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日別アーカイブ: 2012年8月2日
PR: 光のおトクな情報
おっさんゲーマー集まれ! 最新技術を盛り込んだ、アーケードゲーム業界の今

「アーケードゲーマー」(ホビージャパン)
そういえば、久しくゲームセンターに行っていない。かつては学校が終われば毎日のように立ち寄り、格闘ゲームや音ゲーにありったけの100円玉を突っ込みまくっていた筆者だが、ここ数年はとんとご無沙汰である。理由はいろいろあるが、どうもオンラインゲームやカードゲームといった2000年代に入ってからのアーケードゲームのトレンドに手を出すことが億劫だった、というのが大きいだろう。「やっぱりゲームは一人でチクチクと攻略していくべきだ」「顔の見えない奴と対戦なんかできるか!」という、前時代的なこだわりもあったのかもしれない。
同様の保守的なゲームファンが増えているのかどうかは不明だが、「警察白書」によると、1986年には2万6,573軒あったゲームセンターの数も、2010年には7,137軒にまで数を減らしているそうだ。コンシューマゲーム機のスペック向上に伴い、アーケードゲームの優位性が失われてきたことや、オンライン対戦が家庭でも楽しめるようになってきたことで、わざわざゲームセンターに出向かずとも世界中のプレイヤーと対戦できるようになってきたこと。また少子化や不景気による利用者数の減少といった社会的な理由なども考えられるが、だからといってゲームセンターは、いや、アーケードゲームは終わったのか? そうではないはずだ!
そう力強く叫ぶのが、ホビージャパンより発行されたゲーセン情報誌「アーケードゲーマー」だ。最新の技術を盛り込み、かつてないアイデアを投入したアーケードゲームが集う「ゲームの実験場」として、日本のゲーム黎明期より存在し続けているゲームセンターは、今日も新たなゲームの可能性とエキサイティングな体験を我々に提供し続けているのだ。そんな「ゲームセンターの本質」を探るという観点から、今のゲームセンターの魅力を提示している。

シューティングゲーム、アクションゲーム、格闘ゲーム、音ゲー、トレーディングカードゲームと次々と新たなトレンドを生み出してきたアーケードゲームシーンだが、本書はそれらに連なる「今のゲームセンター」のトレンドとして、オンラインゲームを大々的にフィーチャー。また、巻頭のオンラインゲーム特集の後は、ゲームセンターの進化の歴史を振り返る大型筐体の特集が組まれている。この記事では、新たな技術を貪欲に取り込み、ゲーマーに新たなエンタテインメントを提供し続けてきたアーケードゲーム業界の熱気を感じることができる。
ここで多くのオールドゲーマーは気づくはずだ。かつて我々は、新たなゲームが登場するたびに嬉々として100円を投入していたではないか、と。『ハングオン』『スペースハリアー』『アフターバーナー』『R-360』『ビートマニア』に『ダライアス』……。『忍者ハヤテ』なんてLDゲームもあったっけ。全部が全部大成功というわけでもなかったし、今ももろ手を挙げて名作というにははばかられる、エッジすぎる迷作も少なくなかった。それでも我々は新作ゲームに挑み続けていたではないか。新たなジャンルのゲームが登場したなら、我先にと台に列をなしたじゃないか。仮にゲームセンターという文化が緩慢な死を迎えつつあるとするならば、その戦犯は新たなゲームに対する好奇心を失った、我々オールドゲーマーだったのではないだろうか。
というわけで、書を捨てゲームセンターに行ってみた。そこには、最新技術が惜しみなくつぎ込まれた未知のアーケードゲームが待ち構えていた。ゲームセンターならではの大画面や大音響に圧倒されつつプレーする久々のアーケードゲームは、すっかりおっさんになってしまった筆者にはちょいとばかりテンポが速すぎるような気もしたが、まあ、何回かトライ&エラーを繰り返すことで対応できるようになるだろう。見知らぬプレイヤーとのやりとりも、存外に面白い。対戦後のコメントのやりとりにはニヤリとさせられることも多いし、うまく連携がハマった時の「つながっている感」はオンラインゲームならでは。
こんなふうにアーケードゲームの面白さを再確認させてくれたことだけでも、本書の存在意義は大きい。それもこれも、業界の広告媒体となった大手ゲーム雑誌には出せないゲーム愛あふれる誌面づくりがあればこそ。ただの情報誌として以上に、ゲームファンならいつもそばに置いておきたい一冊である。
(文=有田シュン)
選手を応援したり、口悪く実況したり……セレブのオリンピックツイートが面白い!

パパラッチは嫌いでもファンにはやさしいジャスティン
7月27日~8月12日の日程で開催されているロンドンオリンピック。海外セレブたちも興味深々で、TwitterやFacebookを通して自国の選手にエールを送っている。そんなセレブたちの中でも、愛国心の強いジャスティン・ビーバーとサミュエル・L・ジャクソンの、自国の選手に対する応援ぶりが群を抜いていると注目を集めている。
18歳になるカナダ女子体操選手のドミニク・ペグは、これまでずっと支えてくれた家族やコーチ、友人、そしてファンに向けたつぶやきをTwitter上に掲載。ケガを乗り越えて出場することになった大舞台で、すべての力を出すと誓いを立てていた。しかし、やはり緊張感が増してきたのか、29日、憧れのジャスティン・ビーバーから力をもらいたいと、彼に向けて「私、あと数時間したらオリンピックで戦うの。グッド・ラックって言ってくれるかしら!」と、「#London2012」「#TeamCanada」のハッシュタグをつけてツイートしたのだ。
NHK堀潤アナ注目「パブリック・アクセス」というテレビ革命
テレビが持つ意味や価値が大きく変わってきた。大衆への影響力はいまだ強く残るものの、ネット上では、その一面性や権威性、商業性などが批判の的となっている。「メディアの王様」の座が揺らぎつつあるテレビに求められる変革とは何なのか? キーマンたちへの取材を通して考える――。 「再び大震災が日本を襲い、前回同様、テレビメディアはまたしても国民の信を裏切り、全国の民放地上波局のテレビ視聴率がいっせいにゼロになってしまう」 私が書いた小説『メディア・ディアスポラ』のあらすじの冒頭に、そんな文章がある。かつて高視聴率番組を次々と生み出した、私との付き合いは決して短くない某テレビプロデューサーにそれを見せると、一読し首をかしげた。 「ここ、間違っているよ。だって、震災前も後もテレビは視聴者を裏切ったりしてないもの」 柔らかい物腰。ソフトな物言い。でも、その向こう側には本気の違和感が横たわっている。 私は一瞬、驚いた。 彼はテレビ業界の中でも、極めて柔軟な発想をすることができるタイプだった。その彼が「震災後もテレビは視聴者を裏切ってないない」と、真剣なまなざしで私に言ったからだ。 が、次の瞬間、「いや、待てよ。ひょっとすると、彼が言っていることは、実は間違ってはいないのかもしれない」という思いが、ふと私の頭をよぎった。 テレビが視聴者を裏切ったのではない。震災後もテレビは今まで通り、情報ソースの基本を記者クラブに置き、公的機関の発表を鵜呑みにしては流していただけだ。 震災後にことさらテレビが新しい悪さや、何か変わったことをしたわけではない。震災後、変わったのは視聴者だ。視聴者の情報環境とそれに伴う情報センスが、劇的に変わったのだ。 例えば、福島第一原発事故後、東電の記者発表は当然ながら注目されるようになった。この会見は、インターネットを使えれば、誰でも全時間にわたって見ることができるが、テレビの報道番組ではこれを編集し、数分ないし数秒だけ報じる。会見直後、会見に出席した記者と同じ情報量を得た視聴者は、たまたまつけたチャンネルでこの放送を見ることになる。 この時、この視聴者には「都合のいいところばっかり編集しやがって」などといった、尺(放送時間)にまつわる不満がまず起こる。しかし、これはほぼ物理的問題でもあり、仕方がない。 むしろそれより問題なのは、視聴者がそれらの情報に初めて触れるのではなく、ユーストリームやニコニコ生放送といったネットメディアで全記者会見の情報に触れた後、テレビで報道される情報に触れている、ということだ。 つまり、テレビ報道の情報に触れる時、視聴者はすでにその情報に関する価値を自分なりに決定してしまった後であり、さらに全体の情報の中でどこが重要でどこが重要ではないのかに関する軽重すらも、頭の中で完成してしまっているのである。 ある程度のネットリテラシーを持つごく普通の人たちの情報量とその情報獲得スピードが、時にテレビメディアに携わる人間より上になった。一言で言ってしまえば、これが致命的な変化だ。 こうした視聴者の情報環境と情報センスの激変により、テレビが発信する情報の信頼度が相対的に、だが劇的に低下した。おそらくそれが客観的な見方だろうと思う。 にもかかわらず、テレビの情報伝達力は相変わらず強大である。テレビの発信する情報への信頼の相対的低下と、それにもかかわらず継続する強烈な情報伝達力。私はそのギャップをどう考えればいいものかと、いつも戸惑っている。 ネットメディアでは日々、「テレビはどうしようもない」「腹が立つ」など、テレビ批判の書き込みが多数され続けている。「テレビ滅亡論」を唱える人もたくさんいる。しかし、国の許認可メディアであるテレビがそう簡単に消滅したりはしないのも、一方の事実だ。 それなら、一体テレビはどんなふうに変化していけばいいのか。あるいは視聴者の情報環境や情報センスがこれだけ変化した今、テレビメディアの新しい役割はどんな形なのだろう。 この連載ではそのあたりのことを考えつつ、いろんな人に会っていこうと思っている。 国民がメディアを使って自由に表現できる権利=パブリック・アクセス テレビの現場をよく知る友人に話を聞いてみることにした。一人はテレビ業界に踏みとどまって頑張っている人で、もう一人はテレビに見切りをつけ退社し、今は映像作家をやっている人だ。 前者はNHKのアナウンサーの堀潤さん。彼は震災後、NHKの公式アカウントを使いツイッターでさまざまな意見を発表し続け、局内で物議を醸し続けた。インターネットで常に完全中継されていた
東電の会見は、同会見を恣意的に扱うテレビメディア
の特異性と限界を明らかにした。
例えば、原発事故直後「プルトニウムは飛ばない」とNHKで報じたことを巡り、堀さんは一個人としてツイッターでその誤りを謝罪していた。 「どうしてこんなに大切な情報が原発事故から半年になって発表されるのか。僕らメディアの責任も本当に重たい。飛ばないって思ってたけど、実は飛ぶんですって、それはないよ。。。実は飛んでましたって。。。本当に本当に申し訳ない思いで一杯です。何にも役にたってない。」(2011年10月1日の堀さんのツイッターへの書き込み) 私はこうした堀さんの発言をかなりの好感を持って注目していたが、おそらくNHKの上層部は彼のそうしたツイートを苦々しく思っていたのだろう。そのツイッターアカウントも今年の3月末、局によって閉鎖された。 (堀さんの現在の個人のツイッターアカウントは、@8bit_HORIJUN) 堀さんは、3.11以降のテレビ局の役割の変化をこんなふうに語る。 「日本の放送局は特定の職業メディア人が、かなりのプライドをもって報じるという形が続いてきた。別の言い方をすれば、今までは“情報の川上”にあって水を流すのがテレビ局の役割だったと言える。しかし、これからのテレビは、“情報大河”の早い潮流の真ん中に身を置き、その情報を精査していくこと、つまり、テレビは大きなフィルターの役割になると思う」 私も全く同意見だ。現在の情報環境の中で、テレビが今さら“川上から”情報を流す必要などもうないし、そもそも情報の“川上”という概念自体が成立しなくなった。そんな時代は終わったのだ。ただし、情報のプロとして情報精査の役割は残る。ネット上の玉石混合の情報を仕分け、意味のある情報と判断できた情報だけを流すということはできる。 テレビが変わっていくべき方向性に関して、堀さんは「パブリック・アクセス」というキーワードを使って、最近よく話す。パブリック・アクセスとは、市民が公共の電波を使って自由に情報を発信できる権利のことだ。彼はこれを実現させるため、今、 東奔西走する毎日を送っている。 「パブリック・アクセスとは、国民がメディアを使って自由に表現できるということ。電波が国家の資源であるなら、その資源を使う権利を保障するのはある種、当然のことだと思う。僕は例えば『第二NHK』を作ってでも、市民がNHKを自由に使えるような場を作りたい。例えば『ニュースセンター』の中に『市民局』というものがあり、そこに市民が5人くらいくらいいて、“なんであの原発の報道をしないんですか”などと言いながら、実際彼らがそれを調査して放送する」 堀さんのこんな言葉をぱっと聞くと、日本のテレビに慣れている私たちには夢物語のようだが、ちょっと世界を見渡してみると、私たちはこのパブリック・アクセスを当たり前のように目にすることができる。 例えば、アメリカでは公共放送やケーブルテレビを中心に300局近い放送局がこれを実施しているし、韓国では2000年に施行された新放送法によって公共放送KBSでのパブリック・アクセスの一定の実施が義務付けられている。 このKBSでのパブリック・アクセスに関しては、「韓国KBSのパブリック・アクセス」(「NHK放送文化研究所」)で詳細にレポートされている。“テレビ側の人間”として、素直な思いを吐露し続けたことが話題になった、
堀潤アナのツイッター。
ツイッター、フェイスブック、ユーストリームやニコ生などのSNSメディアとのつきあいの中で「自分たちでも情報発信ができるのだ」ということを私たちは思い知った。さらに、そこで受発信したい情報と、テレビ・新聞などのマスメディアが発信する情報があまりにも乖離していることも腹の底から思った。これが3.11以降の多くの人の実感だったのだと思う。 たしかにパブリック・アクセスはこうした視聴者と制作側の情報実感値の乖離を、少なくとも小さなものにしてくれる期待ができる。しかし、私にはそのこと以上にパブリック・アクセスに期待するものがある。 パブリック・アクセスは視聴者側の意識を変えるだけではなく、結果的にはテレビ側の意識も変わらざるを得ないのではないだろうか……と思っているのだ。 パブリック・アクセスの、テレビ側への影響 かつてTBSでディレクターを務め、現在はフリーの映像作家の森谷博さんという方がいる。前段で紹介した“テレビに見切りをつけ退社し、今は映像作家をやっている”人だ。2010年には『TOKYOアイヌ』という映像作品を完成させた。3.11以降、彼は農業をやりつつ、ユーストリーム中継を独自に行い続けている。 昨年の「6.11脱原発新宿デモ」では、ジャーナリストの岩上安身氏が主催するIWJ(インディペンデント・ウエブ・ジャーナル)の中継スタッフとして、レポーターである私とともにいっしょにデモ中継した仲間でもある。 【参照:2011.6.11脱原発アクション・ライブ中継】 ・前編 http://morymeg.exblog.jp/16472209 ・後編 http://morymeg.exblog.jp/16476564 森谷さんはテレビが持っている問題を、こんな風に語る。 「テレビを作っている側は、実は『見られている』という意識が低い。見ている人の総数みたいなものが、例えば何百万人とか何千万人とか数字自体が大きすぎて、あるいはそれに慣れすぎて、自分らの番組が『見られている』という感覚が麻痺している。ネットやユーストだとリアルタイムでコメントは来るしリアクションがばんばん伝わってくる。テレビの場合、よっぽどのことがあると、ばぁーっと一斉に電話が鳴ったりすることもあるけれど、基本的には静かなもの。そのバックに何百万、何千万というという単位の視聴者がいるということにリアリティを持てる人間は少ないだろうし、僕自身もそういうリアリティを持てなかった」 森谷さんは民放テレビの現場とユーストによる市民中継の両方を熟知している。その彼がいうテレビ現場の、いわば感覚的磨耗は説得力がある。 例えばパブリック・アクセス的な発想をベースに、そうした放送現場に中継市民が行き、もちろん放送のプロにも手助けしてもらいながら番組を企画し取材し放送したら、放送現場はどうなるのか。 局側の意識にも少なからずインパクトがあるのではないだろうか。放送のシロウトがプロの現場で一生懸命企画を立て、不器用ながら取材も行い、構成していく。目の前で展開するそんな光景には、放送現場のプロにも何かしら感じ入るものがあると思う。 こうした番組制作参加によって変えられるのは視聴者側でもあり、だからテレビ側でもあると、私は想像する。今後、私を含めた多くの人に新たなメディアリテラシーとメディア論がますます必要とされてくる時代になる。そして、それは当事者であるテレビメディアに携わる人間にとっても、全く同様なのだ。もう少し言ってしまえば、実は今、一番メディアリテラシーが必要とされているのは、テレビメディアに携わっている人間なのかもしれない。 そのことを「パブリック・アクセス」の実行は、炙り出していくだろう。 (文=織田直幸) ■「Business Journal」人気記事(一部抜粋) 「五輪報奨金で5000万円」顧客から苦情で上場廃止の企業とは? フジ月九ドラマにみる、起業・IT企業への偏見? 半導体で三菱・東芝に攻勢かけるロームにくすぶる疑念 ダイソーが来たら速やかに撤退!? 戦々恐々の100円ショップ業界 逮捕もされない!?ネット犯罪予告で成功する方法とは? コストは欧米の2倍!?官民肝いりの家庭用燃料電池に暗雲 売上増の秘訣は占い!?占い師と顧問契約する企業が急増中?ニュース専門ケーブルテレビ局「カレントTV」は、市民からの投稿映像を積極的に取り入れ、
「パブリック・アクセス」を実践している。
NHK堀潤アナ注目「パブリック・アクセス」というテレビ革命
テレビが持つ意味や価値が大きく変わってきた。大衆への影響力はいまだ強く残るものの、ネット上では、その一面性や権威性、商業性などが批判の的となっている。「メディアの王様」の座が揺らぎつつあるテレビに求められる変革とは何なのか? キーマンたちへの取材を通して考える――。 「再び大震災が日本を襲い、前回同様、テレビメディアはまたしても国民の信を裏切り、全国の民放地上波局のテレビ視聴率がいっせいにゼロになってしまう」 私が書いた小説『メディア・ディアスポラ』のあらすじの冒頭に、そんな文章がある。かつて高視聴率番組を次々と生み出した、私との付き合いは決して短くない某テレビプロデューサーにそれを見せると、一読し首をかしげた。 「ここ、間違っているよ。だって、震災前も後もテレビは視聴者を裏切ったりしてないもの」 柔らかい物腰。ソフトな物言い。でも、その向こう側には本気の違和感が横たわっている。 私は一瞬、驚いた。 彼はテレビ業界の中でも、極めて柔軟な発想をすることができるタイプだった。その彼が「震災後もテレビは視聴者を裏切ってないない」と、真剣なまなざしで私に言ったからだ。 が、次の瞬間、「いや、待てよ。ひょっとすると、彼が言っていることは、実は間違ってはいないのかもしれない」という思いが、ふと私の頭をよぎった。 テレビが視聴者を裏切ったのではない。震災後もテレビは今まで通り、情報ソースの基本を記者クラブに置き、公的機関の発表を鵜呑みにしては流していただけだ。 震災後にことさらテレビが新しい悪さや、何か変わったことをしたわけではない。震災後、変わったのは視聴者だ。視聴者の情報環境とそれに伴う情報センスが、劇的に変わったのだ。 例えば、福島第一原発事故後、東電の記者発表は当然ながら注目されるようになった。この会見は、インターネットを使えれば、誰でも全時間にわたって見ることができるが、テレビの報道番組ではこれを編集し、数分ないし数秒だけ報じる。会見直後、会見に出席した記者と同じ情報量を得た視聴者は、たまたまつけたチャンネルでこの放送を見ることになる。 この時、この視聴者には「都合のいいところばっかり編集しやがって」などといった、尺(放送時間)にまつわる不満がまず起こる。しかし、これはほぼ物理的問題でもあり、仕方がない。 むしろそれより問題なのは、視聴者がそれらの情報に初めて触れるのではなく、ユーストリームやニコニコ生放送といったネットメディアで全記者会見の情報に触れた後、テレビで報道される情報に触れている、ということだ。 つまり、テレビ報道の情報に触れる時、視聴者はすでにその情報に関する価値を自分なりに決定してしまった後であり、さらに全体の情報の中でどこが重要でどこが重要ではないのかに関する軽重すらも、頭の中で完成してしまっているのである。 ある程度のネットリテラシーを持つごく普通の人たちの情報量とその情報獲得スピードが、時にテレビメディアに携わる人間より上になった。一言で言ってしまえば、これが致命的な変化だ。 こうした視聴者の情報環境と情報センスの激変により、テレビが発信する情報の信頼度が相対的に、だが劇的に低下した。おそらくそれが客観的な見方だろうと思う。 にもかかわらず、テレビの情報伝達力は相変わらず強大である。テレビの発信する情報への信頼の相対的低下と、それにもかかわらず継続する強烈な情報伝達力。私はそのギャップをどう考えればいいものかと、いつも戸惑っている。 ネットメディアでは日々、「テレビはどうしようもない」「腹が立つ」など、テレビ批判の書き込みが多数され続けている。「テレビ滅亡論」を唱える人もたくさんいる。しかし、国の許認可メディアであるテレビがそう簡単に消滅したりはしないのも、一方の事実だ。 それなら、一体テレビはどんなふうに変化していけばいいのか。あるいは視聴者の情報環境や情報センスがこれだけ変化した今、テレビメディアの新しい役割はどんな形なのだろう。 この連載ではそのあたりのことを考えつつ、いろんな人に会っていこうと思っている。 国民がメディアを使って自由に表現できる権利=パブリック・アクセス テレビの現場をよく知る友人に話を聞いてみることにした。一人はテレビ業界に踏みとどまって頑張っている人で、もう一人はテレビに見切りをつけ退社し、今は映像作家をやっている人だ。 前者はNHKのアナウンサーの堀潤さん。彼は震災後、NHKの公式アカウントを使いツイッターでさまざまな意見を発表し続け、局内で物議を醸し続けた。インターネットで常に完全中継されていた
東電の会見は、同会見を恣意的に扱うテレビメディア
の特異性と限界を明らかにした。
例えば、原発事故直後「プルトニウムは飛ばない」とNHKで報じたことを巡り、堀さんは一個人としてツイッターでその誤りを謝罪していた。 「どうしてこんなに大切な情報が原発事故から半年になって発表されるのか。僕らメディアの責任も本当に重たい。飛ばないって思ってたけど、実は飛ぶんですって、それはないよ。。。実は飛んでましたって。。。本当に本当に申し訳ない思いで一杯です。何にも役にたってない。」(2011年10月1日の堀さんのツイッターへの書き込み) 私はこうした堀さんの発言をかなりの好感を持って注目していたが、おそらくNHKの上層部は彼のそうしたツイートを苦々しく思っていたのだろう。そのツイッターアカウントも今年の3月末、局によって閉鎖された。 (堀さんの現在の個人のツイッターアカウントは、@8bit_HORIJUN) 堀さんは、3.11以降のテレビ局の役割の変化をこんなふうに語る。 「日本の放送局は特定の職業メディア人が、かなりのプライドをもって報じるという形が続いてきた。別の言い方をすれば、今までは“情報の川上”にあって水を流すのがテレビ局の役割だったと言える。しかし、これからのテレビは、“情報大河”の早い潮流の真ん中に身を置き、その情報を精査していくこと、つまり、テレビは大きなフィルターの役割になると思う」 私も全く同意見だ。現在の情報環境の中で、テレビが今さら“川上から”情報を流す必要などもうないし、そもそも情報の“川上”という概念自体が成立しなくなった。そんな時代は終わったのだ。ただし、情報のプロとして情報精査の役割は残る。ネット上の玉石混合の情報を仕分け、意味のある情報と判断できた情報だけを流すということはできる。 テレビが変わっていくべき方向性に関して、堀さんは「パブリック・アクセス」というキーワードを使って、最近よく話す。パブリック・アクセスとは、市民が公共の電波を使って自由に情報を発信できる権利のことだ。彼はこれを実現させるため、今、 東奔西走する毎日を送っている。 「パブリック・アクセスとは、国民がメディアを使って自由に表現できるということ。電波が国家の資源であるなら、その資源を使う権利を保障するのはある種、当然のことだと思う。僕は例えば『第二NHK』を作ってでも、市民がNHKを自由に使えるような場を作りたい。例えば『ニュースセンター』の中に『市民局』というものがあり、そこに市民が5人くらいくらいいて、“なんであの原発の報道をしないんですか”などと言いながら、実際彼らがそれを調査して放送する」 堀さんのこんな言葉をぱっと聞くと、日本のテレビに慣れている私たちには夢物語のようだが、ちょっと世界を見渡してみると、私たちはこのパブリック・アクセスを当たり前のように目にすることができる。 例えば、アメリカでは公共放送やケーブルテレビを中心に300局近い放送局がこれを実施しているし、韓国では2000年に施行された新放送法によって公共放送KBSでのパブリック・アクセスの一定の実施が義務付けられている。 このKBSでのパブリック・アクセスに関しては、「韓国KBSのパブリック・アクセス」(「NHK放送文化研究所」)で詳細にレポートされている。“テレビ側の人間”として、素直な思いを吐露し続けたことが話題になった、
堀潤アナのツイッター。
ツイッター、フェイスブック、ユーストリームやニコ生などのSNSメディアとのつきあいの中で「自分たちでも情報発信ができるのだ」ということを私たちは思い知った。さらに、そこで受発信したい情報と、テレビ・新聞などのマスメディアが発信する情報があまりにも乖離していることも腹の底から思った。これが3.11以降の多くの人の実感だったのだと思う。 たしかにパブリック・アクセスはこうした視聴者と制作側の情報実感値の乖離を、少なくとも小さなものにしてくれる期待ができる。しかし、私にはそのこと以上にパブリック・アクセスに期待するものがある。 パブリック・アクセスは視聴者側の意識を変えるだけではなく、結果的にはテレビ側の意識も変わらざるを得ないのではないだろうか……と思っているのだ。 パブリック・アクセスの、テレビ側への影響 かつてTBSでディレクターを務め、現在はフリーの映像作家の森谷博さんという方がいる。前段で紹介した“テレビに見切りをつけ退社し、今は映像作家をやっている”人だ。2010年には『TOKYOアイヌ』という映像作品を完成させた。3.11以降、彼は農業をやりつつ、ユーストリーム中継を独自に行い続けている。 昨年の「6.11脱原発新宿デモ」では、ジャーナリストの岩上安身氏が主催するIWJ(インディペンデント・ウエブ・ジャーナル)の中継スタッフとして、レポーターである私とともにいっしょにデモ中継した仲間でもある。 【参照:2011.6.11脱原発アクション・ライブ中継】 ・前編 http://morymeg.exblog.jp/16472209 ・後編 http://morymeg.exblog.jp/16476564 森谷さんはテレビが持っている問題を、こんな風に語る。 「テレビを作っている側は、実は『見られている』という意識が低い。見ている人の総数みたいなものが、例えば何百万人とか何千万人とか数字自体が大きすぎて、あるいはそれに慣れすぎて、自分らの番組が『見られている』という感覚が麻痺している。ネットやユーストだとリアルタイムでコメントは来るしリアクションがばんばん伝わってくる。テレビの場合、よっぽどのことがあると、ばぁーっと一斉に電話が鳴ったりすることもあるけれど、基本的には静かなもの。そのバックに何百万、何千万というという単位の視聴者がいるということにリアリティを持てる人間は少ないだろうし、僕自身もそういうリアリティを持てなかった」 森谷さんは民放テレビの現場とユーストによる市民中継の両方を熟知している。その彼がいうテレビ現場の、いわば感覚的磨耗は説得力がある。 例えばパブリック・アクセス的な発想をベースに、そうした放送現場に中継市民が行き、もちろん放送のプロにも手助けしてもらいながら番組を企画し取材し放送したら、放送現場はどうなるのか。 局側の意識にも少なからずインパクトがあるのではないだろうか。放送のシロウトがプロの現場で一生懸命企画を立て、不器用ながら取材も行い、構成していく。目の前で展開するそんな光景には、放送現場のプロにも何かしら感じ入るものがあると思う。 こうした番組制作参加によって変えられるのは視聴者側でもあり、だからテレビ側でもあると、私は想像する。今後、私を含めた多くの人に新たなメディアリテラシーとメディア論がますます必要とされてくる時代になる。そして、それは当事者であるテレビメディアに携わる人間にとっても、全く同様なのだ。もう少し言ってしまえば、実は今、一番メディアリテラシーが必要とされているのは、テレビメディアに携わっている人間なのかもしれない。 そのことを「パブリック・アクセス」の実行は、炙り出していくだろう。 (文=織田直幸) ■「Business Journal」人気記事(一部抜粋) 「五輪報奨金で5000万円」顧客から苦情で上場廃止の企業とは? フジ月九ドラマにみる、起業・IT企業への偏見? 半導体で三菱・東芝に攻勢かけるロームにくすぶる疑念 ダイソーが来たら速やかに撤退!? 戦々恐々の100円ショップ業界 逮捕もされない!?ネット犯罪予告で成功する方法とは? コストは欧米の2倍!?官民肝いりの家庭用燃料電池に暗雲 売上増の秘訣は占い!?占い師と顧問契約する企業が急増中?ニュース専門ケーブルテレビ局「カレントTV」は、市民からの投稿映像を積極的に取り入れ、
「パブリック・アクセス」を実践している。
デビュー1周年でファン層を拡大しているKis-My-Ft2の写真集発売

『Kis-My-Ft2 オレたちは挫けない!!』
(鹿砦社)
現在放送中のドラマ『ビギナーズ!』と、『美男ですね』の再放送(どちらもTBS系)のダブルフェロモンパンチで、この夏改めてKis-My-Ft2に落ちている人が急増中です! 「もっとKis-My-Ft2のことが知りたい!」とアイドル誌や画像を漁りまくっている貴女におすすめな写真集が『Kis-My-Ft2 オレたちは挫けない!!』(鹿砦社)です。
『オレたちは挫けない!!』という変わったタイトルは、2011年12月に発売されたシングル「We never give up!」の邦訳とのこと。前身のKis-My-Ft.の結成からCDデビューまで、約7年間かかったという苦労人エピソードにもちなんでいるそう。内容は、2012年3月31日から6月3日まで6都市(19公演)で開催された、コンサートツアー『Kis-My-Ft2 Kis-My-MiNT Tour』の写真を中心に、2012年3月11日に行われた「Marching J」募金活動、3月18日に行われた「ジャニーズJr.選抜 野球大会 2012春」の様子を収録しています。
中国で頻発する集中豪雨で、コンドームがバカ売れした理由とは?

6月下旬から7月にかけて、九州地方を中心に日本列島は記録的な集中豪雨に見舞われたが、お隣中国でも、北京、武漢、南京、成都、天津など各地を豪雨が襲っている。首都北京で7月21日から降り始めた集中豪雨では、少なくとも77人の死者を出す事態となった。
そんな中、被害地域ではなぜかコンドームが飛ぶように売れていたという。しかし「外出できないため、家にこもってセックスに励んでいたから」という理由ではない。
「コンドームは避妊用具としてだけでなく、防水グッズとして浸透しているんです」と語るのは、広東省ブロック紙の社会部記者だ。
「昨年夏、北京が豪雨に見舞われた際、『靴にコンドームを装着すると水が染みない』という趣旨の書き込みが中国版Twitter『微博』上で拡散し、実行する人が後を絶たなかったことは有名な話。これは後に、コンドームメーカーのデュレックスが行った巧みなPRだったことがわかったのですが、その後もコンドームは防水グッズとして定着しました。さらに今夏の豪雨では、大人の腰の上くらいまで冠水した地域も多く、靴だけではなく、財布や携帯電話やノートパソコンなどにもコンドームを装着する必要があったため、被害地域ではコンドームは品切れが続出していた」
ちなみに同記者によると、中国人が水場でコンドームを利用するのは、今に始まった話ではないという。
「文革期には、英国領だった香港に泳いで密入国する人が後を絶たなかったが、そのときに使われたのがコンドーム。膨らませて浮き代わりにしたり、現金や家族写真を入れて水濡れを防いだりしていた」
その一方では、中国人の性行為時のコンドームの使用率は、2割以下にとどまっているという調査結果もあり、HIVを含む性感染症の蔓延や中絶手術例の増加の一因となっていると指摘する声もある。防水目的に使うのもナイスアイデアだが、コンドームの本来の使い方も学んでもらいたいものだ……。
(文=牧野源)
鈴木京香&長谷川博己の半同棲、「後追い報道なし」のオトナ事情

『セカンドバージン スタンダード・
エディション』/アミューズソフト
エンタテインメント
7月30日発売の「週刊ポスト」(小学館)が、鈴木京香と長谷川博己の“半同棲”を報じた。交際発覚当初、ヤラセ疑惑まで囁かれた2人の仲を捉えた大スクープだが、なぜか翌日の朝刊スポーツ紙の後追いは皆無だった。
この2人の第一報を報じたのは、昨年10月の「スポーツニッポン」1面。当時話題になっていた鈴木と長谷川の共演作『セカンドバージン』の公開とバッチリ重なったためマスコミの注目を集めたが、それ以上の情報が世に出ることはなかった。しかし「ポスト」は、その後も根気よく取材を続け、ついに鈴木のマンションを出入りする長谷川の姿をキャッチしたのだった。
「昨年の交際報道後は、双方の事務所とも『否定も肯定もしない』というスタンスでした。その直後は、後追い報道もいくつかはあったのですが、今回の半同棲については、スポーツ紙はスポニチを含めて後追いを行わなかった。なぜ各社ともスルーしたかというと、実は最初の交際報道の後、2人にごく近い関係者が『本当は宣伝目的だった』と認めていたことが挙げられます」(ワイドショーデスク)
中国の軍閥の恐ろしさを紹介する
外国人の単純労働は認めていない日本で、単純労働者を輸入する労働制度が外国人研修制度だ。
7月9日の入管法改正後も、研修制度を利用して日本に来た中国人労働者の突然の失踪が相次いでいる。


