
現在は黒沢秀樹らと共にライブ活動も数多く展開中
【リアルサウンドより】
1993年にSpiral Lifeのメンバーとして音楽界にデビューした石田ショーキチが、この20年で激動した音楽シーンを語る集中連載第2回。Spiral Lifeと90年代の音楽シーンを語った第1回に続き、今回はSpiral Life以降に石田が歩んだ道のりと、その間の音楽ビジネスの変化、さらに現在の音楽シーンの問題点まで率直に語ってもらった。
第1回:
デビュー20周年の鬼才・石田ショーキチ登場 Spiral Lifeと90年代の音楽シーンを振り返る
――96年3月にSpiral Lifeが解散した後、9月にScudelia Electroがシングル「Truth」でデビューを果たし、プロデュースチームとして始めたプロジェクトがバンドとしての活動に移っていきました。
石田:レコードメーカーとしては、レコードを作らせないと商売になりませんからね(笑)。ただ、僕としては複雑な思いがあり、「これでは、結局普通のアーティスト扱いじゃないか」という矛盾を感じていました。僕としては自分の作品は2~3年に1枚作ればよくて、それよりも他人の作品を作りたいと思っていた。それなのに、「2年でアルバム3枚」のようなノルマがあり、ひどいときは1年に2枚も作らされました。しかも僕は、今で言うエレクトロニカのような音楽を率先してやっていきたかったのに、当時のディレクターはギターロックに持っていこうとする。なまじ根っこにブリティッシュビートがあったものだから、スタッフがSpiral Lifeから抜け出せず、そういうところに戻そうという節は感じました。「ギターを持つことが美しくてかっこいい」という暗示は強く、軋轢はすごかったです。
――90年代後半まではギターロックが非常に人気があり、業界やシーン全体で「ギターバンドが基本」というムードもありましたね。
石田:そうなんです。下北沢を中心としたギターポップには本当にうんざりでした(笑)。「ギターを持って、ギターポップをやれ」と押し付けられるのは嫌でしたが、そうは言っても頑張るので、できちゃうのがまた皮肉なところで(笑)。Scudelia時代の3~4枚目が、そんな感じでした。自分自身もしんどくなっていたし、その担当ディレクターから離れた方がいい、と周りの誰もが僕に言うようになっていたので、お世話になったポリスターから離れることにしたんです。それからHip Landというプロダクションに行って、その後自分でレーベルを立ち上げたり、あるいは1作ごとに制作契約としてレコードメーカーと仕事をしていくようになります。それからは振り切ったように、やりたい放題やるようになりました。
――“制作契約”とはどんなものでしょうか。
石田:レコードメーカーと専属で契約していれば、給料が出ます。給料自体は所属事務所から出るのですが、結局はレコードメーカーが事務所に払っている。それは「協力金」「アーティスト育成費」、あるいはそれらを含めて大きく「契約金」と呼ばれたりする。音楽事務所というのは、今でこそ原盤権を扱ったりするようになりましたが、当時は単純にアーティストの窓口として「いかにメーカーから金をとるか」という、経済のウワバミのようなところが多かった(笑)。僕の家は代々自営業だったので、売り上げに応じて自分の収入が変わるというのは当然だと思っていました。「売れようが売れまいが一律で給料などというものが支払われているから、日本では足下を見られて印税が安いんだ」と、音楽業界の経済的な仕組みの矛盾をずっと感じていました。
そこで、ポリスターを出てからは、1作ごとにレコードメーカーと「この原盤制作を○○円で請け負います」という風に契約して、それをコストを低く作って利益を上げる、というやり方をとったのです。それは、自分のアーティスト活動でもプロデュースワークでも同じです。そういうやり方で音楽の経済を作ってきた。そういう意味ではScudelia Electroの5枚目以降はすごく自由にやってきましたね。
――Scudelia Electro が活躍した2000年代前半頃までは、CDがすごく売れていて業界全体も活況でした。これが変わってきたと実感したのはいつ頃からですか?
石田:自分にとっては2004年――MOTORWORKSを立ち上げた年が大きかったですね。そのときに販売実数を見て「CDも売れなくなってきているのか」と実感しました。鳴り物入りのメンバー(ホリノブヨシ、黒沢健一、田村明浩)ということもあり、いろいろな人たちがビジネス的なチャンスを求めて寄ってきたし、そこで大きなプロジェクトも進んでいたので、いつものように自分で予算管理をせず、人に任せてしまった。蓋を開けてみると、昔のようにCDは売れないし、大風呂敷を広げたプロジェクトになってしまっていたので、ビジネスとしてはうまく回りませんでした。
そこで僕は「時代が変わった」と考えました。その後は自分のソロアルバムやプロデュースワークをやるにあったって、ビジネス的に財布の紐を締めて「小さなパイでも良い作品を作る」という使命感を強く持つようになったんです。そういう意味で、自分一人でもレコードを作れることができるように、プロデューサーとエンジニアを兼任することの重大さを認識しています。人手が掛かればお金も掛かりますからね。そうこうしていると、2000年代の中程から、メジャーメーカーよりも、いわゆるインディーズメーカーからのプロデュース依頼が増えました。それは僕一人に頼めば最後までできちゃうし、安くていい音が録れるスタジオもたくさん知っていたので、コスト的に便利に使ってもらったんだと思います。時代の変遷をすごく感じましたね。
大きなメーカーがCDを作っても売れない時代になってきたのでリリース量も落ちたし、才能のある新人をつかまえて投資、ということをメーカーがしなくなりました。新人発掘量も本当に減りました。逆に、大きな回収が見越していない、低コストでどんどん作れるインディペンデントなメーカーがどんどん元気をつけていきました。

最近では、若手ミュージシャンから直接プロデュース依頼を受けることも増えたという
――そういったインディーズシーンは当時の勢いを維持できていますか。
石田:今はもう一歩進んでいますね。面白いのが、若者が札束を持って「僕らの楽曲を録ってくれ」と訪ねて来るようになったこと。インディーズレーベルは今もたくさんありますが、それすらも超えて「自分たちで手売りするんだ」という気概を持った若者が増えている。流通が大メーカーからインディーズに移り、今やインディーズから個人に移る……というように、細分化が加速しているように見えます。
――若手アーティストからプロデュースの依頼があったとき、それを引き受ける基準はどこにありますか?
石田:金額のことは、正直どっちでもいいところはあります。それよりも、今のサウンドを鳴らしている若者とリアルタイムで触れ合うということが、プロデューサーとして何よりの刺激になるんです。ただ、最近はちょっと「それだけではしんどいな」と思っています。
――「しんどい」と言いますと?
石田:つまり、音楽作品を作るということは、やる気や根性だけではできない。演奏なり歌唱なりに関して、ある程度は理論に基づいた方法論があります。それを「こうやるんだ」と教えても、できない子がいる。当然、できるまでやらなければいけないのですが、そうすると時間がかかってしまいます。「この金額で、これだけの曲数を録ってください」と、一生懸命に集めてきたお金について、「時間がかかったから増額な」とは言えない。そうして、そもそも安い金額で請けている仕事の量だけがどんどん増えて、ほかの仕事が犠牲になる……ということが続いて。結局、試されるのは男気だけという状況です(笑)。
――若者の基礎的なスキルについては、どんな変化が見られますか?
石田:二極化している気がします。例えばボーカロイドのように、必ずしもそれで「一発当てよう」と思わない多くの人たちがいろいろなものをシェアしながら、どんどん文化を広げているという状況がある。そこには、宅録でやっている人たちの技術的なスタンダードがどんどん上がっているという背景があると思います。デジタルオーディオレコーディングのツールもどんどん安くなっているし、使い方も上手くなっている。一人がいいものを作ると真似し合って、その連鎖が水準を上げていく――特にダンスミュージックやエレクトロニカの分野では、若者の力はすごく伸びていると思います。
一方で、いわゆるギターバンドの歩留まり感は「半端ねえな」と思います(笑)。歩留まり感、というより退化感、劣化感と言った方がいいかもしない。特にヴォーカル/ギターがいるバンドはひどいと思う。「リズム隊」という言い方がよくなくて、リズムやグルーヴは本来、ヴォーカルによるところが大きいんです。一番リズムに気をつけなければいけないのに、「リズム隊」という言葉で、リズムをドラムとベースに押し付け、ヴォーカルは知らん顔。また、ギターという楽器は本来、メロディは弾けるし、リズムは作れるし……と何でもできるはずですが、そこを飛ばして、日本のロックにはコードとギターソロの2つの演奏しか存在していません。それが何十年経っても日本のロックが世界に出て行くことができない大きな理由だと思います。
なんだかんだ言っても、レコードメーカーが潤沢にお金を出していた時代には、売れていても売れていなくても、現場できちんと教育されていたと思います。メーカーもプロデューサーも不在で、バンドだけで音を作ることが増えたことが、質の低下を招いたひとつの原因でしょう。
第3回に続く
(撮影=金子山 取材・文=神谷弘一)