
販売されていたものは、こんな箱に。手に入れた時はうれしいのだが、
本棚に並べにくいことこの上ない。
誰それがこうやって儲けたとか、どこどこの人がこんな妙ちきりんなことを始めたとか、ちまたに現れる奇人変人のことなどなど、毎日さまざまな話が流れては消えていく。挨拶代わりのちょっとした話でも、ちゃんと記録していれば貴重な歴史の史料へと装いを変えることもある。今回は、どんなくだらない話であってもちゃんと記録はしていくもんだと、筆者が思いを新たにした本を紹介する。
過日、限定復刻された森安なおやの幻の名作『烏城物語』を無事に手に入れた筆者。せっかくなので、岡山後楽園をひとまわり。日本三名園のひとつ後楽園の入り口は、空襲で焼け残った町並みが残る出石町を抜けて、鶴見橋を渡る正門と、岡山城の下から月見橋を渡る南門の2つがある。門前にはそれぞれ随分と昔からある、お茶も食事もできる店がある。どちらのお店もなかなか商売以外にも才があるのか、正門のほうの某店のご亭主(今は代は変わったかも)は偕成社からジョロウグモの写真集を出しておった。はたまた、南門のほうの某店の息子は、ミリオン出版の伝説の雑誌「GON」のライターから編集者になり、サブカル業界で一世を風靡しておった。後者のほうは、今は家業を継いでいるとかで、通りがかりにのぞき込んではみるが、以前、ミリオン出版の編集者が訪問したところ「今は一般人ですから」と取材を固辞されたと聞く。
静かに暮らしている人のところに、土足で踏み込むのも無粋だと、そのまま素通り。
後楽園も、岡山県が吉備高原都市やら倉敷チボリ公園やらで借金まみれになったしわ寄せか、大人400円も取るようになっている。もっとも、時間制限があるわけでもなし、暖かい季節なら400円でごろりと横になって一日過ごすなら、割安といえる。
さて、岡山城のほうは天守閣があるのだが、これは素通りだ。別に入場料をケチったわけではない。空襲で焼けてしまった岡山城は、市民の願いで再建。中は鉄筋コンクリートのエレベーター付きの立派なビルである。わざわざ展望台へ登ってみるのもアホらしいことこの上ない。むしろ、面白いのは石垣だ。元は、戦国時代に宇喜多直家・秀家親子が居城としたことから始まる岡山城。石垣は自然石を積み上げたものから、きっちりと形を揃えて積み上げたものまでもが揃っておる。この石垣を見ているだけで、天守閣まで登らずとも楽しめる。

箱を開けるとさらに箱が出現。厳重すぎる!
■図書館で見つけた本が欲しくなり倉敷まで
さて、本題である。お城を抜けて、県庁のほうへ降りるとある目新しい建物が岡山県立図書館だ。昔の県立図書館は、天神山のところにこぢんまりとあるだけだったが、1999年に丸之内中学校が生徒数減少で廃校になった跡地に移ってきた。
駐車場はあるし、県庁の向かいなのでバスは放っておいても次々来る好立地のためか、いつも賑わう図書館。近年は、何度も貸出率日本一を達成している。もとより岡山は「教育県」を自負していたこともあってか、地方出版が盛んな地域。こちらの図書館も、郷土資料は大変に充実している。
どんなものかとのぞいてみた筆者は、ある本を見て驚いた。「こ、この本は、ぜひ手元に置いておきたい!」――。早速、古書の探求に欠かせないサイト「日本の古本屋」で検索してみれば、倉敷駅近くの古書店にあるという。
古書との出会いは瞬間である。一瞬躊躇すれば、どこの馬の骨とも知れぬヤツに奪われてしまう。時計を見れば夕方4時半を回ったばかりだ。まだ時間は十分ある。

中身はこんな感じ。なぜか、懐かしの山陽相互銀行(現・トマト銀行)の
チラシらしきものが同梱。
そこで筆者は走った。県庁通りをまっすぐに、電車道を横断して、天満屋の前を過ぎて、電話局のところを、まだまっすぐに西川を越えて岡山駅へと。
運よく岡山駅のホームで待っていたのは、福山行きの快速サンライナー。庭瀬も中庄もすっ飛ばして、倉敷駅までノンストップである。倉敷駅からは、岡山方面へ旧2号線を戻って10分あまり。目指す古書店・長山書店はあった。
店に駆け込めば、レジにいた可憐な女性店員は、郷土史関係は2階だという。早速、駆け上がって本棚を探すが……ない! ない! ない!
これは大変だと、2階のレジにいた、ご店主らしき人に聞いてみれば、
「いや、展示会に出しているんで、美観地区のほうに持っていっとるんじゃ。今日は、もう閉まっとるなあ~」
と、明日来るように言われてしまった。ここで初めて値段を聞いたら(サイトで見るのを忘れたんじゃ!)「正・続合わせて9000円じゃ」という。ままよと、1万円をレジに叩きつけ「明日、取りーくるから、今日はいぬるわ」ということに(東京から来たといったら、消費税分まけてくれた。さすが備中倉敷。商人は転んでもただでは起きぬという備前岡山とは違う)。

分厚い! 全編にわたって、歴史作家やミステリー作家が
話の種にできそうな記事が満載だ。
■やはり岡山は奇人変人の産地だったのだ
そんな苦労をしながら手に入れたのが、岡長平『ぼっこう横丁』正・続である。
もとより、奇人変人しかいない岡山なのだが、この人物はなかなか興味深い。生まれは明治23(1890)年。当時、慶応大学を卒業しているというから、なかなかのエリートだ。本業では岡山電気軌道に勤めて市会議員にもなったが、昭和45(1970)年に死去するまで、岡山の郷土史の史料を集めに集めた。単に集めるだけでなく、人の話もたくさん記録した。著書は多いが、その中の一つである本書はまさに民衆史の史料。活躍していた年代からして、江戸時代末期のことを知っている人も存命だったろうから、明治・大正と日本が変わっていく中で、地方都市でどんな出来事があったのかが生き生きとした筆致で綴られている。奇人変人に、町の粋人、繁盛した店のこと、さまざまな事件のことも、克明に記録されている。冒頭でも触れた、森安なおやの『烏城物語』は、森安の記憶の中に残っていた、空襲で焼ける前の町が描かれているわけだが、この本を読めば、さらにそこで暮らしていた人々の姿が伝わってくるのだ。
正・続に分かれた本書。正篇では、岡山市の各地域の有職故実や事件、噂話を。続篇では、空襲の時のことを中心に戦後の混乱期の出来事が綴られている。
例えば、岡山のカフェーの第1号は、大正2年にできた「カフェー・パリー」という喫茶店兼酒場であるという項目では、女給の第1号は、お玉という人物で「はやく死んだが、美人でも利巧でも、才女でもなった。しかし、女給の岡山第1号なので、人気者だった」と記す。
万事がこんな具合で、だいたいすべて実名と人となりとを記しながら書かれている。とにかく、奇人の多いことといったら。
明治時代に、岡山で山陽英和学校(現在の山陽学園大学などの前身)の設立に関与した、中川横太郎なる人物がいた。この人物、学校の規模が大きくなったので資金が必要と、寄付金を集めて回ったがどうも芳しくない。そこで、この中川は新聞に自分の死亡記事を出稿して「香典ノ儀は、成ル可ク多額ニ願上候」と書いた。これは「中川の生葬礼」として、評判になったのだとか。
「ことり」が出た話もこれまた面白い。「ことり」は「子獲り」と書くそうで、西日本あたりでは、親が夕方になっても遊びに行って帰ってこない子どもをしかる時に、必ず出る言葉だ。なんでも、夕闇に紛れて子どもをさらって、軽業師などに売るらしい……。

右ページでは洋傘店という言葉に「こうもりがさや」とルビが振ってあったり。
『烏城物語』に描かれた光景が浮かび上がってくる。
都市伝説かと思ったら、江戸の末期か明治の初めあたりに「ことり」が出た話が載っている。誘拐された子どもは、売れなかったの大阪で捨てられて、無事に家に戻れたのだが、「神隠しじゃ」と思った町の人々の行ったことが面白い。「当時の迷い子さがしの定法」とサラッと書いてあるが「親類のものから、出入者を集め、それぞれの隊をつくって、一升枡の底を、火吹き竹で叩いて“喜太郎(誘拐された子どもの名)戻せ”」と叫びながら、市中の寂しげなところを探して歩いたのだとか。おそらくは、全国のあちこちにこんな失われた民間習俗があるに違いない。
岡山の定番(?)、猟奇な事件の記述もちゃんとある。大正4年に起こった「大供の串刺し事件」がそれ。これは、女学校裏の田んぼで、「十五歳の可憐な少女」が竹切れで局部を串刺しにされた死体で発見されたという事件。なんと哀れな少女と思いきや「ところが、この娘は、名代の不良少女で、浅黄衿組という一団を組織し、その団長になって、浅黄の衿をして飛び歩き、不良少年との交際も広い……ということも、わかって来た」。
事件は、交際していた不良少年に秋風を吹かしたら、嫉妬で殺害されたというものだった。ところが、この時に警察が不良少年少女グループの検挙を始めたところ「赤手団や幻会などでは、四天王・八天狗などと幹部に名称をつけ、組織的な制度を設けているし、少女の、紫衿組の親分なんかは、か細い腕に刺青をしているのを、自慢そうに見せつけた」のだとか。ううむ「幻会」のネーミングが格好よすぎる。
このような話を生涯をかけて集めまくった岡長平という人物は、まさに奇人というよりほかない。集めている当時は「なにしょうんなら、あんごうが」と見る向きはあっただろう。本人もその自覚があったのか、中島の遊郭の噂話をまとめた『色街ものがたり』という本では、あとがきで、需要がないので、中島の遊郭の資料を処分してしまったという記述がある。なんてもったいないことを……。
今では絶版になっていて、でーれー値段はするけれども、どんなくだらない話でも、記録しておけば、いずれは貴重な歴史となることを、本書は再確認させてくれる。
(文=昼間たかし)
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