「子どもを元夫に会わせるのは、自分のため」慰謝料も養育費もなく離婚した妻の思い

singlemother13b『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第13回 尾崎豊美さん(仮名・47歳)の話(後編)

 20代後半で一目惚れした、バツイチの男性と結婚。長男を妊娠中、夫には700万円もの借金があることが発覚。夫の服を売ったほか、食品のまとめ買いや、子ども服をすべて友人からのお下がりで済ますなどして節約し、サラ金4社の借金を数年かけて返済した。しかし、子育てに一切関わらない夫は、次第に暴力を振るい始め、三男が生まれて長男が学校で荒れだすと、「お前の育て方が悪い」といって殴るので、離婚を考えだす。

(前編はこちら)

■私を殴る夫に、長男はおびえるようになった

――豊美さんが叩かれたとき、子どもたちはどういう反応でしたか?

 私が叩かれている姿を見て、「パパがママをいじめてる」と認識したようです。それ以来、長男は父親のことをすごく毛嫌いするようになった。それでも、会話までは拒否してませんでしたけどね。

――とすると、旦那さんと息子さんの関係は、そのまま大丈夫だったんですか?

 いえ。その後、長男は、夫におびえるようになりました。夫が珍しく「外行くか」って誘ったことがあったんです。そのとき長男は勉強中で「終わるまで待ってて」って答えたんです。すると、途端に夫が腹を立てて、「行くのか。行かねえのか」って怒鳴りながら、テレビのリモコンで長男を殴りつけたんです。殴られてからというもの、長男は夫が帰ってくるたびにビクビクするようになっちゃった。そんな長男の姿を見て私、「急いで決着をつけないと」って思いました。

――その後、家から旦那さんを追い出して、離婚したのですか?

 いえ。その前に1回、私が子どもたちを連れて、多摩にある私の実家に帰ってます。その間、彼は1年間にわたり、この一軒家にひとりで生活していました。

――お父さんが買ってくれた家なのに、豊美さんは自ら出て行ったんですね?

 夫が長男をリモコンで殴った頃から、私は心身共にガタガタでした。顔面麻痺に加えて失語症にもなって、もはや限界。そんなとき、父が「家はそこだけじゃないぞ。戻ってこい」と救いの手を差し伸べてくれました。そうして親に甘える形で、私と子ども3人は、実家に住み始めたんです。その頃、私は在宅ワークで収入を得ていて、そこから家賃や食費を親に渡していました。

――決着をつけるべく、旦那さんと話し合いをされたのですか?

 やりとりは、主にメールで行いました。私のほうから「もう限界、別れて」って離婚を切り出すと、夫は渋りました。「別居のままでいいから、離婚はしないでくれ」って。「無理です」と短く返信したんです。

――別居中、旦那さんと子どもたちの関係は、どうだったのでしょうか?

 月に1〜2回のペースで会わせていました。でも、夫の発言を境に、会わせなかった時期もあります。というのも、別れ話の最中、夫は私にこんなことを言ったんです。「『離婚したい』っていうのは俺の意思じゃない。本当に離婚するっていうなら、おまえが慰謝料を払うべきだし、子どもには会わせろ。だけど養育費は払わないからな」って。

 離婚を切り出さざるを得ないぐらいに私たちを追い詰めておいて、『俺の意思じゃない』って、よく言えたものですよ。これには、震えるほどの強い怒りを覚えました。頭にきた私は、それから3カ月ほど連絡を絶ったのですが、すると子どもたち3人それぞれに、「なんで最近パパと会えないの?」「このままずっとパパに会えなくなるの? やだよ、そんなの」などと言われたんです。

 それを聞いて私、思いました。「なんだったんだろう? この10年以上。借金を返してきて、一生懸命あんたたちのためにと思って頑張ってきたのに、なんで『パパ、パパ』なの?」ってやるせない気分になって、下戸なのに私、ワンワン泣きながら浴びるようにお酒を飲み続けて、泣いて泣いて泣きまくったら、明け方になってしまっていました。

 夜が明けていく中、私、達観したんです。親は子どもから愛されている。父親と母親、子どもにはどちらも大事だと。床に就く前に、夫にメールしました。「養育費も慰謝料もいらないから、家から出て行って。その代わり、子どもたちとは好きに会っていい」って。するとすぐに、承諾する旨の返事がきました。そうして、あっさり協議離婚が成立したんです。

――別れた後の心理的な変化はありましたか?

 「今後は、自分が頑張ればいいんだ」っていうことに気がついて、すごく気持ちが楽になったんです。だからなのか、子どもには「離婚して、ママもパパも優しくなった」と感謝されました。だけど、もし夫が調停や裁判を起こしてきたりして長引いたら、私もアウトだったかもしれない。

――面会は、どのような調子で行っていますか?

 リモコンで殴られたことがある長男は当初、夫に会うことを怖がっていました。それでも次第に警戒心が解けていくと、長男が面会の段取りをリードするようになりました。連絡は、夫と主に長男が話をつけてるようです。面会させて帰ってきたときに子どもの様子がおかしいといったことはないですが、「なんでパパとママは一緒に住めないの?」と何回か言われたりはします。そのときは、「地球がひっくり返っても、ママは無理。その分、いっぱい会っていいから」と言ってます。

――面会をさせて、つらくなることはありませんか?

 当初はつらかった。「なんでこんなに喜んで帰ってくるんだろう?」とか「また夫だけいいとこ取りか」とか、面会させるたびに、そんなふうに気持ちがザワザワしていました。なので面会ごとに、エステに行ったり、友達とおいしいものを食べに行ったりして、あえて気を紛らわせていました。

――その後も、ずっと会わせているんですか?

 2年ほど前、夫が急に「子どもに会わなくていい」って言いだしたことがありました。たぶん彼女ができたんでしょうね。しかも、「一軒家を売りたい」って言って、それだけの理由で調停を起こされました。離婚したときは「家は私に譲る」という約束だったのに。

――そこで初めて調停なんですね。

 私、悔しくて、裁判所の調停室でワンワン泣いてしまいました。すると見かねた調停委員が、夫を注意してくれたみたいです。「今、調停をするのは、『子どもに会わせてくれ』っていう人がほとんどですよ。なのに、あなたは好きに会わせてもらって、しかも養育費も払わずに済んでるのに『家を売りたい』って主張する。いったいどういうことですか!」って。

 調停は「家は売らない」という結論で終了しました。それまで口約束だった取り決めを公正証書化し、そこには「家は私に譲渡する」という項目が含まれています。面会交流の項目も入れました。ただ、それは「最低でも夫は月に1回は子どもに会わなければ、罰金を科す」というものでした。結果的には、旦那が『家を売りたい』と言ってきたことで初めて、離婚後の約束を証書にまとめることができました。

――調停後の面会は、どのような感じですか?

 日曜日が多いかな。ご飯を食べに行きますね。長男と次男はもう大きくなっているので、昼間はパパと出歩くのは気恥ずかしいみたい。三男はもちろん、喜んで昼間から会いに行きますよ。それで夕飯には、長男と次男が合流するんです。夏なんかは一緒に、夫と泊まりでG県に行ってきたりしますよ。元義母からは、今でも電話は来ます。

――旦那さんとのやりとりはあるんですか?

 ほとんどないですが、連絡するとき、別にためらいはないです。子どもたちの父親ではあるけど、私にとっては過去の人だから。ここまで気持ちを整理するのに4年かかりました。定期的に淡々と会わせていくことで、私の中のわだかまりを消化していったんだと思う。

――今の生活はどうですか?

 育ち盛りの子どもが3人いると、何かしら出費が増えてしまって大変。だけど、結婚してたときみたいに耐えてないので楽です。家計が大変な分、子どもたちにはかわいそうな思いをさせてて、申し訳ないです。それでも学費だけは出してあげようって決めています。

――今後は何をしたいですか?

 子どもを元夫に会わせるのは、別れた後、幸せになるため。つまりは自分のためだということを、関わっている面会交流支援を通じて伝えたいです。「会わせたくない」という気持ちはすごくわかる。だけど、そのまま1人で抱え込むのは負担が大きすぎますよ。だから、私が支援している人たちには、「会わせ続けることが自分の新しい一歩になるし、自分の人生を生きることにつながるよ」って伝えています。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『〈日本國〉から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

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この連載の取材にご協力いただける方を募集しています。夫と別居または離婚して子どもを育てているお母さん、子どもと夫との面会状況についてお話をお聞かせいただけると幸いです。下記フォームよりご応募ください。

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「妊婦なのにOL時代の服を着ていた」三男を抱えながら、節約して夫の借金700万円を返済

singlemother13a『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第13回 尾崎豊美さん(仮名・47歳)の話(前編)

「長女を妊娠してまもなく、夫に700万円の借金があることがわかりました。節約に節約を重ねて完済しても、ねぎらいの言葉はありません。それどころか、私を見下すようになりました」

 学校事務員で面会交流支援団体びじっと職員の尾崎豊美さんは高校生2人、中学生1人の子ども3人を1人で育ててきた。元夫に養育費や慰謝料は請求していない。なのに存分に会わせているという。どういうことなのか?

■レストランで一目惚れした男性と知り合って半年で結婚

――旦那さんになる男性とは、どうやって知り合ったんですか?

 東京で専門学校を卒業した後、OLとして働いていました。夫になる人は、友達と一緒に出かけたレストランの店員でした。福山雅治をきゃしゃにした感じの人かな。バツイチで、私よりも3歳上。事故で幼子を亡くしています。そのことで、前の奥さんと折り合いが悪くなって離婚したんだそうです。

――好きになったのは、どちらだったんですか?

 話をして、あっ、と思ったというか。ビビッときたというか。それは、お互いがそうだったようです。彼のお父さんはすでに亡く、お姉さんは体が不自由でした。そんなふうに肉親や子どもを失うつらさを知っている人だからこそ、結婚や家庭というものをわかってるはず。だから大丈夫。彼となら幸せになれる、って思ったんです。

――アプローチは、どちらからですか?

 夫が「豊美じゃないとだめだ。豊美がいなかったら俺は死ぬ」って、そんなことを言うんです。そこまで言ってくれる人だから、守ってくれるはず、って思っちゃった。知り合って半年で結婚しました。春に知り合って数カ月でお互いの実家に挨拶に行き、秋には同居を始めたんです。そのタイミングで婚姻届を提出して、年明けに式を挙げました。20年ぐらい前のことです。当時、私は20代後半という微妙な年齢でした。

――新婚生活は、どうでしたか?

 それなりに甘い生活だったんだと思います。新居は、彼の勤務先であるレストランにほど近い、都心の物件。同居してしばらくは、私も働いていました。給料の半分ずつをお互い出し合って、あと半分ずつは貯金をしようっていう約束で、その通りにやっていました。

――出産願望はあったんですか?

 もちろん。3人は欲しいと思っていたし、すぐにでも欲しかった。だけど、なかなかできなかったんです。妊娠がわかったのは、結婚して2年近くたってから。ちなみに仕事は、妊娠して1カ月ほどで辞めました。つわりがひどくて、仕事が続けられなくなったんです。

――妊娠後、旦那さんは頑張って働いて、生活費をを豊美さんより多く入れてたんですか?

 つわりがひどくて働けない私の代わりに、彼がたくさんお金を入れてくれるのかと期待したら、入れる額がそのままだったんです。「これじゃ、生活していけないよ」って言って、問い詰めたら、多額の借金を抱えてるってことを打ち明けられたんです。その額は約700万円。額の大きさに、開いた口がふさがらなかった。

――なぜそんなに借金が膨らんだんですか?

 彼は、以前働いていた某アパレル会社で営業をしていました。その会社で、業務成績を上げるために、自腹で靴を買っていたんです。それに金遣いが荒くて、派手好きな人だってこともわかってきました。だから、余計に借金が膨らんでしまった。ちなみにその借金、全部サラ金で、大手の4社から借りていました。

――借金を目の前にして、どんなことを考えましたか?

 それでも、別れようとは思わなかったし、堕ろそうという気持ちも起こらなかった。入籍してから2年近くかかって、やっと授かった子だったので。だから、別れずに借金を返していくことを考えました。

――借金は、どうやって返済したんですか?

 返済プランを考えて、それを実行しました。夫が借りているすべての業者に電話をかけ、利率や借りている額を聞いていきました。当時はまだ個人情報保護法が成立してなかったので、「家内です」と言えば、どこのサラ金業者でも教えてくれました。そして利率の一番低い会社で新たにお金を借りて、高い会社の借金を返済していきました。

 2人の持ち物を売ったりもしました。クローゼットがすべて埋まるほどあった夫の靴や服。また、高価で必要のないもの、使ってないものは、すべて売りに出しました。当時は、すごく文句を言われましたけどね。

――ほかに具体的には、どういう節約をしたんですか?

 肉や魚などの生鮮食品を、肉のハナマサなどの業務用食品店で、月に数回、まとめ買いしていました。そうやって、なるべく買い物に行かないようにしていたんです。あとは、まったく洋服を買わなくなったり。最終的に3人できた子どもたちの洋服は全部お友達からのお下がりで、何ひとつ買ってあげていません。買ったのは、妊娠してるときに着てた緩やかなワンピースぐらい。服がないので、妊婦なのにOL時代の服を着たりしてました。

――旦那さんは、子育てにどうやって関わったんですか? 子煩悩でしたか?

 「俺は仕事を優先するから」って明言していて、離婚するまでの間、子育てにまったく関わらなかった。私にどれだけ熱があっても、彼は寝ていましたから。子どもが成長していくにつれ、鉄棒、キャッチボール、補助なしの自転車と、いろいろ付き合ってあげるじゃないですか。そういったことは、普通父親がやりますよね。だけど、うちは別。それらは3人とも全部、私が付き合いました。

――旦那さんはその分、仕事熱心だったんですか?

 飲食の仕事で、勤めては辞め、勤めては辞めを繰り返していました。プライドが高いし、困難なことがあると逃げちゃう人なので、人間関係で衝突したりすると、すぐ辞めちゃってた。長男が生まれてからすぐ、彼の実家のある関東北部のG県で飲食店に就職したんですが、そこも1年弱で辞めました。そうやって退職を繰り返しても、飲食業界は求人が多いので、なんとかなってたんです。もちろん、辞めるごとに、給料は下のランクからになりますけどね。

――職を転々とするたびに、引っ越してたんですか?

 G県のホテルを彼が1年弱で辞めてからは、多摩にある私の実家に引っ越しました。でも、実家にいたのも1年ほど。というのも、次男が生まれたからです。それからは、新婚時代に住んだあたりに、また引っ越しました。その後、父が二階建ての一軒家を買ってくれてからは、別居中のとき以外、ずっとここに住んでます。

――次男誕生後の生活は、どうだったんですか?

 今は健康そのものなんですが、生まれた頃、次男は体が弱くて、何度も手術を繰り返していました。それで私、落ち込んじゃって、よく泣いてました。夫は慰めるどころか「そんなふうになるんだったら、子どもなんて産むな」って怒鳴るんです。腹が立って「そんなこと言ったって……」って言い返したら、「かわいくねえな」って怒鳴りながら、平手打ちされてしまって、私は口の中を切ってしまって、そのとき「この人とは、ずっと一緒にはいないかも」って考えが、頭の中をよぎりました。

――借金は、いつ返し終わりましたか?

 北京オリンピックが開催された年に三男を産んで、それからまもなく借金を返し終わりました。限界まで節約したことで、少しぐらいねぎらいの言葉があるかと思ったら、まったくない。それどころか、見下したような話し方と態度でした。たとえば食事時に、料理が気に入らなかったのか、いきなりキレて「こんなもの食えるか」って怒鳴りながら、茶碗やお皿を投げ捨てたことすらありました。

――以前のように、旦那さんから暴言を吐かれたり、叩かれたりしたのでしょうか?

 もちろんされました。三男が生まれて、私がつきっきりになっていたとき、長男が若干荒れちゃったんです。通っていた小学校は、そんな長男の異変を把握していたようで、ある日、学校から連絡があって「発達検査を受けるように」と伝えられました。学校から言われたことを泣きながら夫に伝えると、「お前の育て方が悪いからだ」って素っ気なく言われたんです。「全部が全部、私のせいにばかりしないでよ」と泣きじゃくりながら言い返したら、「かわいくねえな」って怒鳴られて、叩かれたんです。そのとき私、「この人とは終わった」って直感的に思いました。

(後編へつづく)

「妊婦なのにOL時代の服を着ていた」三男を抱えながら、節約して夫の借金700万円を返済

singlemother13a『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第13回 尾崎豊美さん(仮名・47歳)の話(前編)

「長女を妊娠してまもなく、夫に700万円の借金があることがわかりました。節約に節約を重ねて完済しても、ねぎらいの言葉はありません。それどころか、私を見下すようになりました」

 学校事務員で面会交流支援団体びじっと職員の尾崎豊美さんは高校生2人、中学生1人の子ども3人を1人で育ててきた。元夫に養育費や慰謝料は請求していない。なのに存分に会わせているという。どういうことなのか?

■レストランで一目惚れした男性と知り合って半年で結婚

――旦那さんになる男性とは、どうやって知り合ったんですか?

 東京で専門学校を卒業した後、OLとして働いていました。夫になる人は、友達と一緒に出かけたレストランの店員でした。福山雅治をきゃしゃにした感じの人かな。バツイチで、私よりも3歳上。事故で幼子を亡くしています。そのことで、前の奥さんと折り合いが悪くなって離婚したんだそうです。

――好きになったのは、どちらだったんですか?

 話をして、あっ、と思ったというか。ビビッときたというか。それは、お互いがそうだったようです。彼のお父さんはすでに亡く、お姉さんは体が不自由でした。そんなふうに肉親や子どもを失うつらさを知っている人だからこそ、結婚や家庭というものをわかってるはず。だから大丈夫。彼となら幸せになれる、って思ったんです。

――アプローチは、どちらからですか?

 夫が「豊美じゃないとだめだ。豊美がいなかったら俺は死ぬ」って、そんなことを言うんです。そこまで言ってくれる人だから、守ってくれるはず、って思っちゃった。知り合って半年で結婚しました。春に知り合って数カ月でお互いの実家に挨拶に行き、秋には同居を始めたんです。そのタイミングで婚姻届を提出して、年明けに式を挙げました。20年ぐらい前のことです。当時、私は20代後半という微妙な年齢でした。

――新婚生活は、どうでしたか?

 それなりに甘い生活だったんだと思います。新居は、彼の勤務先であるレストランにほど近い、都心の物件。同居してしばらくは、私も働いていました。給料の半分ずつをお互い出し合って、あと半分ずつは貯金をしようっていう約束で、その通りにやっていました。

――出産願望はあったんですか?

 もちろん。3人は欲しいと思っていたし、すぐにでも欲しかった。だけど、なかなかできなかったんです。妊娠がわかったのは、結婚して2年近くたってから。ちなみに仕事は、妊娠して1カ月ほどで辞めました。つわりがひどくて、仕事が続けられなくなったんです。

――妊娠後、旦那さんは頑張って働いて、生活費をを豊美さんより多く入れてたんですか?

 つわりがひどくて働けない私の代わりに、彼がたくさんお金を入れてくれるのかと期待したら、入れる額がそのままだったんです。「これじゃ、生活していけないよ」って言って、問い詰めたら、多額の借金を抱えてるってことを打ち明けられたんです。その額は約700万円。額の大きさに、開いた口がふさがらなかった。

――なぜそんなに借金が膨らんだんですか?

 彼は、以前働いていた某アパレル会社で営業をしていました。その会社で、業務成績を上げるために、自腹で靴を買っていたんです。それに金遣いが荒くて、派手好きな人だってこともわかってきました。だから、余計に借金が膨らんでしまった。ちなみにその借金、全部サラ金で、大手の4社から借りていました。

――借金を目の前にして、どんなことを考えましたか?

 それでも、別れようとは思わなかったし、堕ろそうという気持ちも起こらなかった。入籍してから2年近くかかって、やっと授かった子だったので。だから、別れずに借金を返していくことを考えました。

――借金は、どうやって返済したんですか?

 返済プランを考えて、それを実行しました。夫が借りているすべての業者に電話をかけ、利率や借りている額を聞いていきました。当時はまだ個人情報保護法が成立してなかったので、「家内です」と言えば、どこのサラ金業者でも教えてくれました。そして利率の一番低い会社で新たにお金を借りて、高い会社の借金を返済していきました。

 2人の持ち物を売ったりもしました。クローゼットがすべて埋まるほどあった夫の靴や服。また、高価で必要のないもの、使ってないものは、すべて売りに出しました。当時は、すごく文句を言われましたけどね。

――ほかに具体的には、どういう節約をしたんですか?

 肉や魚などの生鮮食品を、肉のハナマサなどの業務用食品店で、月に数回、まとめ買いしていました。そうやって、なるべく買い物に行かないようにしていたんです。あとは、まったく洋服を買わなくなったり。最終的に3人できた子どもたちの洋服は全部お友達からのお下がりで、何ひとつ買ってあげていません。買ったのは、妊娠してるときに着てた緩やかなワンピースぐらい。服がないので、妊婦なのにOL時代の服を着たりしてました。

――旦那さんは、子育てにどうやって関わったんですか? 子煩悩でしたか?

 「俺は仕事を優先するから」って明言していて、離婚するまでの間、子育てにまったく関わらなかった。私にどれだけ熱があっても、彼は寝ていましたから。子どもが成長していくにつれ、鉄棒、キャッチボール、補助なしの自転車と、いろいろ付き合ってあげるじゃないですか。そういったことは、普通父親がやりますよね。だけど、うちは別。それらは3人とも全部、私が付き合いました。

――旦那さんはその分、仕事熱心だったんですか?

 飲食の仕事で、勤めては辞め、勤めては辞めを繰り返していました。プライドが高いし、困難なことがあると逃げちゃう人なので、人間関係で衝突したりすると、すぐ辞めちゃってた。長男が生まれてからすぐ、彼の実家のある関東北部のG県で飲食店に就職したんですが、そこも1年弱で辞めました。そうやって退職を繰り返しても、飲食業界は求人が多いので、なんとかなってたんです。もちろん、辞めるごとに、給料は下のランクからになりますけどね。

――職を転々とするたびに、引っ越してたんですか?

 G県のホテルを彼が1年弱で辞めてからは、多摩にある私の実家に引っ越しました。でも、実家にいたのも1年ほど。というのも、次男が生まれたからです。それからは、新婚時代に住んだあたりに、また引っ越しました。その後、父が二階建ての一軒家を買ってくれてからは、別居中のとき以外、ずっとここに住んでます。

――次男誕生後の生活は、どうだったんですか?

 今は健康そのものなんですが、生まれた頃、次男は体が弱くて、何度も手術を繰り返していました。それで私、落ち込んじゃって、よく泣いてました。夫は慰めるどころか「そんなふうになるんだったら、子どもなんて産むな」って怒鳴るんです。腹が立って「そんなこと言ったって……」って言い返したら、「かわいくねえな」って怒鳴りながら、平手打ちされてしまって、私は口の中を切ってしまって、そのとき「この人とは、ずっと一緒にはいないかも」って考えが、頭の中をよぎりました。

――借金は、いつ返し終わりましたか?

 北京オリンピックが開催された年に三男を産んで、それからまもなく借金を返し終わりました。限界まで節約したことで、少しぐらいねぎらいの言葉があるかと思ったら、まったくない。それどころか、見下したような話し方と態度でした。たとえば食事時に、料理が気に入らなかったのか、いきなりキレて「こんなもの食えるか」って怒鳴りながら、茶碗やお皿を投げ捨てたことすらありました。

――以前のように、旦那さんから暴言を吐かれたり、叩かれたりしたのでしょうか?

 もちろんされました。三男が生まれて、私がつきっきりになっていたとき、長男が若干荒れちゃったんです。通っていた小学校は、そんな長男の異変を把握していたようで、ある日、学校から連絡があって「発達検査を受けるように」と伝えられました。学校から言われたことを泣きながら夫に伝えると、「お前の育て方が悪いからだ」って素っ気なく言われたんです。「全部が全部、私のせいにばかりしないでよ」と泣きじゃくりながら言い返したら、「かわいくねえな」って怒鳴られて、叩かれたんです。そのとき私、「この人とは終わった」って直感的に思いました。

(後編へつづく)

「元夫が今後再婚しても、親子関係は継続してほしい」障害のある子を守りたい元妻の願い

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第12回 東智恵子さん(仮名・51歳)の話(後編)

 学生時代に出会った男性と結婚。大学の助手になった夫とともに関西に移住し、半年後、長男を出産。産後半年で仕事を再開し、順風満帆に見えたが、2人目の子はなかなか授からない。6年の不妊治療を経て、長女を出産したものの、身体や知能に障害を持っていた。この頃から、夫との間に溝ができ始める。

(前編はこちら)

■障害がある娘の教育について、夫と私との考えが全然違った

――障害がある娘さんの小学校生活は、どのような感じだったんですか?

 入学予定の小学校に障害児のサポートについて聞いたところ、「障害児学級に入る」という選択肢を示されました。これは、別室で先生が個別指導をするというもの。ここに入って6年間勉強したら、娘が将来、集団生活をすることができなくなるんじゃないかと思いました。しかも「途中での変更はできない」と校長先生が言うんです。それはマズいと思い、私は学校に「普通学級に入れてほしい」と、強く要望しました。すると幸い、希望が通り、娘は普通学級に入ることになりました。しかし、現場では異論もあったようで、担任の先生からは、後から「障害児学級に変更すべきです」と、何度も言われましたね。

――先生側が強く言うのは、何か理由があるんですか?

 娘が生まれた頃に、神戸で、障害児などが犠牲になった連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)がありました。あの事件以降、健常児と障害児を分けて教育すべきだという考えが、全国各地の小学校で広がっていきました。分けずに教育すると、障害児がいじめられ、被害感情や疎外感を募らせて、ゆがんだ大人になるから――というのが、その理由でした。いじめっ子はいましたけれど、学年主任が対応に慣れていたからか、その後、高学年で転校するまで大きな被害を受けることはありませんでした。

――娘さんは実際、学校になじめていたんでしょうか?

なにしろ娘は性格が真面目ですし、素直なんです。覚えるのは苦手で、しゃべり方はたどたどしかったですけど、成績は、さほどは悪くはなかった。小学校のときは風邪などで何度か休んだこともありましたが、中学高校では皆勤賞でした。

――大勢の中で障害児を育てるという東さんの教育方針は、旦那さんにも共有されていたんですか?

 それがね、元夫と私との考えが、全然違ってたんです。私が娘を障害児学級に入れるのを学校に断ってからは、教育方針の違いがもとで、元夫との仲が一気に悪くなってしまいました。それ以来、元夫は私に対して「娘を虐待している」「オマエはサイコパスだ」と、しばしば言うようになったんです。伴侶に向かってそんなことを言うのって、どうかしてますよね? それで私、元夫は頭が変になったんじゃないかと思って心配しました。

――夫婦間の問題を、第三者に相談したことはないんですか?

 元夫が精神科病院や児童相談所に「行こう行こう」としつこく言ったので、しぶしぶ付き合ったことはあります。元夫の相談内容は、「妻による娘への虐待を、なんとかしてほしい」ということでした。私が娘を病院へ連れていったり、牛乳を飲ませたりするのが虐待だという不可解な主張したんですよ。「なんとかしてほしい」と元夫が懇願するのを見て、相談員さんは「娘さんを預かりましょうか?」と、助け船を出してくれました。ところが元夫は、その提案をなぜか断りました。

 元夫のそうした反応に、相談員さんは内心、あきれてしまったようです。元夫が席を外したタイミングで「旦那さんは何を考えているのか、よくわかりませんね」と、こっそり私に耳打ちしてきましたから。その後、私は東京に学校事務の仕事が見つかったので、娘を連れて家を出ました。娘が小5のときでした。

――それはまた突然ですね。家を出たのはなぜですか? 

 夫が精神病になり、仕事をクビにされたら、子どもたちを養えなくなると思ったからです。 だけど家を出るとき、私は離婚を望んではいなかったんですよ。別居して冷却期間をつくれば、夫は普通に戻ると思ったんです。

――息子さんは、連れていかなかったんですね。

 息子はそのとき、関東にある某進学校で寮生活をしており、私と娘が東京に移ってからは、たまに会い、一緒に食事をしたりしました。ところが翌年、息子はいきなり姿を消してしまったんです。元夫が息子に対し、「母親が妹を虐待している」という嘘を吹き込んで洗脳したんでしょう。そういえば、ちょうど、息子は大学に入学する頃でした。

――それは単に、大学に進学するから、寮を出ただけのことでは?

 それもあるかもしれません。だけど急にいなくなってしまいました。1年ぐらいすると、メールすら来なくなりました。

――東京に住むようになってからの生活は、どのようなものだったのでしょうか?

 月1回は、奈良の家に帰っていました。私がかなりの資金を出して買ったマイホームですからね。あの家こそが、私や娘の家です。私たちが家を出る前、元夫は部屋にこもりっぱなしでしたが、私たちが東京に移住してからは、態度が変わりました。一時的に帰ってくると、協力して掃除をしたり、食卓を一緒に囲んだりするようになったんです。関係がこれで回復するかなと期待しました。

 ところがある日突然、家の鍵を替えられて、入れなくなりました。それは、別居して1年半後のことです。「なぜ入れてくれないの?」と元夫へメールしたら「おまえは娘を虐待する。家に入れたら、どんな嫌がらせをされるかわからない」といった抗議のメールがすぐに届きました。

――旦那さんの主張の意味が、よくわからないですね。それで、家に入れなくなった後は、どうしたんですか?

 東京に戻った後、弁護士を立てて、調停の申し立てを行いました。家に入れてほしいということと、婚姻費用(離婚前に支払う、子どもの養育費と妻の生活費)の請求。6年前のことです。私は奈良の家に住む権利があるのに、追い出されたんですから。でも、その頃は、離婚をする気持ちはまったくありませんでした。

――旦那さんの主張は?

 「ひどい浪費をしていた」「ヤクザも行っている病院に娘を連れて行く」「娘に薬物を飲ませるという虐待をやっている」「妻自身、サイコパスで精神科へ通院していた」といった荒唐無稽な嘘が、陳述書に記されていました。その一方、財産分与や親権、離婚といった要求については何ひとつ記されていないんです。元夫は弁護士を立てていなかったので、元夫自身が書いているはずなんです。なのに文体がいつもと違って、粗雑で長々としたものでした。

 その後、裁判所から「妻と娘を家に入れなさい」という決定が下されました。それで、家に入れてもらえましたし、婚姻費用も払ってもらえることになりました。ところが、また鍵を替えられて、入れなくなりました。それで再び調停を起こしました。

――その後の調停の様子は?

 合計3回、調停をやったんです。最後の調停では、すでに離婚を考えていたので、財産分与の項目を加えました。元夫の主張は、一貫して変わりません。私による娘への虐待とかサイコパスとかいった虚偽の申し立てを、相も変わらず並べ立てていたんです。彼は、ぶるぶる震えていたそうで、それだけ追い込まれていたのかもしれません。ちなみに3回目は9カ月もかかりました。これで調停はすべて終了です。1回目の調停開始から、6年がたっていました。

――終了というのは、どういうことですか?

 離婚が成立し、財産分与の問題が解決したんです。家を建てるときに使った私の父の保険金を返してもらい、マイホームは元夫だけのものになりました。もうあそこに行くことはありません。離婚が成立したので、婚姻費用ではなくて、養育費という名目で娘に毎月支払ってもらうことになりました。離婚して、私なりにすっきりしました。夫にしても将来、私を養わなきゃいけないということがなくなって、すっきりしたでしょうね。だけど、長年、調停を続けて、正直疲れました。調停をすると、実生活のかなりの時間が失われます。たとえ勝っても、失うものが多すぎますよ。こういうことをしていると、人生が無駄になってしまいます。

――家に入れなくなった後の、息子さんとの関係は?

 3回目の調停の最中に、弁護士さんが見つけ出して、会ってきてくれたんですよ。それでやっと様子がわかりました。息子は大学を卒業して、会社員をしているそうです。なぜ今でも会いたがらないのかが、私にはわかりません。やはり元夫から私の悪口をずっと聞かされていたという事情が影響しているのではないかと思いますけど。

――旦那さんから、「娘に会いたい」という要求はないんですか?

 それがまったくないんです。かといって、元夫の娘への愛情がなかったわけでもない。こっちに引っ越したばかりの頃は手紙をよく寄越していましたし、一時的に止まりはしましたが、その後は養育費をちゃんと払ってくれてますし。

――今、旦那さんに思うことは?

 恨みはありません。ただ陳述書のオリジナルを書いたのは誰だったのか、なぜ嘘八百を並べるような文章を許容したのかってことに関しては、真相を知りたいですね。元夫が今後、再婚したりしても、親子関係は継続してほしいです。元夫には、音信不通になった私たちと息子の仲を元に戻してほしいし、娘にも関わり続けてほしい。一応、身辺自立はできていますが、それでも娘は、ややハンディがあります。彼女を守れるのは、家族しかいないです。

 夫と別れてもなお、東さんは親子の絆を信じて生きている。夫婦の絆は途絶えても、親子の絆が修復されることを私は祈っている。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

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生まれてきた娘には障害があった――家事もする大学助手の夫との生活は順調に見えたが……

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第12回 東智恵子さん(仮名・51歳)の話(前編)

「ある日突然、家の鍵を替えられて、中に入れなくなりました。それは別居して1年半後のことです。『なぜ入れてくれないの?』と元夫へメールしたら、『おまえは娘を虐待する。家に入れたら、どんな嫌がらせをされるかわからない』という抗議のメールがすぐに届きました」

 そう話すのは、東智恵子さんである。そもそも、なぜ別居したのに、家に入ろうとしたのか? なぜ夫から「虐待する」と言われているのだろうか? 詳しい話を聞く前に、まずは生い立ちから伺っていった。

■大学のサークルで知り合った、おとなしい男性と結婚

――ご出身はどちらですか? どんな子ども時代だったのですか?

 北関東で生まれました。うちの父が高校の数学教師だった関係で、その県内各地を転々としながら育ちました。東京大学か大学の医学部に入ることを父からは期待されていて、それに応えるべく、私は勉強に励みました。しかし、東大は不合格。都内中堅大学の理系学部に入学しました。

――旦那さんとは、どうやって結婚に至ったんですか?

 元夫とは、大学のインカレサークルで知り合いました。もう30年以上前のことです。メンバーの中では、比較的二枚目。静かに本を読んでいるのが好きな、おとなしい哲学者タイプでした。私の兄がおせっかいでうるさい人なので、それとは真逆のタイプである彼に惹かれていきました。この人と結婚すれば、平和で落ち着いた暮らしができるんじゃないかなって思って、元夫を結婚相手として意識するようになっていったんです。そして、数年間交際したのちに結婚しました。私が教師として就職した頃のことです。

――子どもが生まれるまでは、どのような結婚生活だったんですか?

 結婚当時、元夫は大学院生で収入がなかったので、生活費の多くは私が賄っていました。2年後、彼が関西の大学に助手として採用されることになったのを機に、私は教師を辞めてついていったんです。もともと教師には向いてなかったし、ちょうど妊娠したこともあって、教壇を降りることにためらいはありませんでした。元夫が就職して半年がたったタイミングで、長男が生まれたんです。

――子育ては大変だったのではないですか?

 いえ、全然大変ではなかったです。あまり泣かずにニコニコしている、それでいて食欲は旺盛という、絵に描いたような育てやすい子どもだったんです。というか、あまりに手がからないので、息子が生後半年の頃、仕事を見つけて働くことにしました。

 幸い、ソフトウェア開発の会社に採用されたので、働き始めたんです。そこは女性や若い人が多く、マイペースで働ける職場でした。夕方に帰れる労働環境で、私に向いていると思いました。

――働きながらだと、旦那さんに育児をサポートしてもらうことも必要になってきますよね。

 日中は、近所の保育園に世話を託し、熱を出したりしたときは、ベビーシッターさんやファミリーサポートにお願いして乗り切りました。夫は、息子をすごくかわいがりましたね。私へのサポートも積極的で、助かりました。例えば、私が疲れて起きられないときは、代わりにおむつを替えてくれたり、ミルクや離乳食を与えてくれたりしたんです。いま考えれば、元夫自身、働く母親のもとで育てられた経験があるので、男が家事をするということに拒否反応がなかったんでしょうね。

――その後は、どうなったんですか?

 2人目が欲しかったんですが、なかなかできませんでした。それで何年も不妊治療を続け、長男が生まれてから6年目に、やっと妊娠したんです。私たちはそれを機に生活環境を変えました。私は離職し、夫、長男とともに、奈良の新居に引っ越しました。

――長男のときと同様に、妊娠を機会に住環境を変えられたんですね。では、第二子の出産後について、話をお聞かせください。

 引っ越してから半年で生まれてきてくれたのかな。女の子でした。長男は生まれたときから元気いっぱいでしたが、長女は、長男とは様子がまるで違ったんです。取り上げてくれた助産師さんが見せてくれた娘の体はふにゃふにゃしていて、手足に力が入っていませんでした。普通、赤ちゃんは、手をぎゅっと握っていますが、いつも伸ばしていたんです。それでも、生まれてきてくれた喜びと、産み終わったことから来る安堵感で、これからどうしようとか、そんなことは、そのとき一切思わなかったですね。それで、後日、医者に告げられたのは、低緊張(筋緊張低下症)という病名でした。

――体の障害があったんですね。とすると、育ち方は健常児とどのように違いましたか?

 首の据わりが遅かったり、ハイハイができなかったりしました。動かせる部位はどんどん増えていきましたが、それでも体の動きは普通の子に比べてゆっくりでした。外出すると怖がって、公園に連れていっても遊具で遊ばないし、じっとしていて、声をかけないと私のほうには来ないんです。

 娘が障害で苦しまないよう、私は復職した仕事の傍ら、日々娘のリハビリに付き合いました。トランポリンや鉄棒や水泳を続けていくうちに、娘は体力をつけていき、小学校の中学年にはマラソン大会で完走できるまでになったんです。

 娘の成長は、知能面でも遅れていました。発語は遅くて、4歳ぐらいになっても、「これ」とか「あっちあっち」とか二音節しゃべるのがやっとで、なかなか会話にならなかった。保健師に勧められたこともあって、教育委員会が主催する“ことばの教室”に通わせたんです。そこへの送り迎えこそは元夫がやりましたけど、それぐらいですね。元夫がやってくれたのは。

――その頃、旦那さんと息子さんは、どのような様子でしたか?

 娘が小学校に入る頃、長男は中学生。学業も優秀で、体も頑丈。病気ひとつしない子どもでした。夫は助教授、そして教授と、着実に昇格し、それとともに収入も増えていきましたが、その頃から、私との関係は冷めていき、次第に自分の部屋にこもるようになりました。食事は一緒には食べず、私が作ったものを部屋まで運んでいたんです。家事は一切やらず、子どもたち、特に娘の養育は私に任せっきりでした。

(後編へつづく)

貸した1,200万円を返さず、養育費も払わない“モラハラ夫”には、子どもを会わせたくない

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第11回 大杉千秋さん(仮名・41歳)の話 (プライドと劣等感の間で揺れる夫・後編)

 躁うつ病の前夫と離婚して数年後に出会った、7歳下の男性と結婚。彼の両親に挨拶した直後から、暴言や暴力が始まり、日常生活ではレストラン並みの食事や、お掃除ロボ状態を強いられた。前夫との子どものことも嫌っていた。

(前編はこちら)

■夫に1,200万円貸したが、1円も返してくれない

――末っ子は、いつ生まれたんですか?

 3年前です。私は彼に、常に別れを提案し、彼はそれを却下し続けていました。そんな中で生まれたんです。子どもに対しても離れて見ているだけで触ろうとしないので、「なんで?」って聞いたら、「俺はどうせこの子と別れるんだろ」って、投げやりに言うんです。だったら、本当に別れてくれたらよかったのに……。末っ子が泣くと、そのたびに怒られるから、なるべく泣かせないように、夜中も細心の注意を払っていました。

――じゃあ、かわいがっていなかったんですか?

 かわいがってるというイメージだけは、醸し出していましたよ。末っ子の写真を、Facebookにのっけていましたから。育児は、まったくしませんでしたね。例外は、自宅でパーティーをやったときですね。20人ほど来て、人数分の料理を私1人でずっと作り続けてたので、末っ子の世話にまで手が回らなかった。だから、しょうがないなって感じでオムツを取り替えてくれて。友人たちへ向けたパフォーマンスに見えました。「イクメンだねぇ~」と友達に言われて、うれしそうでした。普段は頼んでも舌打ちしていたのにですよ。

――そのほか、何かひどい出来事はありますか?

 実は私、夫に1,200万円貸してます。結婚して1年ぐらいがたった頃、大きい仕事をトントンとやり、彼に300万円貯金ができたんです。その貯金を使って、さらに証券会社にお金を借りて、何倍もの相場を張ったのが、きっかけでした。いわゆる信用取引です。「信用だけはやめて」と言ったら「絶対に損はしない。お前は黙ってろ!」と怒鳴られました。

 夫は、どんどん損失を膨らませていきました。証券会社に返すお金もなくなり、私が貯めていた長男の受験資金なども含めて夫にかすめ取られ、ずるずると1,200万円貸していました。しかも、その後、株価が回復するに違いないという大底値で、なぜか彼は手を引いてしまったんです。

――家を出るきっかけとなった出来事は何ですか?

 夫と末っ子と私の3人で住んでいたマンションが老朽化で取り壊されるということで、立ち退くことになりました。それで私は彼に、「今度こそ、これを機会に別れるつもりよ」と伝えました。しかし、彼はその言葉を本気にせず、「まあいいから、いい物件を探してよ」と言うだけでした。

 なかなか彼の出している条件(広さ・家賃)に合う物件が見つからなかったのですが、そのうち不動産業者が勧めてきたのが、母と長男・次男が暮らしているマンションの別の部屋だったのです。そして立ち退き期限ぎりぎりに、夫と末っ子とともに、実家とは別フロアに引っ越しました。荷作りや荷ほどきは、すべて私任せでした。2週間、私が1人で片付け続け、地道にきれいになっていきましたが、私が出て行くと決めたとき、まだまだ荷物が積み上がっていて、私や末っ子の荷物を持ち出せていない状態でした。それもあって、彼は私がまさか出て行くとは思わなかったんでしょう。

――何があったんですか?

 引っ越しが済んで半月後に、家を出たんです。その日は保育園のイベントに行く途中で、「おまえは頭が悪い!」と、いつものように怒鳴られました。それで私、悲しくなってしまって「こんな気持ちで、保育園の楽しい会に参加はできないな」って思ったんです。「私は行きません。あなた、行きたいんだったらどうぞ」と彼に言って、末っ子を彼に預けました。

 彼が2~3時間その会に参加している間に、私は新居に戻って、別フロアの実家に荷物を移動させました。彼は、私の物を嫌がっていたので、私は自分の荷物は極力少なくしていたんです。なので、荷物を出すのは簡単でした。

 私が荷物を運び出した後も、彼は「どうせ帰ってくる」くらいに思っていたのでしょう。私が末っ子を連れていくのを普通に見ていました。それに、末っ子だけ置いていかれたとしても困るでしょうし。Facebookの投稿で彼の不在を確認して、残した荷物を何回かに分けて出したんです。私が出ていった後、部屋は、みるみるうちにゴミ屋敷になっていきました。私がいないと、お酒の空き缶と、デパ地下とかで買った高いお総菜の残りが入ったままの生ゴミや、脱ぎ捨てた服や下着が、床にどんどんと積み上がっていたんです。

■養育費の支払いを拒否している状態

――別れてから、子どもを一度も会わせていないのですか?

 いいえ。私が出て行ってから2カ月間ぐらいは、週末に会わせてました。会いたいか彼に聞いて「会いたい」と言えば、私名義の車を貸して「行ってらっしゃい」って、そんな感じ。

 最後、彼が末っ子に会ったのは昨年末でした。その日は出かける予定だったんですけど、子どもが熱を出してしまって行けなくなったんです。すると、珍しく彼の方から会いに来ました。末っ子は、玄関先で彼からビスケットを受け取ると、すーっと離れてしまったんです。私は彼が怒るのが怖くて、「パパにありがとうは?」って促したら、息子が「ありがと」と彼の顔も見ずに言って、お兄ちゃんにビスケットを見せに走り去ってしまいました。それが、彼が末っ子に会った最後でした。その後、彼から、「末っ子に会いたい」という申し出は一度もありませんでした。

――その後、離婚に向けて調停を起こされたんですか?

 そうです。私からは離婚調停を。それに伴い、彼は面会交流と親権の調停を、それぞれ申し立てています。彼は年末以来、末っ子に一度も会いに来ないどころか、連絡すらしてこなかったのに、なぜ今さら面会を申し立ててきたのか、謎に思いました。暴力や暴言を一切否定したり、株に関しては「夫婦で協力してやっていたから、借りたお金を全額返す必要はない」と主張したり。彼は嘘ばかり言っています。

――養育費は、もらっているんですか?

「経済的につらい状況だから、払いたいけど払えない」といって、支払いを拒否している状態です。だけど別れる前に、「おまえには払いたくない」と言ってましたからね、それが本音でしょう。養育費は私のためじゃなくて、子どもの成長のためにあるのにね。

――千秋さんは、今後、子どもを彼に会わせる気がありますか?

 会わせたくないです。彼の顔を思い出すと、私をにらみつけている顔しか思い浮かばず、気分が悪くなります。今も自宅が近いので、会ってしまうのではないかと、毎日おびえながら暮らしています。そんな理由から、調停中も顔を合わせないように、調停員さんに計らっていただいてるんです。

 彼が末っ子を連れているときに、何度もけがを負わせています。Facebookに気を取られていたのが原因だったり、末っ子を持ち上げて高い所から落としてしまったりしたんです。感情を抑えられない暴力的な性格や、いきなり泣きだしたりといった数々の奇行を思うに、会わせたら、子どもが危険にさらされるのではないかという心配が拭えません。だから、調停員さんや調査官さんには「面会はさせたくない」と伝えています。

 どうしても会わせなければならないのなら、第三者機関を間に入れて、第三者の立ち会いの下での面会交流を望みます。その際の費用はすべて彼持ちで、というのが条件です。一方、夫のほうは「別居から2カ月間、2人で会っていたのに、それはおかしい」と主張しています。確かにその間、直接会わせていました。だけど、渦中にいるときって、それが異常な状態だっていうことに気がつかないですからね。

――末っ子と上の2人との関係はどうなんですか?

すごくいいですね。15歳、8歳、3歳。だんご三兄弟みたいに、いつも身を寄せ合っています。長男と次男は、末っ子が大好きで、「○○を取られてたまるか。僕らが○○のお父さんだ」って一人前なことを言っています。ここ数年で長男と次男も成長し、いろんなことがわかるようになりました。夫のことをハッキリと敵視していますね。調停に行くときも「ママがんばってね」と応援してくれます。よくわかっていない末っ子も一緒になって、「ママがんばれー!」と言ってくれますよ。

――二度の離婚を振り返って、いま思うことは何でしょうか?

 ひと言で言うと、面白い経験。過ぎてしまえば、どんな大変な経験も、忘れてしまいがちかな。だけど良かったことだけは、割と覚えています。2番目の夫とは良い思い出が少ないので、そのうち、ほとんど忘れてしまいそうですね。離婚を通じて確信したのは、自分に一番近い人を幸せにできないと、自分も幸せにはなれないということです。

――子どもたちには、どんなふうに育ってほしいですか?

 “立派な大人”よりも“誰かの幸せをつくり出せる人”になってほしいですね。今後は子どもたちが好きなことを見つけて邁進できる環境を(精神的にも経済的にも)整えてあげようと思って、日々頑張っています。将来、私の親としての役目が終わる時まで、子どもたちそれぞれの思いに寄り添い、一緒に悩んだり、喜んだりして、生きて行きたいです。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

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躁うつ病の前夫と離婚後に出会った7歳下の再婚相手は、暴言・暴力ばかりの“モラハラ男”

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第11回 大杉千秋さん(仮名・41歳)の話 (プライドと劣等感の間で揺れる夫・前編)

「毎日怒鳴られると、自尊心がすべてなくなってしまうんです。どうやったら彼に怒られずに済むか。そればかり考えて生きていました」

 そう話すのは大杉千秋さん。41歳、テレビ局勤務の女性だ。大杉さんは、離婚後、2人の男の子とともに、関東某県にある実家で暮らしていた。躁うつ病(双極性障害)の夫と別れた後、何があったのだろうか?

※1人目の夫の話
「うつ病の夫は長男の誕生も喜ばなかった」大学の同級生と結婚したが……
「どこに暮らしているのかもわからない」別れた夫が躁うつ病でも、子どもと会わせたかった

■親に紹介した直後に、彼の態度が急変

――離婚後はどのような状態でしたか?

 何年かは精神的にすぐれない状態でしたが、だんだん元気になってきて、仕事でもプライベートでも精力的に動けるようになりました。

 離婚して数年たった頃に行った震災復興のチャリティーアート展で、目を惹く作品を見つけて購入しました。その作者が、後に結婚する彼だったんです。7歳年下の男性で、私が「とても素敵ですね。家に飾りたいです」と言うと、うれしそうにしていたので、名刺交換しました。

――彼とは、どうやって交際に至ったんですか?

 その年の後半、震災復興番組の制作で、CGの外注先として、たまたま彼と一緒に仕事をすることになりました。岩手県でのロケにも同行してもらい、そのロケで彼と急接近したんです。割とすぐに彼のほうから「結婚を前提に付き合おう」と言ってきました。

――その後の交際は順調だったのですか?

 それから1カ月の間、彼は車でいろんなところに連れて行ってくれたんです。自分が純粋に楽しむことなんて、もう何年もしていなかったときに突然訪れた楽しい時間だったので、「神様からのプレゼントなんじゃないか?」と奇跡的なものを感じていました。その時期、彼はとても優しかったので、私も彼のことが好きになっていたんです。そして、付き合い始めて1カ月後、2人で九州へ行って、彼の両親に結婚の挨拶をしました。ただ、入籍はまだです。籍を入れたのは、妊娠が判明した後の、その年の年末でした。

――ともかく、ずいぶん急な展開ですね。

 それだけではありません。九州への挨拶旅行の帰り、彼の態度が急変したのです。飛行機の中で、突然シカトが始まりました。「えっ?」って感じです。いま考えると、親に紹介した時点で、もう自分のものになったと思ったのかもしれません。

 以後、彼の態度は明らかにおかしくなっていきました。一緒に買い物していると突然いなくなったり、会った瞬間からシカトしたり、急にしゃがみ込んで長時間動かなかったり、前触れもなくシクシク泣き始めたりしたんです。その都度、何か私に問題があるのかなと思って、戸惑うばかりで、徐々に「また精神病の人なのかな、困ったな……」と思うようになりました。

――同居の経緯を教えてください。

 都内のマンションを賃貸契約したのを機に、私と彼が住む新居からスープの冷めない距離に、私が貯金をはたいてマンションを購入し、関東近県から私の両親と2人の息子たちに引っ越してきてもらいました。彼が私の実家に同居することは到底無理だったので、私の両親と彼の双方の事情を考えたら、その方法がベストでした。

――彼との生活は、どうだったんですか?

 シカトされたり、急にシクシクと泣かれたり、さらには些細な原因で怒鳴られることが増えてきたので、「もう無理。別れたい」と彼に言いました。すると突然、彼が「わーっ!」と叫んで、私を突き飛ばしたんです。いま考えると、そのとき逃げればよかったって思うんですよ。だけど彼と円満に別れたくて、ずるずると共同生活を続けてしまいました。

――暴力は、その後もあったんですか?

 首を絞められたり、蹴られたり、髪の毛をつかまれたまま、隣の部屋まで引きずられたり、投げられて足を強打して歩けなくなったり。そういった身体的な暴力は、3年の結婚生活のうち6~7回ありました。

 そのほか、私が夜中にひどい腹痛を起こし、「救急車を呼んで」と頼んでいるのに、「うるさい! 黙ってろ!」と怒鳴られました。体温が34度まで低下し、翌朝、病院に駆け込んだら、お医者さんに「なんで救急車で来なかったんですか?」と言われました。

――言葉の暴力はどうでしたか?

 暴言や威嚇、罵倒は毎日ありました。「おまえは頭が悪い、おまえは何もできない、おまえの価値観はくだらない」といった言葉は毎日言われましたし、千秋と呼ぶ代わりに「おまえ」「ブス」「デブ」「ババア」などと呼ばれていました。

――ひどいですね。彼の生い立ちを教えていただけますか?

 九州のサラリーマン家庭に生まれた彼は「この子は賢い」「天才」と、ちやほやされて育ったそうです。東大・京大が当たり前の進学校から中堅の大学に進学し、卒業後はフリーランスで、写真を撮ったり、映像を作ったりするのを仕事にしていました。高校時代の友人は、医師や弁護士や官僚などになっていたので、Facebookから垣間見える友人たちの裕福な暮らしぶりに、彼は嫉妬していたようです。

――コンプレックスですか?

 はい。実際、彼は私に「俺も勉強すれば東大ぐらい入れた」とか、よく言っていました。かなりのコンプレックスがあったようです。彼はFacebookに向かって生きていて、自分の投稿に「いいね」があまりつかないと、不機嫌になって、私に八つ当たりしました。私と出かけていても、Facebookに何か書き込みがあると、すべてそっちのけで返信に全力を傾けるんです。同級生などに、成功していると思われたかったのでしょう。Facebook上で演出された彼の暮らしは、まるでセレブでした。現実世界よりも、Facebookで演出した自分の暮らしこそが大切なようでした。

――贅沢ぶりをFacebookで見せびらかすんですね。

 そうなんです。彼は、欲しいと思った物は我慢ができませんでした。贅沢で高価な物ばかり好み、たとえば2万円とかするシャンパンを平気で買ってくる。そのグラスだってめちゃくちゃ高い。着るものも、十数万円もするジャケットや数万円のシャツを買ったりする。そして買った物を撮影して、アップしていくんです。

――撮影方法にも、こだわっていそうですね。

 はい。Facebookに載せる写真を撮るのに自宅で大きなストロボをたいて、レフ板まで当てるんです。旅行のときなんて、三脚や重たいレンズ(3種類)を常に持たされました。レンズを出すのに手間取っていると「お前がノロノロしてっから、光が変わったろうが!」って怒鳴られたり、「レフ(板)の当て方が違う!」と怒鳴られたりと、完全なアシスタント状態でした。

――家では、どうでしたか?

 毎日の家での食事には、レストランクオリティを求められました。前日の残り物を混ぜて出すのは御法度。同じ料理を月に2回出すと、「こないだ出たばっかりやろ!」と怒られました。盛り付けにも厳しかったです。「工夫が感じられない」からとシクシク泣きだされたときには、困惑しましたし、ぞっとしました。とにかく、食事を出して文句を言われない日はなくて、つらかったです。でも、私はどんなに仕事が忙しくても、疲れていることを理由に食事を作らなかった日はないですね。彼が怖かったので。

――そのほかの家事については、どうだったんですか?

 洗濯、皿洗い、掃除と、すべて私任せ。なのに、いろいろ口を挟まれました。洗濯の仕方が気に食わないと叩かれたり、食器に臭いがついてないか、食べるときに確かめられたり。服にしろ食器にしろ、高価な物が多いので、取り扱いには注意を強いられました。チリひとつ落ちていただけでも「汚ねえな!」って怒られるので、掃除は常にしていたんです。お掃除ロボ状態ですが、私が掃除している姿を見ると、汚い物を見るような目で「貧乏臭えな」となじられるから、いつも彼が寝た後に、寝る時間を削って掃除していました。怒られるのが怖くて、夢中になって掃除していたら、朝になったこともあります。

――その頃の生活費の分担は、どうしていましたか?

 アバウトですが、折半でした。夫が家賃、私が食費や雑費という分担で。夫は自分だけが家賃を払っているからと、私のことを「居候」と呼んでいました。夫と私の支出額は、ほぼ同額だったのに。ちなみに彼の年収は、私と付き合う前は150万円くらいだったようです。私と結婚していた3年間は収入がなぜかあって、1,000万円あった年もありました。だけど、入ってきたらすべて使っちゃうので、貯金はゼロでした。

――彼は、2人の子どもたちとは、どのように接していたんですか?

 1~2カ月に1回とかしか会わないのに、会うと必ず子どもの写真を撮っては、Facebookにアップするんです。それでイクメンと呼ばれたいんです。そして子どもたちと会って別れた後は、「おまえの育て方が悪いから、あんなやつになったんだ」って毎回2時間ぐらい説教されました。

――2人の子と彼との関係はどうなんですか?

 彼は子どもたちを嫌っていて、子どもたちにも口うるさかった。特に次男を嫌っていて、次男と初めて会った後には、「あいつは俺の目を見ない。俺のことを馬鹿にしている」と言ってました。そのとき次男はまだ、オムツが取れたばかりの、赤ちゃんっぽさの残る子どもなのに。長男は私と夫の関係を見抜いていて、「ママは向こうの家にいるときは泣いている気がする」と、母に言ったらしいんですよ。確かにその頃、私の心の中は常に大泣きでした。
(後編へつづく)

「どこに暮らしているのかもわからない」別れた夫が躁うつ病でも、子どもと会わせたかった

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第11回 大杉千秋さん(仮名・41歳)の話 (心を病んでしまった夫・後編)

 卒業パーティーで声をかけられた大学の同級生と、誕生日が1日違いであることがわかって、1年後の誕生日に再会する。その後、友人からの連絡をきっかけに彼に電話すると、うつであることを明かされる。外に連れ出そうと誘ったことから交際が始まり、結婚。夫を支えながら働く日々を送る中で、長男が誕生したが、彼のうつはひどい状態だった。

(前編はこちら)

■夫はうつ病ではなく、躁うつ病だった

――彼は回復していったんですか?

 長男が生まれてしばらくすると突然、元気が出てきたので、治ってきたのかなと思ったら、急にヒュッと躁になったんです。いったん躁状態になると、あらゆることが変わります。顔つき、服装の好みといった見た目のほか、性格や話し方まで一変し、もともとはすごく優しくて穏やかな人なのに、すごく怒りっぽくて自信に満ちあふれているみたいな感じになりました。それから、眠らなくなり、どんどん痩せていったんです。

――うつ病じゃなくて、躁うつ病(双極性障害)だったんですね。

 躁状態のときのほうが、一緒にいるのがつらいんです。何が起こるかわからないし、私も何をされるかわからない。殴ったりしてくることはなかったんですが、すぐキレるんです。「オレは、なんでもできる」という万能感にあふれているので、階段を自転車で上れると錯覚して、上って落ちて大けがをしたりとか。病院で携帯を使って警備員に注意され、逆ギレして怒鳴ったり。「作品の材料だ」と言ってはゴミ捨て場から物を拾ってきて、家中ゴミだらけにしたりしました。

 暴言を吐いたり、何かとひどいことをして、他人を怒らせるんです。なので、友達もどんどん離れていき、私は「病気のせいだから勘弁してほしい」と、頭を下げて回りました。

――大変だったんですね。

 その後、1〜2カ月して、またうつになり、また1〜2カ月して躁になり……というサイクルを繰り返していきました。私は仕事があるので、彼を1人にしなくてはならない。それが心配なので、入院してもらい、たまに会いに行ったりしていました。2〜3カ月たって、また出てきたり……ということを何回か繰り返しましたが、病院に入ってくれるのは、だいたいうつのときだけでしたね。

――もはや、普通に生活することが難しくなったんですね。

 3〜4年ぐらいたったときに、障害年金(病気やケガによって生活や仕事などが制限されるようになった場合に受給できる年金)というものの存在に気がつき、区役所で「躁うつ病で申請したい」と申し出たところ、受理されました。

――生活費は千秋さん持ちですか?

 基本的には折半にしていましたが、たまに夫のお金がなくなると、1万円とか、お小遣いをあげていました。夫は障害年金を隔月で14万円くらいもらっていたので、完全に無収入になることはなかったです。

――子育ての状況は、どうだったんですか?

 その頃、長男は実家で育ててもらってて、そこから保育園に通わせていたんです。夫が障害者認定をされていたので、保育料も平均的でした。それが、離婚した途端に4万円も上がったんです。母子家庭であることよりも障害年金受給者であることの方が査定に大きく影響したんですね。

――離婚するきっかけとなった出来事はなんですか?

 躁状態が何カ月も続いて、私の精神の限界を迎えたからです。亡くなった彼の父親が生前に残した200万円を、彼の了解を得た上で、私が管理していました。ところが躁状態になったとき、「200万円、盗ったろ。返せ!」って、すごい剣幕で言われたんです。私、怖くなっちゃって。急いでATMで下ろして、全額彼に渡しました。そのお金は、2カ月持たなかったですね。病院で知り合った人にいろいろ物を買ってあげたり、免許も持っていないのに50〜60万円するバイクを買ったり。Tシャツを大量に買って配ったり。その頃の口癖は「オレは救世主だ。みんなを助けられる」でした。

 あと、200万円のうちの数十万を使って、小型犬を買ってきました。その犬は家中にウンチをするのですが、それを彼は全く処理しないんです。たまに帰宅すると、私の布団がウンチまみれ。臭いもひどくて。もう一緒にいられないな……って思うようになりました。

――どうやって離婚に至ったんですか?

 “躁状態になったときに言う言葉”というのを、ネットで見つけたんです。「オレだけは神様の声が聞こえる」「映画を撮る」とかいろいろありましたが、彼は一通り、すべて言いました。その中の1つが「離婚する」だったんです。それを言われたときの配偶者の正しい対処法は、「病状が安定するまでは適当に流しなさい」というもの。だけど、彼から「離婚する」と言われたとき私、次男を出産した1週間後でしたので、あまりにも疲れていて、「うん」って言ってしまいました。後から、お義姉さんに、離婚をとどまるようお願いされたんですけど。

――それでも離婚に踏み切ったんですか?

 その頃、お義姉さんとお義母さんと彼が3人で、温泉旅行に行ったんですよ。その途中だったかな。お姉さんから電話がかかってきたんです。「ごめんなさい。あんなにおかしくなってると思わなかった。よく我慢したね、7年も。もしこれで弟が自殺しても、千秋ちゃんのせいじゃない。もう離婚していいよ」って。それで、次男が生まれてちょうど1カ月で別れました。

――別れるときは、どんな感じでしたか?

 「俺の邪魔をするな。おまえがすべて俺から奪っていった。病気になったのは、おまえのせいだ」って、すごい剣幕で言われました。とても怖かったです。そして彼は、家賃の安いところに引っ越していきました。お金もないだろうし、しばらくは私が食事を届けたりしてましたが、怖くて次第に足が遠のいていったんです。

 見捨てちゃったような感じで、とても悲しくて……。でも、すごく怖くもあるんですよ。別れてから1〜2年の間は、夫同様、背の高い男性が遠くから歩いてきたり、電車内で似た背格好の人がいると、視線を上げられませんでした。

――養育費とか面会のルールは決めたんでしょうか?

 いくらがいいか彼に聞いたところ、子ども2人だからってことで「月2万円」って紙に書いてくれました。「毎月必ずその額ではなくて、たとえ1円でもいいから、毎月、子どもたちの口座に振り込んでほしい。払える額を払ってくれればいいから」と、彼には話したんです。毎月、100円のときもあるけど、1万円のときもあって――という感じで払ってくれていたら、子どもたちが後で通帳を見たときに、「常にお父さんは、僕たちのことを忘れないでいてくれたんだ」と思えるじゃないですか。その話をしたところ、彼は「わかった」って言ってくれましたが、支払ってくれたのは、最初の月だけでした。

――彼に、子どもを会わせていますか?

 別れるとき私、考えたんです。子どもの将来を考えると、定期的に父親と会っておいた方がいいんじゃないか? って。それで彼に、「お願いだから、月1回でも会ってくれないか」って言いました。すると「俺は妻と子どもを捨てるんだ」と言うんです。彼はSNSにも「俺は妻と子を捨てた」と書いていましたし。そのとき私、どう返していいかわからなかった。すごく考えて、「元気でいてね」という言葉しか返せませんでした。それが最後のやりとりです。それ以来、一切連絡を取っていないですね。

 もともとはすごく穏やかで優しい人なので会わせたいのですが、躁状態のときだと、子どもにとってつらいことになってしまうんじゃないかと心配で、会わせられないです。今、彼がどこに暮らしているのかもわかりませんし。今後も、ずっと会うことはなさそうですが、彼には幸せでいてほしいなと思っています。

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 ここまでで、末っ子誕生について紹介していないのには理由がある。大杉さんの話には、まだ続きがあるからだ。それについては、次回に記してみたい。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

「うつ病の夫は長男の誕生も喜ばなかった」大学の同級生と“運命の再会”を経て結婚したが……

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第11回 大杉千秋さん(仮名・41歳)の話 (心を病んでしまった夫・前編)

「子どもは3人います。15歳の長男、8歳の次男、そして4歳の三男です。だんご三兄弟みたいに、いつも身を寄せ合っています」

 大杉千秋さん、41歳。テレビ局勤務の女性だ。2度の結婚を経て、いま、2度目の離婚をしようとしている。お子さんたちの話をするうれしそうな表情からは想像しにくい大変な過去が、彼女にはあった――。

■同級生の夫とは誕生日が1日違いで「これは運命だね!」

――出会いからお話ししてくれますか?

 私は六大学の1つに通っていました。夫となるAとは同級生。普段は、のほほんとして呑気な雰囲気なのに、壇上に上がって芸をして、みんなを笑わせる。そんな目立つ学生でした。一方、私は結構地味でマイペースで、彼とは対照的なタイプです。私にとって彼は、自分にないものを持っている天才。手が届かない存在――そんな憧れに近い思いがありました。

――話をするきっかけは、あったんですか?

 あるときキャンパスで「○○テレビに受かった千秋さんでしょ」って声をかけられて、それ以来、話すようになりました。

――まだ友達の1人という感じですね。何か接近するきっかけは?

 卒業パーティーで、再び彼に声をかけられました。「千秋ちゃん、誕生日いつ?」「○月×日」「びっくり。1日違いだよ。これは運命だね! じゃあ、来年誕生日に、どこかで会って乾杯をしようよ!」半信半疑だったんですが、約束しました。

――実際に再会されたんですよね?

 大学を卒業した次の年の誕生日、彼は約束の場所に、ワインとホールケーキを持って現れました。社会人になって1年目の、緊張の多い日々の中に訪れた、とてつもなく楽しい時間でした。彼の発した冗談からの再会でしたので、次に会う約束などしない方が、素敵な感じがしました。縁があったら、また会えるかもね、という……。なので、それきりしばらく会うこともありませんでした。

――それから、どのように結婚に至ったのですか?

 当時、彼は激務で知られた建築事務所で働いていました。そこには私の友人もおり、彼女が私に電話をしてきたのです。「A、今どこにいるか知らない? みんな○○に電話しているんだけど、全然出ない」って言うんです。ところが私が試しにかけたら、彼があっさり電話に出ました。そして、過労でうつになり、家にこもっているということがわかりました。
「あまりそういうのよくないと思うから、出てきなよ」「うん……」。待ち合わせをし、船に乗せました。ただ船に乗っているだけだったんですが、うつ状態にはちょうどよかったようで、静かに喜んでいました。その後も、リハビリのつもりで誘い、本当にたまに会っていました。

――大学時代の雰囲気は残っていたんですか?

 その頃の彼に昔の陽気な雰囲気はなく、ほとんど廃人でした。でも、やっぱり面白い部分は残っていたので、楽しかったです。

――どうやって、彼とお付き合いを始めたんですか?

 何度か会っていて、数カ月たった頃に、彼に言いました。「私はAのことが好きだけど。もし付き合う気がないんだったら、もう二度と会わないわ。今日が最後ね」って。すると彼は、「え! じゃ、付き合おう!」と答えたんです。彼からしてみれば、そのときの私は、唯一会える、癒やされる相手だった。なのに、突然「会えない」って言われたら、「うそっ!」ってなりますよね。そんなつもりはなかったけど、今思えば脅しみたいですよね(笑)。

――どんなお付き合いだったんでしょうか?

 彼の方がどんどん私を頼るようになってきて、気がつくと、母と子みたいな関係になっていました。私自身の自己肯定感が低いせいもあると思うのですが、「おいしいもの食べさせてあげたい」とか「どこかに連れて行ってあげたい」とか「喜ばせたい」とか、すごく頑張っちゃって。すると、さらに彼から、どんどん頼られていきました。

 その頃、彼は会社を辞めて、フリーになっていました。関東の実家に暮らして、うつ病の治療を受けながら、少しだけ仕事を受けているという状態です。収入はわずかしかなかったので、デートといっても、大衆的な食堂でご飯を食べたり、公園でバドミントンをしたりと、素朴な感じでしたが、楽しかった。私自身、ぜいたくが好きじゃないので、それが性に合ってたんでしょうね。

――結婚はいつ?

 すごく結婚したかったんです。子どもも、すごく欲しかった。「結婚するんだったら、私は2人姉妹なので、子どもは絶対2人欲しいな」と言っていました。彼は、「じゃあ、かなえるよ。結婚しよう!」って言ってくれました。だけど彼自身、結婚したり、子どもを持ったりすることに積極的だったかというと、わかりません。

 クリスマスの日でした。彼の方から「結婚しようか?」「しようしよう♪」ってノリで、1週間後の元日に籍を入れちゃったんです。両親は双方とも喜んでくれ、同居が始まりました。

――うつ病になった彼との結婚生活は?

 うつだとすごく疲れやすいので、重い荷物は全部私が持つようにしたり、どこか行くにも休めるルートを考えたり。マッサージをしたり、料理をしたり、彼を笑わせようと、サプライズを仕込んだりしていました。とにかく彼に、心にも体にも良い生活をさせれば、病気はいつか治ると信じていたのです。

――千秋さん自身は、会社に出勤していたんですよね?

 はい。だけど出勤するとき、「寂しいから行かないでほしい」って、よく懇願されました。1人になることを、とても嫌がっていたのです。心配でしたよ。だけど、それでも出勤しないわけにはいきません。後ろ髪を引かれながら、仕事に出かけて、帰宅すると、真っ暗な家の中でずっと待ってるってことがしばしばでした。

――家事はしてくれたんですか?

 疲れやすいので、あまりできなかったですが、ただ、買い物とかは気持ちよくやってくれてました。「役に立つことならやりたい」と言ってくれて。

――お子さんは、いつ生まれたんですか?

 結婚して1年半後に、長男が誕生しました。そのとき彼はうつ真っ盛りで、生まれても喜びを表すとかはなかったです。むしろ、子どもが生まれたことがプレッシャーになって、うつがひどくなっていた印象です。それで長男が生まれて間もない頃、夫が長男を抱っこして、「自宅の屋上に日光浴させに行く」と言ったことが何度かありました。その時、夫が長男を投げてしまわないか、内心真っ青でした。

――屋上まで、ついていったんですか?

 「ついていく」とか言うと、傷つけちゃうかもしれない。だから、言えなかった。「お願いだから投げないで」と、祈るような気持ちで待っていました。

(後編につづく)

「ヒモ男だったけど、子どもは会わせるべき」バツ2女性が3人の子を育てて気づいたこと

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

 アルバイトをしながら、趣味の旅行にたびたび出かけていた星野由貴さんは、しょっちゅう辺境へ出向く特殊な職業の年上男性と結婚するも、その奔放さについていけず、1年で離婚。年下のサラリーマンと再婚し、女の子をもうけたが、この男性も趣味である旅行のために仕事を辞めてしまう。その後、彼女の親族が経営する会社に就職したものの、星野さんは義母との関係悪化をきっかけに別れを決意。離婚したのはミレニアムのころ、次女が生まれてすぐのことだった。しかし、2番目の夫との仲は今も良好だという。

(前編はこちら)

第10回 星野由貴さん(仮名・50歳)(後編)

 もともと美術系の学校に通っていた星野さん。二度目の離婚後、その腕を見込まれた彼女は、4歳と1歳の娘2人を保育園に預けて、美術関係の仕事をするようになった。そんなふうに、子育てと仕事で忙しい毎日を続けていた彼女の前に、2000年代の前半、同世代のCさんが現れた。

「シンクタンクで働いたり、国際会議のコーディネートをやったりしているCを、共通の知り合いから紹介されました。Cの学歴はすごいし、英語もぺらぺら。そんな彼であれば『一緒になったら、稼いできてくれるんじゃないか』って、下心を持っちゃったんです。私は三流高校で進級できるかどうかって感じの成績でしたから、高学歴というだけで尊敬しちゃって、惚れちゃった。それで、お付き合いするようになりました」

 しかし、相性は決してよくないということに、星野さんは次第に気がついていく。

「前の2人もそうですが、反応が冷淡。私が『こんな嫌なことがあった』って怒りながら言うと、『そんなの相手にするな』って怒り返してきて、まるで共感がない。それに、お礼を言うときは『どうも』、謝るときは『すいません』ですからね。全然、気持ちがこもってない感じなんです。だんだん『私に合わないな』『そろそろ会うのをやめよう』って思うようになったんです」

 ところが、そんなとき、事態は後戻りできない方向へ急転する。00年代半ばのことだ。

「Cの子を身ごもっちゃったんです。彼にはもちろん伝えたんですが、Cは『どうしたいの?』って言うだけで、心配なんかしてくれませんでした。私、すっかり落ち込んで、『望まれない子なんだから堕ろそうか』って考えが頭をかすめたほどです。だけど、やっぱり産むことにしました。命あるものを無駄にできないじゃないですか。まして自分の子ですし」

 当時30代後半だった星野さんと、小学校、保育園に通う娘2人の計3人が住んでいた一軒家に、出産の少し前から、Cさんが同居するようになる。

「妊娠した私のケアのために同居したわけではないですよ。単にCの都合です。彼はそのころ、住む場所もなかったんです。お金がないから、家賃は払えない。かといって、実家には帰りたくなかったんです。同居にあたってCには生活費の負担を求めたんですが『ないものはない!』と言って、開き直られました。光熱費、食費、家賃を払わせたか? まさか。一切払ってくれませんよ。なのに、ずるずる居座られちゃった。籍は『信用できる人じゃないな』って思ったんで、入れていません。幸か不幸か、娘たちはすぐ、Cに懐きました。それを見て、『同居されても、まあいいか』って諦めたんです」

 居候というか、まるでヒモですね。そのころCさんは、働いてなかったんですか?

「シンクタンクで働いてたんですが、よりによって出産直前のタイミングに辞めちゃった。退職金が出たはずですが、一切くれません。だから検診、出産、入院と、出産にかかる費用は全部私持ちでした。ひどいでしょ? 早く見切って追い出せばよかったんだけど、子どもができたんだし、またちゃんとした仕事に就いて、そのうち生活費をたくさんくれるんじゃないかって期待しちゃった。その後、お金を入れてくれたかって? いやいや。バイク便のバイトこそ始めたんですが、稼いだ分はやっぱり一切くれませんでしたよ」

 Cさんとの子は男の子だったんですよね。息子さんが生まれてからの家の雰囲気は、どうでしたか?

「まだ愛想があればよかったんですが、会話は相変わらず面白くない。世間話のひとつもできないし、冷淡です。基本的には穏やかではありますけど、私がけっこうカッカする方なので、そうした態度を目の当たりにすると、彼は不機嫌になって舌打ちをするんです。息子が通っている保育園の運動会のときなんか、ひどかったですよ。朝早く起きてお弁当の準備をしてて、うっかり包丁で手をずばっと切ってしまって、シンクが真っ赤になってしまったんです。ちょうど彼が起きてきて、あくびをしながらひと言、『またか』ですよ。とにかく反応に温かみがなくて、ケンカが絶えなかった。

 娘たちとの関係も同様です。息子が生まれた後、娘たちは息子と自分たちに対するCの接し方が違うってことに、気がつくようになったんです。それで、みるみるCと娘たちの心の距離が出てきてしまいました」

 彼は、家事とかで挽回しようとかしなかったんですか?

「Cは、勉強ができても、まるで応用力はない人。どうしようもない人なんですよ。例えば『野菜をさっとゆでて』ってお願いしたら、『何リットルの水に対して何秒間か? 1秒なのか10秒なのか』とか言うんです。そんなマニュアル人間なので、家事とか育児とかは任せずに、たいていは私がやっちゃってました。たまには洗濯を任せたこともあったんですが、仕上がりがひどかった。しわくちゃだし、生乾きで、子どもたちのタオルが全部雑巾臭くなりましたね(笑)」

 Bさんみたいに、せめて貯蓄すればよかったですね。

「家事や育児はできないし、お金は全く入れないしで、私、Cのこと、普段から思いっきりバカにしてました。でも、そういった私の言動が、彼のプライドを思いっきり傷つけたんでしょうね。彼に『バカ、バカ』ってずっと言ったり、手を出したりしました」

 そうした星野さんの“激しい態度”が効を奏したのか。途中から、Cさんは家にお金を入れるようになる。

「途中から、5万円ぐらいは入れるようになりました。でもそれは、自分の居住費込みですからね。最後の方は、16万円入れてくれてました」

 月16万円もくれたら、許す気になったんじゃないですか?

「それよりストレスの方が大きかった。Cを追い出して、そのたびに実家に戻り、また戻ってきて……というのを、最後の何年間かはずっと繰り返してました。同居している間、しょっちゅうケンカしてましたからね。それに娘たちが、とにかくイライラしてました。娘たちにとって、Cは“気持ち悪いおじさん”扱いでした。そのころ2人とも思春期でしたからね。よけい反発が激しかったのかも。結局、Cとは7~8年一緒に住んだけれど、本当に後悔してますね。もっと早く追い出せばよかったって。その後、お金は、今も毎月5万円ずつ受け取ってます。息子の養育費ではありますけど、払ってくれなかった時代の分をもらってるという感じですね」

 それぞれの父親と子どもたちとの関係はどうなのか?

「小学校の高学年になった息子は今、卓球にはまってて、卓球関係の世話はすべてCに丸投げしてます。だから、それで頻繁に会ってます。日曜日の夜とか、卓球が終わった後、一緒にご飯を食べたりとかで、月3回ぐらいは会ってるかも。そんな感じなので、わざわざ面会をさせたりする必要はないですね。『私その日都合悪いけど、都合どう?』って感じで、息子を預けて、楽をさせてもらってます。一方、娘たちは、長女が大学生、次女は高校生と、もうすっかり成長しちゃったので、Bと会うのは年に数回とかです。必要があれば、今でも会いますよ。去年、長女が車の免許を取った直後は、Bが助手席に座って、いろいろ教えてましたからね」

 子どもに会わせるということについては、わだかまりはないのだろうか?

「相手が嫌いだから会わせないでいると、自分自身がすごく損をする。全部自分で抱え込んじゃったら、自由がなくなって、もっとしんどくなるじゃないですか。実際、私、Cに対してむかついて何カ月間か会わせなかったときは、子育ては丸抱えで、ひとときも休めなくて大変でした。

 私の経験則上、別れてもやっぱり、元の夫たちとは会わせるべきだと思います。肩肘を張って会わせずにいたら、その分、自分に跳ね返ってくるじゃないですか。預かってもらってたら自分も楽ができるし、養育費だってもらいやすくなるし」

 元夫たち同士の仲は、どうなのだろう?

「うちは普通とかなり違ってて、例えばこないだ母の米寿のお祝いがあったんですけど、そういうときに夫たちも呼ばれたりするんですよ。息子の保育園の運動会にもBとC、2人ともが来て、1人がビデオで1人は写真を撮ってるんです。2人のおかげで私、息子と親子競技に出ることができました。2人とももう、アラフィフのおじさんです。BとCの仲? 2人とも写真が趣味なので、その話で気が合うみたいですよ。一方、Aは還暦も近いのに、相変わらず自由です」

 子どもたちは、どんなふうに育っているのか?

「先ほども話した通り、長女は大学生。次女は高校生、そして長男は小学校の高学年です。これから年々、学費がかかっていくのが悩みの種です。Bが娘たちの学資保険に入ってくれていたのですが、それだけでは足らなくて、貯金を崩して、なんとかやってます。私自身そんなに勉強ができなかったし、子どもに高学歴も求めません。ちゃんと働いて自分で稼いで、自分の力で生きてほしいな。望むのはそれだけです」

 これまでの結婚生活を振り返って、星野さんは今、何を思うのか?

「悪口ばかりですいません。でも、元夫たちは本当に残念な人だから(笑)。私は私でかまってちゃんですよね。B以外は、普通を求めて、普通から一番遠い選択をしてしまいました。やっぱり見る目がなかったんですね、私」

 そう言って反省しつつも、星野さんの表情は明るさに満ちていた。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。