだヨーロッパ・ツアーだってなってからは、毎晩各地へ移動して練習して本番やって、また翌朝チェックアウトして移動して…という、それがもうトラウマになっちゃったんですよね。 ――アメリカ・ツアーが過酷だって話はいろんな人から聞きますね。 テイ・トウワ:過酷ですよ~食い物が一番つらいですね。僕、パン食が3回続けられない人なんで(笑)。テキサスの田舎とか行くとホテルのルームメニューぐらいしか食べるものがなくて、それも”ビーフorチキンorサーモン”ぐらい選択肢がない。それも全部同じバター味ですよ(笑)。 ――ディー・ライトで世界デビューして大ヒット、というのはいわば、メジャー契約をする多くのミュージシャンが最終的に目指すような大目標じゃないですか。でもそれをテイさんはミュージシャンとしての最初のキャリアでいきなり達成してしまったわけですよね。 テイ・トウワ:そうなんですよね。普通のバンドならだんだん会場が大きくなって、”よし次は武道館だ!”みたいな、そういうグラデーションがあるけど、僕らは90年にデビューしていきなり行っちゃいましたからね。それでも87年の終わりからやってて、88年89年とDJで食いつなぎながら、月に1回か2回はいろんなパーティーに呼ばれて演奏して、だんだん町の人気バンドになって、何万人も来るような地元の大きなゲイのイベントでトリをやって…みたいな経緯は辿ってますけど。 ――そのころのニューヨークはハウスの勃興期ですね。 テイ・トウワ:そうです。87年にフランキー(・ナックルズ)がシカゴから来て。ヒップホップも盛り上がってましたよね。僕は88年にジャンブラ(ザ・ジャングル・ブラザーズ)のファースト(『Straight out the Jungle』)を聞いて、音悪いけどかっこいいなあと思って。僕がDJをやってるパーティーで初めて会って名刺を渡して。次の日にスタジオに遊びに行ったんです。ちょうどセカンド・アルバム(『Done by the Forces of Nature』89年)を作り始めたころで。へったくそな打ち込みをずっと聞かされて。今作ってるネタも全部あるしサンプラーもあるからウチにおいでよ、タダでできるよって話を彼らにして。それから仲良くなって。なのでジャンブラのアルバムの半分以上はウチで打ち込んでますね。だから(僕のやっていたのは)マニピュレーターですよ。キックはこういうパターンにしたら、みたいな話をして、打ち込んであげたりね。そうしたら”話は聞いてるよ、今度デビューするア・トライブ・コールド・クエストなんだけど”って、Qティップを紹介されて、“あ、あのヘンな声の人だ”って(笑)。それからQティップがレコード抱えてウチに来るようになって、彼らのファースト(『People's Instinctive Travels and the Paths of Rhythm』)をお手伝いして。 ――うーむ。すごい話ですねえ… テイ・トウワ:ちょうどデラ(デ・ラ・ソウル)が89年にクロスオーバーなヒットを飛ばしてた時期で。“ジャンブラを手伝ってる人でしょ”って声かけられて。ディー・ライトとしてもローカル番組で(デラと)一緒になったりしてね。UKの方では屋敷豪太さんが関わったーーその頃はまだ面識なかったですけどーーソウルIIソウルが出てきて。 ――いろんな人たちが世界中から同時多発的に出てきて大きな動きになりつつあった。 テイ・トウワ:だから、ウチらもチャンスはあるだろうなって確信はしてました。ただポップ・チャートで各国で1位になるとは思ってなかった。88年には野外フェスで”Grooves in the Heart”とかかけて大盛り上がりしてたんで、ダンス・チャートでは1位になるだろうとは思ってましたけどね。「ディー・ライトと出会って良かったのは、ポジティヴでいるとポジティヴなことが起こりやすいよって教えてくれたこと」
――そのへんのことはお話を聞くだけでワクワクしてきます。そもそもテイさんはデザインの勉強でニューヨークに行かれたんですよね。 テイ・トウワ:そうですそうです。 ――それがなぜ音楽の道に進むことになったんですか。 テイ・トウワ:音楽は趣味の範疇でずーっとやってたんですよ。僕は一浪して武蔵美の短大に行ってて、4大に編入を狙ってたんだけど出来ず、ブラブラしてたんだけど親に、海外でデザインの勉強してこいって言われたんですよ。でも海外って言われても僕は英語なんて全然できない。その頃は坂本龍一さん周りのバイトとかやってて、ナム・ジュン・パイクさんの下の人とかと話す機会はあったんだけど英語が喋れないからすごいストレスで。”残念な自分”だったんですよ。デモ・テープを坂本さんに送ったのがレコード化されたり、そのディレクターの人にジャケットのデザインも頼まれたり、その人に言われてCMのコンペに出したら勝っちゃったりして。それで当時坂本さんがいたmidiレーベルでソロ・アルバム出さないかって言われたんですけど、”いや無理無理”って。そのころ同時期にやってたのがコンスタンス・タワーズとか。知ってます? 岸野(雄一)君とか常磐響とか松前(公高)君がやってた。でも僕はあんなに器用じゃないし無理無理無理って(断った)。だから音楽はあくまでも趣味のつもりだった。でもいざニューヨークに行ったら、クラブがほんと面白くて。昼間は学校に行かず一日中レコ屋をハシゴして、夜は毎晩クラブ通いですよ。そうするうち、行った年の秋にはDJになれちゃったんで…。 ――(笑)展開が急すぎる。なぜいきなりDJになれたんですか? テイ・トウワ:それ、いろんなところで話してるんではしょって言います(笑)。ある時1本目のテープを作ったんですよ。 ――ミックステープ? テイ・トウワ:はい。居候がタンテのセットを買って、帰ったあとに家賃代わりに置いていったものを使って、レコードは一杯あったから作ってみたんですよ。90分の、ファンクからハウスから入ってる。ジェイムス・ブラウンから始まって、というのは覚えてますね。それをコピーして好きなDJに渡そうと思って。その一人がディミトリ(ディー・ライトのDJディミトリ)だったんです。すごい(感覚が)自分と近いと思ってたから。P・ファンクからJBからロニー・リストン・スミスから、みたいな。いきなり"Riot in Logos"(坂本龍一)をかけてみたりとか。良く知ってるなあ、と思って見てたから。 ――ディミトリはその頃もう有名だったんですか。 テイ・トウワ:町の有名DJ、人気DJ、ってとこですかね。彼がテープを聴いてくれて興奮して。会ったんですよ1週間後に。そうしたら”You are born to be DJ”って言ってくれたんですよ。”俺らはソウル・メイトだ”って興奮してて(笑)。それで「日本の仕事の方が自由だなって気づいた」
――じゃあアーティストとして表舞台に立ちたいとか、自分を表現したいとか、そういう強い気持ちは… テイ・トウワ:なかったですし、今もないです。 ――今もないですか? テイ・トウワ:ないです。未だになぜ自分が取材なんか受けてるんだろうって思うし。 ――じゃあ自分で望んだというよりは、周りがそういう状況になって… テイ・トウワ:流れですかねえ。流れで学校はドロップアウトしちゃいましたし。でもDJはとにかく楽しくて仕方なかったんで、それ以外は考えられなかった。午後に起きて(ディミトリと)落ち合って曲を作って、お互いの現場に分かれて、たまに一緒にDJやって。キアーはキアーでダンサーとして踊ったりしてたし。だから…夜の生活でしたね。 ――そういう気ままな生活がメジャー・デビューで激変して。 テイ・トウワ:そうですねえ。ほんとツアーがいやでいやでしょうがなかった。最初にステージにあげさせられた時は、ちょっと恥ずかしいとか緊張するとかその程度の<いや>でしたけど、それも慣れてきて、気がついたら何万人の前でやったりするようになって。ステージから落ちたのは15万人の前でしたからね(91年「Rock in Rio」)。リサ・スタンスフィールドとジョージ・マイケルの間(の出番)でしたね(笑)。ディー・ライトのおかげでいろんな体験はできたけど、でもそれもそもそも自分が望んだことじゃないし。DJにはなりたいと凄く強く思いましたけどね。毎日レコード買って、毎晩DJが作る時間のカーブを自分も描きたいと思った。10時ぐらいに行って。カウンターでビールを軽く飲んで、11時ぐらいから適当に回し始めて。そのころには既にがっつり踊ってるお客さんもいて。朝の4時に終わるんですけど、その頃になるとオーナーさんがやってきて“Towa,Good Job!”とか言って、後ろポケットに札束を入れてくれるんですけど、一晩で150ドルですよ。時給いくらだよっていう(笑)。でもコンビニのバイトよりはいいのか(笑)。でも楽しかったし。ビッグ・オーディオ・ダイナマイトの前座でやったときは30分で500ドルもらったけど(笑)。時給15万?みたいな。今はさすがに時給もだいぶあがりましたけど、お金の問題じゃなかったから。 ――アーティストじゃなくDJとしてやっていきたいと。 テイ・トウワ:いや、やっていきたいも何も…とりあえず4年制(の大学)は出なきゃいけないと思ってたんですよ。美大出て、英語も喋れるようになって、3年ぐらいしたら日本に帰って…とか、なんとなく考えてたんですけど、DJになっちゃってから、何も…明日のことも考えなくなっちゃった。なんとか今月は家賃払えるかな、ぐらい(笑)。何も考えてなかったですね。何も考えてなかったことだけは覚えてます(笑)。 ――ディー・ライトでやっていきたいという強い意志があったわけでもなく。 テイ・トウワ:まったく弱い意志でしたね(苦笑)…それで15万人の前で怪我して。その時までバンドを辞めたくて仕方なかったのに辞められなかった。あとで思うと、守護霊だかなんだか知らないけど、自分の潜在意識か落としてくれたのかもしれないですね。それしか(辞めるには)なかったですもん。事故しか。 ――なるほど。 テイ・トウワ:それですぐにでも辞めたかったけど、とりあえず療養することになって。そうしたら坂本さんからアルバムを手伝ってくれと言われて、『Sweet Revenge』をやり、それから立花ハジメさんの『バンビ』を手伝うことになったんです。彼ら(ディー・ライト)よりもともとよく知ってる人たちだし、恩返しじゃないけど、楽しいし。すげえプレッシャーだったので、できるかどうか不安ではあったんですけど。そのころは日本に帰るビジョンもなくて、なんとなくDJを続けていくのかなあ、と思っていましたね。ディー・ライトでツアーが入ってからレギュラーのパーティーは辞めちゃったけど、単発でよく回してたし、どこのクラブ行っても顔パスだし、レコ屋に行けば”トウワが好きそうなのとっといたよ”って、ちやほやされるし。居心地のいい町になってたんですよ、いつのまにか。日本に帰るなんて考えられなかった。でもNOKKOちゃんの仕事(『I Will Catch U.』1993年)とかやると、どうも日本の仕事の方が自由だなって気づくんですよ。むこうにいる限り”ダンサブルにしてくれ”とか”リミックスしてくれ”と、この2つしか来ないんですよ。日本の仕事はCMのタイアップとかよくわからなかったけど、それはそれで自分にとってはフレッシュだったし。ダウンタウンとの仕事(『GEISHA GIRLS』1995年)も楽しかったし」 ――請け負ってやるような職人仕事は性に合わなかったということですか。 テイ・トウワ:うん、そうですね。…で、なんとなく教授からソロを出さないかって言われて。その時に契約上のことをクリアにして、日本だけは教授のレーベル(gut)で出せるようにしたんです。 (後編に続く) (取材・文=小野島大)
TOWA TEI『94-14』(ワーナーミュージック・ジャパン)

TOWA TEI『94-14 COVERS』(ワーナーミュージック・ジャパン)
『HERO』女検事役で大注目の女優・吉田羊、初バラエティでゴールデン進出は吉か凶か
フジテレビの月9ドラマ『HERO』で注目を集める女優の吉田羊が、バラエティ番組のレギュラーに初挑戦する。
「以前、フジの深夜でやっていた『オモクリ監督~O-Creator’s TV show~』がゴールデン進出に当たって、MCを担当することになりました。レギュラー出演者は深夜と同じ千原ジュニア、バカリズム、劇団ひとりの3人です。バラエティ初レギュラーなのに、いきなりゴールデンでMCですからね。事務所も思い切ったことをしますね」(フジテレビ関係者)
実際、出演を決めるまで、事務所にはかなりの葛藤があったという。
「マネジャーさんは、今回の件で相当悩んだそうです。というのも、もともと吉田さんは舞台の人で、演劇界では知らない人はいないくらいの有名人。それが、今回『HERO』に出演したおかげで、一般層にも知名度が浸透しつつあります。このタイミングでバラエティに出たら、それは抜群の知名度アップになりますが、もし失敗したら、舞台で培ってきた実績も水の泡になってしまう“諸刃の剣”なんです」(芸能事務所関係者)
それを後押ししたのは、ほかならぬ吉田自身だったという。
「彼女は、話題になったYouTubeのプライベート動画『大阪食い倒れツアー』のように、基本的にお笑いが大好きなんです。それで、『大丈夫、挑戦しよう!』とマネジャーを説得して、今回のオファーを受けたそうです。実際、あの動画を見た各局のバラエティのプロデューサーが、すでにいろいろな番組のオファーを出しているそうですよ」(テレビ局関係者)
今後は、バラエティでも目にする機会が増えそうだ。
板野友美、TAKAHIRO映り込み写真を“誤爆”!? 話題作り疑惑に「本当に落ち目」
「TAKAHIROの彼女」でしか生き残れない?
EXILE・TAKAHIROとの交際報道が加熱していた元AKB48・板野友美に、久々の“炎上騒動”が発生した。板野が先日更新したブログにアップされた写真に、TAKAHIROと見られる男性の腕の一部が映り込んでおり、ネットで話題になっているのだ。しかも板野はアップ後に、画像だけでなく投稿ごと削除しており、「話題作りではないか」との指摘も出ているというが――。
ネット上で拡散されている写真は、ピンクのストライプ柄のビキニを着ている板野が川遊びをしているというものだが、問題となっているのは右端に写った人物の腕。かろうじて上半身裸の短パン姿が確認できるため、男性ということがわかるが、腕にはTAKAHIROと非常に似たタトゥーが入っているように見える。
TVに出ている霊能力者はニセモノばかり!? 業界人は語る「本物はロケバスで…」
【不思議サイトトカナより】
芸能人が心霊スポットを歩き、その映像の中に心霊現象らしきものが現れる…。 テレビ業界において、心霊番組は夏の風物詩ともなっている。そんな心霊番組には幾つかのパターンがあるものの、古くからあるのが上記のような作りだろう。 このような心霊番組に欠かせない存在が、霊能力者である。霊能力者を自称する人はもちろんのこと、タレントの中でも霊感が強い人間が、この役目を担うことがある。彼らが現場にいるため、万が一にも霊に乗り移られても安心というわけだ。しかし、実は『ロケ現場にはもう一人、欠かせない役割の人間がいる』と放送作家が明かしてくれた。 続きは【トカナ】で読む※イメージ画像:Thinkstockより


