ガッサガサの肌を救え! USB加湿器・アロマディフューザープレゼント

 すっかり秋も深まってきた今日この頃。「なんだか人恋しいな……」「どこか遠くに行きたいな」などと、おセンチな気持ちになっている人も多いのではないでしょうか。しかし皆さん、秋に酔っている場合ではありません。この季節、少しでも気を抜くと、すぐにお肌がガッサガサのぱっきぱきになってしまうんです! お手洗いの鏡をふと覗いた瞬間、まるで「土仮面」のような自分の顔に絶望したくない! そんな人に今回は、「USB加湿器」をご紹介します。

なんて贅沢な時代だ! 「りぼん」の本気をふろくのトランプに見た!

少女だった頃、心をときめかせてくれた少女マンガ雑誌……と、その横にいつも一緒にいた「ふろく」という名の相棒。そばにいるのが当たり前だったから気付けなかった、あの頃の「ふろく」の魅力を、「昭和的ガーリー文化研究所」所長のゆかしなもん(通称・ゆかしな)がお届け☆

 70~80年代の少女漫画雑誌(「なかよし」(講談社)、「りぼん」(集英社)など)のふろくに付いていると超テンションが上がったものの1つが、「児童用トランプ」だった。

 当時のふろくといえば「紙もの」が主流だった時代で、「ときめき6大ふろく(はあと)」とか「キラキラ10大ふろく☆」とかっていう魅惑のキャッチコピーで、娯楽に飢えた田舎もんのブ少女・ゆかしなの物欲をアオりにアオっていたのだ。シールやレターセット、ノート、メモ帳など、あらゆる紙ものふろくが手を変え品を変え大量にリリースされていた、ただでさえ神がかっていた時代に、「トランプ」を手にした時の、あの感動はちょっと忘れられない、今でも。

声優・三ツ矢雄二、若手男性声優に手を出していた“黒い”過去のウワサ

mitsuyayuji.jpg
三ツ矢雄二オフィシャルブログより

 『お願い!ランキング』(テレビ朝日系)など、声優がバラエティ番組に出演する機会が多くなっている昨今。中でもテレビ露出が際立って増えているのが、『タッチ』(フジテレビ系)の上杉達也役などで知られる、三ツ矢雄二だ。

 『笑っていいとも!』(フジテレビ系)隔週レギュラーを筆頭に、今やバラエティ番組に引っ張りだこの三ツ矢。言動が「オネエ」っぽいことから、共演者にゲイ疑惑を持たれることもしばしばだが、これに対して三ツ矢はあくまで「グレー」だと押し通している。

「保育士はキツい仕事」を打ち破る! ウチの園が働きやすいワケ

kadokawa28.jpg
異年齢の子たちと遊ぶことによって、
互いの心と体を発達させます。一人
っ子が多いので、保育園での年上年下
の存在が不可欠

 最近、保育関連の取材を受けることが多くなったのですが(金払ってないですよー、『ガイアの夜明け』じゃないんだから(笑))、いろんな方に「こちらで働く保育士は幸せですね」と言われるんですよ。経営者として社員のことを考えてやっていることが、どうやらほかの会社からすると普通じゃないみたいで、これが「離職率の低さ」につながっていると納得されます。私からすると逆にほかの保育園事情に驚くばかり。話を聞くと、「先輩が帰るまで帰れない雰囲気」「サービス残業当たり前」「教材を夜遅くまで作らされる」「有給があっても言いだしにくい」などなど、小さい時からやりたかった仕事のはずなのに、いざ働いてみるとキツくて辞めたくなるのが保育業界全般らしいのです。

うちのやり方は、

“天才”ウルティモ・ドラゴンの挑戦「僕はプロレスを変えた。でも、今のプロレスは好きではない」

 
ultimod01.jpg
デビュー25周年。マスクをさせておくにはもったい
ないほど、素顔もイイ男、との噂も。
 メキシコスタイルのプロレス「ルチャリブレ」。マスクマンを中心にしたレスラーたちが華麗な飛び技を繰り広げるルチャは、日本でも“仮面貴族”ことミル・マスカラスの活躍によって広く知られることになった。現在は「みちのくプロレス」などがルチャスタイルを取り入れているが、日本のルチャの第一人者として知られるのがウルティモ・ドラゴンだ。  彼はルチャの故郷メキシコと非常に縁が深く、デビューの地もマスクマンに変身した場所もメキシコ。そんな彼が、11月7日に東京・後楽園ホールで「LUCHA FIESTA 2012~ウルティモ・ドラゴンデビュー25周年記念大会~」を開催する。日本やメキシコはもちろん、アメリカのメジャー団体でもトップ選手として活躍してきた彼に、波乱に満ちたレスラー人生やプロレス界の現状について尋ねた。 ──ウルティモさんはプロレスラーになった経緯がかなり特殊だと思いますが、レスラーになろうと思ったきっかけはなんだったのでしょうか? ウルティモ 小学生の時に、アントニオ猪木さんに興味を持ったことですね。でも、初めてプロレスを見たのはジャイアント馬場さんの試合だったんですよ。そのころ、馬場さんの全日本プロレスは土曜日の夜8時に放送していたんですけど、僕たちの小さいころは土曜8時というと『8時だョ!全員集合』(TBS系)を見ないと、翌週の学校の話題についていけなかった。ところが、何かの時にたまたまテレビにプロレスが映ってて「なんだコレ?」って思ったんです。あくまで子どものころの印象ですけど、馬場さんの動きって、そのころは遅くなってたんですよ。「レスラーって本当に強いの?」って思ったのが最初の印象ですね。 ──それがなぜプロレスへの憧れに変わったのでしょう? ウルティモ その次に見たのが、新日本の猪木さんの試合で。ほかにもタイガー・ジェット・シンとかスタン・ハンセンとか、身体の大きい人たちがたくさん出てきて。その時に「これだ!」と思いました。小学校の2年か3年のころですね。それから毎週欠かさず新日本プロレスの放送を見るようになって。あのころは新日本の時代なんですよ。藤波辰爾さんとかタイガーマスクとか、その後に長州力さんとか。 ──レスラーを目指したということは、肉体的に自信があったのでしょうか? ウルティモ まったくないですね。公害病認定患者でしたし、小さいころは身体が弱かったですよ。実は僕、高校を卒業する時に体重が55キロしかなかったんです。今と同じ身長(172センチ)で。だから僕が「プロレスラーになりたい」と言っても、周りはあきれてましたよ。学校の先生なんか「お前なんかレスラーになれるわけない」って。 ──あの当時は、身体の大きい選手が多かったですしね。 ウルティモ そうなんですよ。今でこそ僕と同じくらいの背丈の選手はたくさんいますけど、あのころは狭き門だった。入門のパンフレットを見ても、応募条件に「身長180センチ以上・体重80キロ以上」と書いてあって。東京に来てからアルバイトをしながらトレーニングして体重を増やしたんですけど、身長はどうにもならない。そんな中、入門テストを受けにいったんですけど、そのころから自分はズル賢かったんで、履歴書に「178センチ・65キロ」って書いたんですよ。そしたら、当時教官だった山本小鉄先生から「お前、178ないだろ」って言われて。テストのメニューは全部こなしたんですけど、通知は不合格だったですね。 ──それでも、あきらめなかった? ウルティモ プロレスラーになると言って故郷の名古屋を出てきたから、そのまま帰れないじゃないですか。だから小鉄さんに直談判して「テストのメニューを全部クリアしたのに不合格なのは納得がいかない」と伝えたんです。そうしたら、道場に通って練習することは許してもらえたんですよ。でも、それが新日本の中で問題になってしまって続けられなくなった。そのころ、たまたまメキシコのプロモーターが新日本に来ていたんですけど、そこで「メキシコに行けないかな」ってひらめいたんです。小鉄先生は自分の身体が小さいから、同じ身体の小さい人間に優しくて、自分のメキシコ行きに骨を折っていただきました。 ──ひらめきでメキシコ……。かなり大胆ですね。 ウルティモ たまたま僕が行く前に新日本プロレスの先輩2人がメキシコに遠征していて、そこに合流する形になりました。メキシコは6人タッグマッチが主流なんですけど、先輩たちと組めば団体側は日本人トリオとして扱えるじゃないですか。ちょうどタイミングが良かった。 ──メキシコではどうだったのでしょうか? ウルティモ メキシコに着いて、2日後には試合に出てましたね。いきなりセミファイナルでした。デビューして3カ月で、ビッグマッチのシングル戦を組んでもらったりもしました。僕が行ったのは「UWA」という団体だったのですが、その団体の世界ウエルター級のベルトは東洋人が獲ったことがなかったんですけど、僕が21歳の時に初めて獲りました。自分で言うのも変ですけど、その時は「自分はルチャリブレをやるために生まれてきたんだろうな」と思いましたよ。 ──いきなりメキシコでスターになれた要因はなんだったのでしょう? ウルティモ 向こうでスターになるためには、技はもちろんですけど、どれだけメキシコのルチャを理解しているかという要素が大きいですね。日本のプロレスは格闘技の要素が大きいんですけど、ルチャはエンターテインメント色が強い。日本で試合経験がある選手はそれに戸惑ってしまうんですけど、僕はスタートがメキシコだったから迷うことなくできたんですよね。 ■凱旋帰国の時、新日本を天秤にかけ、背を向けた ──メキシコでのデビューから3年後、ウルティモさんは日本初のルチャ団体「ユニバーサル・プロレスリング」の看板選手(当時は素顔で本名)として凱旋帰国されました。いろいろなウワサがある団体ですが、なぜウルティモさんに白羽の矢が立ったのでしょう? ウルティモ あれはもともと、新間寿さん(昭和プロレスの伝説的な仕掛け人)の息子(新間寿恒氏)さんが、グラン浜田さんを上げるリングをつくろうとしたのが発端だったんです。その中で「メキシコのプロレスをやりたい」というイメージでつくられたと思うんですよ。そのコンセプトに合った僕を若手のエースにして、浜田さんをメインにしていくという感じだったと思いますね。実は同じ時期に、新日本プロレスからもオファーがあったんです。でも、言ってみれば新日本は僕を捨てた団体ですよね。だから天秤にかけた時、あの当時はどちらに行くか決まりきっていたというか。 ──90年代には、その遺恨があった新日本のリングに上がっていますが、特別な感慨はありましたか? ウルティモ その時はWARという団体にいたので、対抗戦なら出て行かなきゃいけないとは思っていましたけど。ただ、自分のスタイルとは違う部分でやることになって、しんどかったかなというのは正直ありましたね。新日本的なジュニアのスタイルとは、ちょっと合わなかったなと。 ──メキシコの老舗団体EMLLでウルティモ・ドラゴンに変身し、SWS、WARと所属団体が変わり、さらにアメリカにも進出されました。あの当時はまだジュニアヘビーの日本人レスラーがアメリカで成功する例が少なかったと思いますが、どうしてアメリカ行きを選んだのでしょう? ウルティモ メキシコやユニバーサルでメインを張らせてもらって、WARでアンダーカードも経験して、いろんなことが分かるようになった。そしたら、さらに上に行きたいじゃないですか。その時にアメリカのメジャー団体「WCW」を選んだんですよ。 ──WCW行きの経緯を聞かせてください。 ウルティモ 当時、メキシコからレイ・ミステリオJr.とかさまざまなレスラーがWCWに行っていて、クルーザー級を活性化させるという話があったんですよ。それを聞きつけて、いろんなツテを使ってアメリカに行きました。そしたら、いきなりデビュー戦でPPVで。ミステリオを相手に日本スタイルの叩き潰すような試合をしたんですけど、それがいい評価をもらってWCWから契約の話をもらいました。その当時、僕はジュニア8冠王座を持ってて、当時WCW世界クルーザー級王者だったディーン・マレンコと年間で一番大きい大会で防衛戦をして。それに勝つことができたんですが、あれが自分のプロレス人生のハイライトだったんじゃないかと思いますね。 ■握力8キロでも見栄えのするファイト ──アメリカでの成功は、プロレス史に残る偉業だったと思います。 ウルティモ でも、アメリカだからということに感慨はないんですよ。日本人は「全米で」とか「世界で」って言葉が好きですけど、自分は出発点がメキシコだったから「世界」ってものに特別な感覚はないですね。たまたま大きな舞台に立ったのが、アメリカだったというだけで。 ──アメリカで学んだことは何でしょう? ウルティモ アメリカでは、ビジネスについてすごく学ばせてもらいましたよ。アメリカのレスラーの収入は、グッズのロイヤリティが、かなりのパーセンテージを占めてるんですよ。そして、たくさんギャラを稼ぐ奴が価値があると。昔はプロレスをやるだけでビジネスになりましたけど、アメリカに行って「今は違うな」と思ったんです。僕は会場で必ず売店に立つんですけど、あれもレスラーにとって大事な仕事ですよ。 ──98年の試合中に左肘関節を大ケガ。アメリカで受けた手術が失敗し、神経を痛めてレスラー生命の危機を迎えたことがありました。左手が全く動かないほどの重傷だったようですが、その当時は引退を考えたのでしょうか? ウルティモ 引退は考えてなかったですね。何がつらかったって、痛みがひどかったんですよ。痛くて死んだ方がマシかなって思うくらいで。その時は引退するかどうかまで頭が回らなかった。それから、いい先生と知り合って3回くらい手術したんですが、全く動かなかった左手が徐々によくなってきて、02年に復帰できました。 ──回復はしたものの、現在も左手の握力が8キロほどしかないそうですね。 ウルティモ うーん、8キロもないんじゃないかな。 ──プロレスではロープをつかんだり相手をクラッチしたりと握力が重要になる場面が多いと思いますが、最近の試合を拝見すると、そんなハンデを抱えているとは思えない動きです。 ウルティモ だから、それをなるべく使わないファイトスタイルに変えたんですよ。まあでも、動きとしては全盛期の3分の1ですね。プロですから、お客さんにはできるだけ悟られないようにはしていますが。普通だったら復帰できないほどでしたから。僕の主治医は絶対にカムバックさせると言ってくれましたけど、他のお医者さんは「復帰は難しい」と言ってましたね。 ──脂が乗り切っていた時期だけに、大ケガと手術ミスは悔しい気持ちがありますか? ウルティモ 今になってみれば、もしケガをしないで普通に試合を続けてたら、逆にどうなってたんだろうって思いますね。さっきも自分のハイライトって話がありましたけど、人間って上がったら次は落ちるしかないじゃないですか。レスラーは年齢的にファイトスタイルを変えなきゃいけなくなる時期が来るんですが、特に自分は跳び技が多い選手なんで、ケガもなくピンピンしてたら全盛期の危険な技をやりたくなる。それで失敗して頭から落ちたり、もっと大変なことになってたかもなって思いますね。スタイルを変える、いいきっかけになったのかなと。
ultimod02.jpg
11月7日も、鍛えられた肉体でメキシコ流の
「魅せる」プロレスを体現する。
■黄金時代と今、レスラーのオーラがまったく違う ──かなりポジティブに思考するタイプですね。 ウルティモ 人間は、考え方次第の部分があるじゃないですか。手術後も試合のスケジュールがあったんですが、これはプロレスの神様が「おまえは出なくていいよ」って言ってるんじゃないかと思って出ませんでした。あと、ケガをする前年に、「闘龍門」というプロレスラー育成学校をメキシコで始めたんですよ。結局、4年間は試合を休んだんですが、その間、指導や経営に専念したおかげで闘龍門も成功したのかなって。両立しようとしてたら、絶対にうまくいかなかったでしょうね。 ──闘龍門は、日本でも興行として大成功しました。 ウルティモ 最初は逆上陸だったんですよ。メキシコで練習を積んだ選手たちの「発表会」という感じで。まあ、日本に持っていったら面白いなとは思ってましたけど。 ──闘龍門は、ルチャを日本に持ち込むという意図もあったのでしょうか? ウルティモ それは違いますね。自分がやってきたのは、単なるルチャリブレじゃなくて、自分なりの総合的なスタイルなんですよ。日本のスタイルをベースに、ルチャとアメリカンプロレスのいいところをミックスしたものですね。一つのスタイルしかできないという選手は育てたくなかったし、どこの国の選手ともやれるようにしてあげたかった。よく選手を育成するコツを聞かれるんですが、自分が経験してきたことをまとめて伝えただけというシンプルな話です。 ──プロレス黄金時代と今のプロレスの違いも感じましたか? ウルティモ レスラーのオーラが全く違いますね。ただ、よく昔と今とどっちがいいかと聞かれるんですけど、時代の流れだし仕方ないと思うんですよ。それはそれでね。ただ、先輩たちと試合をさせていただいて、好きか嫌いかだったら僕は昔のプロレスの方が好きですよ。良い悪いじゃなくてね。でもじゃあ、今みたいなスタイルのプロレスの流れになったのはなぜなのかって言われたら、僕が変えた部分もある。自分で変えといて、何言ってんだって思われるでしょうけど。 ──今のプロレスは、過激な技の応酬が中心になっています。 ウルティモ 若いレスラーたちの試合はすごいですよ。僕は正直言って最近は体力的に落ちてきたなと自分で思っていて、ああいう試合を1回やったら2週間くらい休まないと次はできんだろうと思いますね。今の若いレスラーというのは、それくらいハードな試合をしてますよ。それはすごいと思いますね。ただプロレス本来の、巡業があって毎日試合をこなしていくという意味では、そのスタイルは厳しいかなと思います。自分がジュニアのハードなスタイルの流れをつくって、それからさらにエスカレートしているので、そろそろ軌道修正した方がいいかなと。なぜかというと、レスラーも生身の人間ですから、これ以上ハードになったら危ないという心配がありますね。 ──危険な技の応酬がないと、お客さんが満足しないという側面はありませんか? ウルティモ それはね、僕はちょっと違うと思うんですよ。日本の今の若いレスラーは、ガチガチでやればお客さんが沸くと思ってる。本来のプロレスは、ドラマを積み上げて興味を引くようなシチュエーションをつくって盛り上げるわけですよ。でも、今は興行数が少ないからドラマがつくれない。1試合だけで魅せるというのは限界があると思うんですよ。だから、瞬間的に沸かせる大技に頼った試合になるのかなと。 ──先ほど、昔のレスラーはオーラが違うという話がありましたが、プロレスもスケールが小さくなってしまっているのかもしれないですね。 ウルティモ レスラーだけじゃなくて、時代の流れだから仕方ないですけどね。僕は海外に住んでるから、日本は安全で良い国だとは思いますけど、政治も何もかも周りの反応を気にしすぎてスケールが小さくなってるように感じますね。このままだと危ないんじゃないかと思いますよ。 ■今なぜ、メキシコのプロレスを日本でやるのか ──11月7日に開催される「LUCHA FIESTA」ですが、なぜ日本でルチャの大会を主催しようと思ったのでしょうか。 ウルティモ 僕の出発点になったメキシコという国に感謝の気持ちがあって、何かできないかなと。メキシコに対する恩返しという意味合いもあります。 ──メキシコの空気を再現することが最大の目的だそうですね。 ウルティモ ルチャリブレができる日本の選手に加えて、本場の伝説的な選手を連れてきて、本物のルチャをやろうという大会です。メインイベントはメキシコのルールでやりますよ。日本のファンは馴染みがなくて「なんだコレ?」と思うかもしれないんですけど、それはそれでいいかなと。「これがルチャリブレなんだ」と。明らかに他の興行とは違うスタイルになると思います。 ──試合以外でも演出があるそうですね。 ウルティモ ルチャリブレは、試合と観客のヤジや声援が一体になったものなんですよ。在日メキシコ人の方を会場に呼んでヤジを飛ばしてもらいますし、マリアッチ(メキシコの伝統的な楽団様式)の演奏もあります。激しい試合が目的なら、他の興行の方がいいかもしれません。でも、メキシコの空気を完全に再現できる興行はウチだけだと自負しています。あんまりルチャを知らないプロレスファンにこそ来てほしいですね。いろんなプロレスがあってもいいと思うんですよ。デスマッチとか2階から落ちたりとか。でも、それだけがプロレスじゃないよと。 ──プロレスは斜陽産業になっているといわれていますが、25年のキャリアがあるウルティモさんからはプロレスの未来がどう見えていますか? ウルティモ プロレスは、なくなりはしません。日本のカルチャーとして根付いてるので。ただ、野球にしたってテレビ放送がなくなったり、浮き沈みがあると思うんですよ。エンターテインメントが多様化して、若い人たちがケータイとかネットとか、そっちの方に目がいっちゃって。お小遣いの使い道も分散してしまうから、プロレスのチケットが買いづらいでしょうね。 ──どのように業界が変わっていけば、プロレスの未来が明るくなるでしょう? ウルティモ 今、ブシロードさんが新日本プロレスのオーナーになって、いろんなところで宣伝をしてますよね。あれは業界にとって素晴らしいと思います。ああいう企業が業界をまとめてくれるといいんじゃないかなと。今のプロレス界が厳しいのは、団体数が増えて興行が多くなりすぎていることも大きな要因だと思います。昔は後楽園ホールでも2カ月に1回くらいの興行数でしたけど、今は1カ月に半分くらいプロレスの興行があります。週末に興行が集中する傾向もありますね。たくさんの団体がお客さんを取り合って、互いに食い合ってるような状況。これを変えていくべきだと思いますね。一つのオーナー企業が業界をまとめて、潰し合いにならないようにして、それぞれの団体を独立採算制にするとか。 ──自分もファンとして、プロレスに頑張ってほしいですね。 ウルティモ プロレスには夢がありますから、これからも続くと思います。僕の役目としては、いい形で次の世代、さらに次の世代にバトンタッチできればなと。僕が引退して70歳、80歳になって、プロレスがなくなってたら寂しいじゃないですか。 (構成=佐藤勇馬/写真=早船ケン) ●ウルティモ・ドラゴン 1966年12月12日、愛知県生まれ。プロレスラー。87年にメキシコでデビューし、3年後に凱旋帰国。以後、日本マットをはじめ、米国のメジャー団体「WCW」「WWE」などでトップレスラーとして活躍。97年にプロレス学校「闘龍門」をメキシコに設立し、多くの有名レスラーを輩出。現在は自主興行を中心に、後進を育成しながら世界各国で活躍中。公式ブログ〈http://ultimodragon.eplus2.jp/●『LUCHA FIESTA 2012』 11月7日に東京・後楽園ホールで開催される『LUCHA FIESTA 2012~ウルティモ・ドラゴン25周年記念大会~』。ウルティモを筆頭にザ・グレート・サスケ、ブラック・タイガーら有力選手が多数出場するほか、メキシコの伝説的なレスラー“稲妻仮面二世”ラヨ・デ・ハリスコ Jr.の出場も決定。さらに“誰もが知る超大物選手”の出場も予告されている。メキシコの文化や音楽も楽しめる特別な大会となるだろう。 チケット申し込み イープラス <http://eplus.jp/sys/T1U14P0010117P002026260P0050001P006001>

「自分を信じてAKBをやってきたんだろ!」無駄に熱い堂本剛のエール

jdotsuyo01.JPG

【ジャニーズ研究会より】

<ネットのウワサ>

■『新堂本兄弟』(フジテレビ系)10月14日O.A. 観覧レポート 

 この日の『新堂本兄弟』のゲストは、工藤静香。番組レギュラーのAKB48・高橋みなみは、おにゃん子クラブ出身の工藤と「秋元康プロデュースの女性アイドル」としては先輩後輩の関係にあたるので、オンエア部分を見ても緊張している様子が見て取れます。

 番組後半では、高橋が工藤に質問するコーナーがあり、高橋がKinKi Kidsの2人から「撮れ高稼げる質問」とプレッシャーを掛けられながら手書きでフリップに質問を書いていきます。オンエアされた一つ目の質問は「幸せとは?」。これに対し、工藤は「自分自身より大事だなと思える人がいること」と答え、夫・木村拓哉や子どもたちと穏やかな生活を送っていることをにじませました。ところが、未公開部分で「たかみなが『しあわせっていう字にしんにょうはいりますか?』と(堂本)剛に相談したらしく、剛が暴露していた」という番組観覧者の声も。

メキシコのスイーツがもはやスイーツではない件

海外旅行の楽しみの一つといえば、異国の変わった料理を味わうこと。特に街角の屋台はその国の庶民的な味覚の代表格といえるでしょう。中米・メキシコは屋台天国。秋はスイーツの季節ということで、とっておきのメキシコの屋台スイーツをご紹介します。まずはスイーツの王道、プリンから。

駐車料金が無料(タダ)になる裏ワザ?

JR長野駅、長野市の玄関口。西口ロータリーの駐車場は30分無料だ。休日などは乗降客の送迎車で混雑し、駐車待ちの車が並んでいる。ある時1台の駐車車両を指差し、騒いでいる若者がいた。「スゲー!」「何あれ?」探偵の好奇心、自分も確認してみる。ううん? 何だ? なんか変だ・・・。
カテゴリー: 未分類 | タグ:

[秘蔵写真]上原真央ギャラリー vol.1

「おぉ~やったぁ!ゲット!」最新DVD『大人少女』を手にした喜びを無邪気に語るのは上原真央チャン! アイドルユニット『choice?』のメンバーとしても活躍する女の子だ! 中学生の時にデビューし、妹系グラドルとして活躍した真央チャンも気がつけば19歳。10代最後の年になり、まさに大人と少女の間にいるのである。「大人っぽさがドンドン倍増してる気がします」今作ではセクシーシーンもバッチリこなして中学生の頃とは違った色気が身について来ちゃった!?