
中国から黄海を渡って韓国に密入国した中国系朝鮮族のグナム(ハ・ジョンウ)。
代理殺人を請け負うと同時に、ソウルで消息を絶った妻を追う。
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年明け第1弾から、2012年ベスト1映画と目される作品が公開される。実在した快楽連続殺人鬼ユ・ヨンチョル事件を題材にした犯罪サスペンス『チェイサー』(08)で衝撃的デビューを果たしたナ・ホンジン監督の第2作『哀しき獣』だ。新人監督はデビュー作に自分の持てる情熱のすべてをブツけるため、デビュー作には尋常ならざる力作が多い。ゴダールの『勝手にしやがれ』(60)しかり、トビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』(74)しかり、阪本順治の『どついたるねん』(89)しかり、ヤン・イクチュンの『息もできない』(10)しかり。逆に第2作以降は、デビューを果たした安堵感からボチボチな作品にまとまってしまいがち。しかし、『哀しき獣』はそんな"デビュー2作目のジンクス"を大きく覆す。前作『チェイサー』以上に超ハード、人間社会の暗部をえぐる社会派サスペンスに仕上がっている。
韓国だけで500万人を動員した『チェイサー』は快楽殺人鬼とデリヘル経営者が息詰まる大追跡劇を繰り広げた。殺人鬼を追い掛けるデリヘル経営者は正義感からではなく、商品であるデリヘル嬢にちょっかいを出すヤツが許せずに犯人探しを始めるという動機が斬新だった。規則に縛られて、犯人を取り逃がす警察組織を嘲笑した。きれいごとでは済まない人間の本音にガンガン迫る演出が冴え渡った。殺人鬼を演じたハ・ジョンウとデリヘル経営者を演じたキム・ユンソクの大熱演ぶりが絶賛された。『哀しき獣』も『チェイサー』に引き続き、ハ・ジョンウとキム・ユンソクが競演。ロシアと北朝鮮との国境に近い中国の延辺朝鮮族自治州を振り出しに、韓国のソウル、そしてプサンへと大追跡、そしてトンカチとナタを手にした大流血バトルが繰り広げられる。

中国の延辺朝鮮族自治州で借金生活を
送っていたグナムは、麻雀仲間のミョン(キム・
ユンソク)から儲け話を持ち掛けられる。
前作では快楽のために美女を次々と拉致殺害するサイコパスだったハ・ジョンウは、今回は朝鮮族自治州で暮らすしがないタクシードライバーのグナム役。借金まみれのグナムはお金のために殺人依頼を請け負う。その依頼をまっとうすれば借金がチャラになるからだ。平凡なタクシードライバーである自分に、見ず知らずの人間を殺すことができるのか。しかも、まったく土地勘のない韓国に密入国して。結局、グナムは殺人依頼を引き受ける。韓国に出稼ぎに行ったまま消息不明になっている愛妻を見つけ、連れ戻したいという個人的な目的があったからだ。妻と娘と再び一緒に暮らすことがグナムの夢だ。グナムは10日間という期間限定でソウルにいる大学教授を殺害し、その親指を切り取って持ち帰ることを命じられる。グナムは大連経由で黄海を渡航して、韓国に不法入国する。代理殺人と妻探しでいっぱいいっぱいなのに、グナムが想像もしなかった事態がソウルで巻き起こる。グナムに殺人依頼の仲介、及び韓国への密入国の手引きをする犬商人ミョン役がキム・ユンソク。一見、『冷たい熱帯魚』(10)のでんでんさながら動物好きで温厚な人物に見せながら、お金になるならどんな仕事でも仲介する闇ブローカー役だ。ハ・ジョンウもキム・ユンソクも前作とまるで異なるキャラクターを演じきり、韓国映画俳優の懐の深さを感じさせる。
日本人には馴染みが薄いが、主人公のグナムもミョンも中国の延辺朝鮮族自治州で暮らす朝鮮族(中国系朝鮮人)という設定。ナ・ホンジン監督に聞いたところ、もともとは『チェイサー』の最初の構想では快楽殺人鬼とは別に中国系朝鮮族がらみの殺人事件をサブプロットとして考えていたそうだ。『チェイサー』の脚本を書き上げるためにソウル警察に密着取材していたところ、朝鮮族の女性がソウルで失踪し、中国にいる姉が届け出たことでソウル警察が動き始めた事件があったという。その失踪した女性はソウル市内で男性と同棲していたが、「中国に帰る」と女性が言い出したために、同棲中の男性に殺されて貯水池に棄てられた。捜査に密着していたナ・ホンジン監督は、殺人を犯した男性が逮捕され、嗚咽する姿を見ている。ソウルには朝鮮族が固まって暮らすコミュニティーがあるが、朝鮮族の人々の閉鎖的な暮らしぶりも強烈な印象を残したようだ。警察取材を終えたナ・ホンジン監督は、快楽殺人鬼とは対照的に愛憎のもつれから殺人を犯す男のエピソードをサブプロットとして交え、『チェイサー』の初期ストーリーを構成した。だが、『チェイサー』の内容があまりにも過激で濃厚すぎることから、製作会社や出資者たちの要請により、ストーリーを簡略化することになり、泣く泣く朝鮮族のサブプロットを外したそうだ。

お金になることなら何でもやるミョン。
後半からはミョンも韓国に乗り込んで大流
血戦を繰り広げる。キム・ユンソク大々熱演。
サイコパスが主人公の『チェイサー』に対し、『哀しき獣』は金銭欲や人間の愛憎のしがらみから起きる犯罪なだけに、より身近な怖さがある。ナ・ホンジン監督がさらに取材を進めたところ、身元が分かりにくい不法入国者に代理殺人を安い金額で請け負わせる事件が増加しているという。また、中国の延辺にもシナリオハンティングのために長期滞在し、中国系朝鮮族の人々のお金への異常なまでの執着心に驚いたそうだ。「お金のために、人間として大事なものを彼らは失っているように感じた」とナ・ホンジン監督は語っている。
前作『チェイサー』同様に、本作も全力疾走で標的を追い掛ける物語だ。しかも、今回の主人公グナムは2つのものを同時に追い掛けなくてはならない。借金を帳消しにするための代理殺人のターゲットを探し出し、さらに連絡の取れなくなった妻を見つけるというダブルミッションだ。それも、まったくの土地勘のない異国で。物語後半はひとり娘が待つ故郷・延辺へ帰るための脱出方法を考えながら、同時に代理殺人を依頼した黒幕の正体を暴こうとする。さらにクライアントの都合によって、状況は刻一刻と変わっていく。警察の捜査網も迫ってくる。誰が味方で、誰が敵なのか分からない。本作を観るこちら側も頭をフル回転しないと、闇社会の中に置いてけぼりをくらいそうなほど怒濤のストーリーが展開される。
2つのものを同時に追い掛けることは、現代人に課せられたテーマだろう。一兎を追うもの二兎を得ず、と言われた牧歌的な時代はとうに終わってしまった。現代社会では地道に一兎を追うだけでは家族を養っていけない。グナムが手を染める汚れ仕事は"現実"であり、愛する妻を連れ戻そうとする行為は"理想"という言葉に置き換えることができる。主人公のグナムは、常に"現実"と"理想"を同時に追い掛け続けなくてはならない。人並み外れた体力を誇る犬商人のミョンならいざしらず、平凡で痩身の男・グナムにとって2つのものを同時に追い続けることは過酷な任務だ。しかし、次第に追い詰められていったグナムは悟る。追い掛けるものがちゃんとあるうちは、まだ自分は幸せだったんだと。代理殺人を依頼した黒幕の正体を知り、それまで懸命にサバイバルしてきたグナムは、もう何も追い掛ける気力を失ってしまう。
2つのものを同時に追い掛けるという行為は、ナ・ホンジン監督にも課せられている。デビュー作をさらに上回るクオリティーと、そして興行的な成功。本作が韓国ではR19指定となったことについて尋ねると、ナ・ホンジン監督は「自分が映画館で観たいと思う作品を撮った。大人が本当に面白いと思える映画を作ろう、と出資者や製作会社にも了解してもらった」と説明した。『チェイサー』以上に振り切った演出と三転四転する予測不能なストーリー展開もあり、韓国内での観客動員は残念ながら前作『チェイサー』には及ばない。韓国の俊英監督をもってしても、2つのターゲットを同時にものにするのは至難のワザなのだ。だが、明確にいえることは、理想も現実もどちらも懸命に追い掛けなくては手に入らないということ。ナ・ホンジン監督自身も、まだ2つのターゲットを追い掛けている途中なのだ。観る側も、その姿を見失わないよう懸命に追わなくてはならない。
(文=長野辰次)
『哀しき獣』
監督/ナ・ホンジン 出演/ハ・ジョンウ、キム・ユンソク、チョ・ソンハ、イ・チョルミン、カク・ピョンギュ、イム・イェウォン、タク・ソンウン、イーエル、チョン・マンシクほか 配給/クロックワークス 1月7日(土)よりシネマート新宿ほか全国ロードショー

